2021年6月26日土曜日

土曜牛の日第26回「食い込む時間」

 こんにちは。徳川家康です。(大河ドラマかよ)

土曜の牛の文学です。徳川家康にこんにちはって言わせるのも、なかなか憑依芸っぽくてすごいよね。しかも自分の幕府の終わりを語らせるし。

今日の近代短歌論争史は27「清水信をめぐる口語歌論議」。関東大震災をはさむ1923年、98年前にも、口語短歌論が息巻いていたのです。もっとも、この時期の口語に対する文語のなかには、「けるかも」などの万葉語の使用者も少なからずいたし、存在感があった時代ではあります。

前田夕暮がカムバックしてアララギに対して批判を含んだ宣言をすると(土曜牛の日第23回)、夕暮門の流れの、若い清水信(しみずしん)が、雑ではあるが同調して、古語文語の否定を表明した。「万葉や古今の重苦しい古着をさつぱりと脱ぎ捨てる時だ。新しい酒は新しい器に盛るべしーーとは太古の人でも言つてる言葉ではないか」「短歌だけが、今の時代に一千年前の言葉でうたはねばならない等といふとらはれを排したい」として、現在使っている言葉をわざわざ万葉の言葉に取り替えて調べを整えることを否定して、われわれの詠嘆は日用語で発せられるものだとした。

しかし夕暮の場合もそうであったが、清水にはたちまち反対意見が続出した。永瀬英一は「創造されるものに用語の如何を強ひてはいけない。吾々は感動が古語で直接に表現される場合を知つて居るのだ。君の偏見よ呪はれてあれ」といい、また、清水が文語歌も作っていることの矛盾は多くから指摘された。藤川紫水は、万葉調にも良いものがあるので、私が口語を嫌っていても排さないように、文語を排することは間違っていると言った。「私にとつて口語歌は極めて不自由で窮屈なのである。妙な言分だが全く口語を用ひて三十一文字の歌は詠はうとすると頗る破壊しなければならないといふ不利な結果に陥るのである」

清水信はさらに「口語には無駄が多い。古語は簡潔にして、よく歌調をととのへるに適する」というが、「それらの人々はあまりに口語を蔑視し過ぎはしないか。それほどわれわれの口語には無駄があり、歌の言葉として野卑であらうか。かりに数歩を譲つても、だからと言つて古語使用のいさぎよい理由とはならない」と問題提出をおこなう。

「短歌雑誌」の同じ号では田中愛花が「古語はいけない、口語に限るなどといふのは、理解のない取るに足らない表面上の言葉に過ぎないのだ。真に短歌といふものを理解すれば、古語といふものがどうしても短歌といふ芸術は捨てる事が出来ないといふ事がわかるのである」といい、「古語を口語にかへてもまだ短歌のつもりでゐるが、それは間違つてゐる。口語歌は最早短歌といふ芸術の本質を備へてゐないのだ」と激しい反論を展開していた。

このような議論が毎月のように行われているなかで、石原純は「短歌の新形式を論ず」を出す。「古典的国語に十分明るい人たちがそれを用ひて短歌をつくらうとすることは、たとへいつの時代になされようとも、決して批難される筈はな」いとして肯定しつつ、「併し古典語よりも口語により多く慣熟してゐる私たちは、そのおのづからな芸術的感興がまた口語で発せられると言ふ要求をもつてゐる筈であり、そしてその場合にはまたこの芸術的感興におのづから適応した律動形式がもとめられなければならない」として、新しい口語的発想を提唱した。

ここでは石原は「短唱」と名付けて、次のような作品を出す。

  見る限り、トタン屋根が雨に濡れて

  しろく寒さうに光つてゐる。ああ、災後の町よ。

  いま蘇るべき喘ぎに忙しい。     石原 純


口語歌論のなかであらわれたこの文は注目され、口語歌に否定的な者も、その具体的な実証に考えさせられるものがあった。何よりも、この提唱は、三十一文字にこだわっていた口語歌にはひじょうな暗示となり、のちの自由律への移行への呼び水となっていくのであった。

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口語歌と文語歌の話題の基本的な輪郭は、あまり変わっていないようである。これも短歌滅亡論の枝分かれの一つだからであろうか。文語は「文語こそが短歌らしい、口語は冗長だ、歴史的に正統だ」というのに対して、口語は「文語が自分の言葉でない、今の人に伝える表現ではない、現代語で表現するのが歴史の正統だ」という、短歌をやるものには、なぜか謎の選択肢があるのである(笑)。

でも、最初に清水が書いちゃってるよね。新しい酒は、新しい器に盛るべし、って(笑)。

あと、フラワーさん、あれ短唱の流れだったりするのかな。



  七首連作「食い込む時間」

ガードレールを痛いベンチにしてふたり、ふたりのおしりに食い込む時間

コンビニになんでもあるさお祭りのようなアメリカンドッグの甘さ

誰もいない音楽室のピアノの蓋がなぜかあいてる 弾けないわれに

準備室でキスをしたとき金管はわれらをにゅーと伸ばしただろう

その笑顔は明るいけれど陶器よね こっちが中身を見たいからかな

年取れば磨いたものが光るという 年取らないと見えないという

雨上がりの町のキラキラ長靴で帰る、若さが目立たんように


2021年6月19日土曜日

土曜牛の日第25回「最後の良書」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の26は、「三井甲之と花田比露思の冒涜論争」。花田比露思の長歌と反歌に三井甲之が冒涜だと言った論争だ。花田の作品は、

