2017年1月29日日曜日

なつかしい一人連句。

過去のデータを眺めてたら、ふっるい一人連句が見つかって、思わず笑ってしまった。夜勤の暇な時間に、だれも話せる人がいなくて、作ってたんだよな。決して、うまくはない。最近の人、みんなうまいもんなあ。


歌仙「夜勤」の巻 
          1999年皐月14日  

表六句 
発句 夏 夜勤明けに尖る心ぞ夏やつれ 
脇句 夏 枇杷もぐ両の腕みづみづし 
第三 雑 屋根裏を歩く楽しみ告げ難く 
四句 雑 海水パンツ姿で立てり 
月  秋 長月に神は出費を戒めて 
折端 秋 墓参の後の声の大きさ 

裏十二句 
折立 秋 店長は蜻蛉の怖い人らしい 
二句 恋 君の丸文字読み返しいる 
三句 恋 羚羊が断崖を恋う都会にて 
四句 雑 あやとりをする母につき合う 
五句 雑 テトラポットが砂浜になる未来まで 
六句 雑 基地に隠れて砂糖舐めおり 
月  冬 一途とは裸体の事か冬の月       
八句 冬 鮫さめざめと迷う大洋 
九句 雑 欠伸噛み教授は次を促すも 
十句 雑 納豆飯の続く月末 
花    待合室の老い花ならむ人生の  
折端 春 山笑うまま男泣きする 

名残表十二句 
折立 春 サンダルも記憶にまみれ受難節 
二句 雑 むく犬がついてくるどこまでも 
三句 雑 「哲学はあちらの角にございます」 
四句 雑 その口元は筑紫哲也か 
五句 夏 香港で甘き冷麦のみ下す 
六句 夏 軒風鈴のまとう緑青 
七句 雑 夕方にキリコの路地へ迷い込み 
八句 恋 海女の恋唄かすかに聞こゆ 
九句 恋 脇をもち君を布団へはこぶ朝 
十句 雑 カラスがじっと俺を見ていた 
月  秋 秋の月ぶらんこでやるコップ酒 
折端 秋 軽自動車が紅葉掃き行く 

名残裏六句 
折立 秋 運動会かずおの父はスーツ着て 
二句 雑 上空二千メートルの青 
三句 雑 契約の署名を終えて般若面 
四句 雑 ついでにハンモックも一揃え 
花    桜吹雪に出発の決意固まれば 
挙句 春 懐かしい日の春炬燵かな 

2017年1月8日日曜日

2016年12月うたの日自作品と雑感。

新年あけまして、の挨拶はもうしたか。
今年の正月休みも、土日が入っていて、あまり長くなかったものの、すぐに連休が入っているので、ありがたいことです。

新年だから、というわけではないですが、新しい短歌、ということを考えてみる。新しい短歌、とは何でしょうか。初めて発表する作品は、ことごとく新しい(new)ですが、ここでいうのは、brand-new、いや、英語にするとちょっと自分もよくわからないのでやめよう、今までになく、それでいて、短歌としての本質がずれていないもの、でありましょう。
見たことがない表現や、いち早く流行語を取り入れたようなものも、新しいと言われがちですが、そういう新しさではない新しさ。(なんだかジョブズのプレゼンみたいになってきた。オールニューディザ〜イン)

それって、往年の<私性>論議でいうならば、新しい<私性>の創出がなされたとき、新しい短歌になるのかもしれない。

年を取ると、若い人が理解不能になってゆくのが人の常だが、じゃあ結局新しさとは"若さ"なのだろうか。
また、ネットの歌会などを見ていると、どうも、想定される<私性>の違いが、読みの評価につながっているようなところもあって、新しさとは"場"なのだろうか。
どちらもでもあるような気もするし、それだけではないような気もする。

自選など。

「半濁音」
半濁音の頻度の高い宇宙人、なのにどうしてこんな見た目か

 ※宇宙人に会うのは年々難しくなりそうだが、最初に会った彼(あるいは彼女)を、らしさのモデルケースにするのだろうか。

「自由詠」
ハムスターが回し車を走る夢覚めて回し車を走るハムスター

 ※胡蝶の夢という話があるが、現実も夢も同じならば、どちらが夢と確定できるのだろう。

「玄関」
玄関のドアに何かが掛けられて警戒しつつ見ればせんべい

「ブラジャー」
エビ天の衣ばっかり大きくて初めてきみに会った時のブ

「澱」
冬の夜の底方(そこい)に白い澱(おり)が降る冬眠できぬわれらはさみし

「劇」
この劇で私は籠の中の鳥たのしいけれどいつ終わるんだ?

