2021年11月27日土曜日

土曜の牛の日第48回「地球居残り」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編の第14章は、「二・二六事件歌の是非論議」です。昭和11年2月26日に起こった陸軍将校らによるクーデター未遂事件をうたった短歌は、どう評価されたか、という議論です。

そもそも当時の人たちは戒厳令下にあってラジオの検閲された情報とうわさによって歌をつくっていて、事件の大きさのわりに、数は多くなかったようだ。

新浪漫主義を唱えている岡野直七郎は、前々回にもあったが、社会詠を嫌悪した。「どれほど短歌雑誌の上に、今度の事件の表面描写があらはれるだらうか。情景描写よりも更に邪道は、これに対する社会的批判である。ことに女流作者の角ばつたさまと社会的批判ほど見ぐるしいものはない。」と、女性への偏見をもあらわにした。

岡山巌は、岡野の意見に不満をもち、事件歌の存在を認め、自らも発表した。

  何事か既になされたる帝都の空朝くらうして雪しきり降る

  兵☓はまさにまぢかに起りをれど伝へ来たらむ物音もなし

  号外はあかつきいでしが巷にぞ取り押へられ後(あと)ひそけしと

  寄り寄りにささやき合へどこの事件(こと)の批判はさらに拠拠(よりどころ)なし

  三つ四つの夕刊かひてむさぼれどしらじらし何事もなかりし如く

  脳天をうちたたかれし如くにも呆けてもの言へぬ我らにかあれ

尾山篤二郎も一連を発表している。

  何かの物音すらも砲声のとどろきたるやと耳かたぶけぬ

  事なくて終れるラヂオ然るべく然らしめたるごとく告げをり

  家焼かばこの雪消えむひろびろと焼野が原となるべかるらむ

  野津黒木大山乃木につぐ人は居らずなりしやをるもをらぬか

  安んじておのれを守りゆく人は今日の政治(まつり)に言寄せはせず

  高橋是清といふ老翁がよはひよりその末の子の年引き算ふ

半田良平は上の岡山、尾山を好意的にとりあげて、自らも発表している。

  ラヂオにてさきほど聴きしそのままの記事を号外の上に見直す

  七百とも九百とも伝ふる兵士らは今宵いづこに如何にしてゐむ

  誰彼と首相候補者をかぞへゆき一人の上に胸衝かれたり

  愈々(いよいよ)に事は決まりぬといふ噂は雷(いなづま)を見る思ひして聞きぬ

  兵に告ぐる声はラヂオに幾たびか繰返されぬ朝闌(た)くるまま

  馬上より兵を諭(さと)しゐる将校をラヂオに聴きて眼に描くなり

山下陸奥は、この他の事件歌も含め、批判的にみた。歌人の発想がトリビアルなものを歌うのに馴れてしまって、事件の核心にふれるような強烈なものが作れないのではないか、という、歌人の作歌態度と方法を問題にした。

他に峯村国一が事件歌についてある種の落胆を示したが、当時の出版法によると、時局を論じることが出来なかったので、率直な事件の論評に関わる作品は掲載できなかったという事情もあるので、土屋文明はアララギの後記で上の事情を説明して「作者は自信ある作品は銘々に大切に保存されたらばよいと思ふ」と書いたりしている。

半田は、岡野をはじめとして事件歌の批評の冷遇にたいして反論し、時事詠を「社会的事件を意識の底において、そこから昂揚する作者の感情乃至気分を詠み上げた歌」と定義し、概評でつまらないとしか言わず、ここの歌を適正にみていない批評サイドの評価基準の曖昧さを突いた。

ここでの、浪漫主義と現実主義に置き換わってゆく事件歌の対立は、やがて日中戦争の現地詠の評価をめぐる対立として持ち越されていく。

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たしかに、クーデター未遂事件が起こっても、時事詠の問題になってしまう時点で、歌人の問題意識は優雅だと言える。

しかしこの事件とて、耳の時代だった。今はテレビで観た事件を歌にする時代だ。短歌が虚構かどうかというよりも、短歌にすること自体が、ものごとを虚構にすることを意味しているような時代だ。この声がほんとうだと訴えているのは、作者だけの時代だ。

