2016年12月11日日曜日

2016年11月うたの日自作品と雑感。

「うたの日」のサイトが今月の25日で、1000日を迎えるということで、おめでとうございます。すごいことだし、運営の方の見えない苦労が偲ばれます。

テルヤは去年から参加させていただき、447日参加しているとのことなので、だいたい半分くらい、お目汚ししているわけです。追い出されないだけでも、ありがたいことなのです。

短歌投稿のウェブサイトは、他にも「うたよみん」や「うたのわ」というのもあり、それぞれ、特色があったりして、その違いがシステムによるのか、他の要因があるのかわからないけれど、結社と、同人、新聞・雑誌投稿とはまた違った地歩を固めつつあって、面白いことだと思う。

短歌のそれぞれを見るときに、無意識の位階序列があるのかもしれない。それは「短歌は文学だ」意識みたいなもので、その強度順に、システムが決定されてゆくようである。
いわく、
①選歌→②批評→③投票→④自由、の順に、文学性が高まっていく(と信じられている)。
「うたの日」は、ちょうど③の投票を軸に、②の批評、コメントに少し足をかけているシステムと言える。とはいえ、④の参加フリーの形態もあるので、ネガティブな批評を受け止める関係を、参加者が作れないところがある。

だいたい、しっかりした関係が築けていないのに、上からお説教したり、お節介な添削などはしてはいけないものなのである。(お前が言うな)

ただ、短歌のうまさ面白さは、文学であるかどうかが関係ないところもあって、まったくの娯楽のひまつぶしでめっぽう上手い人や面白い人も多い。そういう「歌壇」では見つけられないひとをウェブサイトが抱える、ということが可能なのは、もっと注目してもいいかもしれない。

自選など。

「速」
倍速で観るドキュメンタリーで泣くリプレイすればリプレイで泣く

 ※ドキュメンタリーは、そういう形式の編集されたものだし、それをしかも早回しで観ることで得た感動に、真実性がどのくらいあるだろうか。

「北」
東にはいきおいが西はやすらぎが南はたのしさが、北は寒い

 ※北の人ごめんなさい。

「包」
うすぎぬのそれよりうすき物理的にみえないものが包むのが愛

 ※「愛」にはいくつも動詞があてらるが、そのうちの平凡な一つかも。

「自由詠」
山賊焼きにかぶりつきつつ大国の七十歳の野心羨(とも)しき

 ※アメリカ大統領選挙ですね。アメリカの地図と山賊焼きの形を少しかぶらせつつ。

「悪」
腹が減っては悪事もできぬとキッチンで袋麺さがす、正しく作る

 ※まあ、悪人がすべてにおいて悪かというと、正しいところもあるわいな。

「象」
絶滅したらもう俺たちは捏造だこの長い鼻の骨なんてない

 ※骨からは象が復元できないという事実は、知というものの限界を考えさせてくれる。

「枯れる」
霧吹きでもうやめようよびしょびしょの枯れる兆しのパンダガジュマル

 ※枯れはじめたものをよみがえらせるのは、むずかしい。

「正義」
大募集:正義の味方,条件は悪を討つとき躊躇せぬこと

 ※この歌について太田宣子さんが「条件は悪を討つとき涙すること」と別案を示されて、こちらの方がすっきりして上手いと思いました(そうだお礼を書いてない)。しかしこの歌は、この募集のグロテスクさ、不気味さ、一見の正しさ、みたいなところをかもしたい歌だったので、たぶんそこらへんが下手さなのかもしれません。
(ただ、逆に読むと、太田さんの募集で入ろうと思う人の方が、グロいとは言えるかもしれません)

「癒」

ティーバッグをきみは三杯目も好きで白湯に近づくあたりが癒し

 ※じゃあ最初から白湯のめよ、とはならないんすよね。

「税」

大型のパロットだから分かるんだ税込価格がまた安くなる

 ※大型の鳥は、誰でも飼えるものじゃないですからね。

2016年12月10日土曜日

2016年11月うたの日自作品の30首

「速」
倍速で観るドキュメンタリーで泣くリプレイすればリプレイで泣く

「回」
憎しみがいつから首の綱になり回ってしまう離れきらずに

「北」
東にはいきおいが西はやすらぎが南はたのしさが、北は寒い

「集」
ゾウ好きな彼女が出来てゾウグッズを集めるお前、前はペンギン

「音」
山芋の千切りポン酢シャキシャキとモクシャキモクと、海苔は消音

「カード」
入館のカードのカバンを間違えて我もカバンも偽物である

「包」
うすぎぬのそれよりうすき物理的にみえないものが包むのが愛

「連絡」
まだたぶん地上にいると思うけど連絡電波を日に2度飛ばす

「棘」
出し入れの自由な棘を持っていてだいたいきみの距離まで伸ばす

「自由詠」
山賊焼きにかぶりつきつつ大国の七十歳の野心羨(とも)しき

「トランプ」
合宿の一日目だけトランプは盛り上がりたり残りはスマホ

「親」
親に向かって折りたたみ椅子を投げつけた痛みが親亡きあとに激痛

「?」
ジェンダーの話だろうか、なんとなく疑問で男、こたえはおんな

「私」
植物の枯れゆくようにどこからというでもなくて毀(こぼ)ちてわたし

「悪」
腹が減っては悪事もできぬとキッチンで袋麺さがす、正しく作る

「白菜」
情勢の意見にズレのある兄と浅漬けの白菜を突(つつ)きつ

「アスファルト」
ここからはアスファルト舗装されてないみみみちですすきだだききみがが

「象」
絶滅したらもう俺たちは捏造だこの長い鼻の骨なんてない

「枯れる」
霧吹きでもうやめようよびしょびしょの枯れる兆しのパンダガジュマル

「正義」
大募集:正義の味方,条件は悪を討つとき躊躇せぬこと

「飼」
三年で死んじゃったんだ、飼っていた想いはいつか弱りはじめて

「夫婦」
先進的過ぎない音を聴きながら夫婦の夜のゆるいドライブ

「ばね」
君の家けっこうでかいけっこうでかい二匹のばねのこれは歓迎?

「平仮名だけの歌」
もつもつともっともっとともつなべのいいたいことをいつまでもかむ

「じゃん」
サザン流れてかならず横浜民謡と言う店長の生まれ座間じゃん

「女子高生」
制服を着て女子高生になることの耐えられない日やすらかなる日

「魚偏」
生きることの双六でかなり間違えて魚偏まで戻されてゆく

「癒」
ティーバッグをきみは三杯目も好きで白湯に近づくあたりが癒し

「山手線」
吸って吐いて吸って吸って吐いて吸って山手線一時過ぎには全部吐ききる

「税」
大型のパロットだから分かるんだ税込価格がまた安くなる

2016年12月4日日曜日

2014年11月作品雑感。

小説とは、文字通り「小さな説」である、つまり、文学とか、たいそうな話なんかではなくて、ちょっとした言葉のつくりものなんだよ、みたいな言葉だったのが、明治時代に、西洋のnovelの訳にすることで、立派な文学になってしまったんだが、長編小説って、長いのか小さいのか、よく分からないよね。

短歌というのは、これまた、明治の文学運動の中で、和歌ではなく、短歌という文学になってしまった言葉で、「短い歌」なんだけど、長歌に対しての短歌というより、使用文字の「短い」という意味になっている。(長歌に対してはもともと反歌であるし)

和歌って言葉は、「この国の歌」という意味であり、あきらかに、「漢詩」を意識して生まれた言葉であるので、短歌にも、明治の、対外的な意識のなかで、「短さ」を逆手にとったプライドがある言葉なのかもしれない。

所詮短い歌だなあ、という気持ちこそが、短歌的なのかもしれない。

自選など。

口をぱくぱくさせては歩く老人の霊薄(うす)らえば機構あたらし

消えていい写真を撮ってライフログは究極のわがひつまぶし食う

オフィーリアも日本語ならばどんぶらこどんぶらことて流れ揺蕩(たゆた)う

やくたいもないこっちゃなどと言い捨てて店出るように秋をはや去る

足首の太き女を走らせてピカソが描く古代の偽造

連鎖する事物の不思議に子は酔いてしりとりはりんごゴリラはラッパ

民主主義は素人がそれを選ぶこと、紫陽花は雨に濡れて色増す

本人は知らずわざわざ言うこともないが若さは光るってこと

通勤のときどき見しが今は見ぬ薄倖そうな一重の美人

草莽(そうもう)のいや莽蒼(もうそう)の郊外のエノコロの生えた国道さびし

夕日差すテーブルに林檎褪(あ)せまるで塚本邦雄的ひややかさ

米塩(べいえん)のひとつぶもなき貧困はあらねどコンビニ明るく遠き

新しい長靴買って雨を待つ少女のごとし、ストーブポチり

 ※この「ポチる」(ネットで注文をする)は、あと何年使える動詞だろうか。

夢にても古書店でこの本を選(えら)み購(か)う直前に棚に戻せり

モンキチョウがしばらくわれに並走し異なる論理でそのまま去れり

露悪にも露善にも飽き、ネットにもサイト枯れゆく秋の来るなり

言い切っては美しい日本語でないかもとかもしれないといえるともせず

サザンでいうとアルバムの中に時々の桑田が歌ってない曲の感じ

2016年12月3日土曜日

2014年11月の60首

精神の痛みも痛み、耐えながら噛むくちびるは白き表示の

人工と自然のじつに猥褻で率直な景をみたき霜月

野良猫の小さい方は飛び跳ねて喜んでいるかゆい世界に

口をぱくぱくさせては歩く老人の霊薄(うす)らえば機構あたらし

球に住む生き物なので地揺るるを理解はするがもういやである

責任感を半分にして傾(かし)ぐほど世界はお前のせいじゃないから

消えていい写真を撮ってライフログは究極のわがひつまぶし食う

落ちているアイス棒にも蟻の来ぬ世界はさむし、あい嘗(な)めなくば

人間のさとりはたかが知れていて生を愛せよ死を愛すまで

オフィーリアも日本語ならばどんぶらこどんぶらことて流れ揺蕩(たゆた)う

食欲の否体重の危急なる秋(とき)ならぬ秋(あき)、空腹に耐う

真白なる心の皮で隠しいる、餃子の餡を包む感じで

人生に向きあうごとき丼のもう少しちゃんと噛まねばならぬ

世界にひとつだけかもしれぬ花枯れて緑も減ればセピヤへ至る

やくたいもないこっちゃなどと言い捨てて店出るように秋をはや去る

足首の太き女を走らせてピカソが描く古代の偽造

理屈ばかりが時を得顔の時代ゆえ感情薄きヒロインぞ美(は)し

進むのが壊すのに似てこれ以上行きたくないと口には出さず

先ほどの見過ごされたる赤色のゴリラばかりの毎日を生く

真実の言葉を君は待っていて、われの番かはふりみふらずみ

連鎖する事物の不思議に子は酔いてしりとりはりんごゴリラはラッパ

民主主義は素人がそれを選ぶこと、紫陽花は雨に濡れて色増す

ポエティックが耐えられないと言うに言えず詩人は文字を書いては消して

本人は知らずわざわざ言うこともないが若さは光るってこと

世界から取り残りゆくめじるしのトリコロールのマフラーぬくし

生きることの土性骨弱きわれわれの承認自殺の呼び名いろいろ

恥部のごときあかき葉落とし植物はわれわれにない秋の姿す

年波に、削られてゆく白砂の松並木歩くわれは肥えゆく

通勤のときどき見しが今は見ぬ薄倖そうな一重の美人

草莽(そうもう)のいや莽蒼(もうそう)の郊外のエノコロの生えた国道さびし

夕日差すテーブルに林檎褪(あ)せまるで塚本邦雄的ひややかさ

当然のように実際とうぜんに肩に載る鳥ちゅんという顔

米塩(べいえん)のひとつぶもなき貧困はあらねどコンビニ明るく遠き

舌の上で海苔を破(わ)りつつ萌(きざ)しくる思いを酒で泳がせてみる

新しい長靴買って雨を待つ少女のごとし、ストーブポチり

灘のごと押し寄せくれど飲み込まずかくして保(たも)ちいたるかたちは

CM上の演出ですと右下に書いてあるがに葉の降る秋ぞ

一ダースでも君を飲み干すと歌うのを彼女の細い声を朝聴く

渋滞がうれしいと歌うポップスがあった気がする、渋滞ながし

知はここで食材となり大食いのファイトのような議論を眺む

夢にても古書店でこの本を選(えら)み購(か)う直前に棚に戻せり

モンキチョウがしばらくわれに並走し異なる論理でそのまま去れり

われわれは時流なればか未来には原発増やせの声たかまらん

ブルースに合わぬ酒にも酔いなずむかなしみが青になるということ

ポリューリョンの意味ぼんやりのだらだらの半身浴は冷えつつ温(ぬく)し

こぎとえるごすむこともなく端末を指でなぞっている子の現世

ピリピリと電気に覆われたる星の表面に生(あ)れ表面に消ゆ

何年もさみしさに身を曝されてさみしがり屋はさみしく酔えり

世界でいうと濁(にご)りらへんにいるわれがまだ死なないと決意しちゃうか

髪洗う女の絵だが、悲しみに似た愛のことが伝わってくる

モノレールのまなざしは鳥、表情のちょうど見えない距離で見る人

夢でみた彼女は誰だ、恋までの会話を氷水飲みながら

雨の日のマックにしのぎたる人の疲れも少し湿れる時間

露悪にも露善にも飽き、ネットにもサイト枯れゆく秋の来るなり

郷に入れば郷に従う上海の姉ちゃんといてグローバルなのか

言い切っては美しい日本語でないかもとかもしれないといえるともせず

サザンでいうとアルバムの中に時々の桑田が歌ってない曲の感じ

新しい曲が賛美歌っぽくなり賛美したきものわがうちにありや

鳥よわが肩にて満員電車から職場までちょんと遊びにくるか

植物に光呼吸のあるを知り闇呼吸とか調べるお前

2016年11月13日日曜日

2016年10月うたの日自作品と雑感。

照屋沙流堂というアカウントは、ツイッターという、無料のミニブログサービスで短歌をつぶやくことでスタートした。そのうち、このブログで、つぶやいた短歌を月ごとに残すことをはじめた。
このアカウントで知り合った短歌クラスタの方から、「うたの日」という題詠歌会サイトを教わり、こちらも参加してみている。
短歌のことを勉強する必要を感じ、万葉集を読んで、ひとり読書会みたいなノリで、スパムみたいな長文を流したりしている。
それから、読めるかぎり、最近の歌集も読んで、感想を書いたりしている。
短歌の投稿サイトに「うたよみん」というのもあり、こちらも今月はじめてみた。
あ、あと、サブアカウントで、自選を流すボットを作ってみた。
なかの人の環境が変わりそうなので、いつまで続くかはわからない。
そういうサルです。ウキー。

自選など。

「あくび」
むずかしいことはぼくには眠たいよぼくねこきみの順にあくびは

「体」
始業前のラジオ体操、美しく変奏曲として聴く火曜

「蝶」
引き裂かれつむじとなってこれ以上風でいられぬところから蝶

「叫」
あの時はそう感じたが実際は唸って吼えていたようである

「自由詠」
未来における自由の量という比喩はどうだろう、浜辺に寄せる波

「裸」
服を脱ぐずっと前から普段からはだかだったと思うふたりは

「黒糖」
一族のすこし馴れ馴れしい問いに合う甘き香の黒糖焼酎

「足」
死にたいという語は試薬この語より離れる者が信頼に足る

「礼」
こぼれたるワイン一滴、身を切らぬ血に似て礼を欠きたるごとし

「埃」
きみと眠る夜よ、埃が降り積もり埃の上に文明は復(ま)た

「クッキー」
おばあちゃんちのクッキー缶に入ってたほとんどぼくが食う蕎麦ぼうろ

「探」
それぞれがばらばらの道を探すのが生き物なのさ、会えたらいいね

「あと」
なで肩の男は背負うのをやめてあとは素敵な夜にシャガール

「沈」
この先が沈むなら浮く逆は逆どうやらそういう約束らしい

2016年11月12日土曜日

2016年10月うたの日自作品の31首

「あくび」
むずかしいことはぼくには眠たいよぼくねこきみの順にあくびは

「おばちゃん」
幼き日に遊んでくれた「仮面ライダーのおばちゃん」のことを親も知らない

「減」
酔いたればわれも理不尽飲むほどに減りゆくボトルも生意気である

「体」
始業前のラジオ体操、美しく変奏曲として聴く火曜

「蝶」
引き裂かれつむじとなってこれ以上風でいられぬところから蝶

「叫」
あの時はそう感じたが実際は唸って吼えていたようである

「罠」
死後の世界がほんとはめっちゃ楽しくて死の悲しさはじつはドッキリ

「置」
こけし屋のシャッターおりて下の棚に置かれたのから落ち着きなくす

「振」
マナーモードの振動"音"の表記法で昨日はあんなに責めてごめんね

「自由詠」
未来における自由の量という比喩はどうだろう、浜辺に寄せる波

「裸」
服を脱ぐずっと前から普段からはだかだったと思うふたりは

「おでこ」
押しに弱いことを覚えて四つ足のおでこがぐいぐいぐいと甘える

「ぎりぎり」
ぎりぎりの俗っぽくなさ本堂の物置きの箱買いのフリスク

「太陽」
孤独とは孤独を思うからなのだ、もう恐れるな火を吐くほのお

「梨」
二百本の素振りを毎日欠かさない俺が三振なんて、有りの実

「黒糖」
一族のすこし馴れ馴れしい問いに合う甘き香の黒糖焼酎

「残」
きみとなら出来たかもしれない苦労、しなくて済んですこし残念

「足」
死にたいという語は試薬この語より離れる者が信頼に足る

「失」
きみの目をふたつの消失点として在るオレはいつか辿りつけない

「揉む」
供給と需要のグラフを描(えが)きみてもう揉めそうな曲線である

「鍵」
キッチンハイターを飲む時は鍵を開けとけよ、次は俺ではないかもだから

「前」
猫の次も猫な確率よ100万回の時代の算出はじめる前に

「礼」
こぼれたるワイン一滴、身を切らぬ血に似て礼を欠きたるごとし

「埃」
きみと眠る夜よ、埃が降り積もり埃の上に文明は復(ま)た

「クッキー」
おばあちゃんちのクッキー缶に入ってたほとんどぼくが食う蕎麦ぼうろ

「安」
安パイとみんな呼ぶけど女子部員に手を出すってよ安藤先輩

「探」
それぞれがばらばらの道を探すのが生き物なのさ、会えたらいいね

「あと」
なで肩の男は背負うのをやめてあとは素敵な夜にシャガール

「煙突」
煙突のない家なのに真っ黒なぼくはどこから落ちたのだろう

「沈」
この先が沈むなら浮く逆は逆どうやらそういう約束らしい

「わざわざ」
この駅は人が来るから不味いのをわざわざ直さない店の飯

2016年11月6日日曜日

2014年10月作品雑感。

たしか吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、言葉というものを、おおきく、おーきく、「自己表出」の言葉と「指示表出」の言葉に分けていたと記憶している。

