2021年5月8日土曜日

土曜牛の日第19回「ひとりでちゃんと」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の20もまた写生について。「島木赤彦と中山雅吉・橋田東声の写生論議」。

赤彦、茂吉がアララギで写生論を固めてゆくのに対して、前回は「国民文学」の半田良平が攻撃をしたが、今回は、雑誌「珊瑚礁」の中山雅吉からの批評である。

雅吉はそもそも「写生」に固執することには反対で、写生によって外界に密着することで普遍性は得られるかもしれないが、その分作者のオリジナリティは削られるものであり、この頃の写生にこだわった短歌作品は、写生によって外界を表現しきったところの瞬間的な面白みしかなく、それで終結して余情や暗示を残さないものであるとした。

それに対して赤彦は、以前からの、写生が物を写すだけというのは、素人の考えである、という立場のままであった。

しかし雅吉は赤彦らの、写生に「いのち」とか「生」が包含される考えについて行こうとはせず、短歌においてディテールにこだわることは、心の動きが置き去りにされ、作品がただ客観化、静化されることを問題視した。

赤彦はアララギの写生についての批判を受けて、ついに、東洋の画論(唐の六法など)を取り上げて、東洋の絵画は象形からはじまって伝神に至る写生である、という神秘主義的なドグマを反論に使用するようになる。そして「『珊瑚礁』では写生をスケツチと殆ど同義に解して、性命を盛る芸術を写生主義の名で唱へるのは、我儘であると言うた。吾々が我儘ならば古来東洋の写生論は大抵我儘である。」と、名ばかりの反論をおこなった。

さらに「『アララギ』の万葉集を尊信することと、写生を念とすることは議論ではない。信念である。(中略)作歌道に於ける吾々の一動に徹し、一止に徹し居常行往、念に透徹せんことを冀う信念である」と、ディスカッションの余地のないものであることを表明したのである。

しかしこの「珊瑚礁」の主観主義からの批判もあって、アララギの写生主義は、内的論理をさらに深めてゆくこととなる。

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写生が、まずものを写すものであって、そこから、対象や言葉のチョイスや視点に個性があらわれるというのは、たしかにそうだが、それは推し進めると、すべてが写生になり、文は人なり、という境涯のチキンレースが発生するに至る。近代をどう描くかから始まった近代短歌が、東洋美術論を援用するのは近代詩であることのかなしい否定であるが、短歌は、油断するとここへ引き戻され、虚構設定は剥ぎとられてしまうものなのだろう。



  七首連作「ひとりでちゃんと」

「あなたも遺そう! 泣ける辞世の句」のページを開いてみるが目にかからない

字余りや字足らずはいい 定型にあらがってしかも勝ったのだから

仏壇に孤独な果実供えたり なぜ「孤独な」と付けたんだろう

おれはいまひとりでちゃんと悲しいからついてくるな月ついてくるなよ

生き物の明るい終わりをカンガルー そんなものってきっとありの実

本読みて彼奴(あいつ)のことを考へて涙を落とすその本の上(へ)に

あの友へしばしの祈り 生死さへ不明であるもかまはぬ祈り


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