2015年12月27日日曜日

2013年11月作品雑感。

この月の作品は、百人一首ならぬ都道府県一首みたいなテーマで、1県で1首を作るような意図であった。でもまだ全県できていなくて、継続中とはいえる。

しかし当然、ご当地ソングでもなければクイズでもないので、その県を示すような単語を入れたりするつもりは基本的にはなく、その県「を」詠う、というよりは、その県「で」詠ったような体裁になっていると思う。

とはいえ、多くの場所は観光として行くことになるので、やはり観光とか旅行詠っぽいといえばいえる。

翻って、短歌と土地の匂いとの関係について考える。

短歌とはかつて都、京都、つまり貴族社会への通行手形であった、という説があるが、鎌倉武士が和歌を学ぶとき、そこになにか、みやこっぽい、優雅だけどもねちねちしていやらしい、いまの関西人が東京の標準語を「きっしょー」と思うようなものを感じたのだろうし、ぎゃくに、身を焦がすほど憧れた人もいただろう。

現在でも、ひょっとしたら、土地と作風を合わせたデータを集計したら、わりあいしっかりとした相関関係が出てくるかもしれない。(個人の作風を超えて)

自選。
  温泉街の売店の古きガラス戸に先代の作が飾られてあり

  おそらくは天気と海の話ならむ訛りを聞けり、海は群青

  東京についに来たれば車窓から街の緑とノザキの書体

  工場のすえた匂いの下宿にてガチャリとテープはB面に行く

  東京に憧れながらこの土地でそれなりにくすぶって彼女は

  連峰の景色を愛しおそらくはここで死ぬことなけむふるさと

  支払いは姉が済ませて血の赤き肉を食いおり、姉弟(きょうだい)は濃し

  シュルレアリスム展を観たがる子を乗せて県越えて父は車を飛ばす

  明るくてさびしい駅に会いにゆき蓋取れやすきCDを返す

2013年11月の30首

トリカブトの白き花咲く散歩道観光化して民族は生く

霊場はあまたの過去をうちしずめみずうみの水澄みて風ゆく

急上昇する夜鷹ひとつ刻まれてこのまま時よ、止まれ/進め

温泉街の売店の古きガラス戸に先代の作が飾られてあり

おそらくは天気と海の話ならむ訛りを聞けり、海は群青

砂浜に車を止めて海見つつコップ酒のみ昼寝せし町

ロードサイドにさっきも見たるラーメン屋の次見れば入ると決めてから見ず

ミニチュアの建築物に降り積もる雪、故宮にもスフィンクスにも

アリーナの横のあたりでヒーローは戦っており、迷いを捨てて

バス停の裏の溝渠を飛び越えて女は家に男を連れて来

東京についに来たれば車窓から街の緑とノザキの書体

傘のしたに野良猫が足にすり寄ってズボンも猫も濡れているなり

平日の駅へと続く商店街の開店直前のままの日常