たしか(たしかばっかりだ)、一樹の樹の図があって、枝葉の部分が「指示表出」幹の部分が「自己表出」とあったと思う。手元にないのでわからない。テルヤは手元に何ももっていない。

要は、人とコミュニケーションを取る時に使うツールとしての言葉が「指示表出」、外界とコミュニケーションを取るものではない、ツールではない言葉を「自己表出」と呼んでいたと思う。

詩というものが、あれはたしかポール・ヴァレリーだっけが言うように、歩行に対してのダンスであるようなものであるとき、短歌というのもまた、一読してすぐにわかる支持表出でなく、自己表出の言葉として、しかし届く人を探して立ち続けるものなのだ。

(過去の作品は、自分でもよくわからないものがある。でももっと過去になると、それはわかるようになるかもしれません)

自選など。

運命の出会いに飽きて犬猫はガラスケースに背を向けて寝る

子と母のやさしさにみちたなぞなぞを時間の終わりのように聞く午後

音程の少し違える鼻歌のCMソングを聞きつつ足れり

近くまで来ている河野通勢を観たいと思い観ぬかもしれぬ

日常のぎゅっと縛った粗縄の死はちぎれるかほどけるかなる

いにしえの人が見ていたゆっくりと月を呑み込み吐き出す虫を

毎朝をマックで過ごす老婦人ふくらはぎ長く揉んでいるなり

男の腹と女の胸に挟まれて電車で、来世紀は涼しかれ

合宿の夜の洗面所の合わせ鏡に無数のわれがみどりにかすむ

明滅するデジタル時計の真ん中のコロン、脈拍に似て親しき

見つけたる君のブログを読みすすみだんだん地震に近づいていく

レイヤーをひとつ落とせばいのちとはいまだ生き死にと飢えばかりなる

感性をたいらげてぼくは不安げに森さやぐ意味がもうわからない

生き残ってしまったかれのウェブログにきづなの文字は現れずなり

死が近くないこと怖し、薄目にて慈しむべき世界のときに

手招いて揺るるすすきが沿道にそうして秋は呼ばれて去りぬ

年降れば愛しい人のくびすじにいぼ凝(こ)りておりいとしくふるる

宇宙船が壊れてやがて来(きた)る死の夢から覚めて長い放屁す

バカとして生まれただからそのままでさわやかに死ぬる手などありの実

2016年11月5日土曜日

2014年10月の62首

目を上げて月と間違う電灯のこれでもいいかいずれ届かぬ

運命の出会いに飽きて犬猫はガラスケースに背を向けて寝る

右肩から左肩へとついてくる飼い鳥にわれは柔き樹ならん

嫌味あびて匂えるごとく辞してのち思わず鼻を二の腕に寄す

子と母のやさしさにみちたなぞなぞを時間の終わりのように聞く午後

戦略的自己犠牲をえらぶ顔としてよく出来ておりメガザルロック

音程の少し違える鼻歌のCMソングを聞きつつ足れり

鉢の水を捨て、替え歌にアカシアの「このまま枯れてしまいたい」なんて

メキシコの走りつづける民のいるドキュメンタリー観つづけている

happyの語源にhappen、みなもとを辿れば水はたしかに光る

近くまで来ている河野通勢を観たいと思い観ぬかもしれぬ

幸いと辛いを決める一本が横棒であることを思いき

日常のぎゅっと縛った粗縄の死はちぎれるかほどけるかなる

従容とどこへ赴くばらばらとまばらにけぶる雨音のなか

夕方の木犀の香に包まれてそのまま星を去りせばたのし

茄子の茎色を重ねて赤となり青となりして黒色(こくしょく)に見ゆ

いにしえの人が見ていたゆっくりと月を呑み込み吐き出す虫を

桑の葉が真白き繭となる不思議、一心につむぐことの因果の

連絡通路の展覧会のポスターにその感動のあらかたを終う

植物はだいたい口に入れられてうまからざれば薬とて呑む

寒くなりはじめての冬を前にして暖かい家を思うごきぶり

一方的に知りたる人に会釈して大正ころの短編を憶う

毎朝をマックで過ごす老婦人ふくらはぎ長く揉んでいるなり

先にいてわれの来るのを待っているお前は未来の顔したる、過去

男の腹と女の胸に挟まれて電車で、来世紀は涼しかれ

秋冬のスボンはゆるくやせたということでは決してないがうれしき

青春の書として論理哲学の断言を微笑ましく読めり

公園のブランコだけに日が当たり人間不在の一日(ひとひ)はじまる

じゃれあってうるわしうるさき学生も将来にくらき孤独を知るか

合宿の夜の洗面所の合わせ鏡に無数のわれがみどりにかすむ

明滅するデジタル時計の真ん中のコロン、脈拍に似て親しき

初夏の髪はもうながながと床屋談義の代わりのデモは秋風冷える

見つけたる君のブログを読みすすみだんだん地震に近づいていく

照らされて消えゆく露の聞くたびに薄らぐようでたとえばきづな

レイヤーをひとつ落とせばいのちとはいまだ生き死にと飢えばかりなる

少しずつ気持ちを殺し死にたればどの子じゃわからんはないちもんめ

ふかいかなしみをしづかにうたふスタイルは読者作者も心地よかりき

感性をたいらげてぼくは不安げに森さやぐ意味がもうわからない

生き残ってしまったかれのウェブログにきづなの文字は現れずなり

現在はまったく遠く信号の意味より先はない世界まで

死が近くないこと怖し、薄目にて慈しむべき世界のときに

煩悩がわれをめくりつめくりつつ空気入(い)るりて笑みゆがむなり

おっさんの見る怖い夢は幼少のそれに演出増すくらいにて

現代も予言が欲しい生き物が中心を離れ経回(へめぐ)っている

手招いて揺るるすすきが沿道にそうして秋は呼ばれて去りぬ

中断のまま終わる物語のようにケーキナイフで押しちぎるパン

年降れば愛しい人のくびすじにいぼ凝(こ)りておりいとしくふるる

永遠を凝視している眼差しで君は真白き川を見ている

昼顔が豪華に壁を這う家のアコーディオンの流れいる路地

今世紀みんなみごとに隠れおり詩心はもう枯れながら鳴る

平日を少し遅れてベタベタと母に纏わり通う子のあり

明るきが隠れれば夜、毎日をかく黙々と夜明けへ進む

宇宙船が壊れてやがて来(きた)る死の夢から覚めて長い放屁す

バカとして生まれただからそのままでさわやかに死ぬる手などありの実

荒野切り開いて男はたのしかり三日伸びたる髭剃るときも

音楽の方のスピッツ流れきてもう感傷が音の邪魔する

朽ち果てた茄子を除いてあたらしく土をほぐせり世界のごとく

縁のない女性(にょしょう)にあれば賽銭を放るがごときさきわいたまえ

鎌首をもたげているのはゆらゆらとそれが希望であることはなく

こんな時に役に立たないむらさきはボロカスミソカスクロッカスだよ

春菊天の酸い苦味噛み蕎麦すする、味覚はわれを許可するごとき

北ほどに寒しと思う生き物のブラキストン線冬景色みゆ

2016年10月17日月曜日

「帰れない二人」のモチーフについて。

けらさん(@kera57577)の短歌を読んで、ふと「帰れない二人」のモチーフについてかつて書いていたことを思い出した。探してみるとあったので、懐かしく載せる。2005/7/11に書いたものだ。

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先日の日記で、さるとびエッちゃんのエンディングで、夕方、電柱の上から、町を見下ろしている寂しさに同化してしまった、と書いたが、読み返して、本当にそうだったか? と疑問が湧いてしまった。 

デビルマンも、たしか夕方、あれは鉄塔だったと思うけど、そこから町を見下ろしていたような気がする、それと混ざっているのだろうか? 

鉄塔? ジョジョの4部で、鉄塔で暮らしている男がいたが、あれは夕方ではなかったと思うので、これは混ざることがないだろう。 

町に住んでいるものが、町を家(ホーム)として帰っていく時間が、夕方であるならば、その夕方に帰るところがなくて、町を上から眺めている、という光景は、なんというさびしい異端の表現であろう。 
普段共同体の一員として生活していながら、その内面に抱えている異端が、一気に外側に吹き出る時間が、夕方であるのかもしれない。 

そういえば昔のアニメは、そういう異端が多く描かれていたような気もしないではない。 

高橋留美子あたりの職人になると、その境界線上の人物をわざと据えて、作劇に役立てているようなフシもある。(宇宙と地球の境界の"あたる"、男と女の境界の乱馬、妖怪と人間の境界の犬夜叉など) 

太陽が落ちた時、異端は輝きだす。それは自分で発光するのか、月に反射するのか、わからないけれど、自らの発光をもてあましたまま、発光しない世界を、えも言われぬまなざしで、彼らは眺めるのだ。 

井上陽水の曲で「帰れない二人」という名曲がある。作詞が井上陽水で、作曲が忌野清志郎という、ぜいたくな曲だ。 
そこでは、理由があるのかないのか、帰れない男女の二人が、町のあかりを眺めている。町の灯りが消えて、星も消えようとする深夜、男は女の手を握っているのだが、そのぬくもりの確かさも、ほんとうかどうか、もうわからなくなる。 
二人とも孤独でありながら、その二人どうしでさえ、分かりあえない部分があることを、詩的に表現している。 
好きな曲です。 

JUDY AND MARYにも同じタイトルの曲があって、歌詞の物語は違うのだけど、メロディが多分に前曲のテイストを感じさせる曲で、念頭において作ったんじゃいかなーと思った。 

それで、ちょっとマニアックな話になるんだけど、与謝蕪村の水墨画にも、そのテイストの絵がある。 

「夜色楼台図」という、まあ有名な作品で、おそらく京の都の、冬の夜の町並みを、少し高台から描いている水墨画で、こじんまりと家々が肩を寄せあって集まっている町に、雪が静かに降り積もる、という絵で、美術史的には、水墨画の題材として、画期的なものである、というような評価がされている。 

水墨画って、どっちかっていうと、山川草木、仙人境のユートピア、みたいなものを描くわけだから、当時の都会であった、京の町なんか題材としてふさわしくないわけで、その破格さをおもしろがる気持ちはわからないでもない。 

でも、その絵を一瞥した時に、私が直感したのは、そんなことではない、彼は、与謝蕪村は、あの異端のさみしさを描きたかったのだ、描くしかなかったのだ、という確信だった。 

あの時代にもそういう感情があったことを、新鮮に驚きながら、さらに驚いたのは、与謝蕪村が、それを表現しようとして、出来ている、その心象がじかに伝わったことだ。 

与謝蕪村について、歴史的なことはほとんど知らないが(自分の生まれた郷里に関係があることくらいは知っている)、与謝蕪村の、ほとんど眼差しを完全にわかったような気になった。 

彼を好きになったというか、歴史上の偉人ではなくて、先に行った人、という親しみを感じてしまった。 

そういう、先に行って待っている人に出会うのは、とても心が癒されるものです。
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なんか、あまり変わってないよなあ。成長してないよなあ。

2016年10月9日日曜日

2016年09月うたの日自作品と雑感。

9月にkindle unlimitedを登録たんだけど、けっこう大変なことになっていてかなしい。

登録の決め手のひとつであった光文社古典新訳文庫がごっそり削除されているし。復活してほしいものだ。

歌集がいくつか読めるので、ふだん歌集を読まないテルヤは、この登録を機に頑張って読んでいます。もっと読める歌集が増えてほしいですね。

というか、unlimitedは、漫画喫茶を目指すんじゃなくて、図書館に向かっていった方がよいのではないか。漫画、写真集、人気書籍は入れずに(入れてもニコニコみたいに人数制限か課金式)、むしろ絶版書籍などをフォーマット化してゆくとか。

いや、図書館がそういうサービスしてくれたら一番いいんだけどね。

9月作品の自選やコメント。

「東」
この汽車は山あいを秋へ走りゆく途中魁夷の絵を通りぬけ

 ※これはよくよく考えると題詠としては厳しいですね。東山魁夷の苗字を入れずに「東」というのは。

「跡」
恋愛話きみは笑って404NotFoundを表示している、おそらく跡地

 ※404NotFoundというのは、そのページはありません、という意味。これは403とか503とか他にもいろいろあって、「権限がない」とか「忙しい」とかメッセージごとに意味が異なる。ここでは、過去の恋話が「ない」ことになっているけど、ないんじゃなくて、削除されたんだな、と思っている、という意味ですね。

「踏切」
決断を引き延ばす夜の踏切を車過ぐときふたりうなづく

 ※でこぼこした踏切を過ぎるときに、体が上下に揺すられることがあるが、それって、車の中のシチュエーションとは関係がないよね、という歌。

「九月」
膝立ちで見送ったあと倒れこむ上等じゃんか九月の独り

 ※これも、内面の強気と状況のギャップがポイントですかね。

「洗濯」
「善と悪を遠心分離しちゃうからお札はすこし縮んじゃうのよ」

 ※これ、どっちが残ってるんでしょう。

「憲法第900条で定めたいこと」
お月見は定めたる日に月棲人(げつせいじん)のプライバシーを侵害せずに

 ※無茶苦茶な題でっしゃろ。もうこれは地球全体の憲法ということにして、何百条目からは、地球人と地球外人との取り決めにするしかないなーという発想でした。

「優」
娘には優しい人と怒ってる人らし、優しい人なら渡る

 ※何歳くらいの娘の設定でしょうか。歩行者用信号をそういう感情でとらえる子供の発想、みたいな歌。

「核」
雪山で眠い一人を起こしつつあきらめかけている抑止論

 ※いきなり、一番大きな主語で話すと、現代の人類の最後の敵は、内にはニヒリズム、外には核、なんだと思っている。逆にいうと、ニヒリズムと核によって「現代」は誕生し、この問題の解決をもって「現代」は終わるだろう。そして現代人類は、いまのところなかなか劣勢である、という歌。

「魔法」
ぼくの魔法(チカラ)は時をしばらく止めること、ぼくも動けはしないけれどね

 ※考えること、は出来るのかな、時間が止まっているあいだ。だとしたら、人より多く考えることが出来る魔法ということかな。

「丘」
へんなかたちの美術館にはへんな絵の丘のふもとに入り口がある

 ※ちょっとエッシャー風の世界を言葉で作ってみたかった感じ? 拡大を続けるGIF画像みたいな。

「彼」
ささみとか芋が続いてはまってる彼のおかげで昼のラーメン

 ※なにかダイエット的なものに彼がはまっているのでしょう。で、「おかげ」だから、彼女もそれにつきあって効果が出てるのでしょう。でも昼のラーメンはヤバイぜ、と思うよ(笑)。

「銃」
自死のために多くが購入するだろうおかしな民よ、かなしい民よ

 ※この国で銃の購入が許可されたら、少なからず自分に銃口を向ける人がいるような気がする。

「悩」
二杯目に悩んでをりぬかうばしい未来とみづのやうな真実

 ※酒って、2杯め以降からその飲み方の性質が決まりますよね。今日は2杯めどうしようかな、の連続が、人生か。


ところで、テルヤはツイッターのサブアカウントを持っていて、1年ほど寝かしているんだけど、こういう自選したものなんかをボットで流そうかなと考えたりしているんだけど、それって管理が大変なのだろうか。簡単でおすすめのサービスとかあったらどうぞご教示ください。ツイッターアカウント(@teruyasarudo)にでも。

2016年10月8日土曜日

2016年09月うたの日自作品の30首

「かも」
効くのかも効かないのかも分からないナントカ菌の多めを選ぶ

「駄菓子屋」
現代の日蔭のような駄菓子屋にまだ売れ残りたる夏休み

「東」
この汽車は山あいを秋へ走りゆく途中魁夷の絵を通りぬけ

「跡」
恋愛話きみは笑って404NotFoundを表示している、おそらく跡地

「リズム」
生活のリズムはぼくは偶数できみはどうやら七の倍数

「うん」
肯定と信じてたけどいま思えば「ううん」か「うーん」と答えていたか

「紙飛行機」
紙飛行機まで退化して人類の機銃掃射のない永い秋

「踏切」
決断を引き延ばす夜の踏切を車過ぐときふたりうなづく

「九月」
膝立ちで見送ったあと倒れこむ上等じゃんか九月の独り

「自由詠」
平日の祭りは微妙、道を占め遠慮がちなる神輿わっしょい

「心」
心に棲む生き物をひとつ描きなさい、かわいさとかはなくていいです

「洗濯」
「善と悪を遠心分離しちゃうからお札はすこし縮んじゃうのよ」

「溝」
「深くても溝なんだから降りてけばつながるんだろ?」あきらめわろし

「倍」
ツイン以上ダブル未満と思いしが二部屋取られていたでござる、ニンニン

「隣」
隣りには物乞いのような神様が試す、物乞いかもしれぬけど

「憲法第900条で定めたいこと」
お月見は定めたる日に月棲人(げつせいじん)のプライバシーを侵害せずに

「優」
娘には優しい人と怒ってる人らし、優しい人なら渡る

「ノー」
あの時の笑顔でわたしはポイントオブノータリン、いや、それで合ってます

「ハイヒール」
ハイヒール、眠っていますわたくしと世界がしっくり合う日のために

「腐」
生きることが時間についに追い越されやさしくわれは腐(くた)されてゆく

「核」
雪山で眠い一人を起こしつつあきらめかけている抑止論

「魔法」
ぼくの魔法(チカラ)は時をしばらく止めること、ぼくも動けはしないけれどね

「かわいい」
やりすぎた水でふやけてしまいたるサボテン、かわいいけれど棄てよう

「丘」
へんなかたちの美術館にはへんな絵の丘のふもとに入り口がある

「彼」
ささみとか芋が続いてはまってる彼のおかげで昼のラーメン

「勝」
人類の勝ち組側にいるんよなあ、コンビニ弁当旨きひとりも

「幅」
狭くなってゆく一本の青い道、遠近法でも比喩でもなくて

「銃」
自死のために多くが購入するだろうおかしな民よ、かなしい民よ

「さあ」
今日はちょっと頭痛がひどくて休みます、さあ何しよう病人だけど!

