2021年1月16日土曜日

土曜牛の日第3回「地上にはない」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

『近代短歌論争史明治大正編』の論争の④は、前田夕暮の『収穫』が、元恋人であろう人妻への想いをうたったことで引き起こされた、風俗壊乱論争だ。歌壇では好評価だったのだが、新聞が「こんなの姦通歌だ」と批判したんだよね。そして、近藤元が遊郭へ女郎買いに行く歌を作ると、匿名の新聞記者石川啄木などが「狂者と変質者の文芸」「頭と陰部ばかりの人間」「堕落せる短歌」と罵って、いくつかの歌集は、そのとばっちりで発禁になったりした。

現在の雰囲気でいうと、短歌は虚構だと思って非人道的なあることないことをうたっていたら、世間の目にみつかっていきなり炎上するようなのに近いといえる。

もちろん厳密には、綺麗事を歌わない自然主義の方向性が、醜悪、欲望の方向の描写に向かってゆき、刹那主義、快楽主義になってゆくという自然主義の本質的な問題が横たわっていたのだが、世間の公序良俗が表現を攻撃すると、表現はそもそも弱いというのは、現在も同じである。

日本自然主義の流れは、ここでほとんど勢いを失うことになる。

論争の⑤は、服部嘉香(よしか)が、短歌の固定形式は自由詩のように主観詩になることはできないだろうが、抒情詩としてなら行けるところまで行けるだろう、という否定論を出したことによる、方法論争というものだ。つまり、形式とその形式を守るためのレトリックは、表現の革新には使えないよね、という自由詩目線の論だった。

この論は短歌が彫刻的で、自由詩は音楽的であるとか絵画的であるとか、散文詩は短歌のゆるいものだとか、現在ではさじ加減の話のような議論にもみえるが、自然主義のような内容の暴露具合でなく、叙情と主観、情調と思想、また内容とサンボリズムと、自然主義のあとの近代詩を、方法について模索、整備する方向に向かわせたようだ。

この論争で森川葵村(きそん)という詩人が、芸術至上主義として服部と論争したが、彼はその基盤の脆さをあらわにして、やがて詩をやめたようだ。でも彼の「芸術はまじめな遊戯であり実用品ではない、もっと高尚な尊いものであること」という考え方は、わりと好きだな。


  七首連作「地上にはない」

夢で見たシャチと娘の物語 つづきはたぶん地上にはない

人間は取り締まれるが夢までは取り締まれないはずだが、さあね

断崖に沿った車道でときおりに海を割るツクヨミなる彼岸

異種族はことばはいわばなんとかなる、その罪がふたりをわかつまで

ワゴン車のフラットシートで今日は寝る エンジンを切るやいなや浸食

レコードを漁る手つきだ、探してたものじゃないけどほしい目つきだ

つづきなど地上にはない、差し替えたこれも途中で終わりのはなし



閑話休題。昨年末のM-1グランプリで、テルヤはニューヨークという芸人のネタを2番めに面白いと思ったが、彼らの軽犯罪ネタはとても現在への批評性があって、いい表現だなと思った。軽犯罪が問題なのではなくて、軽犯罪を笑えなくなっている自分たち、という目線が組み込まれていることが、批評性ということだと思ったのだ。(ちょっと古い話題だったな)


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