2018年6月3日日曜日

2016年05月の自選と雑感。

6月ですが、ネット上の言論は、ぎすぎすしいものがあります。
日本語で「違う」というとき、それは、differentである場合と、wrongである場合がありますが、誰かの意見を間違っている、というのは、相手の想定する環境がdifferentであるのに、それを自分の環境に当てはめて、それは違う(wrong)、ということが多いようです。受け取った方も、相手の立っている環境が違う(different)にもかかわらず、同じだと信じちゃってるから、違う(wrong)と言われてことに憮然とする、こんなことの繰り返しのようだ。

みんな仲良くできればよいが、争わざるをえないのかねえ。

蝉の声大きすぎたら静けさとなって、木立にあなたも消えた  沙流堂




自選。

瓦屋根に小さき天狗が着地してまた風とゆく下駄の音(ね)残し

貨物船の貨物を呑吐してゆくを海風に冷えながら見ており

濡れたるを合わせることを逢瀬とう身も蓋もない古典解釈

そをきみは五月の匂いといいましたたしかにわれの内にも五月

終電を逃げきってきみと歩きおり空には不気味な未知がかがやき

ゆっくりと頭なづれば目を閉じて生き物は死をかく乗り越える

ほんとうに久しい邂逅なりしかば男から泣いていいかはつなつ

蝉が鳴くまでとあなたが言うたのに涼しい顔をして訪れて

そーいえばきみはヘルプを出していたなあ、ポケットに手を入れて立つ

懸命に生きた生き物が見る海のきっと再現性のない青

お礼ではなくてうれしい表現のキスであったとのちのちに知る

「子供乗せ電動自転車」を立ちこいで女子高生が彼に会いに行く

  「山椒魚としての風景」
山陰でオフィーリア溺れゆくならばサンショウウオに迷惑がられ

サンショウウオやめたと言いて背中からすらりと現れたる美少年

基本的な思想は非暴力である、食(しょく)はまたそれは別の議論だ

大空を山椒魚が背中みせ去りゆくまでを夜と名付けり



人間の声が嫌いで器楽曲ばかり聴いてた娘(こ)も母となる

もっともっと知らないままで死ぬべきであった、耳は死ぬまで聞きたがろうが

こころのことを福というのよ、本人が忘れた言葉はぼくが持ってる


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