「温」
冬に冷たく夏に熱めの便座野郎がこのビルにいるお前はなぜだ

「銀河鉄道」
しょうがない銀河鉄道なんだから行き先違いの永遠(とわ)なる別れ

「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」
アンドゥルル、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス、短歌になるか!

「猿」
「左から、振り返らザル、悔やまザル、俯かザル、です」「わかりにくいよ」

「大晦日」
大晦日誰にも会わず考えるゴリラのような時間のように

2017年1月7日土曜日

2016年12月うたの日自作品の31首

「冬」
懐メロの英語の題がカタカナと中黒で書かれいるような冬

「AI」
衰えてゆく父の背を眺めつつ優しい気持ちになれよAI

「我慢」
突風はついには我慢できなくて俺にわざわざぶつかり昇る

「もみあげ」
もみあげよ決してお前のせいでない右より左が長くなるのは

「大学」
大学に来れなくなった後輩と格闘ゲームで負け続けおり

「蜂」
巣の場所がまたわからなくなりました最期に8の字に踊ろうか

「半濁音」
半濁音の頻度の高い宇宙人、なのにどうしてこんな見た目か

「布団」
お布団に電光パンチこの技は使う方にもダメージがある

「チョップ」
その気持ちに名前があると知らないでお気に入りのぬいぐるみをチョップ

「自由詠」
ハムスターが回し車を走る夢覚めて回し車を走るハムスター

「鳴」
川沿いをけもののように自転車で走る悲鳴は人間のもの

「玄関」
玄関のドアに何かが掛けられて警戒しつつ見ればせんべい

「残念」
おそろいの残念賞のストラップちぎれてしまうあなたをさがす

「姫」
東八の姫だった過去忘れられゴミ問題の西山議員

「ブラジャー」
エビ天の衣ばっかり大きくて初めてきみに会った時のブ

「銀」
年を降れば自動でそうなるわけでなく年降りてシルバーなる笑顔

「股」
褒めようとしてくれているAIの「小股が切れてますね」は惜しい

「反省」
定期的なリセットとして浴槽でがぱがばと言う反省の弁

「澱」
冬の夜の底方(そこい)に白い澱(おり)が降る冬眠できぬわれらはさみし

「劇」
この劇で私は籠の中の鳥たのしいけれどいつ終わるんだ?

「プリン」
分かりやすいおわびのプリンの分かりやすさ最後はそれも許せなかった

「インターネット」
インターネットのスイッチ切ってたましいがちゃんと戻れば愛しあえるのよ

「温」
冬に冷たく夏に熱めの便座野郎がこのビルにいるお前はなぜだ

「銀河鉄道」
しょうがない銀河鉄道なんだから行き先違いの永遠(とわ)なる別れ

「せん」
付喪神にはまだまだ及びもしませんが千日でこうもこじれた想い

「うたの日あるある」
会ったことも性別もよく分からないあなたの歌はらしくて好きだ

「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」
アンドゥルル、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス、短歌になるか!

「末」
商店に祭りばやしがもう流れ世も末ならぬ年末である

「猿」
「左から、振り返らザル、悔やまザル、俯かザル、です」「わかりにくいよ」

「ピカソ」
印象派からの流れを人類は再考しようピカソの前で

「大晦日」
大晦日誰にも会わず考えるゴリラのような時間のように

2017年1月2日月曜日

2014年12月作品と雑感。

2017年明けましておめでとうございます。今年も生きとし生けるものすべてが、足りないのは足りて、弱っているものは元気になり、行き詰まっておればひらけるようになることを、願っています。

先月から、noteをはじめまして、ツイッター、ブログ、うたよみん、noteと、書き散らかしてしまってよくないなあと思っております。このブログは、ひとまず、過去作品とうたの日作品をまとめながら、ちょっとまとまった文章を書いたりする場として続けてゆくことになろうと思います。

