2021年4月3日土曜日

土曜牛の日第14回「誰かの夢で」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の15は、窪田空穂と尾山篤二郎の『濁れる川』論議です。

これは、窪田空穂の第五歌集『濁れる川』の、おおむね好評だった批評に対して、毒舌家とおそれられていたらしい尾山篤二郎が批判したというものだ。

尾山は、この歌集で空穂がいう「歌と散文との境界線の上を、危くも辿つてゐる」作品を、なんとなく「悟り済ましてゐる」として、その調子の緩慢さや結句の軽さを批難した。また万葉集の即興性を引き合いにだしたのだが、これは劇作家の泉三郎が、尾山の万葉観に批判して別の論議となった。空穂としては、直接に反論せずに、尾山の作品を評するさいに、尾山の作品の、主観のない写生や自己省察からくる自嘲や人情の歌を批判した。

この時代の空気として、アララギの主導する万葉調と、日本自然主義からの転換、また写生と主観の問題について、多かれ少なかれ歌人たちは同じ問題意識を持っていたことで、一冊の歌集は、よい話し合いの場であったようだ。

ただ歌集の論議については、歌集を読まないとわからないし、その歌集の当時の読まれかたも、想像するしかないところがあるからね。そして現在人のわれわれは、「イマ読み」という、ずるい鑑賞の仕方もあって、贅沢だよね。でもあれか、歌集、おそろしく手に入りにくいんだ。


  七首連作「誰かの夢で」

会社にも世界にも愚痴なき男、つっぱしるツバメを目で追わず

目薬を二滴さしたらほおをつたう あの時泣いてよかったよなあ

夕方と明け方のオレンジ色は すなどけいをうらがえす手のいろ

欠点が長所に変わる例えとしてナガミヒナゲシを出すのかきみは

コート・ダジュールの海の色なぞ知らないし青色LEDは訓読み

半馬身の差しかなくて特別なオンリーワンか、それはほんまか

誰かの夢で講釈たれているオレよもっとやさしい顔をしないか


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