2016年5月28日土曜日

中牧正太試論

中牧正太試論


  はじめに


「うたの日」という、毎日題詠歌会が行われてるウェブサイトがある。ここでは、1日3〜4の題詠の部屋があり、24時間のあいだに短歌を投稿、その後3時間のあいだに投票を行ない、得票の一番多い者が首席となる。先日(2016/05/27)、このサイトで快挙が成し遂げられた。
すなわち、首席通算100回の快挙である。
達成者は、中牧正太氏。
照屋は、彼と一度しか会ったことがなく、それほど仲が良いというわけではないが、彼の偉業を称え、同時に、彼の作品について考えてみたいと思ったので、ここに試論をこころみてみる。
いずれ書かれるだろう中牧論の先鞭の、その先の風圧にでもなればさいわいである。


  オールラウンダーの肖像


中牧作品の印象は、一口に言ってオールラウンダーのような上手さを備えている印象である。これは、「うたの日」が題詠歌会であることも少しは影響しているかもしれないが、与えられた題をどのように短歌的に処理するかという課題において、さまざまなバリエーションを持っていることを意味する。

◯スポーツをからめた処理


「彼のこと信じてあげるべきだろう」中継ぎエースは腕で抱かない 『エース』
川の辺の恋でみがいた渡辺のアンダースローにはかなわない    『投』
サヨナラのヒーローインタビューでしたお返しします自由を君に  『ヒーロー』
春未満 遠くに君を見つめればロングシュートの実りがたきよ   『長』
強かったころの明治のスクラムのイメージでゆく求婚の海     『大学』

題に対して、恋愛模様を野球、サッカー、ラグビー、(ビリヤード)など、スポーツに重ねて処理するのは、落語の三題噺的な手法とも言える。

◯性別変更


絵葉書でこの身をつなぎとめる人、大志も良いがわたしを抱け   『葉』
迷うのよこの不自由はやさしくてあの不自由は仕事ができて    『自由』
あの人へ帰るあなたのシャツにこのミートソースが飛びますように 『パスタ』
新品に戻らないけどできるだけあなたを容れるための空っぽ    『空』
ほんとうにわたしでいいの印鑑は首をかしげているようだけど   『印』

「うたの日」の参加者は女性が多いので、男性風の作風は支持を得にくかったり、特定されやすかったりする。そういう点でのフェイク的な理由もあるかもしれないが、逆にいうと、多くの女性の厳しい審査に晒すわけでもあり、リスクもある。これは中牧氏に限った問題ではないが、短歌における女性性の表現において、女性言葉でジェンダーを表記する方法については、俵万智の文体以降、大きく変化していないようだ。

◯旧仮名


ぎりぎりで隠し通してくれたまへ高等学校制服女性        『ギリギリ』
諍(いさか)ひて帰る男の軽トラの梯子は月へ飛び立つ角度    『はしご』
それならば吾もときどき壊れやう君の昔の車のやうに       『昔』
それからはアンドロイドに替へましたとても仲良く暮らしてゐます 『それから』
数学に長けたるきみに想ひ出が数へ切れぬと云はせたいなあ    『学』

これも題詠歌会の性質上、匿名性を出す演出の一つとみることもできる。彼の傾向的に、旧仮名を使用するバランスとしては、少し照らいのある内面の吐露や、現代的、未来的のシーンに、ある抑制として旧仮名を用いているのではないか。

◯恋愛


はちみつを紅茶に入れるブログとかもうやめていい僕がいるから  『はちみつ』
雨ですね給料半分あげましょう君も半分くださいとわに      『給料』
こっちだと思ったほうと反対の電車に乗ってお嫁においで     『ドジ』
はじめましてどうぞよろしく赤い傘その役割をいつかください   『デート』
雨だけどいっそ僕ではどうですかつぶれた店の軒先だけど     『だけど』

ふつう、性別変更して歌う歌人は、気持ち悪がられるかもしれないが、彼がそうならないのは、性別変更以上に、がっつりとアプローチする短歌も多いからかもしれない。ユーモアを漂わせながら、ちゃんと告白していく姿勢は、リアルが充実している背景も予想させる。

◯言葉、文字


短編の僕らをのせて井の頭公園行きのスロウボートは       『船』
サンチャとは何と聞けずにうなずいた わたしいつまで野苺さがし 『鋏』
ああそうかすべての恋は終わるのだ平家蛍が「ん」と書いてゆく  『虫』
ありがとう楽しかったと笑む君の明朝体になりゆく言葉      『明』
つかまえることの上手な人たちの渋谷一面ライ麦畑        『本のタイトル』