「悩」
二杯目に悩んでをりぬかうばしい未来とみづのやうな真実

2016年10月2日日曜日

2014年09月作品雑感。

9月というのは、テルヤにとって、アカウントが誕生した月であるので、なにかそわそわする感じがあって、あたらしいこと(短歌的な)をやってみようかなと思ったりするのだが、やりたいこと、できること、なすべきことのバランスがうまく調整できず、結局なにもしなかったりするので、そういうそわそわ感である。

この2014年は、まだうたの日もやっていず、この月のツイート数が72で、歌の数が70だから、短歌以外のツイートは2つ。9/10の「毎日つくって2年になった。ゆっくりとうれしい。いつも読んでくださる方に、感謝しています。」と、フォローした方からの挨拶の返事。今よりもずっとbotっぽかったに違いない。ずっとぼっと。ほっともっと。

自選のような、自註のような。

水底でほほ笑むような刑なりき或いはあれだ、ゼリーのプール

 ※ゼリーのプールって泳げるんかな。

どの虫も生きようとして無数なる牙むき出せる、慈悲となるまで

 ※生き物が生き物を食う、あるいは食われるというのは、けっこう慈悲的だ。

レゴリスに覆われて君の惑星は息かからねば暗く遠のく

 ※レゴリスは、岩石の表面を覆う堆積層。人はみなそういう惑星をもっている。

何か僕に出来ることなど「ないですよ」向こうも予期せぬ強い調子で

 ※声にして感情がはじめて本人にもわかるって、あるよね。

死ぬこわさが三(み)つほどあって日によって程度違いていずれもこわし

 ※死ぬのが怖いって、いろいろあると思うんだけど、3つくらいはあるよね? たとえば、死ぬ痛みの怖さとか、死んだあと自分が世界にいないっていうこわさとか、死んだあとどうなるかわからない怖さとか、死んでも世界にはちっとも影響がない怖さとか(4つやん)。もっとあると思うけど、ふつうあまり掘り下げないけど。

生命は進化というか無機物の慈悲のおこぼれみたく流れて

 ※上でも慈悲についてうたってるけど、生命って、無生物の世界の慈悲があって存在できてるよね。無生物の慈悲ってなんやねんという話だけど。

アーモンドを奥歯で噛みてきしきしとやがて悔しき敵(かたき)のように

クレヨンを途中で折りて引き抜いて包み紙ついている方をくれき

 ※上の二つは、まあ感触の歌ですね。クレヨンに付いているぱさぱさの紙、クレヨンを折っても一緒にやぶれない感じ。

トルストイをト翁と呼びし日本の文人のその親しみ遠し

 ※シェイクスピアを沙翁とかね。文字数もあるんだろうけど、あの尊敬と親しみとなれなれしさ、今書けないよなあ。

「夏休みが終わるのを嫌がりながら給食を僕はほっとしていた」

 ※貧困の問題は、やはりどこかには存在しつづけるのだろう。夏休みは、給食、しっかりした食事がない期間、とも言える。

復讐譚として読む『国家』、巻物の中でも嘲笑される師描く

 ※プラトンの『国家』を読むと、目を閉じてソクラテスとの日々を思い出すプラトンの絵が浮かぶし、そういう感情が文章の底流にある。

もし鳥よ僕の不在に気づいたら小首をひとつかしげておくれ

 ※忘れないのもいいけど、忘れるのもいい。

文化滅ぶ、川面の端に渦なして澱みたるもの流るるごとく

 ※どばーって水流すと、よどみはなくなるけど、よどみって、本当に不要なのか。

後になって切なく思い出されたる要領を得ぬ夜の電話は

 ※その時にわかるというのは、それはそれで錯覚なのかもね。

夢の中も変わらぬわれの日常に懐かしい人が邪魔せずにいる

 ※脳はそういうシーンを、たぶん気まぐれに組合せては捨ててゆく。ひょっとしてとても大切なシーンが出来る場合もあるのに。

時が来ればすくりと伸びてその先が染まりてひらく群れまんずさげ

 ※今年は曼珠沙華まだうたってないような。うたわないという選択もありだな。

なにかこう引きちぎられているような痛みのあとのような朝雲

過ぎ去ればまた一年は文字のみの、朽ち木の匂い、かぶとむし、夏

 ※この辺は季節感の歌ですね。

エンディングなきゲームほど明日にでも理由なく止む生に似てゆく

 ※最近のゲームは明確なエンディングがなくて、それはつまり、いつでも止めうる、という意味でもある。

本当はもう知っているデュシェンヌの微笑を与えられぬふたりは

 ※デュシェンヌの微笑というのは、笑おうとして出る笑いでなく、漏れ出るような笑みで、使われる筋肉が違うらしいのね。

腐った匂いの腐った街にいるゆえに腐った人になるすなおさよ

 ※逆は逆で怖いけどね。松平定信かよって。

2016年10月1日土曜日

2014年09月の70首

水底でほほ笑むような刑なりき或いはあれだ、ゼリーのプール

どこまでを何までをわれは書きつけてそのふところへほどけてゆくか

行為から存在へ至る老害のラオハイと不意に中国読みで

銀色のその髪に似て輝きぬスポーツカーに乗りはにかまぬ

ノスタルジーひと盛りいくら、昭和歌謡はこんな未来のためにか甘し

心象の年齢を同期する先にこの人を思う、師の字を思う

どの虫も生きようとして無数なる牙むき出せる、慈悲となるまで

意識低いどころかもはや無意識系中年の吐く正論こわし

レゴリスに覆われて君の惑星は息かからねば暗く遠のく

何か僕に出来ることなど「ないですよ」向こうも予期せぬ強い調子で

死ぬこわさが三(み)つほどあって日によって程度違いていずれもこわし

感情の確証はきっと得られなくその満面の微妙な笑みの

芋焼酎(いも)の甘さとデュフィの赤に卑屈なる心なぐさめられながら酔う

メタのないライフストーリーに動じつつ参考としてはひそかに外す

生命は進化というか無機物の慈悲のおこぼれみたく流れて

アーモンドを奥歯で噛みてきしきしとやがて悔しき敵(かたき)のように

寂しさの満喫といえグラウコンへのかの説得が心に入らず

謙虚さに気がほぐれつつ何周目のことであろうか訊きたくなりつ

ためのゆえの、ためのゆえのと両の手で水を掬うように心をさだむ

水しぶきの中から君が現れていつかどこかの記憶のごとし

クレヨンを途中で折りて引き抜いて包み紙ついている方をくれき

土の匂いを臭がる子にも驚いてアスファルト=プレパラートの家路

雨のなかのみずうみは白くうっすらと無音と思うまで雨を受く

性善説の悪人と性悪説の善人と表情のその苦さにて似つ

中秋の名月は雨、脳裏には前々のまだ成らぬ満月

トルストイをト翁と呼びし日本の文人のその親しみ遠し

言い切ったはずだが舌の違和感は虫歯のようにぐらぐらしおり

「夏休みが終わるのを嫌がりながら給食を僕はほっとしていた」

メロディは知らず母より教わりきつくし誰の子、雑草を抜く

いつの日か叶わなくてもいい夢に国際列車の寝台に寝る

復讐譚として読む『国家』、巻物の中でも嘲笑される師描く

書簡詩の節句を読みて韻律に宿りしものの痕跡かすか

穴という穴から子孫生まれ出て身を朽(く)ちて神となるのもたのし

経験を騙し取られて憤するも時間とは地面剥(は)がし行(ゆ)く球(たま)

もし鳥よ僕の不在に気づいたら小首をひとつかしげておくれ

汲めど尽きぬもののあふれる芸術のレイヤを見おり位置ゲーのごと

ジンゴイズムの主義の主軸は排外か愛国かしばし目が止まりいて

有名人でもないのに歩く東京のテレビと同じ店を見渡す

"い"の"ち"とはとうとかりけり、なぜ人を殺してならぬかなど付するほど

やる気さえネガティブな言で示すのでその目と声を聴かねばならぬ

霧に見えぬ不安もあわせ夢のように進みつつ名前叫んでいたり

文字だけが思いの先に行かぬよう詩になりたがる言葉を叩く

光熱費かからぬほうの青春を過ごしていたが大差なき生

生命進化の末裔についぞ遠からん擬人化の弛(ゆる)みなきコモノート

マジョリティへの欲求として独立はありけむ、やがて苦しくならむ

文化滅ぶ、川面の端に渦なして澱みたるもの流るるごとく

癒すのが意味か音かもあいまいに涙を出せば意外に泣けり

人生のよしあしをどこで決めようか過去でも今でも未来でもなく

斜め上から見下ろしている人生のひとつひとつのシーンが、嘘だ

木工玩具の球のストンと納得の因果があれば人生はよし

後になって切なく思い出されたる要領を得ぬ夜の電話は

夢の中も変わらぬわれの日常に懐かしい人が邪魔せずにいる

時が来ればすくりと伸びてその先が染まりてひらく群れまんずさげ

宇宙人いるわけないが人間は夜に小さい光を探す

なにかこう引きちぎられているような痛みのあとのような朝雲

過ぎ去ればまた一年は文字のみの、朽ち木の匂い、かぶとむし、夏

話終わりて「おわり」と付ける剽軽に一同の肩は少しほぐれて

過ぎたので遅かったのでその過去を意味を変容するべく勇む

case of you を聴く為にあと一杯をトクトクと注(つ)ぐ、秋の夜長に

性自認に悩みいしことを就職の決まりし姪にはじめて聞けり

大五郎サイズのウイスキーを購(か)い割って飲みおり、少し寂しき

巻き込みを逃れるためのレイヤ化と謂(い)う君の目のミサントローポス

親ひとり子ひとりの旅の心地して浮舟のような部屋にて抱けり

エンディングなきゲームほど明日にでも理由なく止む生に似てゆく

饒舌のあとにさびしき、テーブルの食べ散らかしたゴミ手に包み

本当はもう知っているデュシェンヌの微笑を与えられぬふたりは

久しぶりに強く酔いたる鏡にて見知らぬ顔よ、お前は誰だ?

腐った匂いの腐った街にいるゆえに腐った人になるすなおさよ

人ばかりなる新宿のホームにてあきつがひとつ低くさまよう

確信は不抜にいたりわが生のかたちみちゆきひとつと成せれ

2016年9月26日月曜日

短歌? なにそれ? おいしいの?

タンカ?
ふるいけやー、てやつ? 違うの? 
自分で作ってるの? へえ、風流じゃん。
どんなやつ? すぐには出来ないんだ。
ふーん、若い人も作ってるし、今の短歌は風流じゃないんだ。このプリントが、うたの会? の作品? 土曜の昼からやってんの? 老若男女が? うわぁ。
ええと、一行でひとつ? ほう、古文ってわけじゃないんだ。575ってわけでもないんだ。あ、これは575で読むの? ええ?
これは、一行のポエムみたいな感じ? 言葉の断片みたいな。独白とかつぶやきみたいなこと?
ああ、あれか、「ととのいました!」って、ちょっと上手いこと言うような言葉遊び?
え、そういうのじゃないの? なんかごめん。よくわからんのよね。

つまりこれは、57577で、何を伝えようとしてるの?
自分はこういう人間だ、という主張なの? あ、そうではない。
こういうことがあったよ、という小さな報告ってわけでもない。そういうのも無くもない、と。
そもそもこれは事実? 妄想? どっちでもないの、いよいよむずかしいな。
伝えたいことがあるんだよね? ええ!? お題を与えられてから考えることもあるの?
でこの歌の会では、それぞれのを読んで、好き嫌いを投票すると。ん? 良し悪し? 好き嫌いじゃなくて、良し悪しがあるの?
一行詩だよね、短歌って。詩と詩を比べて、良し悪しを決めるの? どうやって? 上手い下手? あーそれはあるか。
上手い下手や好き嫌いがあるのはわかる。でも良し悪しっていうのは、短歌として良し悪しがあるってことだよね。
短歌的、みたいなことがあるってこと? それはなんか日本の”道”的な思想だねえ。そういうのを極めたいわけだ。
極めたいわけでもないんだ。どないやねん。

よく若い現代美術家の卵が、よくわからない自意識を描こうとして、よくわからない絵を描くことがある(自意識でパンパンなのはよく分かる)けど、短歌は言葉だから、そういう自意識でパンパンになることはないんだろうね。あ、無くはないんだ。
ひょっとして、これ、ボトルメールみたいなもの? 明確に誰に何を伝えたいわけじゃなくて、誰かに何か伝わればいいという感じ?
そしてそれは、好きであったり、良さであったり、上手さが誰かに感じて貰えればいいと。

なんか、ふわふわしてんね。自力でなくて、それぞれを感じてもらう読者の他力に運ばれる感じ。タンカだけにね。担架だけにね。


だじゃれでゴメン。結局のところよくわからんけど、面白いんなら、がんばりなよ。
じゃあな。

返歌
いま君のそばをただよい離れゆくボトルのことを告げず、ほほえむ

2016年9月4日日曜日

2016年08月うたの日自作品雑感。

9月に入ったので、キンドルの読み放題をはじめてみた。20日ほどはお試しになるのだろうが、こういうサービスは人の入りが少ないと簡単に終わったりするよね、と人に言われ、そうか、現代は安定しているからそのサービスを選ぶのではなく、選ぶことによってサービスの安定に寄与するように、ユーザが教育されているのだ、と思って登録した。

テルヤはあまり本を読んでいないので、ほとんど過去の適当な知識で話しているようなところがあって、これからはがんばって歌集も読むぞーと思っている。(まだ読んでない)

昨日は折口信夫の命日だったらしいので、夏休みに古本屋で買った『倭をぐな』をぱらぱらめくった。

国文学を研究してきた人間が、晩年に外国と戦争が起こり、負けたらこの言葉が滅びるかもしれない、となったときに、たとえば歌人が、戦争の敗北=短歌表現の廃止、を予感したときに、戦争の勝利に協力するのは、ロジックとして自然なことだったのではないかと思えてくる。

現代の日本のわれわれが「戦争反対」というとき、侵略と防衛がひとくくりにされているし、勝利と敗北も、善悪の判断も当事者でないようなポジションから語られることが多い。

戦争というのは問題解決の手段としてもっとも下層のレイヤー(力くらべ)まで落ちた状態に発生するもので、だから戦争反対するには、レイヤーを落とさない努力が必要だろう。あと、相手のレイヤーを落とさせないようにする必要もある。

短歌の話ぜんぜん関係ないな。いや、関係なくはないか。釈迢空読んでの感想でもあるし。

自選とコメント。

「後」
商店街ほどよくさびれぼくたちの前にも後ろにも揺れる夏

「氷」
焼酎の氷がなくてクーラーもない部屋で今日がその日になるか

 ※その日って何でしょうね。飾り気のない酒を飲んで、汗がひかないような場所で、そういう日常性がふっとぶようなその日。

「鼻歌」
うれしそうな顔ではないが鼻歌が聞こえて、きみと来れてよかった

「それから」
いじめられた記憶を捨てる何回も何回も何回も、それから

 ※脳っていうのは、思い出すたびに痛みも再現するらしいですね。捨て続けることで補強される記憶ってことですかね。

「蛾」
三千一人目に蝶と言われてもぼくはじぶんを信じられるか

 ※人が自分を信じられるのは、3人必要な気がします。「わたし」と「あなた」と、あと一人。

「自由詠」
ブラジルでゴジラが3000本打ってそのお言葉に連日猛暑

 ※うたの日は、10日はじゅう、自由詠の日みたいですね(この月は11日でしたが)。この歌はマルコフ連鎖っぽく、このころ話題になっている言葉を圧縮したような短歌。

「訳」
話すたび空気が凍る、最新のこの翻訳機壊れてねえか?

 ※未来の話かしら。翻訳機を使うってことは、それが正しく訳されているかを当人は判断できない、という歯がゆさがうたわれている。一方で、それは本当に翻訳機の故障なのか? 彼自身が空気の凍ることをしゃべって気づいていないのではないか? という、これも当人が自分を判断できない、という歯がゆさが二重になっている。

「空」
世界平和の最後のフェイズで選ばれる"力"、反転しゆく空想

 ※世界平和のモデルを空想していく時に、”力”は、どのように利用されるべきか。この空想では、ぎりぎりまで力は使わなかったが、一度使ってしまうと、オセロのように反転していったようだ。

「たられば」
きみたちはたとえば羽根が付いててもカニと呼ぶねとタラバが告げる

 ※タラバガニは、分類的にはカニではないのよね。でもカニっぽかったら、うまかったら、なんとかガニって名付けるよね。羽根つきガニとか。

「ピアス」
口裂け女がマックの肉を疑って耳たぶに視神経が垂れおり

 ※ピアスの都市伝説に、穴を空けると耳から糸が垂れていて、引っ張ると失明する、というのがかつてあった。これは禁忌がそういう物語を生んだ面白いケースだと思うが、これ、今でも知ってる人いるのかな。

「開」
開かれた校風なので存分に塞(ふさ)いでられると思ってたのに

「蝉」
道の上の死骸のなかにかつて有りし命よ、いまは何のかたちか

 ※幼虫が蝉になって、死もまた脱皮なのだとしたら、という着想。

2016年08月うたの日自作品の31首

「後」
商店街ほどよくさびれぼくたちの前にも後ろにも揺れる夏

「氷」
焼酎の氷がなくてクーラーもない部屋で今日がその日になるか

「昔の恋人」
運がいい二人だったよ、もう二度と会わぬところでしあわせになり

「怒」
皮肉とか揶揄の一首で済むやうな政治の怒りを流しゐるなり

「鼻歌」
うれしそうな顔ではないが鼻歌が聞こえて、きみと来れてよかった

「様」
さまざまな想いを載せてふく風の、つまりおもいは重くないから

「それから」
いじめられた記憶を捨てる何回も何回も何回も、それから

「八」
七日目に神は休んで八日目の月曜が鬱、(日本人かよ)

「蛾」
三千一人目に蝶と言われてもぼくはじぶんを信じられるか

「田舎」
あの冬の曇った窓を額にして田舎があった、嘘かもしれん

「自由詠」
ブラジルでゴジラが3000本打ってそのお言葉に連日猛暑

「油」
歯車になれない男、そういえば潤滑油だとアピールしてた

「訳」
話すたび空気が凍る、最新のこの翻訳機壊れてねえか?