廃村が世界遺産になるまでの昼でも昏(くら)き板敷を踏む

若き父と二人でウドン啜りいしドライブインに遠きバイパス

誰もいぬ温水プールに飛び込んで本当に疲れるまでひた泳ぐ

坂の途中に老夫婦ひとつ生きており女の方が少し元気に

工場のすえた匂いの下宿にてガチャリとテープはB面に行く

コンビニをテレビの世界と思う頃ぼんやり見おりポール看板

東京に憧れながらこの土地でそれなりにくすぶって彼女は

支払いは姉が済ませて血の赤き肉を食いおり、姉弟(きょうだい)は濃し

シュルレアリスム展を観たがる子を乗せて県越えて父は車を飛ばす

連峰の景色を愛しおそらくはここで死ぬことなけむふるさと

寮生が近道にする農道の彼らばかりが見し彼岸花

友人は見舞いの頃には饒舌ではやくカレーが食いたいと云いき

柿のない季節に来たり、古本のガイドブックで巡る寺刹の

山腹にみかんの色がかがやいてそのかみ友誼をやすく受けいし

人口の減りゆく国のおのずから夜の明かりのあたたかく見ゆ

みずうみは黄色に光り幸福の顔は見ずとも疑わずなり

明るくてさびしい駅に会いにゆき蓋取れやすきCDを返す

2015年12月20日日曜日

2013年10月作品雑感。

短歌とは何か、という問いはさんざんされてきたのであろうが、いちばんふわっとした、大きな言い方をするならば、「五七五七七的なもの」といえないだろうか。照屋は現在そんなふうに考える。
「的」を入れたのは、もっぱら音の問題で、頭の中の拍みたいなものを、ちょっと早めたり遅めたりしてなんとなく五七五七七に収まれば、それもOKである、というような意味である。
いや、もう少し言葉を足すと、「五七五七七的な音数でひとかたまりと言いうるような伝達物」という方が適切かもしれない。このあたりの定義が、いちばんうっすーい、溶けかけのオブラートみたいな境界線なのかなーと照屋は考える。

かつて何かで見知った、正岡子規は、俳句の中で初めて柿を食った俳人で、その瞬間に、俳句で柿を食ってもよくなった、というような、フレームとか共同幻想とか言われるような表現の破れをめざすのは、現代において短歌表現を行なうひとつのねらいだとは照屋は考えていて、そういう、まだ「短歌的」ではないけれども、その作品のあとにはそれが「短歌的」になるようなものが作りたいし、見たいと思ったりする。

なので、短歌が「歌いそうに」なると、ずらすし、外すし、逆に、もっと「歌ったり」する行為をしてしまうのだが、たぶん、それとて、フレームとか共同幻想とかな訳で、ほんとうに破れてしまっているのをみると、これはもう保守的に、理解不能になるのではないかという恐れもある。もうなっているような気もする。

