2021年5月29日土曜日

土曜牛の日第22回「雨の森」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の23は、「斎藤茂吉と田辺駿一・太田水穂の良寛論議」です。

明治以後、短歌は、さまざまな歌人を発見しようとして、人麿、定家、西行、実朝、景樹、曙覧を掘り起こしては、現代の短歌を考えようとした。その中に良寛もいて、斎藤茂吉などは、大正の良寛ブームの火付け役として再発見したと自負していた。

しかし、こういうのは、意外と同時期にいろんな人が同じ再発見をするもので、太田水穂も芭蕉の研究つながりから再発見、評価した。

この論争は、良寛をそれぞれが再発見するのだが、斎藤茂吉は、万葉調、写生の体現の一つとして良寛をほめ、田辺駿一は主観主義者の「自然心」(写生と対抗する精神)でもって良寛をほめ、太田水穂は自身の提唱する「愛の現はるる相」という創作概念において良寛をほめた、という、誰もがみたいものをみて他に対抗した、小さめの論争となった。

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自分たちが今どこにいるかを考えるために過去を探る、というのは、それ自体、面白いわけで、こうして100年前の短歌の論争を読むのも、そういう面白さのひとつである。このあたりで斎藤茂吉を再発見する人もいるのかもしれないけれど、現代と茂吉をどうピントを合わせるか、というのは、まだちょっと力技が要る気がする。ふと、この当時の茂吉たちにとって100年前がどのくらいの時代かと振り返ると、1820年代、異国船打払令を幕府が出したのが1825年だから、大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一の生まれる20年前、ということになる。というか、良寛の生きてた時代なんだよね。つまり、茂吉も、力技やりながらもがいていたんだよね。



  七首連作「雨の森」

ボルテールは格言などで知られつつなかなか近づけない雨の森

君の意見に反対だけど言う権利は守らないけんからねブロック

そんなものはヴォルテールに言わせると安心でも安全でも帝国でもないよ

恐竜の遊具は古く 危険テープが巻きつけられて恐竜らしさ

世界はすべて善いとするのかその逆か 忘れられたる鉢に一輪

界隈で人気のお天気お姉さん 界隈の処理のうまさが人気

詩をつくる詩人と 詩とみなす詩人、結果的にはよかれ黙食


2021年5月22日土曜日

土曜牛の日第21回「われにひとつの」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の22は、「斎藤茂吉と太田水穂の写生論争」。この当時の状況は、ざっくりいうとこんな感じだろう。アララギが一つの流れを作っていて、そこで島木赤彦と斎藤茂吉が写生を旗印に牽引している。しかし固有の思想にはまり込んでいく茂吉に対して、歌壇全体が反発してゆく。しかし論争によって茂吉は生き生きと、さらに独自の理屈を組み上げる。

大正8年頃、太田水穂は、主宰する『潮音』で、茂吉のいうような「主観の表現は写生によって形象化しうる」という考えを、無理筋だよねと否定する。

「主観の波瀾を最も剴切に表現しようとする心、写生を極めて丁寧にしようとする心との間は非常な距離がある。或いは全然方向を異にして居る問題であると思ふが如何。若し距離も無い、方向も異なつてゐないと言ふならば、写生と言ふことの意味が普通の意味で無いと解するより外無い。」

また、赤彦が万葉調を、心と形が合致した状態だと言うと、それに対して太田水穂は、万葉調は万葉人の主観が描かれているからよいのであって、現代の短歌も、現代人の主観があってこそすばらしいのだ、と、自らの「主観ー象徴主義」にひっぱりこんで、アララギの「客観ー写生主義」を取り崩しにかかる。

茂吉は、この後も更に写生とはいのちを写す、という「普通の意味で無い」写生論をすすめるが、太田水穂は、芭蕉研究に取り組み、短歌の文芸に芭蕉を持ち込み、連歌を流行らせたりする。