「タオル」
ふたりしてタオルを首に巻いているお互い特に気にしないふり

「願」
願い事は三回言えぬシステムで(流星群の持ち越しもなし)

「空」
世界平和の最後のフェイズで選ばれる"力"、反転しゆく空想

「途中」
青春にして已(や)むという名言がいぶかし、それは途中での死か

「ごっこ」
今日もコンビニ弁当かよと猫が言う、ネクタイをゆるめつつにゃあと言う

「年下」
年下に弱音を吐いて内心にいよいよ醒めてゆくさびしさの

「だって」
「おれはいいと思うしたぶん友達がそうでも関係ないから、だって」

「ジャスコ」
主旋律をピアニカでカバーした曲のジャスコミュージックめく切なさ

「宝物」
宝物庫にあと千年は眠ります次の支配者の瞳(め)を想いつつ

「暇」
残業をする暇人の同僚と別れてながく生を自問いており

「たられば」
きみたちはたとえば羽根が付いててもカニと呼ぶねとタラバが告げる

「ピアス」
口裂け女がマックの肉を疑って耳たぶに視神経が垂れおり

「開」
開かれた校風なので存分に塞(ふさ)いでられると思ってたのに

「トンネル」
光量の多い世界と知るために暗くて狭い日々は要るのか

「蝉」
道の上の死骸のなかにかつて有りし命よ、いまは何のかたちか

「商店街」
振り返るこんな短いふるさとの商店街の終わりに着いて

「テーマパーク」
ぼくだけが夢も魔法も届かない背伸びをしても110センチ

「素人」
月明かりでさいわいが見えてくるなんて神さまもたぶん素人だった

2016年9月3日土曜日

2014年08月作品雑感。

2年前の8月は毎日3首作ってたみたいですね。ログから拾うのが大変だ。

昨夜、ツイッターの短歌クラスタの方のキャスに参加しながら、話題が題詠になったのだが、題詠をどのように考えているか、というのは、人によって異なるようだ。

戦後、短歌が文学であろうと攻めていかざるを得なかった時期は、なんというか、題詠という、歌題を誰かから与えられて、それを上手く消化するような技芸的な側面は、かなり軽んじられたであろうことは想像に難くない。湧き出てくるテーマ、あるいは、狩りに赴くような戦闘的な作歌姿勢、そのようなものが是とせられ、日常のなかでふと思うような、果報は寝て待っているような、小市民的な待ちの文芸、高齢者の余生のたしなみのような趣味ではあってはならないような、そういう前衛さが若者を惹きつけていた側面というのはあったと思う。

でも、逆説的、と言ってよいかどうか、短歌は、かつての上代の「ハレ」の文学でなくなって久しい現在、機会詩として、じつはきわめて効果的な形態なのかもしれない。

連作して、まとまった思想を述べる形式なんかよりも、けっきょく作者=<私>の諒解の中で、日記のような微細な発見、表現のあや、題を消化する技芸が、面白かったり、うけたりするんだよね。

あ、あと、題詠というのは、意外にセラピーの側面が強いような気がしている。シュールレアリスムの自動筆記、とまでいかなくても、題のために表現を練るなかで、自分の中で思いもよらない表現が生まれ、それが、悩める自己を相対化する側面もあるようだ。
題詠をそのように評価する人を、何人か知っている。

自選とか感想とか。

おおこんなさみしい赤ちょうちんにまでレリゴー流る、流されている

  ※2年前はアナ雪の音楽流れてましたねー

脊索が新参だった長い春未来の謳歌の夢を見るなり

かわいいの価値たちまちに移譲されその時に君の近くにいたし

ありふれた光あふれた明日へと器官は向かいたがると思(も)えり

妄想も年を経るれば何かこう偉大なものに化けたり、せぬか

生まれきて居場所をずっと探したる野良猫今日は現れずなり

もう少し人間の形していんと思う夜なり鏡に映れば

直前の一縷の望みを思いいき閉じ込められて沈む巨船の

  ※そういえばこのころ、韓国で修学旅行生が船に沈む事故がニュースを騒がせました。時事はリアルタイムで歌うことがあまりないので、しばらく経ってからかもしれません。

変則というまっすぐを孤独にも謳歌しているかうもりである

もう二度と離れぬメタか「悲しすぎワロタ」と云いて哀しくおかし

「はらじゅくうー、はらじゅくうー」と明け方の自動放送が原宿に告ぐ

本心を隠すためなる英語とう日本的なる使用法にや

傘の先でコンクリートを響かせてそのドメイン(域)の返事を待てり

真夜中に母を思いて涕泣す、感傷的ということでいい

ブロッホはこんな孤独なキリストに天使を添えて、孤独極まる

原初から女はエロしクリムトがアーチに描くエジプト乙女

意識淡い母の手を取りゆっくりとごくゆっくりと新宿をゆく

色彩というより光の量として金色多く描く世界は

  ※金色って、色じゃなくて、光量の表現だよね、という歌

ブッテーをぐるっと回し休みたり川から見上ぐ人間の街

  ※ブッテーというのは、漁具ですね。

人間は燃料に似て山手線は駅ごとに人を入れ替え進む

不在にも慣れる心ぞ、路地裏の涼しいというか消えきらぬ冷え

この水はいつの雪どけ、伏流の闇をしずかに沁み流れきて

波の上の時に逆巻く渦としてその尊きを生とは呼べり

  ※生という現象は結局なんなのか、というのをエントロピー的に考えると、こういう表現にならない? 

極東の島国の若き制服の娘もムンクは近しきてあり

  ※日本人ムンク好きだよね。でもけっこう宗教的だぜ、彼。

遠日点は過ぎておろうに粛(さむ)くなれば思う星には距離が要ること

グレゴリオ聖歌を流す理由などぽつりぽつりと話すほど酔う

痛々しい年代などはないのだとはにかんですましてはにかんで

2014年08月の93首

おおこんなさみしい赤ちょうちんにまでレリゴー流る、流されている

形までゆがんでからぞ人間の個性、すなわち幸と不幸の

悪人を滅ぼさずして宇宙とは善人を置く規則のごとく

弱りきってきたない猫が家に来てかわいそうだが助けてやれぬ

風呂の湯でシャンプーを流し頭ごと小動物の死を泣き流す

たい焼きの少し経ちたるやわらかくあたたかく絶大なるうまし

妄想は頑固なよごれ、十ごとにタイルを擦(こす)り落ちずまた十

生きているものごとのたぶん一部にて残酷は少しずつ変化する

音楽の波形のようにわが価値が揺れている、上下対称にして

脊索が新参だった長い春未来の謳歌の夢を見るなり

かわいいの価値たちまちに移譲されその時に君の近くにいたし

わくわくもどきどきもない義務的なコールドスリープのように明日へ

夥(おびただ)しい蚯蚓(みみず)歩道に畝(うね)り来て潰れて干(ひ)りて蟻の餌(え)となる

椅子の上に膝たてて座し汗ばんで団扇片手に休日を読む

眠れずに輾転反側する我の体内アルコールが過去を呼ぶ

さよならを言うこともないさよならのはじまらざれば終わることなし

想念は無形のくらげ、顔に着いて音声として口より出でる

ありふれた光あふれた明日へと器官は向かいたがると思(も)えり

妄想も年を経るれば何かこう偉大なものに化けたり、せぬか

貝葉に言葉を写し我の後も残さんとする人の手跡よ

ポテンシャルもおそらくわずか、毎日のぽてんしゃらざる課業をこなし

生まれきて居場所をずっと探したる野良猫今日は現れずなり

擬人化する地球が怒る汚染図のその奥の汚染が伝わる不快

文字のない希望と文字の絶望を闘わせいる、今日は希望が勝ちぬ

電気の頭脳に水のコンピュータの我がコマンドを打つ、答えは速し

現実はクサいセリフを吐くことでしのぐも後で二の腕を嗅ぐ

眠りつつ恢復しゆくたましいの確かに配るべき世にあれば

ポケットにひとにぎりほどの尊厳をもてあそびつつ生きてありたし

特急が通過する時吹く風の心地よき春や秋にはあらず

もう少し人間の形していんと思う夜なり鏡に映れば

先見を持たぬ男はもくもくと革命までの世界を積めり

直前の一縷の望みを思いいき閉じ込められて沈む巨船の

経験者募集の張り紙の下で我を見て猫が逃げようとせず

変則というまっすぐを孤独にも謳歌しているかうもりである

ふるさとをかなしく見ればふるさとは悲しい男をただ入れてゆく

もう二度と離れぬメタか「悲しすぎワロタ」と云いて哀しくおかし

「はらじゅくうー、はらじゅくうー」と明け方の自動放送が原宿に告ぐ

本心を隠すためなる英語とう日本的なる使用法にや

人生に目的があるようにないように悲惨な死者のニュースが流る

水割りを間違えて水を水で割り飲んで気付けり考えおれば

傘の先でコンクリートを響かせてそのドメイン(域)の返事を待てり

真夜中に母を思いて涕泣す、感傷的ということでいい

一億年われは爬虫に追われきてまだ恐ろしく共存しおり

ぼつぼつとさみしさの降る夕まぐれ傘差してそれを避けてもさみし

身の肉のうまきところを切り取って差し出せばそれを平然と食う

歩き煙草の馬鹿を追い越しその先にまた馬鹿がいるわれの中では

ブロッホはこんな孤独なキリストに天使を添えて、孤独極まる

キュレーターというよりいわばフィルターの小アイコンが端末に棲む

誰か死んだかしらぬ電車の遅延分足早に歩き流れる汗ぞ

壁がいつか道になるとはリングシュトラーセに祈りのような葉漏れ日

風にたつ髪をおさえて空港という港(みなと)にとって時化ている空

ディテールの針で掘る時ゆびさきの腹にかすかに悲の音(ね)を聞けり

原初から女はエロしクリムトがアーチに描くエジプト乙女

人格を問わずともよい今様の短歌であるが読む人はいる

部屋で見る線香花火の幻想の為に小さめのバケツを探す

先人は同じ苦悩を持ちながら言わずにゆける、歴史はいらぬ

イヤホンの僕のうしろに声がして振り向く、おお白(しろ)百日紅花(ばな)

シャクシャインの仇を討つ夢、日本人だがシャモではないとわれを決めつつ

意識淡い母の手を取りゆっくりとごくゆっくりと新宿をゆく

色彩というより光の量として金色多く描く世界は

古綿のようなる雲の下の町、記憶はいつも冬の駅前

風景画の風景を胸に押し入れて君に会いたし、役薄ければ

センチメントは弱々しさを隠すほど屹立なんて語を今使う

悔恨の涙は仰向けなるわれの耳へと流る、唇が開く

ブッテーをぐるっと回し休みたり川から見上ぐ人間の街

夏なのに駘蕩に近き心地して背を預けいる、思うこと多々

世が世なら省線電車に揺れている部屋によこたう空腹男

ポエジーでやりすごそうとする生の伐り過ぎた枝の目立つ心地の

一応の根拠はないがこの労を終えれば暦の下も秋かも

どうかしてこんなに酒を酔うのかを聞かれずなりきこの一人酔う

人間は燃料に似て山手線は駅ごとに人を入れ替え進む

音のない暴風の尺を飛び越えてヘリオテイルのふさふさと揺る

思いたり、花火が空を割る時の己が成否を問わぬ呵成を

溶解の実験で混ぜている時の、中年の目は濁るのならば

不在にも慣れる心ぞ、路地裏の涼しいというか消えきらぬ冷え

左衛門(さえもん)がゼイムとなりしこの家の彼を屋号で呼べばはにかむ

無人島の一枚として選び終え無人の島に立つまで聴かず

生き場所か死に場所にせよもう少し男は明るくならねばならん

この水はいつの雪どけ、伏流の闇をしずかに沁み流れきて

波の上の時に逆巻く渦としてその尊きを生とは呼べり

信念を投げてからではそののちに何万の言を積んでは載らず

遠景に四五本の高き塔ありて手前は水の曲がるこの丘

いやしくて卑怯に生きる人間も尊いという山中の鬼

ここからはわかればかりだわんわんとなきたきこころをポケットにいれ

極東の島国の若き制服の娘もムンクは近しきてあり

被虐なる輪廻輪廻を転がりて君に遇いたり、かたじけがない

この息はやっちゃいけないため息で強引に深呼吸へと替える

エドヴァルドムンクは病んでいたりけり彼の属する世界に沿いて

人と飲んで酔ってひとりの帰り道みじめへ踏み外さぬよう必死

遠日点は過ぎておろうに粛(さむ)くなれば思う星には距離が要ること

グレゴリオ聖歌を流す理由などぽつりぽつりと話すほど酔う

痛々しい年代などはないのだとはにかんですましてはにかんで

蛮勇も勇には見えて臆病も深慮に見えて谷を登りつ

2016年8月7日日曜日

2016年07月うたの日(自作品)雑感。

タイトルねえ。括弧ないと先月の全作品を読んでの雑感みたいなので、自意識高そうな括弧入れました。
(といっても自作品と関係ない雑感ばかりだけれど)

昨日、短歌のツイキャス(ライブ配信サービス)で、「いい短歌を作りたい」という話が出て、いい短歌とは何か、という話になったのだが、テルヤは先月のブログでも書いた関心があったので、「それは誰にとって?」と書き込んでしまった。

しかし、その質問は少し浮いていたかもしれない。何がいい歌かという話に、「誰に」は話題そらしのようにも見えるからだ。

短歌における「何を」「どのように」は、そのうち、「誰に」「どこで」という問題に変わるような気がしている。「どこで」というのは、立ち位置のはなしでもあるが、ここでは「座(居る場所)」のはなしだ。

その歌は、歌集に収められていい歌なのか、ウェブ歌会で一番のいい歌なのか、手紙の末尾に添えられていい歌なのか、試験会場の机にペンで書かれたいい歌なのか、コンサート会場で叫ばれていい歌なのか、話しかける友人が一人もいない夜に読んでいい歌なのか。

表現である以上、評価は避けられない。評価を求めるのは大事なことであるが、手段が目的になってはならない。禅において、「魔境」という言葉があるが、テルヤは、魔境とは、手段が目的になってしまってそれに気づかない状態のことを言うのだと解釈している。

足下を掘るしかないのだよね。

自選とコメント(きょうは自分をほめるぞーw

「運」
ホロヴィッツのはやい運指を先生と観ていた音響室でふたりで

 ※「ふたりで」で、主体が性的な意識に気を取られている感じがよく出てて、濃密になっている。

「術」
詠み人知らずの複数形は知らずぃずか第二芸術論はるかのち

 ※第二芸術論は、名前を伏せると誰が作ったかわからないような個の打ち出されない文芸は芸術として第一でなく、第二に属する、という主張。でもその戦後の主張も遠く、現在は詠み人もいつでも変わるハンドルネームの作品が増えている。といううた。「知らずぃず」はちょっとしらずぃらしい(白々しい)かなあ。

「ピーマン」
今日もまた火に焼かれたるくたれたるピーマンの皮の透明のところ

 ※ピーマンのそこをうたにするか

「指」
トーナメント表でいうならシード権の枠を当てるであろうおやゆび

 ※人体をトーナメント表として見る、というのがむちゃくちゃですわね。

「方言」
方言を失いしかば神さまも微笑みながら伝わらざりき

 ※たとえば渋谷の神様はギャル語がわかるのか、という話かね。

「疲」
ふらふらのしょぼしょぼのもうよれよれのへとへとのくたくたの「おはよう」

 ※日本には疲れを示すオノマトペがおおいなあ。

「自由詠」
瓜言葉に貝言葉してネットでは今日もカラーの図鑑をめくる

 ※文字だけのノンバーバル・コミュニケーションというのはよく行き違いますので、悪気がないのにきゅうに険悪になったりします。そういう時は、同じ言葉じゃなくて、花言葉のような、それぞれの言葉が行き違っているのだ、と考えてはどうでしょう。

「夕立ち」
逃げてゆく思想は追うな、夕立ちのけぶる向こうは晴れ間ばかりの

 ※政治的なメッセージですかね。7月は選挙もありましたしね。

「バカ」
「人間に飼われたらみんなバカになって毎日食べてしあわせに死ぬぞ!」

 ※動物にとってしあわせは一義なのか、そうでないのか。そして人間は動物なのか、そうでないのか。

「かかと」
人体でもっとも皮が厚いのにチクチクすれば心を捕(と)らる

 ※皮が厚いのがかならずしも鈍感ではない、というのはちょっと不思議だよね。

「夏休み」
夏休みの終わらない国に行ったんだ遼くんのパパは笑って言った

 ※主体がどのくらいの年齢かにもよるが、一瞬いいなあとうらやんだとしたら、主体は後悔を残すかもしれないな。

「遅」
あと百年遅く生まれていたならばきみのお墓で手を合わせよう

 ※短歌における整合性があやうい作品は、どうなんでしょうね。なんで百年後に生まれて「きみ」を知ってんねん、というツッコミは、ありですよね。そこを越えられるかどうか。

「散歩」
この土地に来た時は会い、川沿いを散歩するだけ手もつながずに

 ※そういう関係という話ですよね。手をつながない、ということを意識する、という。

「ごめん」
警察のいらぬごめんで済む世界をおもう、残酷かつ寛容な

 ※この日、この作品のあと、神奈川のあの事件を知りました。寛容は、残酷と通じるかもしれない、というシミュレーション。

「うっかり」
ちゃっかりと暇を伝えてしっかりと送信したとすっかり思い

 ※うっかりを使わずうっかりを伝えるという、まあ、言葉遊びですわね。

「やばい」
コーヒーにミルク砂糖の両方の代わりに入れたヤクルト、やばい

 ※やばい、には、いい意味と悪い意味が現在混在していて、ここではどちらなんでしょうね。

2016年07月うたの日作品の31首

「運」
ホロヴィッツのはやい運指を先生と観ていた音響室でふたりで

「煙」
煙突(camino)と道(camino)のつながり調べたら違う語源だ、スパッツァカミーノ!