これ別に、この月の作品の雑感じゃないよなあ。
自選。
  練り切りを口に含んでゆっくりと舌で圧(お)しつつある君の黙

  星と星を懐中電灯で結びながら最後まで星の話しかせず

  このビルの裏路地のどこかわからぬが木犀がある、告ぐことならず

  地球ゴマの指の横まで傾いて離れんとする、求めんとする

  朝という場所の明るさ、ひかりとはやはり讃嘆する意を秘めて

  青空の広がる前はなにかしら一過するらむ、辛いことだが

  さびしさは知性のどこか、独語せぬ対話プログラムの待ち時間

2013年10月の31首

エイブラハムは鬱々思う奴隷なき未来に我は憎まれたるや

彼岸花用水の土手に群咲いて今のところは眺めいるのみ

すぐばれる嘘をさりげに混ぜ込んで彼女は生きる粧(めか)し違(たが)いて

何度目かのラストチャンスか残り世をニコニコ生きるか否かの分岐の

秋の米含めばあまし、斬ったのが馬謖であれば涙も流る

雨上がりの蜘蛛の糸にもかがやかずデバイスは君の言葉とつなぐ

練り切りを口に含んでゆっくりと舌で圧(お)しつつある君の黙

鼻先に木犀を寄せて反応を見る君をみる、君に尾を振る

星と星を懐中電灯で結びながら最後まで星の話しかせず

機械から生命の坂をなんだ坂こんな坂とて登りし記憶は

このビルの裏路地のどこかわからぬが木犀がある、告ぐことならず

被援助志向早めに断ちてその後に「困ったらすぐ言いな」と笑めり

追いつかぬけれども走る、身内(みぬち)焼く願いが業に鋳込(いこ)まれるまで

業深き子役の笑顔、おっさんの我が部屋も更け浅漬けを食う

テレビ切ればしんしんと少し肌寒く懐(ふところ)ふかき秋の夜長ぞ

地球ゴマの指の横まで傾いて離れんとする、求めんとする

朝という場所の明るさ、ひかりとはやはり讃嘆する意を秘めて

この生を死ぬのは一度、夜半(よわ)覚めてあれこれ時にまざまざ選ぶ

冷蔵庫にいただきもののラングドシャ、ちびちび食いつオータムに入(い)る

雨と知れば出る予定なき休日に出かけたかった無念のみ湧く

やり過ごす為の密かな知恵としても規則正しく人はあるなり

文字はもう塩昆布(しおこぶ)となり非言語の海で笑顔のあなたが見える

静謐よりしずかなものの共有を終えて余韻を立てるダンサー

不協和音の定義は代わりこの音はかつて和音でありしトリビア

青空の広がる前はなにかしら一過するらむ、辛いことだが

スコップの泥こそぎつつ沈みゆく心のもろもろなどもまとめて

進みゆく予測の円は広がりて外れることなく、なかばにて消ゆ

悲しみと同じ数だけうまいものがあるかもしれぬ、泣きそうに食う

今度君に会うのはたぶん西暦で4000年なら優しくしよう

さびしさは知性のどこか、独語せぬ対話プログラムの待ち時間

包むればぐいと頭を圧(お)してくるハムスター温(ぬく)し頼もし嬉し

2013年09月作品雑感。

この9月でてるやさるどうがツイッターで短歌を作りはじめて1年となる。

この作品もすでにブログには載せていて、「アニバーサリー、メモリアル」というタイトルをつけている。9月の記念日を題詠にしたものであった。

なんの記念日だったか書き留めておかなかったので、調べてみたが、だいたいこういう記念日だったと思う。

1「防災の日」
2「靴の日」
3「ホームラン記念日」
4「くしの日」
5「石炭の日」
6「クロスワードの日」
7「CMソングの日」
8「国際識字デー」
9「救急の日」
10「カラーテレビ放送記念日」
11「公衆電話の日」
12「水路記念日」
13「世界法の日」
14「コスモスの日」
15「大阪寿司の日」
16「マッチの日」
17「モノレール開業記念日」
18「かいわれ大根の日」
19「苗字の日」
20「バスの日」
21「世界アルツハイマーデー」
22「カーフリーデー」
23「万年筆の日」
24「畳の日」
25「主婦休みの日」
26「ワープロの日」
27「世界観光の日」
28「パソコン記念日」
29「洋菓子の日」
30「クレーンの日」

記念日を書かなかったのは、題詠がそうなのだが、その題をどう織り込んだか、という視点が発生するからで、それを避ける気持ちがあったかもしれない。もっとも、タイトルに記念日を匂わせているので、何の記念日を歌っているのか、という別の視点が発生してしまう難点もあるのだろうが。