とはいえ、ややテンプレート化している、二・二六事件の、しずかに雪が降る心象風景も、短歌が作られたからでもあるし、上の歌も、やはり記録的な意味は大きい。芸術に記録性による評価を含みたくないという意見もあろうけれど、時間が立つと、私性なんかより記録性の方が大きくなったりする。絵画でも、印象派なんか流行っちゃったから、あいまいな図像になっているけど、あれ、精密に描いてたら、史料価値がもっと高いよなー、と思うことは時々ある。

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  七首連作「地球居残り」

スーパーデフォルメガンダムのような目で見てるSDGsの環境しぐさ

物欲も決められて黒い金曜日 買いたいものを見つけなければ

パルコにもサンドラッグや百均が入る三丁目の夕日が赤い

下駄箱に下駄がなくなり筆箱に筆がなくなり季語はまだある

機嫌良さゲームに強いきみが好き私を弟子にしてくださらんか

宇宙観、社会感、人生観、自分観。排泄観はな毛観おっと行き過ぎた

マルバツで答えを間違えた方はウラシマ効果の地球居残り


2021年11月20日土曜日

土曜の牛の日第47回「てふてふしない」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の昭和編は第13章「北原白秋をめぐる「多磨綱領」論議」です。当時すでに大御所であった北原白秋が、師の与謝野鉄幹の死を受けて、「多磨」を創刊する。土岐善麿は、白秋がいまさら雑誌作りの犠牲にならなくてもよいのにと心配し、事実2年後に白秋は視力や体力を衰弱させるが、白秋は与謝野鉄幹の「弔ひ合戦」のような決意ではじめるのである。

白秋は「多磨綱領」において、日本における第四期の象徴運動として「多磨」を規定した。

第一期は新古今。「新古今に至つて、此の三十一音型は芸術としての無比の鍛錬台となつた」と述べ、日本詩歌の本流は新古今からであるとした。

第二期は俳諧。「本来一貫したる東洋精神の清明、洒脱、閑寂の諸相はここに寧ろ当時の短歌に於てよりも、茶道、造園、俳諧に於て、その本質の開顕を見、流通無礙の心象を把握した」と評価する。

第三期に『明星』をあげる。「短歌に於てもまたあらゆる西詩派の香薫と機構とが加工され、粉黛さるるに至つて、昔時の和歌意識は全く相貌を変へた詩の新感情によつて揚棄された」として、『明星』が浪漫的精神の烽火となったと評価した。

そして第四期として「多磨」が、浪漫精神を復興し、近代の新幽玄体を樹立することを主張した。

ちなみに白秋は、これが単なる『明星』の継承ではないこと、また同時期に急に新浪漫主義を唱えた岡野直七郎の言うようなものではないことは述べた。

これらに対して、山下秀之助は、アララギリアリズムの対抗馬としてのロマンチシズムとして期待した。

逆に高田浪吉は、アララギ側から、「多磨」の陣容が白秋氏の趣味の域を出ないのではと述べた。

簇劉一郎は、白秋がすでに歌壇における特異な浪漫的潮流の一つを占めていることは明らかなので、これを結社化してむやみに対立するだけになることを怖れると述べた。

坪野哲久はプロレタリア短歌のサイドから、白秋の浪漫主義は人生逃避の芸術になっていると、懐疑的な態度をしめした。

木俣修は、白秋が「近代の新幽玄体の樹立」を提起するに至った文学精神を分析し、それが長期にわたる蓄積と練磨であることを明らかにした。

「多磨」による、アララギとの大論争というものは結局起こらず、「多磨」は理論より実作を重視し、結社性の濃いものとなってゆく。白秋の歌風、個性色はあるものの、白秋の理論もまた、白秋の実作に即した「それ以上に発展することの出来ない抽象理論」(岩間正男)となって若手には窮屈なところがあった。

「多磨」創刊号の白秋の「春昼牡丹園」は、以下のような作品である。

  牡丹花に車ひびかふ春まひる風塵のなかにわれも思はむ

  牡丹園人まれにゐて凪ふかし奥なる花の香ぞ立ちにける

  白牡丹くれなゐ蘊(つつ)みうやうやしこれの蕾に雨ぞ点(う)ちたる

  春日向牡丹香を吐き豊かなり土にはつづく行きあひの蟻

  その道の霞に行かす母のかげ遠き牡丹の花かかがやく

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白秋の近代短歌の歴史のスタートは、明治の新詩社(明星)であって、子規系のアララギの隆盛は、あくまで本流ではなかった、という意識がずっとあったんだろうな、と思うと、白秋もいいなあと思ってしまう。

