こんにちは。土曜の牛の文学です。
近代短歌論争史は24。「前田夕暮と土田耕平・島木赤彦の万葉論争」。
のちに自由律、口語短歌を牽引する前田夕暮は、大正12年、歌壇にカムバックするにあたって、やはり反目する島木赤彦、アララギへの批判から始まった。しばらく離れた原因も、島木赤彦との対立は大きくあっただろう。
夕暮の意見は①万葉語を使用するのは、万葉の本質を受け継いでいるといえるのか②短歌の用語は口語でなければならないとは言わないが、もう「現代語彙」によって表現すべき時期が来ており、ほどよく古語も現代語化して使用したい、というものだった。
これに対して、島木赤彦の門下の土田耕平が、反論した。まず万葉依存の批判は、すでに多く受けていたので、万葉語も理解せず、万葉の本質が理解できるわけがないから、語と本質を分けるのはナンセンスだという、アララギの言い分で話をつぶした。口語については、「新しい用語には慎重の態度を取る」「口語と文語を比較して、そこに勿論一長一短はあるけれど、文語の方が遥かに韻文的要素を具へてゐることは明らかである」として、口語に反対であった。
さらに耕平は前田夕暮の作品の絵画性を幼稚だと批判したけれども、この絵画性はむしろ茂吉らが夕暮から学び取ったもので、これは知らなかったか無視したか、批判が先走ったようだ。
島木赤彦も論駁に加わったが、彼の万葉観は「深く人生の寂寥所に入り、幽遠所微細所に澄み入つてゐる。形は三十一字にしても内に深く籠るものがある。これが東洋芸術の特徴であつて、同時に生活形式を中枢的要求によつて簡素にする東洋的精神の現れである」という、それまで「鍛錬」で言いくるめてきた、東洋的な心境鍛錬主義から動くことはなかった。
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万葉論争といいながら、古語論争よね。
大正時代のこの頃は、学校教育でもこの論争の三年前に三省堂の中学国語が口語体になり、小学の国定教科書が四年後に文語体から口語体になる、文語と口語の変遷期にあたる。
この時期に、尾上柴舟(土曜牛の日第1回)門下の前田夕暮が、古い言葉の使用に疑問をもとうとしない歌壇の方向に何か言わないわけがないよね(笑)。
ただ、結局、近代に「和歌」が「短歌」となった時に、今の言葉でうたうか、古い言葉でうたうか、の問題は、横たわっている。どちらが正統、などという問いは、設定が根本的におかしいのだ。
七首連作「不死の都」
傲慢なバベルの塔はつくりかけ不死の都の不死の人たち
ばらばらの言語野に咲く紫陽花の青と赤とのあいだの無限
呆け、痴呆、認知症へと名を変えていつか誰でもなれる社会だ
いつまでも歳を取らないわれわれはドラゴンクエストまたやり直す
人生はロンダルキアへの洞窟だ復活の呪文はもうちがいます
罰も救いも赦しもすべて先延ばしキューサイの青汁ももうまずくない
多摩川にオフィーリアならぬ評論家、さらさらに死のうつくしからず
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