自選。
  非常食の美味しすぎない配慮など少し可笑しくのち、しん、となる

  気持ちではなくて気分がわかるらし手櫛で髪を調(ととの)えおれば

  水門の湛える水のその中で始まり終わる生を思えり

  モノレール高架の下で雨を避(よ)けいつ止(や)むべきか分からぬ、生も

  世界中を観光に巡りめぐりはて近所のお堂の梁(はり)見上げ泣く

  クレーンの指す方向に月ありて意義深き時を居る心地する

2013年09月の30首

非常食の美味しすぎない配慮など少し可笑しくのち、しん、となる

靴下を靴に押し込み海までの数メートルの裸足だけ夏

ホームランの数を競いて戦後とは明るくなりぬ、昭和の話

気持ちではなくて気分がわかるらし手櫛で髪を調(ととの)えおれば

大森林が石炭層になるように我が生もいつか少し役立て

クロスワードのアルファベットを並べたら「ミルマエニトベ」そんな無体な

CMソングを口ずさみつつ席を立つ分かられづらい怒り見せずに

槃特は文字がいかにも読めなくて悩みはするが過ぎれば笑(え)めり

救急車が増えてゆく街、サイレンに揺れいるごとし菊の花酒

カラーテレビ誕生までは世界には色なかりしと思わざれども

銅貨を落とす擬音で始まる外国の「公衆電話」という曲ありき

水門の湛える水のその中で始まり終わる生を思えり

法による世界平和を惟(おもんみ)るレイヤを渡る群れの車内で

人もまた外来にして群生の破壊の種なる、コスモスの揺(ゆ)る

ぎっしりと詰められて大阪寿司の帰途で食いつつ泣く、鼻腔(はな)痛く

海を恋う心地にも似て玄関で捨てるマッチを燃やしては消す

モノレール高架の下で雨を避(よ)けいつ止(や)むべきか分からぬ、生も

カイワレの栽培棚に長く立ち吾も辛き味の満員電車

苗字とか住所の話をせぬままに分かり合いしが思い出せずき

非悲劇的な乗り物なのでさよならも少し寂しくない深夜バス

我がかたちも記憶こぼれるまでという切なる願いもこぼれていくか

プライドのように輝く自動車の休日、終日洗う男の

ぬるま湯に万年筆のペン先を溶(と)けばただよう昔日(せきじつ)のあを

青春の清しき終わり六畳のアパート解体ののちの跡地は

主婦休みにすることもなく結局は片付けている無言なる午後

わが文字を活字にできる驚きもそのワープロも今はあらずや

世界中を観光に巡りめぐりはて近所のお堂の梁(はり)見上げ泣く

許可を得て父の書斎に友と入りゲームで遊びきパソコンサンデー

道の端の落ち葉踏みつつ洋菓子店を過ぎ、引き返してミルフイユ購(か)う

クレーンの指す方向に月ありて意義深き時を居る心地する

2015年12月13日日曜日

2013年08月作品雑感。

この月の作品は、このブログをこのころスタートしたこともあって、すでに掲載している。
2013原爆対話編八月円環記の二つだ。

八月円環記は、8/1から8/31までの短歌を、5句の言葉と初句を繋いだもので、「八月の〜身じろぐ」→「身じろぎも〜はじまり」→「はじまりは〜噴出孔の」とつなぎ、最後「怯えては〜いとし、八月」で風味を閉じ込めたものであります。料理か。

原爆対話篇は、そのなかの8/6の一首からのスピンオフで、俳句と短歌が返しあう対話形式とした。

自選。
  身じろぎもせぬ一瞬が承諾か拒絶か聞けぬ夏のはじまり

  噴出孔の熱のけぶりに交ぜられて強く閉じれば目の生(あ)るるなり

  一景に迷う、廃墟の東京の地震の秋か空襲の春か

  生まれたる以上死なねばならぬのに生き方だけを述ぶる本閉ず

  

2013年08月の35首(と5句)