子規は、自分の作品がいいなら鉄幹の作品をいいと思うわけがない、鉄幹の作品がいいなら、子規の作品がいいと思うわけがない、みたいなことを言ったけど、そのロジックって、この昭和10年の頃も、アララギ系は言うんだよね。新古今がいいなら、万葉が評価できるわけがない、万葉がいいなら、新古今が評価できるわけがない、みたいに。そして白秋を、どっちつかずの、あいまいな歌人とみなす。

まあ、アララギはたしかに歯切れが良かったのよね。そして一番歯切れがよかったプロレタリア短歌が、弾圧で見る影もなくなってしまったんだよね。

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  七首連作「てふてふしない」

君が時々つぶやいているひとりごとの短いポエム、タンカってやつ?

言葉とは生き物なのに定型の標本の蝶はてふてふしない

のどかだな芸能事務所が本名を禁じることが出来るみたいに

若いのとかわいいのとが紛らわし きみってかわいいのか若いのか

モラルハザードというゲームがあれば襲うのは真面目な方か不真面目な方か

寝る時は死の練習のように寝る、練習が仕事、本番は集金

エッチという発音がもうエッチなんて不思議だ、ふしぎというのもふしぎだ


2021年11月13日土曜日

土曜の牛の日第46回「雨夜のように」

 こんばんは。土曜の牛の文学です。

今日は出かけていたので書くのが遅くなるでありましょう。

近代短歌論争史昭和編は、第12章「岡野直七郎をめぐる新浪漫論議」です。

昭和10年は、日本は満州事変から日中戦争へと向かうさなかで、プロレタリア文学運動はすでに挫折して、アララギが低調な状態で、ここで起こったムーブメントは、新浪漫主義でした。近代批判から始まってやがて日本復古へと進む文芸雑誌『日本浪漫派』も昭和10年に創刊され、短歌のほうでも、2つの動きがありました。一つは北原白秋が浪漫精神の復興を目指して『多磨』を創刊、もうひとつは、岡野直七郎が新浪漫主義を提唱しました。

岡野は、「近年の現実主義は、短歌の散文化をもたらしたが、今年の歌壇は伝統形式尊重のきざしを示してゐる。形式尊重は、浪漫主義の取上げと関係なしに理解することは出来ない」として、現実主義の散文短歌から、浪漫主義の定型尊重へと移行することを予想して、自分自身も「財貨を根底とする世界の短歌」とか「自然の美を否定する短歌」から「情緒の歌」「歎美の歌」を作るようになってきたと述べた。

そして、ロマンチシズムと言っても、明星風のそれを繰り返すのではなく、生きている現実の人間の内部に持ち込まれたロマンチシズムであるべきだと主張した。

岡野はあいついで新浪漫主義についてエッセイを発表する。短歌は「芸術作品としての価値」が要求されているとし、「いま非常時の気分から」解放されるための「実から虚」の方向へ行かねばならないと力説する。さらに「歌の調べが第一に重要視されるやうになつた」として定型、調べを重視するような、日本的な感性への回帰をうながした。

岡野はさらに進み、浪漫精神の復興にとっては、五七五七七の定型を守ることは必須条件だとして、「太古から今まで保存されてゐた」器こそ日本精神を盛るにふさわしいとして、「万葉的なものから新古今的なものへ移りつつ」あるというようなことではなく「万葉集こそは最も浪漫的歌集である」と古代回帰を推し進めていった。

岡野に対する周囲の評価は、あまりいいものではなかった。あまりに時流に乗りすぎた性急な論理と、実作の展開のなさに、攻撃や皮肉が多かった。木俣修などは、北原白秋の『多磨』の浪漫精神を評価しつつ、後世の歴史家が、名前が同じ浪漫精神だから(岡野と北原の主張を)混同しないように念じているとまで述べた。

岡野はそれでもさらに過激にすすみ、ちょうど二・二六事件が起きた直後にも「社会批判の歌」など「定型愛の基準によつて自然に取捨選択が加へられる」のであって「何の深みもある筈がない」と拒否した。

一年前には「またたとへロマンチックな歌を作るとしても、生活に於ける現実の相はしつかりと踏まへてゐなければならぬ」と言っていたのが、ここでは「社会的批判ほど見ぐるしいものはない」というところまできてしまう。政治や社会のことなどはそれぞれの専門家にゆだねて、歌人は歌をつくっていさえすればいい、というところまで後退した。