あと、太田水穂の写生論反駁で鋭いのが、茂吉らが写生論の根拠にした東洋画論、つまり江戸時代の南画家・中林竹洞が「余さず漏らさず描き取り(写生)たるは卑しく見ゆ。其の中に無くて協はぬ処ばかりを写してよけむ」と言ったのを、「無くて協(かな)はぬ処」が「神、たましい、いのち」として「いのちを写す」写生のことだと言うのは牽強付会で、これはむしろ南画の「略筆の要」、つまり写生でなく、単純化された主観の凝縮のことではないか、というものだ。

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結局、真実味、つまりリアリズムがあれば作品としてよいわけで、よい作品に写生がなされている、という理由をつけてゆくことから、写生論は拡大解釈されてゆき、写生の意味が混乱した。太田水穂が、ここで写生の、拡大解釈されない「普通の意味」を指摘したことは、彼の明晰さを物語るところだろう。

あらためてテルヤが文字表現における写生というのを整理すると、まずは①外界を説明する記述と、②内面を説明する記述があって、①が本来の写生だが、①を使って②を表現する、または①のような方法で②を試みる、というのも写生に含まれてきた。実相観入は、外界と内面を一つの実相として把握し、その境地を描く、というのものであるから、①のような方法で②を試みる、のバリエーションと言ってよいだろう。(①と②を一つにして、①をやればよい、という意味だろうから)

でもこれは結局、境地論であり、修行であり、道になりやすいんだよね。先生と弟子になりやすいし、同人でなく結社になりやすい。

ところで、もっとも新しい結社って、いつが最後なんだろうね。今は同人の時代だと思うし、また結社の時代になる可能性は、無ではないだろうけど。



  七首連作「われにひとつの」

騒音をかき消す機能つけたまま音楽のないイヤホンをする

モニタ越し文字越しまたは音声越し ガラス越しに走る傘のない人

朝、そとは鳥の鳴き声、それでもう幸せがプラス1する不思議

自画像がうるさいという、ゴッホって夜空もなんか音がするしね

観たことのある作品はすぐ観れる、ユーチューブってそういう感じ

自転車が倒れたような無防備なあなたを見てるだけでいいのか

わき役ということでなく、ラジオとはわれにひとつの受信ダイヤル


2021年5月15日土曜日

土曜牛の日第20回「思想の出どころ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史は21回、「斎藤茂吉と半田良平・中山雅吉の写生論議」です。写生が続きます。

大正8年頃のアララギについて、茂吉は、アララギ内部のディスカッションも充実して、若手も「邪(よこしま)ならざる歌」を多く作っていると言っている。「邪ならざる歌」とは、アララギの写生の精神にのっとった歌、という意味である。

これまでの写生についてのアララギの対外的な批判に対して、排他的に言い捨てる島木赤彦のような姿勢も、内部の若手には自信のあらわれのように見えただろう。

ぜんたい、写生そのものに反対している歌人がいるわけではなく、問題は写生の定義についてだった。アララギに反対する歌人のほとんどは、写生が、神秘主義的な「生」とか「いのち」までを含むことに不満であった。

茂吉は、赤彦の「信念としての写生論」を引き継ぎ、①東洋画論の用語例と②正岡子規の用語例を根拠として、良平、雅吉に対抗して、写生は主観・客観を含むものであることとした。その途中で、伊藤左千夫の「調子を得ようとすれば写生にならず、写生らしくすれば調子がなくなり、到底両立しない性質のものである」といった、写生を客観描写と考えている意見も「写生の語義をてんで知つてゐない」と否定した。左千夫没後七年、自分たちが子規の正当後継であることを、対外の議論のなかでさらっと行っている。

そして、写生が、「外界を」「客観的に」「静的に」「視覚的に」「記述する」ことではなく、「実相観入によって自然自己一元の生を写す」ものであることを、短歌における写生であると宣言した。

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近代短歌が、写生という方法にここまでこだわったのは、近代の文学、または文字芸術の歴史の必然だったのだろうとは思うが、やはり論理と感覚が、現代ほど明晰でなかったような印象がある(現代もまた、未来からみると、そんなに明晰ではないだろうが)。