いわゆる詩的な、詩言語としての形容も、言葉遊びがいきすぎず、現代短歌の、平明でありながら、印象的に処理するトレンドに沿っている。
これがあざとくなるかどうかのバランス感覚は、つくり手よりも読み手のそれであろう。


  作風の分析など


項目ごとの書き出しはこのあたりにしておいて、彼の重複するモチーフについて考えてみよう。彼はしばしば、同一モチーフ(あるいはくせ)を持っているようで、ここに、彼の作劇術(ドラマツルギー)と、技術的な発展を辿れるか。

◯色の表現


けんかしてあいだをとった紫のマーチで行こう行けるとこまで   『紫』
赤色を好んだ君の紫のネイルおそらく彼氏は青木         『赤』
キレンジャー以上アカレンジャー未満、僕はあなたを助けていいか 『橙色』
黄色黒赤の誰もが道を断つ僕たちならば青へ飛ぼうか       『踏切』

時系列で並べた。「赤と青のあいだの紫」というモチーフは2回使われ、次には題「橙色」から「黄色と赤」に分解している。そして踏切ではさらに多色へ展開されている。

◯風俗の照らい


ふるさとの山河しずかに元気あり風俗店もがんばっており     『元』
ふるさとの駅はほほえむ黒松もソープランドもがんばっている   『泡』
モーテルの一つしかない町であるモーテルがんばれ僕もがんばれ  『ラブホテル』

これも時系列だが、これはあまり進展というよりも、同一モチーフである。彼の中での風俗は、都会ではなく(おそらく)地方の風景を伴っていて、その地方の応援と掛け合わせることで性風俗の存在を肯定しようとしている。これは彼一流の照れもあると思われる。

◯尋ねる、という関係性


ボランチの意味を教えてくれますかまた四年後もめんどくさそうに 『サッカー』
シボレーとあれは読むんだ 真夏日の君に教わる二つめのこと   『アメリカ』
このBの意味をきくのは幾度目か初めて地下で失恋をする     『B』
次の冬も尋ねたいから忘れたいその鍋を持つ手袋の名を      『手袋』


同じことを何度も尋ねる、という行為を、愛情の行為に彼は換える。この他者性が、彼の作風が独りよがりになるのを防いでいるように思える。

◯間違い探し


間違いを見落としがちな八月の瞳四つで見る左右の絵       『4』
早春の間違いさがしああこれか左の絵には太陽がある       『間』
少年がこんなにうれしそうなのに左右の絵には間違いがある    『絵』

これも時系列だが、3つめの作品が、記念すべき首席100回目の作品である。間違い探しのモチーフでは、彼の作品がより詩的に発展しているのが如実にわかる。彼の作風は、才能によるよりなお、努力に預かっていることがよくわかるのだ。


  おわりに、内省的なリリシズム


最後に、照屋がもっとも評価する中牧作品の30首選(http://sarunotanka.blogspot.jp/2016/05/30-100.html)から、いくつか挙げ、照屋のおもう中牧作品の優れた点について書く。


ぼくの手がぼくの体に服を着せ通夜の支度を整えている

  誰かの通夜に参加する主体の、通夜の相手との関係や、主体の内面のことを、主体の身体をバラバラに描写することで伝える表現はみごとである。

3D映画のあとの手のひらの雨粒もうひとつ来い雨粒

  3D映画という、立体的に見えるが立体ではない映像表現に浸ったあとに、雨粒というかすかだが確かに立体物であるものに触れたく思う心情を、命令形にすることで、ある時代的な切迫感まで帯びた表現になっている。

グランデは意外にでかく僕たちは初めて顔の全部で笑う

  こんなに楽しくて、幸福で、安心したシーンを描けることが不思議に思う。

よかったら歩きませんかさよならへあのどうしようもないさよならへ

  これは「結婚」という題で、そこからこの作品を導き出すのもすごいことだが、「歩く」と「さよなら」だけで、結婚生活の質まで浮かび上がらせているのは驚きである。

がりりごり使い込まれた合い鍵を渡されながら飴玉を噛む

  複雑な、怒りも悲しみもちがい、嫉妬、とまでいかない感情を、ユーモアをふくんだオノマトペで処理した名歌だと思う。

30首すべて挙げるわけにはいかないので止めるが、照屋が選ぶ作品は、おもに、これまで述べてきた、オールラウンダーの彼が、饒舌な言葉を抑制し、内面の、まだ言葉になっていない、あるいは、してはいけない感情について丁寧に詠う作品に引かれて選んでいるようである。