八月の息を大きく吸うわれに柑橘は色を増して身じろぐ

身じろぎもせぬ一瞬が承諾か拒絶か聞けぬ夏のはじまり

はじまりは我の意識の浮かぶ海の小暗(おぐら)き熱水噴出孔の

噴出孔の熱のけぶりに交ぜられて強く閉じれば目の生(あ)るるなり

生るる神は身罷る神を笑いつつ一新しおり敬意にも似て

相似なす自然の不思議マシュルームクラウドをかつてアメリカは植ゆ

  季語として句作いそいそ原爆忌

  爆弾を落とした罪はさておいて反省しおり苦い顔して

  そも比喩は不謹慎なりオクラ交(ま)ず

  竹山広全歌集読み重たかり想像力も荷を背負うごと

  積乱雲を遠景として蝉の死ぬ

  無生物の同心円の中心の血走った目をブルと呼ぶかも

  子孫からの糾弾愛(う)きや慰霊祭

  爆弾は精神へ至るプロトコルの物理層にて確固とならむ

  ひこうきもきのこも夢は美しき

植えるにはあらず広がるヨシ原の手を探り入れて楽し子供は

子供らも今駆け抜ける現在を老いて懐古の一景とせむ

一景に迷う、廃墟の東京の地震の秋か空襲の春か

春の芽のもうぐんぐんとどんどんと開くとは今を過去にすること

過去の過誤を繰り返すごと善意なお湧く生とうに苦笑いなる

苦笑いして聴いているシステムへの不満のようで要は不平に

不平怏怏(おうおう)水のシャワーで流しいてサーモグラフの青き生まで

生まれたる以上死なねばならぬのに生き方だけを述ぶる本閉ず

本閉じて人と狭さを分かち合う電車、混むのが止むまで戦後は

戦後には戦後の論理、真っ青な空に見入りし感慨なども

感慨はゲニウス・ロキの草むらのヘビの脱皮と風化してゆく

風化して形こぼれていく時に白亜の記憶刹那、脳裏に

脳裏には何度目の夏、上向きの蛇口の水の弧に口を寄す

口を寄すれば嘴が突くコザクラの戦略の枝ふるく懐(なつ)けり

懐かない子らを見守る公園の遊具のゾウは明るきブルー

ブルーなす夜にかがやく満月は理由になるので君に会わずき

会わず思えば星飛雄馬のほっぺたの猫ひげを持つ女と言えり

言いながら詮(せん)ないことと承知して矛先を天に向ける、白雨の

白雨過ぎ雲まだまだらなる空に大会決行の花火とどろく

とどろいて土砂降る雷雨、人間が追い出されるまでゲリラは続き

続きはまた今度と明るく手を振ってそういう風に終わるかたちだ

かたち確かにベントス(底生生物)らしく奇妙にて身を割けば白き肉美味ならん

美味も喉三寸にしてそののちは君の不在も在も苦しき

苦しい日の餌を求めるアリのごと甘味を嗅げり、少し怯えて

怯えては振り返りつつ前に行く背中を見ればいとし、八月

2015年12月12日土曜日

2013年07月作品雑感。

ネットのどこかで、われわれがずーっと昔からそうだと思っていることのほとんどは、せいぜい100年の歴史も持っていない、というのを読んだことがある。

たしかにそのとおりで、それどころか、50年前には50歳未満の人は生まれていないわけで、その人達は、単純に、見たことすらないわけなのだ。
いや、生きてたって、30年前なら記憶だけで語れることに危うさが出てくるし、5年前のいやついこないだの景色も、外部保管媒体がなければ、微妙で適当になって、つまり、人間はだいたい数日前後をうろうろする生き物ではないかとさえ思えてくる。

  駅前の工事終わればたちまちに上書き前の景失えり

人間の指の動きで歴史を構成しなおしたら、1990年代の半ばから、人類は急速に人差し指で軽く押さえる行為が増え、そのクリックと呼ぶ行為によって、人類は知識を吸収し、生産性を上げ、またストレスを抱え込む生き物となったといえるだろう。これは当然、マウスという、齧歯哺乳類の名前を冠したポインティングデバイスの発明によるものだが、このデバイスも、未来永劫に存在が保証されているわけでもなく、数十年もしたら、誰も持っていないものになるかも知れない。

  現生のホモ・クリクタス(クリックするヒト)も減る未来クリック出来る場所に集まる

その時、あの懐かしいクリックの感触と音を求めて集まる人は、若い人にとってはいささかうっとおしい存在であるかもしれない。

  かき氷の青い光を噛みながら同じ話をする側になる

30年前のSFやアニメの設定では、その未来の多くが、人口爆発の問題を抱えていて、この難問を抱えながら、問題そのものが失われることに気づくことすら出来なかった。でも日本は2008年に人口のピークを迎え、おそろしいことに、人口減少について考えねばならなくなった。(これだって未来のことは分からないと言えるかもしれないけど)
共同幻想、というかフレームが変わると、見る景色すべてが変わる。かつて人口減少になやんだ時代はなかったか。その時代はどうだったのか。彼らも滅びを肌に感じたのだろうか。