2014年12月は、「第57回短歌研究新人賞父親のような雨に打たれて」石井僚一」で、短歌の虚構問題というのが話題にあがった。テルヤは、ちゃんとそれらを読みもせずに、ツイッターでふわっとこれについて思うことを書いて、togetterのまとめに追加されたりした、ということがあった。
一応まとめて上げておく。
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短歌の虚構問題、古くて新しいテーマかもね。ネットでしか情報収集してないけど、思うところあり。

短歌はどうしようもなく一人称の形式なのだけど、その<私>にはざっと数えても4つくらいある。

まず作中で名乗る①主人公的<私>。彼はその舞台を演じている。
次にその作品世界を物語る②地の文的<私>。彼は①を俯瞰して語ることが出来る。
ここから次元が2.5次元くらい上って短歌作品を詠む③ペンネーム的<私>。
そしてやっと3次元の、親から呼ばれたりする名前の④人間的<私>が表れる。

そして恐ろしいことに、短歌の読みは、虚構がそれとわかる仕掛けがない限り、①〜④の一貫性が要求されたり、前提として補われたりする。

また、別の言い方をすると、①を虚構にすれば②が、②を虚構にすれば③が、その虚構を保証しなければならない。

話題になった議論は、この④=③が、②の虚構(=事実)を保証しなかった、ということなのであろう。

虚構が含まれることは、創作には本来なにも問題がない。ノンフィクションであるという宣言をしない限りにおいて。しかし、短歌は、宣言がない限り、ノンフィクションとして読むことが前提になりうる形式だ。

だから、それとわかる仕掛けのないフィクションは、読者に「騙された」という感情をもたらしやすい。
逆に言うと、<私>の③④については、虚実入り混じる遊びというのを、短歌はしにくい形式であり、それは、この部分の「誠実さ」「覚悟」がこの形式を研いできた部分があるからだろう。

斎藤茂吉が母親を作品で一度しか殺せなかったのは①②の虚構は許されたが、③④の虚構は当時の短歌文学では不実だったからで、③④の虚構を保証する文体がなかったからとも言える。一方、現在は、苗字苗字みたいなペンネームの作者もいて、③のフィクション化は進んでいる。

それでも、いくつもの人生を演じた寺山修司でさえ、③寺山修司という一歌人の、一冊の伝記化は免れえない。

そうだ、われわれは、一つの短歌の背後に、一歌人を想定する段階から、まだ抜け出ていないのだ。

あと、ちょっと話が変わるけど、写真のコンテストでは、動物の赤ちゃんとか、外国の名所的な景色とかは、禁じ手とまでいわないけど、いかにもなので、避けられたりするとか。かわいいし美しいし、誰でも写真にするからありきたりというか。

新人賞作品でみんな身内が死んでたら、食傷するよね。あまり撃てないから、貴重な弾、というのは、実際、ある。虚構とか誠実さとか、そういうのとは別の話で。

虚構問題についてもう一言。きょうび、短歌のうまい人なんてツイッターで見るだけでも腐るほどいて、うまいだけでは歌人を名乗れない。歌人というのは、短歌の<私>の引き受け方ともいえる。

新人賞は、その点、どこかで「歌人を名乗る覚悟」みたいなものも見極める役割が負われているので、表現の虚構性というよりも、単なる"嘘"を忌避する心理は選ぶ側に生まれるだろうことは想像にかたくない。本質は、短歌のタブーとかルールというより、匿名側のモラルだったのかもしれない。
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短歌に限らず、作者と作品の距離の近いコンテンツは、作品が作者をのみこんでしまって、作者自体がコンテンツになる、ということは読者(消費者)の欲望として、否定できない部分がある。お笑い芸人やテレビタレントでも、その家族が登場することがあるが、あのプライベートを見せることのバツの悪さだって、今ではコンテンツ化していると言えなくもない。

で、やっぱり、どこのだれかさっぱりわからない人の短歌がタイムラインに流れてきても、それを正当に評価することなんて、ほとんど出来ないのだ。性別、年齢、環境、それぞれを、なんとなく想像しながら、それらを、読むのだ。

