2016年4月9日土曜日

2016年03月うたの日雑感。

桜も満開の盛りを過ぎて、こんな季節に春や桜を歌わないなんていうプレイは、若いうちにしか出来ないのかもしれません。

3月は四国に旅行して、歌人の聖地の一つである(かも)松山の正岡子規記念館に行ってきました。香川照之ってほんま似てたなあと思いながら、照屋のような場所でさえ、正岡子規の作った世界の延長にいるなあという、末席にいるようなことを考えたりしました。

さて。3月のうたの日は、題詠の歌題をかならず最初に入れようと、なんとなく初日に思ったので、そのまま31日まで、歌題から始めた短歌となっています。

「自由詠」
自由詠たとえばブログに上がらない即席麺の夕食の夜

このあたりは苦肉ですね。

「せい」
せいにして生きていくのだ僕という感情よりもずるい世界の

「せい」から文章を始めることは普通は出来ないので、あたかも倒置のようにできたのは、ちょっとほっとしました。

題詠というのは、だいたい平安時代から明治の、正岡子規くらいの時代まで技術鍛錬の手法として確立していて、いわゆる花鳥風月とかいう雅語を歌題とした練習だった、と理解していて、子規以降の歌人の近代は、題詠の否定から始まっているようなところがある。
とはいえ、これは練習法なので、近代以降も行われていて、ただそれは歌作品の「題」と二重の意味を持つような未分化なところもある。
戦後、第二芸術論などで短歌はダメージを受けて、ここでも題詠を否定する(=思想を主張する)短歌文学であろうとしたわけだが、それでも練習法なので、題詠はほそぼそと行われてきた。

ただ、近代以降の題詠は、雅語であることはなくなり、正岡子規が俳句で「柿を食」ったように、それまで俳句や短歌では使用されなかった言葉を使用できるように子規が共同幻想を打ち破ってくれたので、題詠の題さがしだけでもやっていけたようなところがある。

戦後の題詠は、戦後の表現そのものが記号論的な枠組みのメタ認知を可能にしたこともあって、いろいろなトリッキーな題詠も可能になっている。

現代において題詠をする意味、というのは、もっとじっくり考えるべきところなのかもしれないが、ひとまずおいて、まあ、トリッキーな題の使い方は、そのトリッキーさを超える内容作品になるかどうかという、二重のハードルを自分で設けてしまうので、まぁ、すなおに題と向き合った方が、得だし簡単ではあります。

題と向き合うっていうのは、どのくらいのレベルがありましょうか。
1,題そのものを内容の中心にして詠う。
2,題そのものを間接的に詠う。
3,題そのものについて暗示的に詠う。
4,題そのものでないことについて題を用いて詠う。
5,題の周辺について詠う。
6,題を解体して詠う。
6-1,題を視覚的に使用する。
6-2,題を音として使用する。
6-3,題を誤読して使用する。
7,題詠ということについて詠う。
8,題について詠わない。

8は題詠ちゃうやん。

3月の作品では、

「魚」
魚には涙腺なんて持たぬから泣くわけないよ食われるときも

の「魚には涙腺なんて持たぬ」の文法の間違いについて、塾カレーさんという方から感想をいただき、少しやりとりしました。定型を持つ表現は、とうぜん、文法の音数とせめぎあうわけで、定型になるように言葉を斡旋することが、定型詩人の第一の能力であるべきです。
そのうえで、それらのルールを破っても美しい表現を模索し、それが見つかるならば、ベートーベンではないですが、そんなルールは壊れてもいいのです。
もっとも、そうでないなら、間違いは間違いです。それは恥ずかしいミスとなります。