  縄文の人口減少期の空にかかるエフェクトすさまじからむ

そして、自分たちが減ってゆく時に、増えてゆくものを、じっとりと眺める心境は、いかなるものだろうか。

  とんぼ少年絶滅ののち人界をうかがうようにとんぼあらわる

というか、なんやこの歌物語。雑感としてありなのか、こういうの。

自選。
  固き言葉にまだ成りきらぬ内面のとろりとしたるものだから吐露

  だいたいは三万日に収まれる喜怒哀楽に君といるなり

  橋の下に豪雨を凌ぎ寄り来れば先客の目が集まって散る

2013年07月の32首

友人の記事を読みつつわれもまた何かの花を買わんとするか

百年目の自転車競技を思いつつ慣れにし道を落車するなり

ねずみ色の粘土の背びれするどきをかたまりに戻し遊びに行けり

現生のホモ・クリクタス(クリックするヒト)も減る未来クリック出来る場所に集まる

固き言葉にまだ成りきらぬ内面のとろりとしたるものだから吐露

駅前の工事終わればたちまちに上書き前の景失えり

今日までがセールといって渡されるカタログの夏タイヤ一覧

目が冴えて真夜に思えりこの国語の邪な智の逃げ込める闇を

煙草の輪のきれいに宙に浮くように「わっかりました」の「わっか」清しき

理屈では救えぬところにいるを知り火を受けとらぬ茴香ゆれる

きずなとは悲しき言葉海からの綱離さねど細きゆくよう

酒飲めば寂寥の水位上昇し電話したきがせぬ夜である

だいたいは三万日に収まれる喜怒哀楽に君といるなり

君が貼った取れない言葉の付箋紙が今朝もシャワーにぴろぴろ跳ねる

要求が独裁的に響きたる夕べ、多寡なら多に身を隠す

橋の下に豪雨を凌ぎ寄り来れば先客の目が集まって散る

起きててもしょうがないかと寝るように生き死ぬことの罪を探れり

かき氷の青い光を噛みながら同じ話をする側になる

縄文の人口減少期の空にかかるエフェクトすさまじからむ

とんぼ少年絶滅ののち人界をうかがうようにとんぼあらわる

選ぶようで選ばれている心地してフォトショ加工の顔を瞶(み)るなり

朝もやの農道で野菜もつ我がカラスと対峙せしはうつつか

キミのコト知りたいと書きベタなのかメタなのか分からないまま送る

教条の冷たき言葉を最後まで伝えずなりき、慈なきにも似て

振替輸送に地下の通路を並びいて人生の比喩にしたき誘惑

表現はひたすらさびし、血反吐など一度も吐かず吐ける言葉の

夏休みだったと思う畳間にチャッとくっつく脛(はぎ)を見ていた

さびしいと書けば紛れるさびしさもあるか、静かなタイムラインに

振り向けばすべて決まっていたような未来を前にしばし酔いおり

感傷はかくのものかはひとり海に近づけばつまり生臭かりき

何というカニか知らねど海沿いのアスファルトの上で思案している

公園の明かりがぽっと灯るまで本を読みいし姉妹が去りぬ

2015年12月6日日曜日

2013年06月作品雑感。

6月の短歌だ。こう現在の季節とちがうと、感想を書きにくい感じがありますね。

  かたつむりを知らねば恋えぬ紫陽花の発色のピーク過ぎし一角

かたつむりは、本当にみなくなったもので、かつては、アジサイのイラストには、必ずといってよいほど、葉の上にかたつむりが描かれていましたが(いやイラストではなく現実にも葉にいたものです)、現在は、アジサイは見るものの、かたつむりは見てないですね。

動物は、植物よりも種族として弱いのかもしれません。

  あと何度ぽっかりと胸に穴を開け前後左右にさみしさに圧(お)さる

慣用句とか、ベタな組合せとか(あじさいにかたつむりとか)に対するメタな視点は、日本では、ある時期からもうずっと飽和していて、それがけっこう知的レベルの高い行為である、という意識すらない状態になっているので、現代において表現行為は、どこか二次創作的な雰囲気をともなうことがある。

そして、やっかいなことだが、こういうメタ視点というのは、反転したり、一周することで、同じ言い方に戻ってくることがある。すなわち、ベタを避ける→あえてベタに行く、の反復作用が起こるので、評価が分かれてしまうのだ。

または、ベタな慣用表現が、ある心情を実にうまく言い表していたことを発見するプロセスというのもあって、上の「ぽっかりと胸に穴」なんて、ベタなんだけれども、ここはベタで、いやベタがいい、みたいなことになったりする。