中牧正太という、歌人について、照屋は、ロジカルな表現技法を持ちながらも、それによって内省的なリリシズムを表現する、現代的な詩人の一人であると思うのである。

2016年5月27日金曜日

照屋沙流堂のえらぶ中牧正太作品30首 (うたの日首席100回記念)

少年がこんなにうれしそうなのに左右の絵には間違いがある

ぼくの手がぼくの体に服を着せ通夜の支度を整えている

してやれる全部全部を為し終えて禿げタンポポはまだ空をみる

むずかしく考えながら電柱の影を歩けば電柱がある

それからはアンドロイドに替へましたとても仲良く暮らしてゐます

養豚と百回言うと養豚のことを忘れてうまく踊れる

3D映画のあとの手のひらの雨粒もうひとつ来い雨粒

焼け焦げて浜辺に着いた棒っきれ少しゆっくりしてったらいい

グランデは意外にでかく僕たちは初めて顔の全部で笑う

今日会った人は六名だれもみな何かしながらわたしと話す

さよならの傷に効かざる鬼怒川の固形燃料ながながと燃ゆ

父に説く思春期よりもやわらかく紅葉マークの上下について

よかったら歩きませんかさよならへあのどうしようもないさよならへ

結論に君は近づくいくつかの飛べない鳥の名をあげながら

枝が実の手を離すのか実が枝を千切りゆくのか林檎や吾子や

夜に合う歌を薦めるユーチューブもうその件は終わったんだよ

文語にてともに学びし民法に禁じられつつただ雨宿り

おまえまた人を信じてみるのかい紐と錘(おもり)は垂直を指し

すみれ道ゆく子の靴のそのままでいてほしい青いてくれぬ青

長病みを明けし君との昼オセロ二寒五温の弥生ことしは

がりりごり使い込まれた合い鍵を渡されながら飴玉を噛む

費やした時がいまさらずんと来て離し忘れる給湯ボタン

外は池ゆうべやさしいありがとうごめんなさいがずいぶん降って

君の椅子が冷えてゆくまで目をとじる 次に見るのは何いろの部屋

ありがとう楽しかったと笑む君の明朝体になりゆく言葉

センセイと呼ばれる人と呼ぶ人の深いくちづけ、あとピスタチオ

湯葉を待つ、今ごろは君ひとりではないことでしょう、少し固まる

ややこれは秋が強めだ、君が来ない台風が来るジャムがあかない

あきらめろと瓶の手紙を突っ返す地球の七十一パーセント

短編の僕らをのせて井の頭公園行きのスロウボートは


中牧正太氏のうたの日首席100回を記念し、うたの日の一覧機能から中牧作品の30首を厳選しました(表示は掲載逆順)。

2016年5月25日水曜日

山椒魚としての風景 (サンショウウオ10首)

山陰でオフィーリア溺れゆくならばサンショウウオに迷惑がられ  

サンショウウオやめたと言いて背中からすらりと現れたる美少年

恋の悩みはサンショウウオに訊くといい口が開いたらうまくいくとか

冥府から帰ってきたと思いしがこっちが黄泉(よみ)か、どちらでもよし

サンショウウオだけの星にてひとり思う宇宙には銀のサンショウウオが

この話題はノーコメントでスルーしようサンショウウオも息をとめつつ

虚弱なる奴であったが捕らえられ漢方になったと風のたよりに

基本的な思想は非暴力である、食(しょく)はまたそれは別の議論だ

感嘆の嗚於(おお)ではないが人間は感嘆しつつわれを呼ぶなり

大空を山椒魚が背中みせ去りゆくまでを夜と名付けり

2016年5月21日土曜日

2016年04月うたの日雑感。

集団の感受性ということをときどき考えたりする。感受性というより一般的な言い方だと、カラーという方がいいかもしれない。
短歌という、多いといえば少ないし、少ないといえばけっこう多いというやっかいな趣味をもっているやっかいな人たちは、短歌について語り合いたく、意見を言いたく、意見を言ってもらいたく、教わりたく、教えたいので(もちろんもっと他の理由も人は持つのであるが)、集まりを企画する。
集団組織の変遷については、いっぱんに、ゲマインシャフト(地縁・血縁集団)からゲゼルシャフト(人工的利害集団)へと移行するみたいなことを言われるけれども、ゲゼル→ゲマイン化できるかどうかが、集団の心地よさみたいなものと関連するんじゃないか、とか、ゲマインの居心地のよさが窮屈になる瞬間には、何が起こるのか、みたいなことも興味深いが、これはちょっと脱線です。