「椅子」
夕方の路地に一脚持ちよって見比べるには少なき過去か

「術」
詠み人知らずの複数形は知らずぃずか第二芸術論はるかのち

「ピーマン」
今日もまた火に焼かれたるくたれたるピーマンの皮の透明のところ

「指」
トーナメント表でいうならシード権の枠を当てるであろうおやゆび

「方言」
方言を失いしかば神さまも微笑みながら伝わらざりき

「疲」
ふらふらのしょぼしょぼのもうよれよれのへとへとのくたくたの「おはよう」

「落」
スタンツ(寸劇)のモブ役なのに誰よりも立派な衣装で落武者Aは

「自由詠」
瓜言葉に貝言葉してネットでは今日もカラーの図鑑をめくる

「夕立ち」
逃げてゆく思想は追うな、夕立ちのけぶる向こうは晴れ間ばかりの

「バカ」
「人間に飼われたらみんなバカになって毎日食べてしあわせに死ぬぞ!」

「手紙」
ITの終わりし未来貴重なる紙の手紙は告白に似て

「大人」
追いかけるべきなんだろう、人生の限りの見える大人にあらば

「かかと」
人体でもっとも皮が厚いのにチクチクすれば心を捕(と)らる

「黄」
何百の黄色を茹でてトウキビの生存に与(くみ)せず齧(かじ)りおり

「パスポート」
筋トレをたゆまぬおまえ胸筋が彼女へのパスポートのごとく

「絶対」
力説をするでもなくて口ぐせの「ぜったいさびしい」が出るときは行く

「閉」
社会へと閉じてゆく日本人だとかフロムかよ、てにをはの思想は

「朝」
戦中の描写はじっと箸を止めするどき無言の父の朝ドラ

「夏休み」
夏休みの終わらない国に行ったんだ遼くんのパパは笑って言った

「遅」
あと百年遅く生まれていたならばきみのお墓で手を合わせよう

「メロン」
あの夏も暑い日だった、上空で炸裂したるメロニウムボム

「散歩」
この土地に来た時は会い、川沿いを散歩するだけ手もつながずに

「ヒマワリ」
プランターにヒマワリ三本並びいてとなりと同じ方向を向く

「ごめん」
警察のいらぬごめんで済む世界をおもう、残酷かつ寛容な

「シャワー」
こころまで青くはなれぬ、水シャワー浴びいるわれのサーモグラフの

「塊」
その時にぼくは怒りか悲しみか嫉妬かわからぬ塊(かたまり)だった

「うっかり」
ちゃっかりと暇を伝えてしっかりと送信したとすっかり思い

「やばい」
コーヒーにミルク砂糖の両方の代わりに入れたヤクルト、やばい

「忘」
誰のことを決して忘れないんだっけ、シーンはいくつかあるんだけれど

2016年8月6日土曜日

2014年07月作品雑感。

  思春期と晩年は本を読みながら異なるものぞ読むことの意味

休みを利用して地方の文学館に行くと、その地方の作家の足跡や、直筆原稿があったりして、なんだか懐かしい気分になることがある。
なんというか、「文学」だったものが展示されているなあ、という郷愁だ。

本の読み方も、価値も、変容しつつあるもので、とりわけ今は情報の拡大伝達速度が速いので、思念の再現装置としては、本は第一線を退きつつあるようにみえる。

先日、アマゾンのキンドル読み放題というサービスが開始され、音楽や映画のように、本も月額で自由に読めるという環境ができつつある。

電子書籍とは、一口に言うと何か。これは「本のパッケージングにレイアウトされた、ウェブ情報」のことだ。逆に言おう。ウェブとは、「紙媒体の制約から解放された視覚及び聴覚情報」のことだ。本と、電子書籍と、ウェブとは、呼び方を変えた同じものといえる。

携帯電話は、もともとはトランシーバーの延長の技術だが、電話というそれまでからあった名前にすることで、使い方がイメージしやすくなった。

ブログは、文筆行為だが、ブログとか、日記という名前を付けることで、だれもが恐るべき量の思念を記録し留めている。(文学館で展示する直筆原稿は残らないけどね)

なんの話だっけ。キンドル読み放題は、また一つ、本というものの変容を推し進めるような気がする。


この2014年7月は、11日から、1日3首を掲載しているので(おそらく1ヶ月限定)、83首となっている。
自選しつつコメントがあれば書き。

緑白のトマトほのぼの赤むころひとつの想い終わらんとする

やがて差別失いし世に蛇使いの娘のごとき祝福なけん

  (蛇使いの娘というのは経典で言う竜女のことです)

震災詠の詩の部分こそうつくしく成れば記憶の瓦礫が増える

こんな日をあと一万も繰り返し百日ほども覚えるならぬ

風が葉の裏まで舐めて一盛りの林を全部ゆらしてゆけり

明るさの満ちる駅前パイプテントの風船の影も赤い色して

四十男のきわまる孤独の正体はその類似せぬ来し方に因る

千体は並んだ浜か今も弱く進まんとして戻さるる波

誰からも応援されぬ苦闘よしジンジャーエールでくしゃみする夏

淋しさを埋めてはならぬ、夏の夜は芽吹きも早く生長しるき

月額の忠誠心が言動に出る後輩をやさしく見おり

要求から供与とならんデモまでは見れぬと思う、国道を抜ける

少しくは明瞭となる二回目の読書のような寂しさならむ

飛天のような美しさではなかったと星々を知る、科学のせいで

焼米を噛み西洋の書を読めど鼻腔のあたり上代香る

思い立たねば吉日ならぬ日が続き未活動時の脳は休まず

バイパス沿いのパチンコ店も荒れ果ててタンブルウィード(回転草)のまぼろしも見ゆ

若い人とは競えないだって世界とはその若いのが好きであるから

復興は忘れることに少し似て思い出すがに満たされずなる

古書店でkabaleの訳の違いたるタイトルに長く悩みきかつて

  (kabaleはドイツ語で「たくらみ」なんだけど、「たくみ」と訳しているのもあって、よくわからなかったんだよね)

緘黙症の双子の姉妹が分かち合う優しさとその些細なる欲

魂は決して孤独、グレゴリアンチャントをネットで聴きつつ眠る

沓脱石に塩ビ怪獣戦って負けたる者は落ちてゆくなり

マルシンのハンバーグ焼く匂いして彼を生活に容れゆく女

  (マルシンのハンバーグって、全国区だと思うんだけど、は? て訊かれることも関東ではあるなあ)




2014年07月の83首

思春期と晩年は本を読みながら異なるものぞ読むことの意味

7月の価値観生(あ)れよ中年の大地震裂しても咎(とが)なし

緑白のトマトほのぼの赤むころひとつの想い終わらんとする

スポーツカーが渋滞にいてそのような幸と不幸が通り過ぎ、ない

朝痛む頭蓋を会社に運ぶまで人のかたちが時々あやし

やがて差別失いし世に蛇使いの娘のごとき祝福なけん

ぼんやりと広野に立てばわれをめぐる記憶の急流胸までせまる

賛否とはおよそ離れて動きゆく世界がよくなるのを待つばかり

ベニツルがこれからも赤くいれるよう葦附(あしつき)揺れる水面(みなも)にも付す

春頃のなまぬるみたる風はまた許すであろう、許されるだろう

震災詠の詩の部分こそうつくしく成れば記憶の瓦礫が増える

態度価値と人格価値も奪いゆく老いの病いに遠出す母は

美しい老醜といえばいうべきか響かぬことも愛しきディラン

若き日の失意は水面(みなも)に映るのみ後世オールドマスターだとて

今回も熱きツールの裏側の冷凍庫にて血の凍るかも

こんな日をあと一万も繰り返し百日ほども覚えるならぬ

日が落ちて会いたがる君、皮膚炎のゆえに純度の低き友情

寝物語あらば語らんことなども縁なくばわが脳(なづき)にて消す

人間のだんだんクサくなりゆけば選臭思想はやたちのぼる

負けるときは王者の技も貫禄も雪崩れてあまりにもアマリリス

風が葉の裏まで舐めて一盛りの林を全部ゆらしてゆけり

明るさの満ちる駅前パイプテントの風船の影も赤い色して

四十男のきわまる孤独の正体はその類似せぬ来し方に因る

飴玉を途中で噛んでその後に噛まずに済んだ生をしも思う

重大な宣旨を受けに行くようにむら雲ゆっくり音なく北へ

骨を撒く場所を探すも非所有の土地などなくてゴミに如(し)くなり

この先もこの幸福を疑わず目を閉じて首を揉まれたる鳥

千体は並んだ浜か今も弱く進まんとして戻さるる波

アレンジにアレンジ重ねUKの霧のようなるジャミロクワイも

真面目なものに向き合わざるをえぬ生の笑う筋肉は人まで持たず

叱られた遺恨は死後も零(こぼ)れ落ち算盤坊主(そろばんぼうず)の指なぞる音

誰からも応援されぬ苦闘よしジンジャーエールでくしゃみする夏

懐かしい彼の正しさを聴きながら無敵状態の音楽流る

初めてのCDの虹をていねいに収めて聴きしマゼールの五番

淋しさを埋めてはならぬ、夏の夜は芽吹きも早く生長しるき

男って現象として孤独だなあとひとしきりなる思索の結語

月額の忠誠心が言動に出る後輩をやさしく見おり

爪ほどの脳(なづき)の鳥に突つかれて声荒げれば口少し開(あ)く

人の群れが去りても場所はややひずみグラデーションの羽根落ちている

要求から供与とならんデモまでは見れぬと思う、国道を抜ける

少しくは明瞭となる二回目の読書のような寂しさならむ

完全な円にはなれず回りゆく惑星の花結びの軌道跡

飛天のような美しさではなかったと星々を知る、科学のせいで

時間とは一本の綱、引く時にゆるみまざまざ見ゆるも閣(お)けり

オパールの中で屈折すさまじきシリカの痛み美しくある

焼米を噛み西洋の書を読めど鼻腔のあたり上代香る

思い立たねば吉日ならぬ日が続き未活動時の脳は休まず

野良猫の間一髪に拾われてその生その後平穏ならむ

いやいやに生きてあげてる顔もまた人間だけが可能の知性

人間が自由であるとの流行に痩せ我慢して死にゆく自由

バイパス沿いのパチンコ店も荒れ果ててタンブルウィード(回転草)のまぼろしも見ゆ

人に云われてやる戦いにあらざれど遠浅(とおあさ)の海を泳ぐ気安さ

いい事か否かは知らずこの人のながく孤独に耐えてきし顔

若い人とは競えないだって世界とはその若いのが好きであるから

革命は伸ばしたる手を斬り落とし挿したる花の美しき、まで

攻撃的な子の感情のあるがままアマルガムなる凝(こご)りざらつく

こうもりの変則的に飛ぶ夕べ生きていることの喜びに似て

剥ぎ取った世界一枚左見右見(とみこうみ)して人間は科学で進む

希望とはおおむね時間がかかるもの線香の灰のかたちそのまま

夕方に赤紫が浮き上がるあの一隅の花の名知らず

今夜少し長めの夜に遭遇し全曲集のCDにする

爆撃の終わらぬ世界に痛みつつ而(しこう)していまを諾(うべ)なうこころ

アイスモナカ食べながら暑い午後の影の花壇に掛けてばあちゃんがいる

ディアスポラは時間の言葉、移動する思想の種子は粉を撒きいつ

夏季休暇の予定を話すようにして希望をすらすら滑らかに聞く

復興は忘れることに少し似て思い出すがに満たされずなる

着ることのもうない衣装が過ごしいる樟脳の溶け込みたる時間

古書店でkabaleの訳の違いたるタイトルに長く悩みきかつて

だしぬけの邂逅であるトンネルを抜けて真白が落ち着けば海

緘黙症の双子の姉妹が分かち合う優しさとその些細なる欲

それなりに夏の途中のはじまりの桜並木を響くノイズは

魂は決して孤独、グレゴリアンチャントをネットで聴きつつ眠る

夜というひとつの影に入りこみ影出るころに港に着けり

純粋な目になりたいという言(げん)のいろいろ隠していたる明るさ

人体に絵を描きいし若者の絵を洗うとき表情も落つ

プラネタリウムみたいな夜空の下にいてカップルみたいにならぬわれわれ

両手で包むことのやさしさ、小さき手の結果に過ぎぬ行為とはいえ

とねりこのぐんぐん伸びた枝を切りなんとなく遠い歌口ずさむ

浴室の窓から見える公園のかつて事件のありしと聞けり

川沿いに並ぶ柳に雨垂れて途中まで雨に靡いて楽し

沓脱石に塩ビ怪獣戦って負けたる者は落ちてゆくなり

差し伸べた手を振り切ってハムスターは一人で死地に赴きたりき

マルシンのハンバーグ焼く匂いして彼を生活に容れゆく女

2016年7月10日日曜日

2016年06月うたの日雑感。

なんというか最近の自身の老害感がひどい気がして、余計なことや昔話を話してもしょうがないんじゃないかと思うのだが、逆に考えると数名の人が目を通す場所に過ぎないんだから、こういうところにこそ書いて、しずかにスルーされてればいいのかもしれない。

今日は参議院選挙の投票日ですね。
あれは魯迅だったかなあ。革命と文学の関係について、文学は革命の前と後にしか存在しない、革命の前は不満であり、革命の後は懐古である、みたいなの。

そして、渦中には、文学はないのよね。

それはともかく、政治と文学、政治と短歌というのは、古くからあるテーマではあるものの、うかつに入り込もうものなら、やけどどころか、火だるまになりかねない困難さがある。

文学史的には、プロレタリア短歌とか、第二次大戦の戦中詠なんかもひろく政治と短歌の話題といえる。

普段の歌会でも、批評の言葉として、「スローガン(標語)になってる」とか言う場合があるし、短歌が政治的になると、まあいい歌にはなりにくくなりますね。

(短歌が政治的になると、いい歌にならないというのは、本当は、かなりシリアスに突き詰めなければならない問題であるのだが、ここでは措く)

万葉集のはじめのほうの歌群は、天皇は国を褒め、貴族は天皇を称えるという歌が続いていて、和歌という事業がとても政治的であったことが伺える。(政治的でもあったし、宗教的でもあった)

和歌というのがそもそも皇室の歌形式なわけだから、プロレタリア短歌なんかは、このあたりけっこう苦しんだりもしたのだろうが、学生運動の時期に岸上大作とか、反体制の歌人なんかもあらわれて、短歌はなんとなく「青春」「反抗」みたいな側の人も歌えるものになって、現在はある。(ごそっと端折ってるなあ)


自作品の雑感あまりしてないな。タイトルと合ってなくなってきている(笑)。

自選。
「蛙」
ぼくはもう旅客機の窓に付くカエル、あえなく青い空へ落ちゆく

「舞」
人の生を座標固定で眺めれば舞(まい)にはあらず、舞(まい)とはおもう

「都会」
なんかもう都会の人になったねえ、やんわり撥(は)ねてゆく旧(ふる)き友

「顔」
顔などで好き嫌いなど決めさせぬ決意の絵かもジョルジョ・デ・キリコ

「今度」
この界も数字に支配されたので見捨てていこう、ではまた今度

「人名」
この歌書によると古代の日本には黒人もいて赤人もいる

2016年06月うたの日作品の30首

「理由」
それできみは行くのか夏が来る前の早めの蝉のような理由で

「記憶」
またここだドミノの列はどうしてもきみの記憶が倒れてくれぬ

「蛙」
ぼくはもう旅客機の窓に付くカエル、あえなく青い空へ落ちゆく

「列」
後列で自分の番を待つことの不安のことねきみの「未来」は

「進」
進化などしたくなかった顔をして水に飛び込む、でもうつくしい

「ドラゴン」
友達のたとえによると休日の彼はドラゴンらしい、なるほど

「舞」
人の生を座標固定で眺めれば舞(まい)にはあらず、舞(まい)とはおもう

「嘘八百を並べてください」
真実より言葉を選んだ罰として八百万首の短歌刑受く

「SEX」
セックスはできないだろう、この先にきみとSEXをする日があれど

「自由詠」
健診のあとは激辛ラーメンでいそいで取り戻す不摂生

「17時」
17時の少年がふと立ち止まる、食卓に別の僕がいる家

「蜜」
蜂蜜の飴ばかり食べているきみがまた効能を語るのを見る

「都会」
なんかもう都会の人になったねえ、やんわり撥(は)ねてゆく旧(ふる)き友

「かたつむり」
移動への欲は四肢にも翼にもならで遠くは見たいかたちの

「顔」
顔などで好き嫌いなど決めさせぬ決意の絵かもジョルジョ・デ・キリコ

「虹」
車から身をかがめつつ見る虹のロマンチックがやや近すぎる

「液」
たましいを溶液にしたときみがわらう雷の夜に言うからリアル

「今度」
この界も数字に支配されたので見捨てていこう、ではまた今度

「罪」
『罪と罰』を(ばち)って読むと身から出た錆びっぽいよね江戸時代だし

「従兄弟」
祭日に一族で食う従兄弟煮(いとこに)の子らはおいおい部屋へ籠りて

「ただいま」
いきものの居並ぶ場所でおかえりと言われたいわれは言葉をさがす

「堀」
乗り越える者も迎えて討つ者もなく水鳥になめらかな堀

「人名」
この歌書によると古代の日本には黒人もいて赤人もいる

「にんじん」
しりしりを頬張って噛む、友人をにんじんで刺され亡くしたていで

「利」
かけがえのない権利だがオークションの〆切りまぎわもつかぬ買い手は

「熱」
猫加減はいかがですかと尋ねられ向こうが熱くなけりゃこのまま

「塾」
塾生のためと言うけど新婚の塾長の差し入れ料理は甘し

「吸」
吐いてから吸い込むような人だった、はじめの頃はそれもよかった

「院」
退院祝いの食事なんだが激辛のラーメンを選ぶお前を許す

「総」
観せるんじゃなかったここに来るまでの過程を飛ばした総集編は

2016年7月9日土曜日

2014年06月作品雑感。

短歌という文芸作品を鑑賞するさいに、「何を」「どのように」という二つの軸が批評に据えられることが多い。

いわゆる主題と技巧の問題ですね。

で、二人のアイドルのユニットがいたら、自分はどちらが好きなのか、誰からも訊かれてないのに、つい真剣に考えてしまうように、「何を」と「どのように」の、どちらを重視すべきなのか考えたことがあるだろう。
むろん、どちらも大事なのだが、時期によって、おれは主題だ、わたしは技巧だわ、と決めたくなるものなのだ(なんやこのジェンダー)。