自選。

「結晶」
結晶となったふたりは一日に一度の光で世にもうつくし

「梅」
梅のつぼみも急いでるかもしれぬのにゆっくりと言われながらほころぶ

「ある」
あるところに老いた夫婦がおりまして偶数は竹、奇数は桃で

「心」
心にはひとつの細い舟があり君に向かってうしろへ進む

「泣」
泣きながら魚は海を渡りゆく老衰という死を逃げるため

「男」
男だけの話ったって食い物とゲームとガチャじゃさびしからずや

「ピンク」
ピンク色のモンブラン三時に食べて文明はきみがいなくても春

2016年03月うたの日作品の31首

「時」
時分の花、マリオの無敵状態のつい行き過ぎて切れて落ちにき

「イヤリング」
イヤリングはメイン武器ではないけれど補助魔法にはなるのよ、ほらね

「ナイス」
ナイス地蔵のご利益を今日も訊かれいて話せば想像通りと言わる

「片想い」
片想いを三年かけて均(なら)しゆきここの更地に何を置こうか

「結晶」
結晶となったふたりは一日に一度の光で世にもうつくし

「梅」
梅のつぼみも急いでるかもしれぬのにゆっくりと言われながらほころぶ

「ある」
あるところに老いた夫婦がおりまして偶数は竹、奇数は桃で

「心」
心にはひとつの細い舟があり君に向かってうしろへ進む

「泣」
泣きながら魚は海を渡りゆく老衰という死を逃げるため

「自由詠」
自由詠たとえばブログに上がらない即席麺の夕食の夜

「奥」
奥まったところにあるよいついつもへらへらしてるきみの決意は

「長」
長安の出身という蒋さんに春の夜、ジョブの異常を告げる

「王」
王たるもの父たるものは感情を表さないがないわけでない

「男」
男だけの話ったって食い物とゲームとガチャじゃさびしからずや

「牛乳」
牛乳をレンジで温(ぬく)め酒飲まぬ日のましろなる理性を啜(すす)る

「ピンク」
ピンク色のモンブラン三時に食べて文明はきみがいなくても春

「魚」
魚には涙腺なんて持たぬから泣くわけないよ食われるときも

「雲」
雲行きが真っ黒なのは母性なんて非科学的な言葉のせいだ

「学」
学問のない世界ではニッコリという表情は怖い意味です

「卒業」
卒業はいつも他人事(ひとごと)みたいにて感激に水は差さないように

「春」
春だから機嫌がいいぞノリノリのドヴォルザークの口ぶえ聞こゆ

「レコード」
レコードのかすかにうねる縁(ふち)の上(え)に針置くときに確かに未知は

「せい」
せいにして生きていくのだ僕という感情よりもずるい世界の

「みんな」
みんなから元気を分けてもらうとき惜しみたる者物足りぬ者

「パーカー」
パーカーの中に苺と蛇がいてファスナーを下げるときどちらかの

「導」
導かれ補陀落世界へ行く弟子をわれはまことに悲しみいるか

「唐揚げ」
唐揚げのこの味がいいと言ったのにサラダになるし日付も違う

「競争」
競争をともに避けつつ生きてゆく友人に勝ち、すなわち負ける

「分」
分かりたくないのでしょうねcoke freeのJ・フォックスのごとき正論

「いくら」
いくらにも五分の魂があるとしてぷっとわたしへ香(か)を反抗す

「丸」
丸文字は冬の字らしいこの春の「さよなら」という字の大人びて

2016年4月2日土曜日

2014年03月作品雑感。

4月になりましたね。春でござんす。
春ってやっぱり短歌、和歌に合ってるんだろうなーと思います。歌にしやすいというか。
(どの季節でもそう思ってるのかもしれませんが)

2年前の3月の短歌なのですが、なんか変わった名前の色を詠み込むこころみをいくつかしてみたようですね。すぐに止めたみたいですが。

  小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

  瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

  冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

  読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

  赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

古代日本のカラーは4色だったという説がありまして、明暗とコントラストによって、
あか(明)−くろ(暗)
しろ(標)−あお(淡)

の画質調整で世界をみていたようです。なので、この4色については、〇〇色、と「色」を付けなくても形容詞で使える言葉になっているとか。
この「色」を付けなきゃいけない、というのは、日本語のわりと厳しい制約(というか特徴)じゃないかなーという気がしますね。