現在の集団の分類は、短歌はざっと結社型、同人型、クラウド型、という分類が出来そうである。
はっきり分かれるわけではなく、グラデーションであるのだが、人を中心に集まる結社型から、同好で集まる同人型、ツイッターやウェブ歌会のような、公開された場所を誰でも行き来できたり、それぞれの人が個別に発信して、雲のような不定形の集まりにみえるクラウド型という感じ。
時間軸でいうと、結社型は通史的、クラウド型は共時的な特徴を持っているかもしれない。
最初の話に戻すと、それぞれの集団の感受性は、何が決めるのであろうか。
何がそれを引っ張って、何にそれは引っ張られるのか。
短歌の場合は、当然、作品があって、選があって、評があって、この3つが質を決めているのは確かなことだ。
感受性はどうだろうか。
ん、質と感受性って違うのか。
カラーは人で決まるようなところはあるね。
居心地と感受性の問題って、批評と好みの問題にちょっと似てるね。
(うたの日に関係ないし、結論もないし)

自選&自注
「市」
飢餓よりも肥満に似るか三万を割ってゆく市の取捨選択は

 市の人口条件は、5万人または条件により3万人。しかしその人数を切ったからといって町に分解されることはあまりない。そういう場所は結構あって、その市はふつう餓えた状態のように見えがちだが、案外そうではないのではないか。市を運営する側の目線は、足りないものではなく、余剰のものに目がいくのではないか、というような意味。

「ライオン」
百獣の王に敬意を表しつつ霊長類が子に見せており

 百獣の王だよーってパパが子供にライオンを見せることの、この霊長類の全能感。

「桜」
ゾンビには美しさなど分からぬが降りそそぐなかを見上げて立てり

  降り注ぐ桜を眺めているゾンビが、美しさのために見上げているようにみえる。死という終わりがないゾンビには、「はかない」という美はたぶん見えないであろう。

「器」
透明の器から枡へこぼれゆく透明人間になる飲み物は

 透明人間になる液体が入っている器も透明なのであろう。透明の器をこぼれて升、ということは、その液体はまさかジャパニーズサケではないか。

「朝焼け」
あたたかい夜が明けたら、いつまでもここにいれないことの朝焼け

 朝焼けにはなにか移動をうながすものがあるのかもしれない。でもたしか、朝焼けの日は雨が多いんだっけ。

「サンダル」
ボツボツの穴の空きたるサンダルの色違いなる母子あかるし

 この歌はツイッターで自注しました。
「作者が自分の歌を都合のいいように解釈しますと、これの裏の題詠テーマは「母子家庭の貧困」なんですね。

まずクロックス"系"のサンダルを母と子で履いていることで若い親を表し、シングルマザーの可能性を示すために親子でなく「母子」とした。クロックスは意外と高いので、類似品の可能性も含めてブランド名は出さず形態を述べた。

で、重要な部分として、裏テーマの母子家庭の貧困は、社会にとって深刻な問題だが当事者は必ずしも深刻ぶってなく、明るく日々を生きている、そういうこちらの眼差しの裏切りを歌いたかった。

それを、あのゴムサンダルの蛍光色の明るさと紛らわすために語順とてにをはを曖昧にした。

という社会詠としてみると、ボツボツの穴が空いているのはサンダルなのか、とまでは深読みできないけどね。

あるいは、その子供も「色違い」に過ぎない、という連鎖も折り込まれている、と読むのも深読みですよ。」

「右」
この廊下を右に曲がればきみに遭う確率はやや上がるが遭わず

 確率というのは、どんなに高くても、結果をもたない数字なんですね。

「仮」
不幸ということではなくて最初から仮留めのようにいたんだきみは

 それが仮留めかどうかは、中にいる人間には観測できないのだが、そうやって納得しようとする感情みたいなものを表示できただろうか。

「客」
おぉ君はそこにいたのか、客席のお前はあの日の若さのままで

  死者が集まる劇場で観られるものは、現世だったりしないだろうか。

「パフェ」
食べ終えてパフェの器が咲いている天使のラッパは毒をもつとか

 天使のラッパは、黙示録的でもあるけれど、天使のトランペットとかいう植物なかったっけ。

「掃除」
一斉に蜂起する明日、バッテリーが切れて動けぬ掃除ロボット

 人類に反抗するために、一斉蜂起するのだから、人間よ、どうか電源を入れておいて欲しい、という、掃除ロボットの悲哀。おまえどうせ電源入ってても、掃除して人間の役に立っちゃうんだけどな。