  詠小竹歌並反歌

 森戸辰男氏等筆禍に逢ひし頃     花田比露思

外つ国の無可有の郷に、こしぼそのすがる少女と、

白ひげの長きおきなと相隣り住まひしにけり、

少女は小竹(しぬ)をし欲れば、その庭に小竹をぞ植ゑき、

おきなは苔を愛づれば、その庭は苔むし古りき、

少女のや小竹の節根は、下延へに隠ろひ延びて、

いつしかに隣に入りて、白ひげのおきなの庭の、

苔庭の下に延ぶれば、あづさ弓春のある日に、

その苔を下ゆつらぬき、小竹の芽し鉾なし立ちき、

素破こそや小竹が生ひしと、この翁鋏をもちて、

小竹の芽を切りて棄てけれ、しかれどもその根ゆ小竹は 

又も延びんかも

 反歌

小竹の芽は断ちも捨つべしそれの根の強き力はすべなかるべし

小竹の芽は切りて捨つとも根にこもる力を強み又も延びんかも


三井甲之も花田比露思も、子規の直系を自負する人物で、三井はアララギと「なむ」論争で負けてしまったが、時事評論の近代主義への批判者として、歌壇へも評言を行っていた。三井は、この森戸事件(1920年に森戸辰男がクロポトキンの無政府主義を雑誌で紹介したことが、彼自身が無政府主義者として有罪になった事件)を取り上げた長歌を、歌に対する冒涜だとしたのである。これは、第一に思想の批判であり、第二に三井の歌の神聖視(作歌することによって救われるといった、旧来の歌道の理念の復活)からくるものだった。

それに対して、花田も、「森戸氏の論文そのものを小竹に比べたのではない。私は小竹に比べたのは新しき思想そのものである」と視点をぶらすような発言をしたので、ではこの詞書はなんだ、と、論争は泥沼化したのだった。結局、この論争は、子規の直系を名乗る者同士の意地と、近代主義へ両者の距離の論争でしかなく、歌壇からはうんざりして両者とも止めるよう提言されることとなった。

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この長歌は対比がしっかりしすぎていて、社会主義を是としない者からしたら、不愉快に映ったのはわかるところだ。この論争の問題自体は、解決したとはいいがたいところがあって、思想と短歌の問題は、今でも潜在化して、ある。歌は思想を直接うたうよりも、それに対する好悪を伝えるのが得意なのだ。空気になびく。歌は世につれ世は歌につれ。三井の批判はイチャモンにも見える。しかし、思想と表現はいつまで、どこまでパージできるものだろうか。



  七首連作「最後の良書」

本当はたましいなんて無いけれどそういう言葉がちゃんとある世だ

本ばかり読んで自分を読まぬまま 有情非情の最後の良書

何色で最初に塗った世界かな 転んで擦りむく、表面はげる

平らなる大地はだんだん丸くなる途中はなくていきなり丸し

ビルドゥングスロマンなつかしゲーテ以後生徒を自殺させる文学

バイスハイト(weisheit)! 智慧は知識と違うもの あなたがぼくを喜ばすもの

存在は許されるたび消えてゆくグラデーションは多様の夜明け


2021年6月12日土曜日

土曜牛の日第24回「涙川」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の25は、「杉浦翠子と西村陽吉をめぐる啄木論議」。

大正12年(1223年)は石川啄木の没後10年で、ちょっとした啄木ブーム、再評価があったようだ。その評価の方向に納得できなかった一人が、杉浦翠子(すいこ)であった。当時アララギにいた翠子は、啄木の作品について、新聞で激しく批難した。社会主義派として評価されている啄木の作品は、同情的で、冗長で、わざとらしい芝居がかったポーズで、浅薄な悲憤慷慨な歌だ、というのだ。

これについて、社会派の、啄木の歌集も出版した西村陽吉をはじめとして、彼女への圧倒的な反対意見が湧いたのだった。彼女の表現も激烈だったが、その反対意見も「血迷ひしか」「癒え難きヒステリー症」「杉浦翠子だまれ、プチ・ブルジョアの貴様なんかに何が解るか!」「アカデミックな言葉尻のあげつらひ」と、ひどいものだった。(篠弘は痛快と書いているが)

杉浦翠子はそのあとも数度啄木論を書くが、旗色はまったく悪かった。橋田東声がやや弁護し、また尾山篤二郎が、啄木は社会派とされているけれど社会主義思想の理論的な歌が実は少ないことを別の視点で書いたくらいで、さらに、かつて翠子が入門した北原白秋も、翠子をたしなめるくらいであった。

これはこの時代の、社会主義思想の流行や、アララギへの反感や、実際の貧富や、物言う女性への反感が、盛り上がったものだったと思われる。関東大震災の3ヶ月前の、歌壇の大きな話題であった。

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今回の章で一番おもしろいのは、啄木ではなく、杉浦翠子という歌人だ。白秋門から斎藤茂吉のアララギに入るが、島木赤彦門にうとまれて再び白秋系に移るが、「短歌至上主義」を創刊する。写生も批判し、独自の歌論をもち、散文と短歌を明確にわけるべきとし、卓上短歌を批判する。大戦後も生きて敗戦歌集も出す。

  男子(おのこ)らと詩魂を競う三十年みちの小石も我が歌に泣け(1956年)

現在、啄木がおもしろい、とするなら、何がおもしろいかというと、実は、まさしくこの杉浦翠子が指摘した点でおもしろいのだと思う。なので、皮肉なことに、翠子に反対して彼らが擁護した意味では、啄木はおもしろくない。しかし、白秋は、ただ啄木は技巧がすぐれていた、と言っていて、白秋もすごいな、と思う。

あと、白秋、翠子って、1885年生まれで、啄木は1886年生まれなんだよね。よくも悪くも同時代を生きてる人間の、わかりあった感じがあるのかもしれない。



  七首連作「涙川」

休日のすずしい朝のテーブルにたしかにしたたかに伸びる豆苗

向こうから来る柴犬がかわいくて国家改造案あとまわし

先のことはわからないのに愛欲というより好奇心でふたりは

SFは事実より奇なりと言ってみる そりゃそうだろうそりゃそうだろう

古今集のようにかなしい涙川 袖濡らしつつ過去で逢えない

ロボットが勤勉なのに人間が勤勉なんてなんと非人間的

寝そべって今宵の月をながめたいスマホ明かりにぼくら照らされ


2021年6月5日土曜日

土曜牛の日第23回「不死の都」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史は24。「前田夕暮と土田耕平・島木赤彦の万葉論争」。

のちに自由律、口語短歌を牽引する前田夕暮は、大正12年、歌壇にカムバックするにあたって、やはり反目する島木赤彦、アララギへの批判から始まった。しばらく離れた原因も、島木赤彦との対立は大きくあっただろう。

夕暮の意見は①万葉語を使用するのは、万葉の本質を受け継いでいるといえるのか②短歌の用語は口語でなければならないとは言わないが、もう「現代語彙」によって表現すべき時期が来ており、ほどよく古語も現代語化して使用したい、というものだった。

これに対して、島木赤彦の門下の土田耕平が、反論した。まず万葉依存の批判は、すでに多く受けていたので、万葉語も理解せず、万葉の本質が理解できるわけがないから、語と本質を分けるのはナンセンスだという、アララギの言い分で話をつぶした。口語については、「新しい用語には慎重の態度を取る」「口語と文語を比較して、そこに勿論一長一短はあるけれど、文語の方が遥かに韻文的要素を具へてゐることは明らかである」として、口語に反対であった。

さらに耕平は前田夕暮の作品の絵画性を幼稚だと批判したけれども、この絵画性はむしろ茂吉らが夕暮から学び取ったもので、これは知らなかったか無視したか、批判が先走ったようだ。

島木赤彦も論駁に加わったが、彼の万葉観は「深く人生の寂寥所に入り、幽遠所微細所に澄み入つてゐる。形は三十一字にしても内に深く籠るものがある。これが東洋芸術の特徴であつて、同時に生活形式を中枢的要求によつて簡素にする東洋的精神の現れである」という、それまで「鍛錬」で言いくるめてきた、東洋的な心境鍛錬主義から動くことはなかった。

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万葉論争といいながら、古語論争よね。

大正時代のこの頃は、学校教育でもこの論争の三年前に三省堂の中学国語が口語体になり、小学の国定教科書が四年後に文語体から口語体になる、文語と口語の変遷期にあたる。

この時期に、尾上柴舟(土曜牛の日第1回)門下の前田夕暮が、古い言葉の使用に疑問をもとうとしない歌壇の方向に何か言わないわけがないよね(笑)。

ただ、結局、近代に「和歌」が「短歌」となった時に、今の言葉でうたうか、古い言葉でうたうか、の問題は、横たわっている。どちらが正統、などという問いは、設定が根本的におかしいのだ。



  七首連作「不死の都」

傲慢なバベルの塔はつくりかけ不死の都の不死の人たち

ばらばらの言語野に咲く紫陽花の青と赤とのあいだの無限

呆け、痴呆、認知症へと名を変えていつか誰でもなれる社会だ

いつまでも歳を取らないわれわれはドラゴンクエストまたやり直す

人生はロンダルキアへの洞窟だ復活の呪文はもうちがいます

罰も救いも赦しもすべて先延ばしキューサイの青汁ももうまずくない

多摩川にオフィーリアならぬ評論家、さらさらに死のうつくしからず