2021年3月27日土曜日

土曜牛の日第13回「まるでなし」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の14は、これはこんにちでも形を変えて残っている問題ですね。斎藤茂吉と西出朝風(にしでちょうふう)の口語歌論争。

西出朝風は明治30年代くらい(子規の短歌革新運動のころ)から口語歌運動をおこなってきた短歌史の最初期の口語歌人で、その頃の口語歌運動の問題意識は「私たちが古語古調を排斥するのは、古い言葉と古い格調によることで、我々の心境や発想も『歌らしい歌』になってしまうだけでなく、我々の肉体や生活までも歌人式タイプになってしまうのを怖れる」ので、口語駆使によって認識を新しくする、というものであった。そして、アララギの「偽万葉調と擬古文辞」の当時の歌壇の方法論を批判する、異端者意識をもったものだった。

斎藤茂吉は、大正3年くらいの口語短歌についての感想として、「けるかも」を「であった」にするような歌は否だとして、言語のひびきを無視して口語を混ぜるような歌は無理心中未遂の姿だとあしらった。

朝風はもちろん反論をするが、茂吉にとって口語がさしせまったテーマではなかったのだろう、口語短歌への批判というより、自分の信念を述べたものだとして、口語短歌の素晴らしい作品をみせて、教えてもらいたい」と返した。

その後茂吉は朝風の作品を一首ずつ批判するかたちで、口語短歌を批判してゆく。茂吉の批判は、①口語短歌といっても、完全に口語になりきれていない(慣用句が古語である場合など)、②口語で57577に揃える際の、無理した付け足しや入れ替えが見苦しい、③古語でもほとんど同じ内容になる歌を、文法だけ口語にすることに大して必然性はない、というものであった。応酬は、そこから進むことはなかった。

この議論は、口語と文語の問題の、現代性と音楽性の噛み合わない話になったようだ。短歌の論争は、最初の滅亡論から、口語と文語の問題を抱えているし、口語と文語といっても、現代語の話し言葉(口語)と現代語の書き言葉(文語)と、古語(文語)の、文語のカテゴリが重なっているのもあって、議論がすれ違いやすいところがある。ここでの朝風も、話し言葉口語で定型遵守であり、当時の、現代語で破調の北原白秋たちの路線とも違っていたし、茂吉は古語定型だった。

話し言葉と書き言葉もまた、厳密には分けにくいところがあって、現在でも、完全な話し言葉のみの口語短歌の人は、そう多くないし、古語の完全否定なんてできない(「急がば回れ」が古語だ、なんて言い分は今では重箱の話にしかならない)。

これ、現在ではどのような問題系になっているだろう? 現在では、古語自体がなじみが薄くなっているので、非日常言語(=詩)として、三十一文字、古語、旧仮名、というスタイルがセットになっているふうもあって、これはもう問題意識という感じではない。でも、この話題は、今でも面白い。たぶん最初の口語短歌の異端な感じが、いまでもあるからなんだろうね。


  七首連作「まるでなし」

自転車で行くのはよそう、歩いたら自分がちゃんと遅いしみじみ

この時期の花がリレーをなすはやさ 梅をゆっくり見なかったまま

春の風ひっきりなしなわけでなし私から熱でないものを奪う

青春は、過ぎ去りにけり——こういうとき釈迢空の文体はよい

そのうちに世界まるごと一枚の写真になるし、さびしくないし

長距離のレースは現地で観るよりもテレビがいいのはそうなんだけど

すきあらばスマホに指をすべらせて充電の心配まるでなし


2021年3月20日土曜日

土曜牛の日第12回「受け継がれたい」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の13は、島木赤彦と窪田空穂・松村英一の写生論議、と言われるものです。論争というか、写生にまつわる「すれ違い」が近いような、そう、論議であった。

雑誌『国民文学』を創刊した空穂は、そもそも他人の作品に注文をつけることは「作者を萎靡させ面白くなくさせるだけだ」という考えもあって、わけへだてなく評価し、批難することはなかったが、島木赤彦の第二歌集『切火』の、作者の写生の態度について、主観をおさえて、素材と描写だけになるなら、散文との境がなくなるようなもので、むしろ前の歌集の抒情的な作風のほうがよいのではないかと述べた。

それに対して島木が、またアララギ特有の偉そうな物言いで、「空穂氏には到底われわれの写生の奥底はうかがえない。主観と物とは別々のものと考えて、万象の中枢に深く澄み入る本願が理解できないのは、素人の見方である」などと反論した。