恋すると、浜省がグッと沁みるみたいなね。なんの話やねん。

自選。
  メルカトル図法の北は限りなく引き伸ばされてそれゆえに冷ゆ

  ようやくに夜を惜しまずなる生となるか、車を聴きつつ眠る

  腐りたる叢(むら)より光る虫ひとつ天にのぼると見れどただよう

  夭逝するほど才をもたねば人生は長くて楽しくてわからない

  町よりも土ふたつ書く街に住み記憶の土はいつのぬかるみ

2013年06月の30首

桜の実の歩道の黒き染みとなりふつふつと歩く六月たのし

かたつむりを知らねば恋えぬ紫陽花の発色のピーク過ぎし一角

えのころのいっせいに風に撫でられて自業自得の男沈めり

あと何度ぽっかりと胸に穴を開け前後左右にさみしさに圧(お)さる

製氷器に水を注ぎつ、満ち足りてあとは時間が崩していきぬ

メルカトル図法の北は限りなく引き伸ばされてそれゆえに冷ゆ

見た目にも心地良きこころざしもなく生きいる人と水平におり

君の目の太陽と月は今は少し月光が強く包んで白し

人類史に我とう偽史を挿し入れて撹拌されたホイップましろ

ようやくに夜を惜しまずなる生となるか、車を聴きつつ眠る

淡々と続きを生きていく日々のなお眈々とする時もあり

カロリーにて生くるにあらず、昼を抜いてケーキセットに至る心の

雨に濡れて吾を見よとぞ紫陽花のあざやかに濃きひとむらの黙

腐りたる叢(むら)より光る虫ひとつ天にのぼると見れどただよう

眷属は鏡のごとし、後輩の浅ましく上手い行為に沈む

複雑性悲嘆にも似て絶望は時に快楽(けらく)となることもある

懐かしい一角に来て木造のアパートと過去が無いことを知る

路地裏に夕餉の香りたなびいて、見えておらぬがたなびくでいい

燃焼の同義にて生、汗にじませ夏至近き日の全部肯定

夭逝するほど才をもたねば人生は長くて楽しくてわからない

雲なくばオレンジ色の月を背に帰るにあらん夏至の家路を

生活に"馴れて"思いしにわが声が李徴か虎か不意に迷えり

肯定のらり否定くらりと終わらない電話、予定を潰して聞けり

雨上がりの恐竜児童遊園に使用禁止の遊具くぐもる

何もせぬ男が抱く絶望も希望も幻肢の痛みと似たる

町よりも土ふたつ書く街に住み記憶の土はいつのぬかるみ

天道も是々非々にして現実を丸呑みにするクジラ泳がす

白樺の皮を削りて「奮迅」と手書きしただけのスーベニアあり

仏典に慈悲魔、魔仏のあらわれて魔とは反転、いな、鏡映か

六月の終わりの朝のあたたまる前の空気とコーンフレーク

2015年12月5日土曜日

2015年11月うたの日作品雑感。

題詠の、むずかしいというか、気をつけなきゃなーと思うことは、その題がなかったとしても短歌としてちゃんと面白いか、というところで、そうでないなら、それはやはり題に負けてしまっているのかな、とふと考えた。

じっさいその視点で作ってないので、まあ自分を棚にあげた話です。

「百」
百台のサーバにひとつ生まれたる自我、瞬殺し安定稼動

百という言葉は、思考停止の数だ、という指摘がある。つまり、たくさん、程度の意味で使われることが多く、99とか101とかでない100であることを指すことはあまりない。
その意味で、百とは、たとえば自我を殺す数字ではないか、また、コンピュータは人類に反逆する恐怖で描かれるけれど、実はコンピュータこそみずからの自我をもっとも抑制するシステムなのではないか、みたいな内容を込めてみた。

(作品の解説をおもむろに始めるのは初めてだ)

「国」
現在も196に分かれいて200になりたがらぬ世界か

ネットジャーゴン、というかスラングに「出羽守でわのかみ」というのがあって、これは「世界では〜、それに対して日本では〜」のような論調を張る人のことを指すが、この場合の世界の観測範囲はいつも気になるところである。一般に世界は196ヶ国・地域くらいあるらしく、世界を語る時にはそこから何ヶ国を、どのような基準で選択して観測したかを明示するだけで、ネットの議論はもっと明るくなるのではないだろうか、と思うのである。


「一緒」
大事故に慮(おも)っては消す、命日の一緒となるはいかなる絆

ここの「絆」については以前の別の雑感で書いたが、やはりその「きづな」の言葉には、犬が杭につながれているような、馬が人間に引かれるような、自由を奪い逃げられないイメージがあるので、縁という言葉には換えられなかった、と思うのです。