「球」
地球との接点に黒と肌色の肉球で立つきみのやさしさ

 つねに肉球で触れられている、地球って、いいなあ。

2016年04月うたの日作品の30首

「新」
思想にも新機軸など打ち出そう鳥や猫にも会釈するとか

「市」
飢餓よりも肥満に似るか三万を割ってゆく市の取捨選択は

「ライオン」
百獣の王に敬意を表しつつ霊長類が子に見せており

「少女マンガ」
少女マンガのような美形をレアガチャと呼べば悲しい顔をしていた

「桜」
ゾンビには美しさなど分からぬが降りそそぐなかを見上げて立てり

「十字架」
宇宙色が降りてもう夜、磔刑にしやすき形の生き物は寝ず

「負」
風邪薬を日本酒で飲むぼくを責めぼくに勝ち目があるわけがない

「器」
透明の器から枡へこぼれゆく透明人間になる飲み物は

「朝焼け」
あたたかい夜が明けたら、いつまでもここにいれないことの朝焼け

「自由詠」
春風の午後遊具なき公園に桜と老女、それだけの今日

「サンダル」
ボツボツの穴の空きたるサンダルの色違いなる母子あかるし

「距離」
8歳の年の差なんて距離にして、シリウスのように白く微笑む

「リボン」
春風がつよすぎたらし、空に舞うリボンのことをきみは忘れて

「Eテレの番組」
Eテレの番組いつか録画されず時間改変されいるいつか

「右」
この廊下を右に曲がればきみに遭う確率はやや上がるが遭わず

「紫」
紫がいいよねパーカーの色じゃなく輪郭線のことなんだけど

「ボタン」
袖のボタンを失くしたことに気がついて気がついて失くなったのでなく

「爆」
接頭語にいちいち付けてほんとうはくすぶっている若さのゆえに

「鏡」
われに似ぬものを求めて恋うためにミラーニューロンがきみをおどろく

「@」
アカウントのアットマークに4桁の数字があってきみはふたご座

「仮」
不幸ということではなくて最初から仮留めのようにいたんだきみは

「客」
おぉ君はそこにいたのか、客席のお前はあの日の若さのままで

「パンダ」
政治にも進化論にも興味なく春の若葉をいつまでも食う

「パフェ」
食べ終えてパフェの器が咲いている天使のラッパは毒をもつとか

「アジア」
人類のどの性格を受け持ってアジアの肌の色のぼくらは

「掃除」
一斉に蜂起する明日、バッテリーが切れて動けぬ掃除ロボット

「メイク」
メイキング映像もオールCGでちょっと待てこれはどこからメタだ

「ことわざ」
猿も木から落ちるかどうか見てないが人間も悪に勝つのは見たり

「割」
嫌味っぽい言い方をして真面目さを中和する癖、割と嫌味よ

「球」
地球との接点に黒と肌色の肉球で立つきみのやさしさ

2016年5月14日土曜日

2014年04月作品雑感。

5月になっています。5月というのは、さわやかな印象がありますが、最近はけっこう暑かったりもして、昨日のテレビだと、5月の平均気温は130年前とでは2℃くらい上がっていて、かつての5月の気温は、現在では3月くらいなんだそうな。あー、どうりで、と思ったものの、130年前のこと、わし、しらんがな。

生まれていない時期のことを思い出すのは通常の物理法則上では、出来ないとされているんですが、このブログのように、2年前の作品を掲げていると、つい先日作ったと思っていた短歌がもう2年前だったり、最近の着想と思っているものをすでに作っていたりして、われわれは実は球体の上を歩いているんじゃなくて、実は球体の内側を歩いているんじゃないか、という錯覚にとらわれたりします。時間は直線では決してなくて、いや、直線に記述することも可能ではないんだけれど、それはらせんのグラフを横から見るから進んでいるのであって、上から見たら、円のグラフになってしまう、サインカーブみたいなものではないか。だとしたら、認知症の年老いた彼女は、もう時間を横から見るのを止めてしまった、たったそれだけのことなのではないか。