岡野は、社会批判の否定からさらに進行し、「感傷は短歌のふるさとである」という論理に至り、「短歌の永遠性は、人間的な深い感傷の、何か無限なもの、絶対なもの、「神」と名付けてもいいようなものに服従する前後の声が、最も広く最も永遠にわれわれを打つのだ」という、定義にいたる。つまり日本の根源的なものならなんでもよい、という、論理というより信仰に通じる姿勢を示してゆく。

ここまでくると論理的な批判は成立しないので、議論にはならなかったが、二・二六事件の際の社会批判の歌の否定については徹底的な批判がされた。

岡野はその後、浪漫主義の問題については、後味の悪さをみせながら、浪漫主義と現実主義は、振り子のように動くものなのだ、というような趣旨を述べて、要するに時流の問題なのだ、と述べている。

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ロマン主義というのは、背景によって、言う内容が真逆になったりするので、厄介だ。ロマン主義というと、普通は形式を守らない、理性に対する感情と理解されがちだが、ここでは、定型の遵守がロマン主義になる。

この時代の岡野を批判するのはたやすい。しかしプロレタリア短歌が弾圧されて転向が起こったときに、彼は時流に乗ったというより、その一本道が見えたのだろうし、プロレタリア短歌の夢がさめた瞬間というのは、彼だけでなく、それなりにいたのだろうとは思う。

岡野の最後の弁明めいた言説は、あんがい、強い気もする。

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  七首連作「雨夜のように」

人生に偶然はない オートクチュールの言葉の中に「特注」がある

オリジナルな遺伝子だけど母も祖母も同じ寒さに同じ咳した

母と娘がすき焼きの肉をしなさだめ顔寄せあって雨夜のように

ニッポンがスライドしながら年を取る、おいしい肉もそんな食わない

ひとりずつ家から人は消えてゆく、最後の母が口開けて寝る

真夜中に家のどこかがバキッと鳴る不思議な音もなつかしいなど

この人のあるいは家のものがたりを物語られるなき雨の夜


2021年11月6日土曜日

土曜牛の日第45回「どっちが大事なの」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編は、第11章「『国民文学』と『アララギ』の類歌論争」です。昭和10年をまるまる使ってのこの論争は、実りが多くなかったと言われてますが、短歌における類歌、暗合、模倣、剽窃、という類似の問題、この先もあるだろう問題の過去事例ではあります。

まずはアララギの若手、渋谷嘉次と五味保義が、あのアララギ調の傲慢な言い口で『国民文学』の批判を始める。松村英一をはじめとして『国民文学』の作品はアララギを模倣した低劣な作品である等。

それに対して『国民文学』の若手、山本友一や小籏(おばた)源三が反論をする。アララギは他誌批判の真摯さが足りないこと、模倣の具体例がないこと、渋谷氏自身の作品も低調下品な散文と変わらないこと、彼らの言う常凡主義を国民文学は唱えていないこと、等。

これに対して、渋谷は松村がアララギを真似たとする例を出してきた。

1)岡山の友がくれたる青き葡萄アレキサンドリアといふを惜しみつつ食ふ(昭8.12 英一)

  信濃路は木曽の友より送り来る栃餅といふをまつは楽しき(昭4.1 文明)

2)城山をめぐりをへて出でし道に真向ふ海は柿崎弁財天か(昭8.6 英一)

  巌の上にとざせる家を一めぐり向ふは東浪見のとほき岬か(昭8.4 文明)

3)吹く風の寒きながらに汗いづるわれは遠くも歩みたるなり(昭9.8 英一)

  汗ばみて夜中の地震(なゐ)に覚(おどろ)きし吾は宿屋にとまり居しなり(昭5.12 文明)

4)高きよりなだれし岩にいくつかの村は埋めてありとこそ聞け(昭9.9 英一)

  石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け(昭6.1 茂吉)

5)檜苗背にうづたかく負ひのぼる人は顔より汗たらしたり(昭9.8 英一)

  二里奥へ往診をしてかへり来し兄の顔より汗ながれけり(昭8.3 茂吉)

  葱を負ひ山をのぼりてゆく人あり焼山谷に汗をながして(昭8.10 文明)

6)山川の鳴る瀬の音をききてよりまたくだるなり斑雪の上を(昭10.4 英一)