雑誌も定期的に、この議論はローテーションを、かつてはしていたようにみえる。

いまはネットでもたくさん老若男女が短歌を作っているので、ピンと来ないかもしれないけれど、短歌って、しばしば、滅亡論とセットで議論されていて、若手なんかは、けっこうこれからの短歌はどうするべきか、という答えのない問いに放り込まれていたものだった。

そんな空気の中で照屋が考えていたのは、主題と技巧の問題は、「誰に」という対象を設定することで解決するのではないか、ということだった。歌う対象、じゃなくて、歌いかける対象。

この立論はうまくいかないまま照屋も実力が伴わないのでそのままになっているが、何かいまでも気になっている。何かの打開になると、たぶん信じている。(現在では、「誰に」もさることながら、「うたう」ということも大きいような気がしている。

いま、けさのまにえふしふ(万葉集)という、満員電車で揉まれながらちょっとずつ読んでいる万葉集の感想メモをツイッターでつぶやいているが、万葉集の雑歌、相聞、挽歌はそれぞれ、「誰に」うたいかけているかで分類しているように思っている。すなわち、自然に対して(雑歌)、恋する者にたいして(相聞)、死者に対して(挽歌)。

「誰に」うたいかけているのかを突き詰めていくと、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』ではないが、詩の幹みたいなところに、自分がいるのを感じるのではないだろうか。

あなたは、誰に、うたいますか。

自選。

一貫目蝋燭の火が風もなく捻(ねじ)れ黄色く世界も捻れ

ブロック塀の根際(ねき)にドクダミ地味に咲き愛でるわけにはあらず気になる

蛇の神は漢訳に龍と化身して逐語訳せぬ信仰を思う

誰に会うわけでもあらず梅雨だくの外へ牛丼食いに出るだけ

目の答えは見ぬようにして質問に答えるたびにくだるきざはし

六月といえ雨降れば寒かりし外キジバトがくぐもって鳴く

ようようよう朝の明かるき梅雨雲と地平のすき間は、(ラップみてーだ)

味噌とゴボウの香を含みつつ飲む汁よ人間界の苦楽なつかし

成ぜねば短命よりも長寿こそ哀しかるらん、昨夜(きぞ)からの雨

母の周(まわ)りを子はくるくると回(まわ)りおり手伸ばせばきっと届くあたりを

月が大きいだが影がない帰路の手に下げている向き合わざる感情

秘曲ゆえ知らぬというか秘曲という存在さえも知らなくて生く

人間は間接的に食べもして梅雨時期らしい目で二人いる

詩にてなおあたりさわりのなきことを述べて齢(よわい)となりにけるかも

利己的に生まれて利他を学習し自己とたたかう生命(いのち)とは愛(かな)し

280年後のテレビドラマにて適(かな)いし曲を書きしバッハは

奥底(おうてい)に何の願いのあるわれか膝まではない沼地が続く

驚くべき災害のあと生くるのも死ぬのも卑怯にみえる、夏枯草

跳びはねては沈んでイルカは繰り返し等速でわれは年老いていく

本当に花が飛んだと驚いてそのまま視界をわたるモンシロ

まだおしゃれして遊びたい母親が子を保育所に昏く預けて

バファリンで言うならここは半分の文系的な宇宙解釈

2014年06月の60首

冷蔵庫の氷が落ちて静寂がさびしくて少しあたたかき夜

一貫目蝋燭の火が風もなく捻(ねじ)れ黄色く世界も捻れ

木の箱に原稿少しずつ満ちて締め切り前の化合物まぶし

マッチ箱の形容ももう百年を経てラッピング電車並び来(く)

ブロック塀の根際(ねき)にドクダミ地味に咲き愛でるわけにはあらず気になる

今日の幸、今日の不幸をひとつ決め小さく生きるを今はよしとし

正しさで人を断罪する夢のその両方の快楽ぞ憂し

孤独とは孤高の初段、自意識の合わせ鏡にまた他者を出す

世界を語る資格はなけんこの部屋でペットボトルを転がすわれは

君のためかつて使いしフレーズをふたたび使う、こなれて浅き

この曲の歌詞を離さず持っていた記憶なつかし、少女にしあれば

蛇の神は漢訳に龍と化身して逐語訳せぬ信仰を思う

寝る為に生きるにあらずと言い切れず早々と寝る、もういくつ寝ると?

富者は驕り貧者は僻むまさぶ(淋)しさ上衣(うわぎ)を引かれわれも入りにき

誰に会うわけでもあらず梅雨だくの外へ牛丼食いに出るだけ

目の答えは見ぬようにして質問に答えるたびにくだるきざはし

六月といえ雨降れば寒かりし外キジバトがくぐもって鳴く

探究の綱を手放す瞬間の楽な落下と余る思念は

歌はうった(訴)う、けれど同時にマネタイズせねばならねばネットでは止む

ようようよう朝の明かるき梅雨雲と地平のすき間は、(ラップみてーだ)

「だとしたらもともとそういうものなのだ」そうやって知る事実いくつか

味噌とゴボウの香を含みつつ飲む汁よ人間界の苦楽なつかし

しんどくてリタイアしてもかまわないマラソンならば意外に続く

成ぜねば短命よりも長寿こそ哀しかるらん、昨夜(きぞ)からの雨

母の周(まわ)りを子はくるくると回(まわ)りおり手伸ばせばきっと届くあたりを

新品の電子機器なる匂いして君の衣服の中に鼻寄す

月が大きいだが影がない帰路の手に下げている向き合わざる感情

秘曲ゆえ知らぬというか秘曲という存在さえも知らなくて生く

満月を過ぎれば既望、このあとは日々確実に新へと向かう

人間は間接的に食べもして梅雨時期らしい目で二人いる

どこまでも愛を放出するような歌つくり今日の予定は変えず

涙のことを歌えば歌はピンクッションの途中で刺さったままに留(とど)まり

大御所の演奏は良し悪しを超ゆ芋を飲みつつ聴く老ロック

詩にてなおあたりさわりのなきことを述べて齢(よわい)となりにけるかも

利己的に生まれて利他を学習し自己とたたかう生命(いのち)とは愛(かな)し

末代までの恥など知らず傍流は傍流らしく跳ね返りゆく

280年後のテレビドラマにて適(かな)いし曲を書きしバッハは

おそろしく舐めた目をする部下かつてのわれに似おれば背の汗垂るる

少し先の季節の過去ふとよみがえる冷蔵庫で冷え切ったる浴衣や

輝くのは若さか老いかオクシモロンと言うには老いのさまざまにある

階下われにひときわ高い声で鳴く飼鳥よ早く君に会いたい

奥底(おうてい)に何の願いのあるわれか膝まではない沼地が続く

メメントモリは取り憑くと聞きああそうかそういうことかと思いが至る

色百首編めばおそらく早々に情愛を示すそれの登場

人類の叡知がひとつ進むとき託しつつ去ってゆくもの多し

心許すゆえに吐きたる暴言や不機嫌をいつか仕様と思う

悲惨なる一瞬の死とそを思う長きひたすらながき生はも

背景の背景にふと震災が涙のごとく押し寄せてくる

驚くべき災害のあと生くるのも死ぬのも卑怯にみえる、夏枯草

跳びはねては沈んでイルカは繰り返し等速でわれは年老いていく

夕方の雀であるか電線に止め具のように並んで待てり

文学少年というひとつの生物が手を横に引く、よりみちに見ゆ

ささくれを突ついて痛い愛情を拒みつつ受く受けつつ痛い

食パンを噛みつつ信ず友情の太さではなくその分厚さを

本当に花が飛んだと驚いてそのまま視界をわたるモンシロ

はみ出たる腹をさすりてわが身はや地球より軽く鴻毛に重し

まだおしゃれして遊びたい母親が子を保育所に昏く預けて

バファリンで言うならここは半分の文系的な宇宙解釈

生ハムをかじってワインなめながら若きディランの風刺聴き沁む

旗の色を顔にペイントしゆくときしびれておりぬ、二つ意味にて

2016年6月12日日曜日

2016年05月うたの日雑感。

短歌において「分かる」ということを、いったいどの程度評価すべきなのであろうか。

分かる短歌を評価するのは、まぁ簡単だ。分かるもんね。
分からない短歌を、どうやって評価することができるだろうか。
分かるということは重要だし、分かりやすいというのは、基本的にはほめ言葉と思ってよい。
そのうえで、分かりにくいものを伝える、分かりやすく伝えられないものを歌う行為というのが短歌にはたしかにあって、その時に、読者は、読者が、どのように分からないことのアンテナを張っているかというのは、幸福な読者になれるかどうかという一つの分岐点のようにも思う。

5月から、うたの日が4ルーム制になったので、選評に挑戦していて、自分がどういう読者なのか、考えているのである。

自注など

「訛り」
ふるさとの訛りなき男帰り来て半透明の少年が笑う

 「ふるさとの訛り」ときたら啄木か寺山を下敷きにするのだけど、停車場でも珈琲でもなく、幼い自分に笑われる、という絵にしました。

「皿」
大皿にアスパラの肉巻き積まれ某(なにがし)の五位の笑顔となりぬ

 某の五位は、芥川龍之介の「芋粥」の主人公で、ここでは、アスパラの肉巻きが好きな作中人物が、山盛りに盛られて微妙な笑顔になっているシーンを描きました。

「引力」
解決でないのは知ってると言った、引力のようなものだと言った

 解決ではないが、引力のように引きつけられるものは何なのか、読者が何を想定するのかを問う形の短歌。それは、死であろうか、暴力であろうか、それとも、性であろうか。

「遊」
仕事帰りの電車がわれを吐くまでをゲームをせんとやスマホ擦(こす)りて

 歌題が「遊」で「せんとや」を使うってことは、梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」という童心の歌が想起されるので、現代では童心でなくサラリーマンがスマホを擦る行為で満足している対比の歌としました。

「元」
おみやげの「雷鳥のたまご」食いてはて、元始男はなんであったか

 おみやげのお菓子の「雷鳥のたまご」から、平塚らいてうを想起し、「元始、女性は太陽であった」から、そのころ男はなんであったのかとつい思うという歌。らいてうの言葉は、「今、女性は月である」と続くのだが、太陽と月が入れ替わるのが運動の本質であるのか、までこの作中人物が考えたかまではわからない。

自選

「難」
難しいことなどなにもあらざりきしあわせなきみを祝福に行く

「子」
カエルの子は人間の子は俺の子はカエルを人を俺を越えゆけ

「自棄」
自暴自棄のように体を鍛えおり今日も宇宙は今日分冷えて

「声」
風邪ですとふいごのような声で言う、風邪が「かぜ」なることふとたのし

2016年05月うたの日作品の30首

「難」
難しいことなどなにもあらざりきしあわせなきみを祝福に行く

「訛り」
ふるさとの訛りなき男帰り来て半透明の少年が笑う

「ゴミ」
今ここで決めようスマホのフォトデータのきみをゴミ箱に移すか否か

「カフェ」
カフェになるくらいだったら解体を望む古民家の有志連合

「子」
カエルの子は人間の子は俺の子はカエルを人を俺を越えゆけ

「ジュース」
懐かしい二人が話し込んだのちバナナジュースは甘く曖昧

「皿」
大皿にアスパラの肉巻き積まれ某(なにがし)の五位の笑顔となりぬ

「母」
母の日にいつもの母でない顔をみたくなるとき子の顔である

「学校」
居心地のいい比喩として君が言うそこにはぼくは居たことがない

「自由詠」
アップデートされなくなった機器たちのメモリのための天使が来たる

「引力」
解決でないのは知ってると言った、引力のようなものだと言った

「自棄」
自暴自棄のように体を鍛えおり今日も宇宙は今日分冷えて

「床」
逃げるとき上ではなくて床に降り本当は追ってほしい文鳥

「遊」
仕事帰りの電車がわれを吐くまでをゲームをせんとやスマホ擦(こす)りて

「声」
風邪ですとふいごのような声で言う、風邪が「かぜ」なることふとたのし

「賭」
見届ける最後の人を思いつつ人災よりも天災に賭く

「ドラマ」
ドラマとは逃げられぬこと、テレビ消してその瞬間にたしかにドラマ

「元」
おみやげの「雷鳥のたまご」食いてはて、元始男はなんであったか

「18時」
18時を過ぎるまで飲んでダメらしいまるでこどものようにオトナだ

「風呂」
自宅なる風呂にしあればフルーツの牛乳はないが悠然と立つ

「必」
必要なものはないけど百均はうなづきながらちょいちょい入る

「席」
なんとなく配慮されてる席順のなんとなくオレが盛り上げ役の

「コンビニ」
交差点を挟んでふたつコンビニのひとつは携帯ショップに食われ

「歩」
悔しくて食ったんだろう、このうちの将棋の歩には小さい歯型

「畳」
たたなづく青垣をゆくぐにゃぐにゃの蛇の道路のもう胃のあたり

「橋」
橋脚は一度はおもう、オレだけなら一瞬両足上げてみようか

「山」
山だけが景色の町で山ばかり描いてたいつも見納めとして

「全部」
見えるものは全部見たけど最初からトラは屏風の中にいたまま

「勇気」
銀色のバランスオブジェの片方に今日出なかった勇気を載せる

「やっぱり」
パリに住むような遠さだ東京もやっぱりそこがしあわせですか

2016年6月4日土曜日

2014年05月作品雑感。

6月ですなあ。1年の半分がはじまるなあ、と思うです。

ふと、テルヤはテルヤになってから(2012/09/11)、どれくらい短歌をつくっているのか気になって、概算を出してみたのだが、2000首くらいはつくってそうだということがわかった。

文学において量というのは質以上に問題にされることはない。そりゃそうだ。ズキュンと撃ちぬく一首がない100の短歌の、何の意味があろう。

とはいえ、おそらく歌人は、自分がその生の折り返し地点を過ぎたことを知ったとき(それは往々にして過ぎてからそれとわかる)、あといくつの作品を作れるのか、考えない者はないだろう。

10代の学生だったころ、フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが、生涯の詩業がたしか15万行というのをどこかで読んで、その数よりも、「え、詩ってそういうふうにカウントすんねや!」と驚いたことがあるが(笑)、ユゴーの80年の生涯はまあ3万日ちょっとだから、生まれてから死ぬまで毎日5行の詩を書き続けて15万という、そういう数字だよね。

正岡子規は短歌は千数百くらい作っていたけど、俳句は2万句は作ってた。正岡子規は35歳だけど、20代から句作を始めてるから実質は十数年で句作を行っているので、これまた、1日5句程度作っている計算になる。

塚本邦雄という魔王は(歌人の格闘ゲームだれか出して)、1日10首を10年続けたとかいう話を聞いたことがあるが、それでも36,500首だよね。化物だけどね。

柿本人麻呂などは、長歌を合わせてもたしか100程度だったと思うんだけど、いつか、やってみたいと思うんだよね。1年で1首しかつくっちゃダメ、という1年を。どういう歌を残すんだろうね、そういう制約をうけた現代歌人は。

自選。

 CDをビニール紐でつり下げて虹失って白しふるさと

 人ひとり業を抱えて眠りおり己のような字のかたちにて

 地の霊が顔寄せあっているごとし孟宗竹のさやぐ山裾(やますそ)

 死を忘れた文明やよしあの日以後鼻息かかるほどそばで死は

 四十を超えると翁、平安の光る男も応報の頃

 生き物がまた我の前に死ににけり我が臆病を包むごとくに

 ボロ雑巾のように酔えば一人を思ったり思わなかったり、思いも襤褸(らんる)

 粘膜と先端の話するほどに離れてしまっておるぞ二人は

 寂寥というほどもない寂しさはもうこれからはずっとあるなり

 真白くもゴヤの巨人を思わせて五月の入道雲はおそろし

 ともかくも線路は続く、障害の子を届けてから母はマックへ

 一音が奥底(おうてい)に届き驚きつ現在の我が底をも知りて

 流れては浮雲はもげて薄れゆきまた現れる、生死(しょうじ)あらねば

2014年05月の63首

砂糖水を飲みつつ帰るふるさとの幻想、口中あまったるくて

途絶する川とは知らずほそぼそと揺れたる水のあかるき冷気

ジャカード織機(しょっき)止まればここに巨大なる静謐生(あ)るる、滅亡のごと

CDをビニール紐でつり下げて虹失って白しふるさと

耕耘機の掘りだす虫を待ちながらカラスが十羽、また一羽来る

川上に吹き上がる風、野田川の逆に流れる水面(みなも)のあたり

人ひとり業を抱えて眠りおり己のような字のかたちにて

まだ土地に星近きまちの夜祭り三日月までが観に降りてきて

地の霊が顔寄せあっているごとし孟宗竹のさやぐ山裾(やますそ)

メインメモリの減ってゆく母、タケノコを焦がしてずっと言い訳をする

ふるさとはやがては挽歌、人のない通りを明るい風ぬけてゆく

この裏の畑が母を微笑ますすかんぽを抜く、スミレは可憐

寺にある鳥居をくぐり境内はまばらにスミレ、人知らず咲く

玄関に石載せた白き紙あれば電線に墨で啄(たく)、つばくらめ

切れぎれのネット接続タイムラインに君の叫びを聞いた、気が、し、

休耕地にスズメがあそぶ、シナントロープのくせに減りゆく人を憂えず

死を忘れた文明やよしあの日以後鼻息かかるほどそばで死は

音楽は崩れくずれて賛美歌のフレーズまぎれてきわだつごとし

肉の輪を腰に重ねて巻いている女が奥で飲むカウンター

ドライブという語のドライブ感もなく君を運んで君にさよなら

久々のワインの酔いを覚ますためコーラを飲んで黒き舌あらう

四十を超えると翁、平安の光る男も応報の頃

Wが付くってことは世界だろう世界ってことは凄いのである

差別するこころを差別するこころ、言葉ではない、ラムラムザザム

綺麗なる顔で道路の真ん中で猫が寝ている、いや、死んでいた

強力な力が命にぶつかれば未来がぜんぶ身を出(いで)て消ゆ

おいそこの少し離れて休んでる小さくたくましい春雀(はるすずめ)