「レンガ」
レンガ模様のシートを壁に貼るだけで洋風である、パリジャンである

この頃、フランスで同時多発テロが発生した。日本は今年のはじめごろ、ISという国に宣戦布告され、邦人が殺害されているので、もうすでに日本は戦時中だという認識でいるのだが、まだ日本は戦争状態でないと思っている人も多く、SNSのアイコンをフランス国旗にすることについて、いろんな意見があった。善意の文脈であれば、テロに屈しない、連帯の意味を示すことになるが、同時にそれは、戦闘状態にある一方の旗を支持する、つまりかの戦争への加担の意味も持つ。でも、そんな強い意味を、アイコンに込めてない、と多くの人は思っているわけで、その都合のよさ、でもその当然な気持ちを、この短歌には込めた。

やっぱり自注は量が多くなる。
自選。

「大学」
大学に来るたび匂いが変わるのと言いて真顔の犬的のきみ


「たまご焼き」
あたたかい長方形のしあわせぞ、布団でいうと頭から食う


「イチョウ」
ゆっくりと燃えるイチョウの大木に鳥飛びこんで再生ごっこ


「計算」
ぼくもまた水と電気の計算機と思えば君に素直に会える

2015年11月うたの日作品の30首

「サッカー」
よちよちとサッカーボール突(つつ)きたるロボット、今は拙(つたな)さが花

「エレベーター」
エレベーターで二人は斜め上を見るポスターの若人(わこうど)ならざれど

「大学」
大学に来るたび匂いが変わるのと言いて真顔の犬的のきみ

「県」
県を分ける川を渡りて振り向けばああこのようにきみ来(こ)ぬ未来

「たまご焼き」
あたたかい長方形のしあわせぞ、布団でいうと頭から食う

「百」
百台のサーバにひとつ生まれたる自我、瞬殺し安定稼動

「並」
並ばない自転車の前を行くときも後ろのときも愛であるのだ

「雑」
どの道を選んでもきっと混雑をするが口笛ふいて行くべし

「国」
現在も196に分かれいて200になりたがらぬ世界か

「いい人」
いい人になってしまった帰り道ふたりでホッとしたのもたしか

「一緒」
大事故に慮(おも)っては消す、命日の一緒となるはいかなる絆

「マラソン」
ひとりだけコースをはずれ降りたのに右上あたりのタイムが消えず

「ナルシスト」
何億人の同じ星座の運勢を神妙に読む、このうぬぼれや

「本のタイトル」
亞書もまた史料となりし未来にて予言書として読む群れあらん

「雲」
にんげんの心から白が離れゆきもう届かねば雲とは呼べり

「ピンク」
ブルーフィルムをピンク映画と訳したる先人のリアリズム明るし

「放課後」
放課後の待ち伏せを逃げ遠くとおく君と歩いていたけもの道

「飛行機」
飛行機がいちまいの町を越えてゆく彼がジェイルと呼ぶ、爪ほどの

「虫」
人間がすぐに滅びてしまわぬよう虫のデザインせし世界かも

「レンガ」
レンガ模様のシートを壁に貼るだけで洋風である、パリジャンである

「全校生徒600名の前で一首」
いつか戻り君は言うのだ「変わったなー」「変わってねえなー」自分のことを

「ラブレター」
ハートマークを書かざるべきか書くべきか重くはいかん、軽くてもダメ

「イチョウ」
ゆっくりと燃えるイチョウの大木に鳥飛びこんで再生ごっこ

「貝」
そんなにも世界から身を守りつつ生きていくのだ、食べてもうまい

「病院」
黒光りする板廊下を大きめの茶色いスリッパでじゃあ、またね

「好きだった教科」
月曜の一限だから好きだったけれど落とした「イタリア事情」

「凛」
いままさに誰かやられているだろうその上空に凛々しくも夜

「消」
町の灯(ひ)がだんだん消えてほんとうに夜になれたら朝が選べる

「イケメン」
傘のない駅までの道はつめたくて水もしたたるイケメン、の横

「計算」
ぼくもまた水と電気の計算機と思えば君に素直に会える