2016年9月4日日曜日

2016年08月うたの日自作品雑感。

9月に入ったので、キンドルの読み放題をはじめてみた。20日ほどはお試しになるのだろうが、こういうサービスは人の入りが少ないと簡単に終わったりするよね、と人に言われ、そうか、現代は安定しているからそのサービスを選ぶのではなく、選ぶことによってサービスの安定に寄与するように、ユーザが教育されているのだ、と思って登録した。

テルヤはあまり本を読んでいないので、ほとんど過去の適当な知識で話しているようなところがあって、これからはがんばって歌集も読むぞーと思っている。(まだ読んでない)

昨日は折口信夫の命日だったらしいので、夏休みに古本屋で買った『倭をぐな』をぱらぱらめくった。

国文学を研究してきた人間が、晩年に外国と戦争が起こり、負けたらこの言葉が滅びるかもしれない、となったときに、たとえば歌人が、戦争の敗北=短歌表現の廃止、を予感したときに、戦争の勝利に協力するのは、ロジックとして自然なことだったのではないかと思えてくる。

現代の日本のわれわれが「戦争反対」というとき、侵略と防衛がひとくくりにされているし、勝利と敗北も、善悪の判断も当事者でないようなポジションから語られることが多い。

戦争というのは問題解決の手段としてもっとも下層のレイヤー(力くらべ)まで落ちた状態に発生するもので、だから戦争反対するには、レイヤーを落とさない努力が必要だろう。あと、相手のレイヤーを落とさせないようにする必要もある。

短歌の話ぜんぜん関係ないな。いや、関係なくはないか。釈迢空読んでの感想でもあるし。

自選とコメント。

「後」
商店街ほどよくさびれぼくたちの前にも後ろにも揺れる夏

「氷」
焼酎の氷がなくてクーラーもない部屋で今日がその日になるか

 ※その日って何でしょうね。飾り気のない酒を飲んで、汗がひかないような場所で、そういう日常性がふっとぶようなその日。

「鼻歌」
うれしそうな顔ではないが鼻歌が聞こえて、きみと来れてよかった

「それから」
いじめられた記憶を捨てる何回も何回も何回も、それから

 ※脳っていうのは、思い出すたびに痛みも再現するらしいですね。捨て続けることで補強される記憶ってことですかね。

「蛾」
三千一人目に蝶と言われてもぼくはじぶんを信じられるか

 ※人が自分を信じられるのは、3人必要な気がします。「わたし」と「あなた」と、あと一人。

「自由詠」
ブラジルでゴジラが3000本打ってそのお言葉に連日猛暑

 ※うたの日は、10日はじゅう、自由詠の日みたいですね(この月は11日でしたが)。この歌はマルコフ連鎖っぽく、このころ話題になっている言葉を圧縮したような短歌。

「訳」
話すたび空気が凍る、最新のこの翻訳機壊れてねえか?

 ※未来の話かしら。翻訳機を使うってことは、それが正しく訳されているかを当人は判断できない、という歯がゆさがうたわれている。一方で、それは本当に翻訳機の故障なのか? 彼自身が空気の凍ることをしゃべって気づいていないのではないか? という、これも当人が自分を判断できない、という歯がゆさが二重になっている。

「空」
世界平和の最後のフェイズで選ばれる"力"、反転しゆく空想

 ※世界平和のモデルを空想していく時に、”力”は、どのように利用されるべきか。この空想では、ぎりぎりまで力は使わなかったが、一度使ってしまうと、オセロのように反転していったようだ。

「たられば」
きみたちはたとえば羽根が付いててもカニと呼ぶねとタラバが告げる

 ※タラバガニは、分類的にはカニではないのよね。でもカニっぽかったら、うまかったら、なんとかガニって名付けるよね。羽根つきガニとか。

「ピアス」
口裂け女がマックの肉を疑って耳たぶに視神経が垂れおり

 ※ピアスの都市伝説に、穴を空けると耳から糸が垂れていて、引っ張ると失明する、というのがかつてあった。これは禁忌がそういう物語を生んだ面白いケースだと思うが、これ、今でも知ってる人いるのかな。

「開」
開かれた校風なので存分に塞(ふさ)いでられると思ってたのに

「蝉」
道の上の死骸のなかにかつて有りし命よ、いまは何のかたちか

 ※幼虫が蝉になって、死もまた脱皮なのだとしたら、という着想。

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