  山がはの鳴瀬に近くかすかなる胡頽子の花こそ咲きてこぼるれ(大14.9 茂吉)

  まざまざと影立つ山の峡を来て鳴る瀬の音ぞくれゆきにける(昭9.1 文明)

これらが模倣かどうかははっきりしないが、具体例を出してきたので、小籏も具体例で、上の数字のアララギ以前の類歌を『国民文学』から引っ張ってきた。

1)信濃なる有明山の石楠と心喜び手にかざし見ぬ(昭2 空穂)

  伊予の沖はなれ島にゐて友の詠む拙き歌を我は待ちかね(昭2.9 植松寿樹)

2)出雲路の西の涯に立ちけらし深くくもれる海にまむかふ(昭5.1 英一)

  霧はれて星影つよくきらめけりわが向く方は南の空か(昭和7.11 英一)

3)昨日の今頃は正に汗あへて徳本峠をのぼりゐしなり(昭2 寿樹)

  速吸の瀬戸をいねつつ西風吹きて船かしげるに覚めて驚く(大14 尾山篤二郎)

4)この一日雲にかくろふ妙高を青野が果にありとこそ思へ(昭2 英一)

5)昼日中店の間にしてねむりゐるをんなの額に汗流れたり(昭3.11 英一)

  いくばくの銭にかならむ汗かきて人が背負ひ来しこの袋の繭(昭3 半田良平)

この引用によって、アララギの、あたかもアララギのオリジナルを一方的に模倣したかのような言い草が間違いであることは、はっきりした。

しかし6)の「鳴る瀬」については、土屋文明自身が英一の模倣を非難したので、小籏はすかさず反論し、万葉集にも人麿の「山川の瀬の鳴るなべに」があるとして、特殊な語ではないと言い返した。しかし文明は、「瀬の鳴る」はあっても「山川の鳴る瀬」の句そのものの用例はないとして、ここの自分のオリジナリティがあると主張したのだった。

ここで、小籏のあとをうけて宇田千苳が

 山川の鳴る瀬に月のさす見ればおはれ死にたるひとの思ほゆ(大10 永田寿雄)

以下「鳴る瀬」の用例を短歌、俳句から10例近く挙げて、これは創意ではなく、単なる過去用例の倒置であるとして、土屋文明の論難が身勝手であることを示した。

これはアララギにとっては痛い反論となり、また歌壇からも『国民文学』のほうが印象がよかった。もともと、第三者から見ても、松村英一や土屋文明の作品は、それぞれ彼ら独自の作品となっており、模倣や剽窃を思わせるものはなかった。

しかし、この時代のやや低調な歌壇において、類似を思わせる歌が多かったのは、事実のようであった。

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短歌がネットコミュニティ空間で、ある種の流行が発生している現在、この類似歌の問題はこれからも定期的に発生することは想像に難くない。しかも短歌は本来的に、言葉や着想をミーム化するために韻律をととのえた詩なので、いいものは広がりやすい性質がそもそもあるのだから厄介だ。

個人的な経験として、びっくりするほど自分の短歌にそっくりな歌をつくられたこともあるし、自分がびっくりするほど、他の人と似た短歌をつくったこともあるのだが、自分がパクったと思われてもしかたがない短歌については、「こんなこともあるもんだなあ」と思いながら、自分がパクられたような短歌については「いやーここまで同じ着想や語彙はないだろう」と偶然を疑えなかったりするので、人間というのは厄介だ。それはもう、素直に第三者に判断してもらう他ないだろう。消したりするのはもうゲロったようなものなのでそれは問題にする必要もないだろう。

でも、創作って、オリジナリティを打ち出すものと、共同幻想の中に溶け込むものがあるものだから、簡単ではないよねえ。

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  七首連作「どっちが大事なの」

グーでなくパーでもさいきん「殴る」らし、そのうちチョキでも殴れるものか

新興国の肖像画みたいな色合いで新庄監督たしかに楽し

ほらあれが「賢くなって間違いが許せない人の言葉の剣」座よ

存在と時間とどっちが大事なの、飼われたるものはそんな目で訊く

人生の終局にクイズがあるとしてその時のためのような人生

地獄とは他人のことだ、他人とは自分のことだ、サル、トル、いぬ、い

うがいにも二種類あるしぶくぶくかがらがらかいつも確認したい