しかしその頃空穂は『作歌問答』という本を出していて、写生についてじゅうぶんな理解と分析をすでに行なっていて、歌とって写生は尊重すべきだが、歌の本来であるのは「心持ち」であって、写生は歌そのものではない、写生にとどまっただけのものではない、という、当時のアララギよりもリアリズムの基本的な方法として認識していたので、島木の反論に答えることはなかった。

すると、空穂の後輩の松村英一が、島木に対して、茂吉風の、島木の作品を各個撃破するやり方で論争に打って出た。松村の基本的な写生の考えは空穂と同じだが、島木の作品は①かたちが整いすぎている②説明的な言葉が目立つ③調子のながれるようなものが欠けている④作者独自の発見が乏しい⑤情景がはっきりしても、気分がない⑥理屈っぽい⑦発想が伝統主義的、と攻撃した。しかし島木は、これには反応しなかった。

写生はのちにアララギにとって専売特許になってゆくが、この段階では、島木の写生観は、「楽しい、悲しいという抽象化された輪郭言語の歌は、抽象描写で、比喩をもちいた感情表現は、間接描写、説明描写だ」から、これら抽象描写、間接描写を用いないのが写生である、という程度の写生論であった。

この論議がすれ違いになったのは、平行して、前回の土岐哀果と茂吉の論争が行なわれていた、というのもあるし、『国民文学』は、短歌だけでなく文芸一般に関心があったからでもあったろう。最初にもあったように、空穂自身は、アララギの、一音一句に注意をうながす緊張した歌風をほめていたのであるし、『切火』の批評も、前作と比較した程度の批評であった。


  七首連作「受け継がれたい」

生きることのオノマトペを朝決めている、ぞろぞろ、にょろにょろ、ざばざば、ケロケロ

ものが動くことはセクシーつまりつまりおはようセクシーおやすみセクシー

人間に人間のはだかはいやらしい隠せば隠したところはさらに

ラテン系の「イーヤッホー!」のアクセントは宇宙に行っても受け継がれたい

おじいちゃんの地球の昔話などみな聞き飽きておじいちゃんだまる

梅の木が気づけばぱっと赤みして可視光線界ほろほろうれし

ニッポンの話題はすぐにイッポンの束に収束する背負投げ


2021年3月13日土曜日

土曜牛の日第11回「いっこのまぶし」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日も1915年の短歌の議論をみていきましょう。近代短歌論争史明治大正編の⑫は(この機種依存の丸数字、何番まであるんじゃろ?)、土岐哀果と斎藤茂吉・島木赤彦の表現論争だ。

この頃の短歌の論争は、もう狂犬・斎藤茂吉が、あらゆる相手に噛み付いて短歌に関心がある人をドン引きさせてゆくようにしか見えないが、今回もそうです(笑)。

アララギという結社によって、短歌を独自の文芸として深めてゆくことと、広い表現の一つとして短歌を考える人達とのあいだに、目に見えない溝のようなものができつつあり、それでも短歌の側であった土岐にもまた、近代短歌を失望させる論争であった。

土岐哀果は言うまでもなくローマ字(横書き)短歌、破調、三行書き、句読点、口語、日常表現の短歌という、2021年の現在と同じか、ちょっと先も通用する作品を作っていた歌人であり、石川啄木や、前田夕暮、釈迢空という、当時の短歌の外周的な場所でも呼吸できるグループの一人だった。

論争は、哀果が、茂吉が自分の作品で古典から用語を借用したことをとくとくと語っていたことに対して「衒気(自分の学や才をひけらかす)をまつわらせるのは自分の論理の生々しさが枯れていきづまっているのではないか」と指摘したのがはじまりだった。ついでに、アララギの万葉礼賛も、行き過ぎていることを批難した。万葉のみずみずしい精神を継承すべきなのに、修辞や技巧を複雑にみなしたり、当時の言葉をそのまま使うのは、「万葉のミイラ」の礼賛にすぎない、とまで言った。

ガルルルル、茂吉が黙っているわけがないよね。自分が借用した言葉を表記するのは、用語の吟味行為そのもので、表現の基礎をなす用語が、いままでどのように使用され、それが十分な活用であったのか、徹底的に検証しなければならないのであって、日常語を思いついたように使う土岐君には想像もつかない境地なんだよね、理解できないと思うけど、と辛辣に回答する。

哀果は、いくら用語を吟味すると言っても、「父母の詞」ではなくて、「僕自身の詞」を発しようするするべきだし、狭い歌壇や結社の中で「けり」がどうとか「かも」がどうとか論じたって、くだらんだろう、と返答する。茂吉は当然相容れない。父母の詞をも愛着して僕の詞を発することが必要だし、一語をも馬鹿にしてはならないのだから、「けり」「かも」の吟味から実行しなければならない、といい、茂吉得意の、相手の作品をとりあげて、ねちねちと問い詰めてゆく。