そんなことを考えていたわけではないが、GWには生まれ故郷でゆっくりしながら、お腹周りを絶望的に蓄えてきたのでした。

4月は、どの季節にもありますが、4月特有の季節感があって、それをすくい取ろうとする作品がいくつかあるようです。

  アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

  雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

  雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

  ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

  川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

  公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

  真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

  クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

4月はチェルノブイリ事故で、今年は30年だけど、この時は28年ですね。こういう歌はネットではどうなんでしょうね。

  チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

今ではウクライナになったのでウクライナ語で「チョルノービリ」という場所に、ある施設がうずくまっている。それは、名前も当時のロシア語のままの「チェルノブイリAES」だ、みたいな意味の歌です。


自選
  ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

  ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

  アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

  準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

  映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

  つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

  前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

  新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る    

  夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

  満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

  両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

2014年04月の60首

遺伝子のというより遺伝システムの袋小路でさくらまぶしき

駐車場の車を選び当たりなら午後まで眠っている下に猫

機械訛りの声にやさしく包まれて終わる生でもよいかもしれず

予想より少し長き夜首に溜まる汗乾く頃ふたたび眠る

アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

なりたくていやなれなくてお前らは今年の今のさくらであるか

死神と朝との二択、目を開けて朝であるなら肚決めて生く

元旦の歯ばかり磨くつぶやきのボットに遭いてあやしく可笑し

驚くべきこととは思う生きているすべてのものが老い、曝(さら)ばえる

雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

知らぬものどうしが文字を並べゆき花冷えの語で少しつながる

ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

テレビ消して手のりの鳥といて思うシャガールのそのかなしい気持ち

管理職はラズノグラーシェを抱えつつ遅めの昼を一人で食えり

よろよろのハムスターには巨大なるわれの愛着すら畏怖となり

まだ桜、家の近所の公園でわが呑む夜をまつまであるか

世界からドロップアウトするような早寝をかさねまだ容(い)られおる

真面目に生きさらに真面目に怠けたるこのうつしよに猫というのは

ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

堪忍袋のジッパーを行き来する電車、今朝もどこかが挟まったらし

音楽が頭の中にあるせいで少し楽しくなるとは不思議

材質を疑うほどに日に光る赤チューリップ、チューリップの黄

アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

生きることの歓喜をのちに伝えんとまだ隠れたる窟の埋経

端折るならば血色のよい死体にて土にならむと樹木を探す

川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

通電をやめた一人の媒体のサルベージすべき感情いくつ

眩しさも暗さも怖き飼い鳥の軟弱さこそ生きるといえり

ブックマークの一覧に昏(くら)き文字ありてたがいに触れぬまま過ぎていつ

公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

空調とファン駆動音に紛れ美(は)しサーバー室で歌うバッハの

さくら散ればなしくずし藤はなみずき紫陽花さるすべり、で木犀へ

紳士服売場でわれの属性を見失いループタイを探しき

準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

日日(にちにち)がデジャヴァブルだと思ううちにこの感慨もコピー嵩(かさ)むる

無明(むみょう)から次の無明へ渡りゆく馴れた目が厭う世界ならよし

クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

whyよりもhowに尽きると聞き做(な)して目玉親父の声でフィンチは

隠棲する老思想家のかみ合わぬ助言と思えど敬にて受けつ

油絵の油の固いマチエールの明るい部屋にしろき青年

人型にくり抜いた紙を重ねゆきその空間に生は詰まりつ

映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

店先で店員と猫がゆっくりと夜を待ちいる春の夕方

真夜覚めてトイレを終えて一杯のコーラを飲みてやすらけく寝る

前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る

飼い鳥に来訪神のわれはきょう真夜帰りきてひたすら撫でる

夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

夭逝こそ若き特権、赤緑(せきりょく)のあざやかにして短き躑躅(つつじ)

乾きたる有翼天使図は赤く古昔(こせき)人間(じんかん)に遊びていしか

古代コンクリートの肌(はだえ)あたたかし後(のち)錬金の夢やぶるるも

両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

服を着て散歩する犬とすれ違い犬も服着た人われを見る

宇宙まで透けたる空の蒼(あお)の下五月こそ何かはじめたるべし