文字芸術の歴史は、事実を「美辞麗句」で飾るところから始まっていて(叙事詩などそうだろう)、近代になって、「美辞麗句」を剥ぎ取る自然主義リアリズムというものが西洋で登場し、日本にも持ち込まれる。しかし日本の自然主義文学は、私生活を露悪するようなものと受け止められて、衰退する。正岡子規は、和歌の伝統の残る短歌を近代化するに際して、雅語や小境涯を取り除くために、西洋絵画におけるスケッチの方法を援用して、これを写生と呼んだ。ここにおいて、近代短歌は、浪漫主義、自然主義が自信を失ったあと、写生を掘り下げるほかなかったのかもしれない。

でも、正岡子規が「歌よみに与ふる書」でも書いているとおり、歌人はなぜか短歌しか読まない人を量産する傾向があるようで、この時代に写生論を掘り下げる人たちは、そういう人々であったのではないかという気がする。他ジャンルをまたいで表現する歌人は、そこまで短歌に「実相観入」するのはおかしい、と、何か感じるところがあったと思う。あらためて、「実相観入」、これもう仏教だよね。



  七首連作「思想の出どころ」

そらのことを「空(くう)」って当てたやつヤバい「空」って考えたやつ相当ヤバい

星の手前に人工衛星があるはずの、まつげも無理して見えるときある

他人事(ひとごと)はだいたい喜劇、失敗をわらってくれるきみのやさしさ

子どもには着けられぬようなとても固いチャッカマンがある 子のいない家

「身内への愛はあとまわし」の思想の出どころを探して、無い、ブックオフ

老いたればこれも開けられないようなペットボトルを二人分買う

雲から森、川から海の循環図、矢印がある水よ わたしも


2021年5月8日土曜日

土曜牛の日第19回「ひとりでちゃんと」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の20もまた写生について。「島木赤彦と中山雅吉・橋田東声の写生論議」。

赤彦、茂吉がアララギで写生論を固めてゆくのに対して、前回は「国民文学」の半田良平が攻撃をしたが、今回は、雑誌「珊瑚礁」の中山雅吉からの批評である。

雅吉はそもそも「写生」に固執することには反対で、写生によって外界に密着することで普遍性は得られるかもしれないが、その分作者のオリジナリティは削られるものであり、この頃の写生にこだわった短歌作品は、写生によって外界を表現しきったところの瞬間的な面白みしかなく、それで終結して余情や暗示を残さないものであるとした。

それに対して赤彦は、以前からの、写生が物を写すだけというのは、素人の考えである、という立場のままであった。

しかし雅吉は赤彦らの、写生に「いのち」とか「生」が包含される考えについて行こうとはせず、短歌においてディテールにこだわることは、心の動きが置き去りにされ、作品がただ客観化、静化されることを問題視した。

赤彦はアララギの写生についての批判を受けて、ついに、東洋の画論(唐の六法など)を取り上げて、東洋の絵画は象形からはじまって伝神に至る写生である、という神秘主義的なドグマを反論に使用するようになる。そして「『珊瑚礁』では写生をスケツチと殆ど同義に解して、性命を盛る芸術を写生主義の名で唱へるのは、我儘であると言うた。吾々が我儘ならば古来東洋の写生論は大抵我儘である。」と、名ばかりの反論をおこなった。

さらに「『アララギ』の万葉集を尊信することと、写生を念とすることは議論ではない。信念である。(中略)作歌道に於ける吾々の一動に徹し、一止に徹し居常行往、念に透徹せんことを冀う信念である」と、ディスカッションの余地のないものであることを表明したのである。

しかしこの「珊瑚礁」の主観主義からの批判もあって、アララギの写生主義は、内的論理をさらに深めてゆくこととなる。

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写生が、まずものを写すものであって、そこから、対象や言葉のチョイスや視点に個性があらわれるというのは、たしかにそうだが、それは推し進めると、すべてが写生になり、文は人なり、という境涯のチキンレースが発生するに至る。近代をどう描くかから始まった近代短歌が、東洋美術論を援用するのは近代詩であることのかなしい否定であるが、短歌は、油断するとここへ引き戻され、虚構設定は剥ぎとられてしまうものなのだろう。