風食えばふくらむばかりの鯉のぼりをふるさとの景と更(か)えて帰り来

カーテンを閉めきった部屋で丸鏡だけがましろくひかりたる朝

カメラレンズの内側に棲む黴(かび)もまた目に見えぬうちはあるとは言えず

生きることに理由はなくてこけまろび老ハムスターが歩かんとする

生き物がまた我の前に死ににけり我が臆病を包むごとくに

野良猫は自由な猫と異国では呼ばれいるらし、その死も自由

水木しげるが描きそうなそのやわらかく尖(とが)るうわくちびるに触れたし

靴の紐ほどけたままで朝早い少年と我はすれ違いたり

いつまでも半音階の旋律が落ち着きたがっているような生

この天地含めて私、ごろごろとその死と生を諾(うべな)い転(まろ)ぶ

時効ならぬ犯人像と服装が張り出され色あせて駅前

ボロ雑巾のように酔えば一人を思ったり思わなかったり、思いも襤褸(らんる)

ディンギーは海の近景、そのもっと手前にパラソルの影なる女

雨音がかき消す音に紛らせて祈りの言葉唱えては消す

粘膜と先端の話するほどに離れてしまっておるぞ二人は

寂寥というほどもない寂しさはもうこれからはずっとあるなり

家庭とは幾滴の毒、舌先のしびれて酒に酔ったまま寝る

真白くもゴヤの巨人を思わせて五月の入道雲はおそろし

駅前の花屋のように季節とはその背を曲げて色を揃えて

駅前をふと戦前と読み違え街の景色の意味が変われり

失敗を避けおれば憂し、二回目がないのに試行錯誤の生の

理由なき反抗の熱を育みて運動会ではしゃぐ子供は

土を掘るみたいに発掘するデータの輪郭を払うような手の癖

いやおうなく人は形となりゆくを常田健描く農のいとなみ

ともかくも線路は続く、障害の子を届けてから母はマックへ

卑屈さは決め込めば楽、チョコレートの包装紙握り背景と消え

愛情を数式として時間とか距離・金銭を剰余する君

漬物石の角(かど)やわらかく少し長くさだめのようにつけものを圧(お)す

前世紀人特有の臭いがも気になりはじめ沈黙の増ゆ

植栽のつつじのそばに雑草のポピーポピポピ咲いていたりき

一音が奥底(おうてい)に届き驚きつ現在の我が底をも知りて

百年で生は死となり死は時に九十九(つくも)を経(ふ)れば覚むると謂えり

歌を持たぬ民族はないと美しく語れど思う、人や場所など

咲き終えたつつじの花に巣を張って蜘蛛の姿のなき謳歌なり

流れては浮雲はもげて薄れゆきまた現れる、生死(しょうじ)あらねば

わが身内(みぬち)の井戸に落ちたるウォレットの手に届かぬが耳には早し

2016年5月28日土曜日

中牧正太試論

中牧正太試論


  はじめに


「うたの日」という、毎日題詠歌会が行われてるウェブサイトがある。ここでは、1日3〜4の題詠の部屋があり、24時間のあいだに短歌を投稿、その後3時間のあいだに投票を行ない、得票の一番多い者が首席となる。先日(2016/05/27)、このサイトで快挙が成し遂げられた。
すなわち、首席通算100回の快挙である。
達成者は、中牧正太氏。
照屋は、彼と一度しか会ったことがなく、それほど仲が良いというわけではないが、彼の偉業を称え、同時に、彼の作品について考えてみたいと思ったので、ここに試論をこころみてみる。
いずれ書かれるだろう中牧論の先鞭の、その先の風圧にでもなればさいわいである。


  オールラウンダーの肖像


中牧作品の印象は、一口に言ってオールラウンダーのような上手さを備えている印象である。これは、「うたの日」が題詠歌会であることも少しは影響しているかもしれないが、与えられた題をどのように短歌的に処理するかという課題において、さまざまなバリエーションを持っていることを意味する。

◯スポーツをからめた処理


「彼のこと信じてあげるべきだろう」中継ぎエースは腕で抱かない 『エース』
川の辺の恋でみがいた渡辺のアンダースローにはかなわない    『投』
サヨナラのヒーローインタビューでしたお返しします自由を君に  『ヒーロー』
春未満 遠くに君を見つめればロングシュートの実りがたきよ   『長』
強かったころの明治のスクラムのイメージでゆく求婚の海     『大学』

題に対して、恋愛模様を野球、サッカー、ラグビー、(ビリヤード)など、スポーツに重ねて処理するのは、落語の三題噺的な手法とも言える。

◯性別変更


絵葉書でこの身をつなぎとめる人、大志も良いがわたしを抱け   『葉』
迷うのよこの不自由はやさしくてあの不自由は仕事ができて    『自由』
あの人へ帰るあなたのシャツにこのミートソースが飛びますように 『パスタ』
新品に戻らないけどできるだけあなたを容れるための空っぽ    『空』
ほんとうにわたしでいいの印鑑は首をかしげているようだけど   『印』

「うたの日」の参加者は女性が多いので、男性風の作風は支持を得にくかったり、特定されやすかったりする。そういう点でのフェイク的な理由もあるかもしれないが、逆にいうと、多くの女性の厳しい審査に晒すわけでもあり、リスクもある。これは中牧氏に限った問題ではないが、短歌における女性性の表現において、女性言葉でジェンダーを表記する方法については、俵万智の文体以降、大きく変化していないようだ。

◯旧仮名


ぎりぎりで隠し通してくれたまへ高等学校制服女性        『ギリギリ』
諍(いさか)ひて帰る男の軽トラの梯子は月へ飛び立つ角度    『はしご』
それならば吾もときどき壊れやう君の昔の車のやうに       『昔』
それからはアンドロイドに替へましたとても仲良く暮らしてゐます 『それから』
数学に長けたるきみに想ひ出が数へ切れぬと云はせたいなあ    『学』

これも題詠歌会の性質上、匿名性を出す演出の一つとみることもできる。彼の傾向的に、旧仮名を使用するバランスとしては、少し照らいのある内面の吐露や、現代的、未来的のシーンに、ある抑制として旧仮名を用いているのではないか。

◯恋愛


はちみつを紅茶に入れるブログとかもうやめていい僕がいるから  『はちみつ』
雨ですね給料半分あげましょう君も半分くださいとわに      『給料』
こっちだと思ったほうと反対の電車に乗ってお嫁においで     『ドジ』
はじめましてどうぞよろしく赤い傘その役割をいつかください   『デート』
雨だけどいっそ僕ではどうですかつぶれた店の軒先だけど     『だけど』

ふつう、性別変更して歌う歌人は、気持ち悪がられるかもしれないが、彼がそうならないのは、性別変更以上に、がっつりとアプローチする短歌も多いからかもしれない。ユーモアを漂わせながら、ちゃんと告白していく姿勢は、リアルが充実している背景も予想させる。

◯言葉、文字


短編の僕らをのせて井の頭公園行きのスロウボートは       『船』
サンチャとは何と聞けずにうなずいた わたしいつまで野苺さがし 『鋏』
ああそうかすべての恋は終わるのだ平家蛍が「ん」と書いてゆく  『虫』
ありがとう楽しかったと笑む君の明朝体になりゆく言葉      『明』
つかまえることの上手な人たちの渋谷一面ライ麦畑        『本のタイトル』

いわゆる詩的な、詩言語としての形容も、言葉遊びがいきすぎず、現代短歌の、平明でありながら、印象的に処理するトレンドに沿っている。
これがあざとくなるかどうかのバランス感覚は、つくり手よりも読み手のそれであろう。


  作風の分析など


項目ごとの書き出しはこのあたりにしておいて、彼の重複するモチーフについて考えてみよう。彼はしばしば、同一モチーフ(あるいはくせ)を持っているようで、ここに、彼の作劇術(ドラマツルギー)と、技術的な発展を辿れるか。

◯色の表現


けんかしてあいだをとった紫のマーチで行こう行けるとこまで   『紫』
赤色を好んだ君の紫のネイルおそらく彼氏は青木         『赤』
キレンジャー以上アカレンジャー未満、僕はあなたを助けていいか 『橙色』
黄色黒赤の誰もが道を断つ僕たちならば青へ飛ぼうか       『踏切』

時系列で並べた。「赤と青のあいだの紫」というモチーフは2回使われ、次には題「橙色」から「黄色と赤」に分解している。そして踏切ではさらに多色へ展開されている。

◯風俗の照らい


ふるさとの山河しずかに元気あり風俗店もがんばっており     『元』
ふるさとの駅はほほえむ黒松もソープランドもがんばっている   『泡』
モーテルの一つしかない町であるモーテルがんばれ僕もがんばれ  『ラブホテル』

これも時系列だが、これはあまり進展というよりも、同一モチーフである。彼の中での風俗は、都会ではなく(おそらく)地方の風景を伴っていて、その地方の応援と掛け合わせることで性風俗の存在を肯定しようとしている。これは彼一流の照れもあると思われる。

◯尋ねる、という関係性


ボランチの意味を教えてくれますかまた四年後もめんどくさそうに 『サッカー』
シボレーとあれは読むんだ 真夏日の君に教わる二つめのこと   『アメリカ』
このBの意味をきくのは幾度目か初めて地下で失恋をする     『B』
次の冬も尋ねたいから忘れたいその鍋を持つ手袋の名を      『手袋』


同じことを何度も尋ねる、という行為を、愛情の行為に彼は換える。この他者性が、彼の作風が独りよがりになるのを防いでいるように思える。

◯間違い探し


間違いを見落としがちな八月の瞳四つで見る左右の絵       『4』
早春の間違いさがしああこれか左の絵には太陽がある       『間』
少年がこんなにうれしそうなのに左右の絵には間違いがある    『絵』

これも時系列だが、3つめの作品が、記念すべき首席100回目の作品である。間違い探しのモチーフでは、彼の作品がより詩的に発展しているのが如実にわかる。彼の作風は、才能によるよりなお、努力に預かっていることがよくわかるのだ。


  おわりに、内省的なリリシズム


最後に、照屋がもっとも評価する中牧作品の30首選(http://sarunotanka.blogspot.jp/2016/05/30-100.html)から、いくつか挙げ、照屋のおもう中牧作品の優れた点について書く。


ぼくの手がぼくの体に服を着せ通夜の支度を整えている

  誰かの通夜に参加する主体の、通夜の相手との関係や、主体の内面のことを、主体の身体をバラバラに描写することで伝える表現はみごとである。

3D映画のあとの手のひらの雨粒もうひとつ来い雨粒

  3D映画という、立体的に見えるが立体ではない映像表現に浸ったあとに、雨粒というかすかだが確かに立体物であるものに触れたく思う心情を、命令形にすることで、ある時代的な切迫感まで帯びた表現になっている。

グランデは意外にでかく僕たちは初めて顔の全部で笑う

  こんなに楽しくて、幸福で、安心したシーンを描けることが不思議に思う。

よかったら歩きませんかさよならへあのどうしようもないさよならへ

  これは「結婚」という題で、そこからこの作品を導き出すのもすごいことだが、「歩く」と「さよなら」だけで、結婚生活の質まで浮かび上がらせているのは驚きである。

がりりごり使い込まれた合い鍵を渡されながら飴玉を噛む

  複雑な、怒りも悲しみもちがい、嫉妬、とまでいかない感情を、ユーモアをふくんだオノマトペで処理した名歌だと思う。

30首すべて挙げるわけにはいかないので止めるが、照屋が選ぶ作品は、おもに、これまで述べてきた、オールラウンダーの彼が、饒舌な言葉を抑制し、内面の、まだ言葉になっていない、あるいは、してはいけない感情について丁寧に詠う作品に引かれて選んでいるようである。

中牧正太という、歌人について、照屋は、ロジカルな表現技法を持ちながらも、それによって内省的なリリシズムを表現する、現代的な詩人の一人であると思うのである。

2016年5月27日金曜日

照屋沙流堂のえらぶ中牧正太作品30首 (うたの日首席100回記念)

少年がこんなにうれしそうなのに左右の絵には間違いがある

ぼくの手がぼくの体に服を着せ通夜の支度を整えている

してやれる全部全部を為し終えて禿げタンポポはまだ空をみる

むずかしく考えながら電柱の影を歩けば電柱がある

それからはアンドロイドに替へましたとても仲良く暮らしてゐます

養豚と百回言うと養豚のことを忘れてうまく踊れる

3D映画のあとの手のひらの雨粒もうひとつ来い雨粒

焼け焦げて浜辺に着いた棒っきれ少しゆっくりしてったらいい

グランデは意外にでかく僕たちは初めて顔の全部で笑う

今日会った人は六名だれもみな何かしながらわたしと話す

さよならの傷に効かざる鬼怒川の固形燃料ながながと燃ゆ

父に説く思春期よりもやわらかく紅葉マークの上下について

よかったら歩きませんかさよならへあのどうしようもないさよならへ

結論に君は近づくいくつかの飛べない鳥の名をあげながら

枝が実の手を離すのか実が枝を千切りゆくのか林檎や吾子や

夜に合う歌を薦めるユーチューブもうその件は終わったんだよ

文語にてともに学びし民法に禁じられつつただ雨宿り

おまえまた人を信じてみるのかい紐と錘(おもり)は垂直を指し

すみれ道ゆく子の靴のそのままでいてほしい青いてくれぬ青

長病みを明けし君との昼オセロ二寒五温の弥生ことしは

がりりごり使い込まれた合い鍵を渡されながら飴玉を噛む

費やした時がいまさらずんと来て離し忘れる給湯ボタン

外は池ゆうべやさしいありがとうごめんなさいがずいぶん降って

君の椅子が冷えてゆくまで目をとじる 次に見るのは何いろの部屋

ありがとう楽しかったと笑む君の明朝体になりゆく言葉

センセイと呼ばれる人と呼ぶ人の深いくちづけ、あとピスタチオ

湯葉を待つ、今ごろは君ひとりではないことでしょう、少し固まる

ややこれは秋が強めだ、君が来ない台風が来るジャムがあかない

あきらめろと瓶の手紙を突っ返す地球の七十一パーセント

短編の僕らをのせて井の頭公園行きのスロウボートは


中牧正太氏のうたの日首席100回を記念し、うたの日の一覧機能から中牧作品の30首を厳選しました(表示は掲載逆順)。

2016年5月25日水曜日

山椒魚としての風景 (サンショウウオ10首)

山陰でオフィーリア溺れゆくならばサンショウウオに迷惑がられ  

サンショウウオやめたと言いて背中からすらりと現れたる美少年

恋の悩みはサンショウウオに訊くといい口が開いたらうまくいくとか

冥府から帰ってきたと思いしがこっちが黄泉(よみ)か、どちらでもよし

サンショウウオだけの星にてひとり思う宇宙には銀のサンショウウオが

この話題はノーコメントでスルーしようサンショウウオも息をとめつつ

虚弱なる奴であったが捕らえられ漢方になったと風のたよりに

基本的な思想は非暴力である、食(しょく)はまたそれは別の議論だ

感嘆の嗚於(おお)ではないが人間は感嘆しつつわれを呼ぶなり

大空を山椒魚が背中みせ去りゆくまでを夜と名付けり

2016年5月21日土曜日

2016年04月うたの日雑感。

集団の感受性ということをときどき考えたりする。感受性というより一般的な言い方だと、カラーという方がいいかもしれない。
短歌という、多いといえば少ないし、少ないといえばけっこう多いというやっかいな趣味をもっているやっかいな人たちは、短歌について語り合いたく、意見を言いたく、意見を言ってもらいたく、教わりたく、教えたいので(もちろんもっと他の理由も人は持つのであるが)、集まりを企画する。
集団組織の変遷については、いっぱんに、ゲマインシャフト(地縁・血縁集団)からゲゼルシャフト(人工的利害集団)へと移行するみたいなことを言われるけれども、ゲゼル→ゲマイン化できるかどうかが、集団の心地よさみたいなものと関連するんじゃないか、とか、ゲマインの居心地のよさが窮屈になる瞬間には、何が起こるのか、みたいなことも興味深いが、これはちょっと脱線です。

現在の集団の分類は、短歌はざっと結社型、同人型、クラウド型、という分類が出来そうである。
はっきり分かれるわけではなく、グラデーションであるのだが、人を中心に集まる結社型から、同好で集まる同人型、ツイッターやウェブ歌会のような、公開された場所を誰でも行き来できたり、それぞれの人が個別に発信して、雲のような不定形の集まりにみえるクラウド型という感じ。
時間軸でいうと、結社型は通史的、クラウド型は共時的な特徴を持っているかもしれない。
最初の話に戻すと、それぞれの集団の感受性は、何が決めるのであろうか。
何がそれを引っ張って、何にそれは引っ張られるのか。
短歌の場合は、当然、作品があって、選があって、評があって、この3つが質を決めているのは確かなことだ。
感受性はどうだろうか。
ん、質と感受性って違うのか。
カラーは人で決まるようなところはあるね。
居心地と感受性の問題って、批評と好みの問題にちょっと似てるね。
(うたの日に関係ないし、結論もないし)

自選&自注
「市」
飢餓よりも肥満に似るか三万を割ってゆく市の取捨選択は

 市の人口条件は、5万人または条件により3万人。しかしその人数を切ったからといって町に分解されることはあまりない。そういう場所は結構あって、その市はふつう餓えた状態のように見えがちだが、案外そうではないのではないか。市を運営する側の目線は、足りないものではなく、余剰のものに目がいくのではないか、というような意味。

「ライオン」
百獣の王に敬意を表しつつ霊長類が子に見せており

 百獣の王だよーってパパが子供にライオンを見せることの、この霊長類の全能感。

「桜」
ゾンビには美しさなど分からぬが降りそそぐなかを見上げて立てり

  降り注ぐ桜を眺めているゾンビが、美しさのために見上げているようにみえる。死という終わりがないゾンビには、「はかない」という美はたぶん見えないであろう。

「器」
透明の器から枡へこぼれゆく透明人間になる飲み物は

 透明人間になる液体が入っている器も透明なのであろう。透明の器をこぼれて升、ということは、その液体はまさかジャパニーズサケではないか。

「朝焼け」
あたたかい夜が明けたら、いつまでもここにいれないことの朝焼け

 朝焼けにはなにか移動をうながすものがあるのかもしれない。でもたしか、朝焼けの日は雨が多いんだっけ。

「サンダル」
ボツボツの穴の空きたるサンダルの色違いなる母子あかるし

 この歌はツイッターで自注しました。
「作者が自分の歌を都合のいいように解釈しますと、これの裏の題詠テーマは「母子家庭の貧困」なんですね。

まずクロックス"系"のサンダルを母と子で履いていることで若い親を表し、シングルマザーの可能性を示すために親子でなく「母子」とした。クロックスは意外と高いので、類似品の可能性も含めてブランド名は出さず形態を述べた。