哀果はそういう挑発には乗らず、全体としては茂吉有利のような論争になったようで、それも理由になったのだろうか、このあと、哀果は啄木の遺志をついだ雑誌「生活と藝術」を廃刊する。彼は廃刊の理由として「雑誌が短歌的になるのがいやだった」「ぼくが社会主義というものと行動的に結びつきえな」かった、と後に語っている。

また、茂吉の「用語の借用」は、茂吉が俊恵法師から採用したと言っていた「出で入る息」は、白秋が近年に使っていて、実はある人から「(斎藤は)北原氏を模倣しないといっていたのに、これは泥棒行為だ」と指摘されていた。そうなると、何が模倣で何が借用であるのか、その前年に古泉千樫を自分(茂吉)の模倣だと言っていた話はどうなるのか、結局、個人的な判断でしかなく、この持論が客観性がないことについて言明されることはなかった。

それでも、当時、アララギは、中心であり、いきおいがあったんだろうね。


  七首連作「いっこのまぶし」

もし〜ならば、仮定形とは過去形だ 未来こそたった一個の「眩(まぶ)し」

IF文とGOTO文で延々とスクールアドベンチャー書いた放課後

会いにゆくGOTOトラベル 旅行だとあなたに遭ってしまいそうだわ

「天国に行く」という慣用句ありて死ぬだけで行ける天国あるの?

描写ゆたかな地獄のようにジオン軍のモビルスーツはよりどりみどり

敷島の道も善意で舗装され地下活動としての三十一文字(みそひと)

かみなりを首をすくめて過ぎるのを待っているふたりの連帯「感」




2021年3月6日土曜日

土曜牛の日第10回「翌年の春」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の論争⑪は、沼波瓊音(ぬなみけいおん)と斎藤茂吉のフモール(ユーモア)論争だ。この論争も、短歌の現在に参考になって、おもしろい。

けいおん! じゃなくて沼波瓊音は俳人で、「俳味」を創刊するが、のちに宇宙の存在に疑問を持って信仰生活に入ったり右翼となっていったり、興味深い人物であるが、俳味というネーミングもなかなか鋭いと思う。

でこの瓊音が『心の花』に載った沢弌(さわいち?はじめ?)の作品を褒める。ほめるというか絶賛する。作品自体は、軽妙な思いつきで日常を描いたような作品だが、瓊音がその時求めていたものがそこにあったのだろう、図書館で沢の前作品を調べ、心の花に問い合わせて、沢の連絡先を得て、面会までした。

これに噛み付いたのが、斎藤茂吉だった。まず、「予は現世で短歌を鑑賞する人々の中に沼波氏の如き、予等と全く異る雰囲気の中に住む人のゐることを知って、いたく驚いた」と瓊音のまとはずれの評価を嘲笑する。そして「生活と歌と一髪の隔てなく、ピタリと一つになっている」と瓊音の言う歌を「家常茶飯の単なる輪郭の報告」にすぎず、ふざけて、気取って、得意で、安っぽい安心の歌であると批難した。瓊音は斎藤の真面目さと固さを反論するが、斎藤はますます執拗に、排他的に、短歌の論理性と精神主義を押し付けてゆく。

この茂吉の、局外者を馬鹿にする態度は、周囲からも反感があって、何人かは、茂吉のユーモアのなさ、攻撃の執拗さに対して批判もした。茂吉は、のちにやや反省めいた事も書いたが、基本的に訂正をすることはなかった。

この議論は本来、短歌におけるユーモアとそのあり方、へと至る論争のように見えたが、結局、結社で短歌論理を深めていった茂吉が、俳人が俳句の角度からの作品のリアリティを語るのを排他的に攻撃して、結社が孤立する流れをつくった論争のひとつとなった。

つまり「あんな歌のどこがよいのかわからない」という意見の発症、いや発祥は、結社での排他的な議論と無関係ではない、ということだよね。


  七首連作「翌年の春」

初心忘るべからずの初心はいつだっけどこだっけあと誰だったっけ

人生の三つの坂の三つ目のプラモデル三昧の石坂浩二

春夏は戦争なので秋冬は戦後処理ですねえお父さん

戦後処理のながい時間をソシュールのシュールな穴ぐらなるアナグラム

白秋を名乗る十六の少年のなかなか中二病の先達

戦争が終わった年の翌年の春をうたうか敗戦詩人

サンガリア 炭酸水は 風呂上がり テレビのなかで 民が圧されて