  七首連作「ひとりでちゃんと」

「あなたも遺そう! 泣ける辞世の句」のページを開いてみるが目にかからない

字余りや字足らずはいい 定型にあらがってしかも勝ったのだから

仏壇に孤独な果実供えたり なぜ「孤独な」と付けたんだろう

おれはいまひとりでちゃんと悲しいからついてくるな月ついてくるなよ

生き物の明るい終わりをカンガルー そんなものってきっとありの実

本読みて彼奴(あいつ)のことを考へて涙を落とすその本の上(へ)に

あの友へしばしの祈り 生死さへ不明であるもかまはぬ祈り


2021年5月1日土曜日

土曜牛の日第18回「夏のころぶり」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の19は「土屋文明と半田良平をめぐる写生論議」。アララギリアリズムが論理的基盤を持つ少し前に、若手の土屋文明と、「国民文学」の半田良平が写生についてやりとりをしたことで、界隈が賑わった、という話だ。しかし、この論議は、整理が難しい。用語がもつ意味とニュアンスが拾いにくいからだ。

文明が大正5年に写生論を書いた念頭には、その前の、村上鬼城の「本情とか本性とかいふものを写すのが写生の目的であつて、我と対象と、ピタリと一枚になったところに、写生が終るのである」という観念論とか、島木赤彦の「我等は只事象より深く澄み入らん事を冀(こいねが)ふ」という精神論への反対があった。

文明の写生論は、まず「写生は外界(即客観)から受ける知覚表象に重きをおく」創作方針であるとして、①写生の方針で作った作品は、客観そのものではなく、主観的要素も加わる②写生による作品は、主観的な作品よりもむしろ個性的になる③写生は俳句だけの方法でなく、短歌でも通用する、と提唱した。そして、写生がただのスケッチになりやすい、という指摘には、それは写生の罪ではなくて、主観の、写生をなすための意志活動の不十分さであると考えた。

そのころ半田良平がアララギの写生運動を分析した文章を書いて、文明の写生論についてとくに対抗したわけではないが、写生という「子規の啓蒙運動」から離れた現在、自然描出の技術としての写生だけでなく、主観のうごきを自在にあらわす描写にまで一歩踏み出す必要があると述べた。この部分は、文明の内容とは対立するところとなった。

つまり、主観を表出するのに、写生という方法が優れているかどうか、というテーマとなり、さまざまなディスカッションがはじまる。このディスカッションで、アララギは、赤彦や茂吉のような、狭いリアリズムに入り込んでゆくのである。そこに文明の合理的な考えは、多く反映されなかったようだ。

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やはり整理がむずかしい。写生といっても子規の時代の写生と近代の写生、そして本来の絵画の意味での写生とがあり、しかも写実や、リアリズム、という、近接した用語がある。そしてこの時代の主要な短歌のテーマ、主観と客観、という話が立体的にからんでいる。

外界(客観) → 知覚(主観) → 外界’ 

写生論って、基本的にはこの図式で、後は(主観:客観)の、表出割合のような議論にも思える。客観よりか、主観よりかみたいな。

しかしそもそも子規の時代の写生というのは、和歌が花札のように類型(梅に鶯、みたいな)を持っていて、その模倣がすなわち和歌の上達であったので、類型から脳を自由にして、見たものを見たまま写す修練としてあったのが写生であったろう。なので、類型がない時代に、写生というのは、まああまり意味がないことであったので、のちに精神論にもなったのだろう。

もちろん、現在において、身の回りの短歌を見渡したとき、まだ知識化されていない「類型」はすでにいくつか存在する。それからのがれるために、写生の技法は、役に立つかもしれない。たとえば「エモい」というのは、すでに類型化した何かかもしれないのだ。だとしたら、写生主義の時代は、次にやってくる可能性は、未来の可能性として、あるだろう。



  七首連作「夏のころぶり」

大いなる解決として死があって、小さな問いとして五月われ

風船ガムふくらみすぎてつぶれたり 笑ったけれど雲のない青

チップスの中身これだけしかなくて覗く銀色の宇宙船内

食卓にワニ全員が集まって自分もワニだなんて思春期

2リットル毎日水をわたくしは「流れ」を飲んで「流れ」になりたい

こころって語が久しぶり、水鉄砲で好きな子をねらった夏のころぶり

影を踏むゲームが終わらないように夜という影に来る問いあなた