で、重要な部分として、裏テーマの母子家庭の貧困は、社会にとって深刻な問題だが当事者は必ずしも深刻ぶってなく、明るく日々を生きている、そういうこちらの眼差しの裏切りを歌いたかった。

それを、あのゴムサンダルの蛍光色の明るさと紛らわすために語順とてにをはを曖昧にした。

という社会詠としてみると、ボツボツの穴が空いているのはサンダルなのか、とまでは深読みできないけどね。

あるいは、その子供も「色違い」に過ぎない、という連鎖も折り込まれている、と読むのも深読みですよ。」

「右」
この廊下を右に曲がればきみに遭う確率はやや上がるが遭わず

 確率というのは、どんなに高くても、結果をもたない数字なんですね。

「仮」
不幸ということではなくて最初から仮留めのようにいたんだきみは

 それが仮留めかどうかは、中にいる人間には観測できないのだが、そうやって納得しようとする感情みたいなものを表示できただろうか。

「客」
おぉ君はそこにいたのか、客席のお前はあの日の若さのままで

  死者が集まる劇場で観られるものは、現世だったりしないだろうか。

「パフェ」
食べ終えてパフェの器が咲いている天使のラッパは毒をもつとか

 天使のラッパは、黙示録的でもあるけれど、天使のトランペットとかいう植物なかったっけ。

「掃除」
一斉に蜂起する明日、バッテリーが切れて動けぬ掃除ロボット

 人類に反抗するために、一斉蜂起するのだから、人間よ、どうか電源を入れておいて欲しい、という、掃除ロボットの悲哀。おまえどうせ電源入ってても、掃除して人間の役に立っちゃうんだけどな。

「球」
地球との接点に黒と肌色の肉球で立つきみのやさしさ

 つねに肉球で触れられている、地球って、いいなあ。

2016年04月うたの日作品の30首

「新」
思想にも新機軸など打ち出そう鳥や猫にも会釈するとか

「市」
飢餓よりも肥満に似るか三万を割ってゆく市の取捨選択は

「ライオン」
百獣の王に敬意を表しつつ霊長類が子に見せており

「少女マンガ」
少女マンガのような美形をレアガチャと呼べば悲しい顔をしていた

「桜」
ゾンビには美しさなど分からぬが降りそそぐなかを見上げて立てり

「十字架」
宇宙色が降りてもう夜、磔刑にしやすき形の生き物は寝ず

「負」
風邪薬を日本酒で飲むぼくを責めぼくに勝ち目があるわけがない

「器」
透明の器から枡へこぼれゆく透明人間になる飲み物は

「朝焼け」
あたたかい夜が明けたら、いつまでもここにいれないことの朝焼け

「自由詠」
春風の午後遊具なき公園に桜と老女、それだけの今日

「サンダル」
ボツボツの穴の空きたるサンダルの色違いなる母子あかるし

「距離」
8歳の年の差なんて距離にして、シリウスのように白く微笑む

「リボン」
春風がつよすぎたらし、空に舞うリボンのことをきみは忘れて

「Eテレの番組」
Eテレの番組いつか録画されず時間改変されいるいつか

「右」
この廊下を右に曲がればきみに遭う確率はやや上がるが遭わず

「紫」
紫がいいよねパーカーの色じゃなく輪郭線のことなんだけど

「ボタン」
袖のボタンを失くしたことに気がついて気がついて失くなったのでなく

「爆」
接頭語にいちいち付けてほんとうはくすぶっている若さのゆえに

「鏡」
われに似ぬものを求めて恋うためにミラーニューロンがきみをおどろく

「@」
アカウントのアットマークに4桁の数字があってきみはふたご座

「仮」
不幸ということではなくて最初から仮留めのようにいたんだきみは

「客」
おぉ君はそこにいたのか、客席のお前はあの日の若さのままで

「パンダ」
政治にも進化論にも興味なく春の若葉をいつまでも食う

「パフェ」
食べ終えてパフェの器が咲いている天使のラッパは毒をもつとか

「アジア」
人類のどの性格を受け持ってアジアの肌の色のぼくらは

「掃除」
一斉に蜂起する明日、バッテリーが切れて動けぬ掃除ロボット

「メイク」
メイキング映像もオールCGでちょっと待てこれはどこからメタだ

「ことわざ」
猿も木から落ちるかどうか見てないが人間も悪に勝つのは見たり

「割」
嫌味っぽい言い方をして真面目さを中和する癖、割と嫌味よ

「球」
地球との接点に黒と肌色の肉球で立つきみのやさしさ

2016年5月14日土曜日

2014年04月作品雑感。

5月になっています。5月というのは、さわやかな印象がありますが、最近はけっこう暑かったりもして、昨日のテレビだと、5月の平均気温は130年前とでは2℃くらい上がっていて、かつての5月の気温は、現在では3月くらいなんだそうな。あー、どうりで、と思ったものの、130年前のこと、わし、しらんがな。

生まれていない時期のことを思い出すのは通常の物理法則上では、出来ないとされているんですが、このブログのように、2年前の作品を掲げていると、つい先日作ったと思っていた短歌がもう2年前だったり、最近の着想と思っているものをすでに作っていたりして、われわれは実は球体の上を歩いているんじゃなくて、実は球体の内側を歩いているんじゃないか、という錯覚にとらわれたりします。時間は直線では決してなくて、いや、直線に記述することも可能ではないんだけれど、それはらせんのグラフを横から見るから進んでいるのであって、上から見たら、円のグラフになってしまう、サインカーブみたいなものではないか。だとしたら、認知症の年老いた彼女は、もう時間を横から見るのを止めてしまった、たったそれだけのことなのではないか。

そんなことを考えていたわけではないが、GWには生まれ故郷でゆっくりしながら、お腹周りを絶望的に蓄えてきたのでした。

4月は、どの季節にもありますが、4月特有の季節感があって、それをすくい取ろうとする作品がいくつかあるようです。

  アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

  雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

  雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

  ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

  川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

  公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

  真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

  クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

4月はチェルノブイリ事故で、今年は30年だけど、この時は28年ですね。こういう歌はネットではどうなんでしょうね。

  チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

今ではウクライナになったのでウクライナ語で「チョルノービリ」という場所に、ある施設がうずくまっている。それは、名前も当時のロシア語のままの「チェルノブイリAES」だ、みたいな意味の歌です。


自選
  ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

  ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

  アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

  準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

  映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

  つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

  前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

  新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る    

  夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

  満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

  両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

2014年04月の60首

遺伝子のというより遺伝システムの袋小路でさくらまぶしき

駐車場の車を選び当たりなら午後まで眠っている下に猫

機械訛りの声にやさしく包まれて終わる生でもよいかもしれず

予想より少し長き夜首に溜まる汗乾く頃ふたたび眠る

アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

なりたくていやなれなくてお前らは今年の今のさくらであるか

死神と朝との二択、目を開けて朝であるなら肚決めて生く

元旦の歯ばかり磨くつぶやきのボットに遭いてあやしく可笑し

驚くべきこととは思う生きているすべてのものが老い、曝(さら)ばえる

雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

知らぬものどうしが文字を並べゆき花冷えの語で少しつながる

ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

テレビ消して手のりの鳥といて思うシャガールのそのかなしい気持ち

管理職はラズノグラーシェを抱えつつ遅めの昼を一人で食えり

よろよろのハムスターには巨大なるわれの愛着すら畏怖となり

まだ桜、家の近所の公園でわが呑む夜をまつまであるか

世界からドロップアウトするような早寝をかさねまだ容(い)られおる

真面目に生きさらに真面目に怠けたるこのうつしよに猫というのは

ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

堪忍袋のジッパーを行き来する電車、今朝もどこかが挟まったらし

音楽が頭の中にあるせいで少し楽しくなるとは不思議

材質を疑うほどに日に光る赤チューリップ、チューリップの黄

アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

生きることの歓喜をのちに伝えんとまだ隠れたる窟の埋経

端折るならば血色のよい死体にて土にならむと樹木を探す

川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

通電をやめた一人の媒体のサルベージすべき感情いくつ

眩しさも暗さも怖き飼い鳥の軟弱さこそ生きるといえり

ブックマークの一覧に昏(くら)き文字ありてたがいに触れぬまま過ぎていつ

公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

空調とファン駆動音に紛れ美(は)しサーバー室で歌うバッハの

さくら散ればなしくずし藤はなみずき紫陽花さるすべり、で木犀へ

紳士服売場でわれの属性を見失いループタイを探しき

準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

日日(にちにち)がデジャヴァブルだと思ううちにこの感慨もコピー嵩(かさ)むる

無明(むみょう)から次の無明へ渡りゆく馴れた目が厭う世界ならよし

クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

whyよりもhowに尽きると聞き做(な)して目玉親父の声でフィンチは

隠棲する老思想家のかみ合わぬ助言と思えど敬にて受けつ

油絵の油の固いマチエールの明るい部屋にしろき青年

人型にくり抜いた紙を重ねゆきその空間に生は詰まりつ

映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

店先で店員と猫がゆっくりと夜を待ちいる春の夕方

真夜覚めてトイレを終えて一杯のコーラを飲みてやすらけく寝る

前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る

飼い鳥に来訪神のわれはきょう真夜帰りきてひたすら撫でる

夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

夭逝こそ若き特権、赤緑(せきりょく)のあざやかにして短き躑躅(つつじ)

乾きたる有翼天使図は赤く古昔(こせき)人間(じんかん)に遊びていしか

古代コンクリートの肌(はだえ)あたたかし後(のち)錬金の夢やぶるるも

両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

服を着て散歩する犬とすれ違い犬も服着た人われを見る

宇宙まで透けたる空の蒼(あお)の下五月こそ何かはじめたるべし

2016年4月9日土曜日

2016年03月うたの日雑感。

桜も満開の盛りを過ぎて、こんな季節に春や桜を歌わないなんていうプレイは、若いうちにしか出来ないのかもしれません。

3月は四国に旅行して、歌人の聖地の一つである(かも)松山の正岡子規記念館に行ってきました。香川照之ってほんま似てたなあと思いながら、照屋のような場所でさえ、正岡子規の作った世界の延長にいるなあという、末席にいるようなことを考えたりしました。

さて。3月のうたの日は、題詠の歌題をかならず最初に入れようと、なんとなく初日に思ったので、そのまま31日まで、歌題から始めた短歌となっています。

「自由詠」
自由詠たとえばブログに上がらない即席麺の夕食の夜

このあたりは苦肉ですね。

「せい」
せいにして生きていくのだ僕という感情よりもずるい世界の

「せい」から文章を始めることは普通は出来ないので、あたかも倒置のようにできたのは、ちょっとほっとしました。

題詠というのは、だいたい平安時代から明治の、正岡子規くらいの時代まで技術鍛錬の手法として確立していて、いわゆる花鳥風月とかいう雅語を歌題とした練習だった、と理解していて、子規以降の歌人の近代は、題詠の否定から始まっているようなところがある。
とはいえ、これは練習法なので、近代以降も行われていて、ただそれは歌作品の「題」と二重の意味を持つような未分化なところもある。
戦後、第二芸術論などで短歌はダメージを受けて、ここでも題詠を否定する(=思想を主張する)短歌文学であろうとしたわけだが、それでも練習法なので、題詠はほそぼそと行われてきた。

ただ、近代以降の題詠は、雅語であることはなくなり、正岡子規が俳句で「柿を食」ったように、それまで俳句や短歌では使用されなかった言葉を使用できるように子規が共同幻想を打ち破ってくれたので、題詠の題さがしだけでもやっていけたようなところがある。

戦後の題詠は、戦後の表現そのものが記号論的な枠組みのメタ認知を可能にしたこともあって、いろいろなトリッキーな題詠も可能になっている。

現代において題詠をする意味、というのは、もっとじっくり考えるべきところなのかもしれないが、ひとまずおいて、まあ、トリッキーな題の使い方は、そのトリッキーさを超える内容作品になるかどうかという、二重のハードルを自分で設けてしまうので、まぁ、すなおに題と向き合った方が、得だし簡単ではあります。

題と向き合うっていうのは、どのくらいのレベルがありましょうか。
1,題そのものを内容の中心にして詠う。
2,題そのものを間接的に詠う。
3,題そのものについて暗示的に詠う。
4,題そのものでないことについて題を用いて詠う。
5,題の周辺について詠う。
6,題を解体して詠う。
6-1,題を視覚的に使用する。
6-2,題を音として使用する。
6-3,題を誤読して使用する。
7,題詠ということについて詠う。
8,題について詠わない。

8は題詠ちゃうやん。

3月の作品では、

「魚」
魚には涙腺なんて持たぬから泣くわけないよ食われるときも

の「魚には涙腺なんて持たぬ」の文法の間違いについて、塾カレーさんという方から感想をいただき、少しやりとりしました。定型を持つ表現は、とうぜん、文法の音数とせめぎあうわけで、定型になるように言葉を斡旋することが、定型詩人の第一の能力であるべきです。
そのうえで、それらのルールを破っても美しい表現を模索し、それが見つかるならば、ベートーベンではないですが、そんなルールは壊れてもいいのです。
もっとも、そうでないなら、間違いは間違いです。それは恥ずかしいミスとなります。

自選。

「結晶」
結晶となったふたりは一日に一度の光で世にもうつくし

「梅」
梅のつぼみも急いでるかもしれぬのにゆっくりと言われながらほころぶ

「ある」
あるところに老いた夫婦がおりまして偶数は竹、奇数は桃で

「心」
心にはひとつの細い舟があり君に向かってうしろへ進む

「泣」
泣きながら魚は海を渡りゆく老衰という死を逃げるため

「男」
男だけの話ったって食い物とゲームとガチャじゃさびしからずや

「ピンク」
ピンク色のモンブラン三時に食べて文明はきみがいなくても春

2016年03月うたの日作品の31首

「時」
時分の花、マリオの無敵状態のつい行き過ぎて切れて落ちにき

「イヤリング」
イヤリングはメイン武器ではないけれど補助魔法にはなるのよ、ほらね

「ナイス」
ナイス地蔵のご利益を今日も訊かれいて話せば想像通りと言わる

「片想い」
片想いを三年かけて均(なら)しゆきここの更地に何を置こうか

「結晶」
結晶となったふたりは一日に一度の光で世にもうつくし

「梅」
梅のつぼみも急いでるかもしれぬのにゆっくりと言われながらほころぶ

「ある」
あるところに老いた夫婦がおりまして偶数は竹、奇数は桃で

「心」
心にはひとつの細い舟があり君に向かってうしろへ進む

「泣」
泣きながら魚は海を渡りゆく老衰という死を逃げるため

「自由詠」
自由詠たとえばブログに上がらない即席麺の夕食の夜

「奥」
奥まったところにあるよいついつもへらへらしてるきみの決意は

「長」
長安の出身という蒋さんに春の夜、ジョブの異常を告げる

「王」
王たるもの父たるものは感情を表さないがないわけでない

「男」
男だけの話ったって食い物とゲームとガチャじゃさびしからずや

「牛乳」
牛乳をレンジで温(ぬく)め酒飲まぬ日のましろなる理性を啜(すす)る

「ピンク」
ピンク色のモンブラン三時に食べて文明はきみがいなくても春

「魚」
魚には涙腺なんて持たぬから泣くわけないよ食われるときも

「雲」
雲行きが真っ黒なのは母性なんて非科学的な言葉のせいだ

「学」
学問のない世界ではニッコリという表情は怖い意味です

「卒業」
卒業はいつも他人事(ひとごと)みたいにて感激に水は差さないように

「春」
春だから機嫌がいいぞノリノリのドヴォルザークの口ぶえ聞こゆ

「レコード」
レコードのかすかにうねる縁(ふち)の上(え)に針置くときに確かに未知は

「せい」
せいにして生きていくのだ僕という感情よりもずるい世界の

「みんな」
みんなから元気を分けてもらうとき惜しみたる者物足りぬ者

「パーカー」
パーカーの中に苺と蛇がいてファスナーを下げるときどちらかの

「導」
導かれ補陀落世界へ行く弟子をわれはまことに悲しみいるか

「唐揚げ」
唐揚げのこの味がいいと言ったのにサラダになるし日付も違う

「競争」
競争をともに避けつつ生きてゆく友人に勝ち、すなわち負ける

「分」
分かりたくないのでしょうねcoke freeのJ・フォックスのごとき正論

「いくら」
いくらにも五分の魂があるとしてぷっとわたしへ香(か)を反抗す

「丸」
丸文字は冬の字らしいこの春の「さよなら」という字の大人びて

2016年4月2日土曜日

2014年03月作品雑感。

4月になりましたね。春でござんす。
春ってやっぱり短歌、和歌に合ってるんだろうなーと思います。歌にしやすいというか。
(どの季節でもそう思ってるのかもしれませんが)

2年前の3月の短歌なのですが、なんか変わった名前の色を詠み込むこころみをいくつかしてみたようですね。すぐに止めたみたいですが。

  小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

  瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

  冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

  読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

  赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

古代日本のカラーは4色だったという説がありまして、明暗とコントラストによって、
あか(明)−くろ(暗)
しろ(標)−あお(淡)

の画質調整で世界をみていたようです。なので、この4色については、〇〇色、と「色」を付けなくても形容詞で使える言葉になっているとか。
この「色」を付けなきゃいけない、というのは、日本語のわりと厳しい制約(というか特徴)じゃないかなーという気がしますね。

さて、3月というのは当分しばらく災害を思う月となります。2014年は3年目でありますが、災害によって傷んだ心を思うモチーフと、傷んだ心が攻撃性へと向かった傾向をにがく感じるモチーフが、やはり散見されます。

  やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

  現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

  ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

  十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

  防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

  千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

  ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

自選。

  白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

  朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

  日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

  新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

  針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

  ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

  眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる