2020年9月12日土曜日

2017年06月の自選と雑感。

久しぶりに自分の短歌をまとめる作業を再開した。といっても、まだ3年前のあたりの歌をふらふらさまよっている。

この2017年6月は、だいたい10日ほどかけて、不自由律短歌というあそびをやった時期だった。
これは単純に、57577の韻律が、アプリオリ(生得的)に心地よい、必然的なものではないよ、という基本的な考えを試してみた体験だった、と説明できるだろう。

しかし同時に、デファクトスタンダード(業界標準)であるこの韻律は、とても気楽で簡単なものだという再発見ができた体験でもあったし、歴史を経ていることで、とても技巧が整備された形式であることもわかった。

アプリオリな韻律を持っていない人こそ、短歌は可能なのかもしれない。

詩人は、自分の韻律を見つけ出さなければならない。が、定型詩人は、自分の韻律がないから定型詩である人と、自分の韻律が定型詩と同じだった、という場合の、2種類があることになる。

しかしそもそも、アプリオリな韻律は、存在するのだろうか。

たとえば現在のジェンダー論では、こころの性という言葉があって、こころに性があるというのが前提の事実として語られているが、こころにまで性を設定することは、ジェンダー論にとって将来的に本当によいことなのだろうか、と私は考えたりしている。

がそれは置いといて、人は、アプリオリに、韻律をもっているのだろうか。

それを持っているのが詩人だ、という答えはあるだろう。そしたら、持っていないのは、詩作人、かもしれない。

私はどうだろうか。私は、詩人と思ったことはなくて、散文家と規定したいと考えていた。しかし現在では散文家も名乗れそうにはない。

かつてはある程度短歌作品を作って、それなりに評価されたならば、歌人と自称してもよいのではないかと期待したこともあった。
そのときの自分の定型詩人のポジションは、定型に違和を感じ続けているがゆえの歌人、というポジションであった。

  理屈では未来決定論は正し、理屈では今日はまったく正し  沙流堂




自選。
言うほどに悪くはないと道脇のツツジが咲けり、そう悪くない

お徳用サイズのサツマイモ天を大人になってもわれに勧める

先のことが分からぬ鳥が愛しくて、(その理屈だとオレも愛しい)

ほっぺたが少したるんだわが妻よこれからも妻でいてくれますか

我慢して人間50年、以上、無限のごとき後悔夢幻

酒呑んでポジティブ上戸、昼頃に希望も喉も渇いて起きる

人間は笑った時に言うなれば骨を見せちゃう生き物である

ポケベルのような使い方であるよ空メール送る母に電話す

精神の健康はついに得られずき顔を洗ったまま顔を覆う

怖い話ネットで深夜楽しんで歯を磨くときのつくづく鏡

さよならは引き止められずわっはっは、わっはっはぼくは笑っているの?

一貫性ある人生のたとうならジャベルの見たるセーヌの流れ

人間をわしづかみして貪り食う神のつかいの神々しいか

ぼくたちは年老いてきっと閉じてゆくそしたら今日のことを話そう

実存と虚無と無意味と不合理のさわやかな青空の真下

日本語は抵抗もせず滅びるかgrandchildはyouと話せず

フェイゲンの曲が流れたCMのThinkPadが欲しい今でも

種に貴賎ありせば今日もナマケモノ賎なる者の「怠け」をなせり

ギザギザの歯でにんまりと笑ってたさっちゃん、転校してそれっきり

給湯室で歯を磨きいるおっさんが人生はつらいなあとつぶやく

ウイルスに君のOSはむしばまれ泣く泣く君をリカバリーする

おばさんになったのだなあ、おばあさんになってもぼくは驚くだろう

今回も失敗だった、ぼくの詩でその心臓をひと突きならず


俳句
役割のひとつ終わって夏の風邪

実梅摘む天職に遇える人わずか

忘れすぎてくれてもうれし柿の花

白日傘小学校が投票所

花南瓜あとはまわりが決めてくれ

葛切やマイナスからの一歩です

何に似て麦藁帽を漏るひかり

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