2021年8月7日土曜日

土曜牛の日第32回「なのに」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

暦の上では秋なんですって。

近代短歌論争史は33、「西村陽吉と岸良雄の生活派論争」。口語歌を推進する歌誌『芸術と自由』の創刊者である西村陽吉に、同じく口語歌に賛同している岸良雄が雑誌内で意見を異にし、岸が離れていった、という論争だ。

『芸術と自由』は、土岐哀果の雑誌『生活と芸術』の影響を受けてそれを発展させようと西村が作った雑誌であるので、口語歌というだけでなく、無産階級の文学、民衆芸術としての口語歌である、という社会派の理念が強かった。

一方岸良雄は口語歌にはおおいに関心があったものの、文語歌からの出身であり、その芸術意識は、生活派とは異なるところがあった。西村のいうような「芸術美よりも無産者の生活に即しているべきである」というのは、かつての自然主義と同じではないか、という危惧をもっていた。また、口語歌であっても三十一文字を超えるような口語自由律もまた、短歌と呼ぶ必要がないと考えていた。

この議論は、作歌態度の問題となって、「現実偏重」「美尊重」のどちらが優先されるべきか、という、言葉を尽くせば尽くすほど硬直化して、断絶を生む議論となってゆき、岸良雄が編集メンバーから追い払われる、という終わり方をすることになった。生活派という無産階級の文学が、口語であるべきという思想的必然性を論理的に提示することができれば、雑誌内の内部対立を超える問題提起になったかもしれない論争であった。

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思想と実作の関係がリニアである、というのは一応信じたいけれど、実際はそれがどの程度の影響かは判断が簡単ではないよね。影響、という文字のとおり、影や響きみたいなものだろう。

この論争のなかで、岸が批判した吉植庄亮の口語自由律は、案外悪くないと思ってしまう。「出納農場」から4首。

ぐいと曳き出した大黒の挽馬の力をおれはすぐに感得した

馬はクライテルチースの駿馬です、地平につづく大幅の道路です

軽快な乗用馬車だ、すてきだなあこの反動のやはらかさは

おい見給へ、この大黒の挽馬の山のやうな尻のゆたけさを

こういう、短歌的な韻律からはじまりながら、短歌としてほつれてゆく、または逆に、散文的にはじまりながら、短歌的におさまってしまうこの感じは、テルヤはながく理想のような気がしている。でもこれ評判がそれほどよくなかったみたい。吉植庄亮もこの路線はやめた。

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  七首連作「なのに」

金銭を得るためなのに働けばがんばれなかったとき悔いがある

新人の叱りどころを見逃した、叱る上司は似合わないのに

フェンシングは戦いなのに人類のいつかどこかでああいう喃語

一瞬をミスする選手、人間の一瞬なんて一瞬なのに

質問がないのに答えを言う人よ、雪見だいふく一つの対価に

スマホ見る主人の顔を犬が見る時間はほんと有限なのに

テレビとかネットで勝手に落ち込んで、世界は君が担ってるのに


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