さて、3月というのは当分しばらく災害を思う月となります。2014年は3年目でありますが、災害によって傷んだ心を思うモチーフと、傷んだ心が攻撃性へと向かった傾向をにがく感じるモチーフが、やはり散見されます。

  やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

  現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

  ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

  十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

  防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

  千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

  ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

自選。

  白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

  朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

  日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

  新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

  針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

  ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

  眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる


2014年03月の62首

小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

この春の生ぬるい風に許されて文系宇宙をもう少し歩く

向き合わねばならぬ三月つごもりを過ぎさいわいにして外は雨

瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

他船より碇泊ながくその名よしラッキードラゴンナンバーファイブ

明け方に鳥の群れひとつ南西へ幹線道路の我を越えゆく

読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

根本問題などは先延ばしにしつつそのまま土の下もよろし

現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

洗面所に零(こぼ)れた鳥のえさ芽ぶき強大に及ぶ春とは云えり

駅前にギターピックが落ちていて話は以下でも以上でもなく

未来とはさなぎの中身、ペーストの未明の余地を捏ねて一日(いちにち)

水たまりに降る雨粒の雨粒も波紋も消えることぞ次世代

白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

牛丼より高きクレープ食い終えてそのほの甘き時間はかなき

十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

誓う日のまだ来ぬ生は措くとして逆算の見えて祈るいのりは

千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

人間が好きになれぬと件名のでもさみしいと本文にあり

ネクタイを締めたるまでは犬馬にて銀貨のような月の下なる

炭酸煎餅舌でぺちりと割り湿(しめ)しおくゆかしくも世界に消ゆる

秋は小さく見つかってゆき春はもうわんさかというかいっせいにそれ

君を思って思ったあとのひまわりの光を追って向くということ

これはもうこういう地獄なんだろうデンドロビウムが隅に置かれて

ゴムやガラスが時間に溶けてゆくように君思うわれも一つのフロー

たったいま言葉が生まれ声になる場にいるごとし、つぼみと聞けり

一行詩は墓標のように峙(た)つものを斃(たお)れて横書きスマホに累累(るいるい)

オレンジの夕焼けの前の一瞬にピンクの雲となりしと見たる

そのかみに嫌いし毒にも薬にもならぬ一行をこそ楽しめり

朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

寒い日のわが身を隙間なく埋めて火を守るような季を通り抜く

この店に南京桃は来ぬものか駅前の小さき花屋と思えば

大空を知らぬ錦華の雄鳥は窓外の風に怯えていたり

たとえば、金木犀は秋までを香らぬことに愚痴いくつある

日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

ミニワイングラスの中のしらうおの酢醤油に濡れた目と目が合えり

美しき名の革命よ、人は春を呼べずば一華(いちげ)にそれを知るのみ

針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

廃橋は両側を草に覆われて鍾乳石を垂らして還りゆく

労働の一員として愛玩から離れて佇む鉄道猫は

えいたくんベロベロバーとりなちゃんが顔近づけて中通り、春

眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる

寄せ返す波打ち際か明滅のミラーボールか生死(しょうじ)の相は

当世の真面目な熱も珍奇なるアルチンボルドの絵に似たるかも

帰路のホームに春のうかれを見かけつつ過ぎればいつか沈みに入(い)らむ

蜂に刺されたクピドを諭すヴィーナスの、月さす指の指のみぞ見る

あやとりの張られた糸の弾力は両の手指がまるくまもりて

孤独へのレジリエンスも持ちながら梅にいたのはメジロとは思う

のべつ幕なく人間界は比較して時に比較のなき顔をする

若き歌の時代を終えて友人はオールドジャズに沈潜しゆく

春の男になりきらぬまま休日のパルコにきたり急がねばならぬ

われもまた君の一つのマクガフィンになるのだろうか、なれるだろうか

雨厚く垂線引いてうすしろき桜の花も試されている

死後にわれなき日常の出来事は遠い異国のニュースに似るか