自選。

長野の画家は長野を描くというよりだんだん山をえがくようなり

ゴミ袋を猫かと思い二度見してゴミ袋だった夜のおはなし

そうそうに若くてチャラい彼のためこの席を辞す、外では宇宙

三鷹育ちの中学生の女子なればまだ渋谷へは母と行くべし

体温を地球に任せイグアナは暑けりゃ怒り寒けりゃさめる

工事済んで跡かたもないプレハブの詰所のようだ、想いの記憶

食物連鎖の牙で食われぬ悲しみが物語とう嘘を生みたり

オペラハウスを建てたる捕虜のときおりに忘れる飢えや寒さを思う

年ふれば玉の手箱の本当の意味が煙りの奥に見えおり

いきものが死んでいきものうるおえる連鎖に似たる思いか慈悲は

バルビゾン、ふるさとをそう呼んでいた君の地方の大雪の報

大統一理論以前もその以後も石にもたれて祈る景あらん

ごくごくと水飲んでいる加湿器のまだ生き物になるにははやく

冗談が意味深みたいになる夕べ、互いにスルーしてはいるけど

柚子二つ浮かべて夜の浴槽に回転させたりして無為香る

美しい廟ほどかなし、残された生者の悔いに似た大理石

朝の道に釘が一本落ちていてそれでもうまく動く世界は

電柱が電線もたず立ちいけり強さにみえて弱さにみえて

2017年1月1日日曜日

2014年12月の62首

雨上がりの眼前が少し眩しくてその眩しさの少しがすべて

ロボットが人間に近くなるよりも思慮なき生気(thoughtless vitality)に人が近づく

ネットワークに懐かしい人が現れていっとき心揺れればたのし

嘘の恋ではなかったわけではなかったと言えちゃうあたり、過ぎれば久遠

不審者のようにサンタがベランダを上がる電飾見れば師走

緑白のかみきりむしに立ちはだかれ大の大人が怯えていたり

懐かしい名前がわれを思いだし思いだされて、生きるはよろし

巡りめぐる卑屈と驕りこの歌の作者もそんな人だと思う

オイルヒーターゆっくり部屋をあたためてそれまで思いながらまた飲む

長野の画家は長野を描くというよりだんだん山をえがくようなり

ゴミ袋を猫かと思い二度見してゴミ袋だった夜のおはなし

底方(そこい)なる力持たねば地獄またアリ地獄なるアリの、♪ままのー

一票の軽さ軽みにいたるまでジャージで投票所の母校行く

お互いを思いやりつつ二人とも桁が見えない二人でもある

耄碌(もうろく)のようだが時間はあいつまで懐かしがらす、もう謝らず

そうそうに若くてチャラい彼のためこの席を辞す、外では宇宙

幸せは父が孤独に決めるべし学習机を夜、撫でながら

音楽は懐古の化石、現在をはけで払ってシンディを聴く

三鷹育ちの中学生の女子なればまだ渋谷へは母と行くべし

小骨多い魚の身をばひと飲みに飲み込むように日常まかせ

目の前の改札を上に跳びながら走って少女は大人らに消ゆ

なにもかも凍る冬ゆえ擬似相関なれど一人が気にかかりいる

スーパーにクリスマスソング流れそめケッと思ってそれも楽しい

本当は違う話がしたいのでテロリスティックな会話にいたる

体温を地球に任せイグアナは暑けりゃ怒り寒けりゃさめる

工事済んで跡かたもないプレハブの詰所のようだ、想いの記憶

天気がよい日の部屋にいて端末のタイムラインも見晴らしがよく

食物連鎖の牙で食われぬ悲しみが物語とう嘘を生みたり

花は咲く」聴くたびに涙ぐむわれのこのかなしみや希望は安(やす)く

記憶には表情よりも闇中の白い三角浮かぶ純情

銀紙を裂いてくしゃっとやるような歌声のああ、チャラっていうの

オペラハウスを建てたる捕虜のときおりに忘れる飢えや寒さを思う

年ふれば玉の手箱の本当の意味が煙りの奥に見えおり

いきものが死んでいきものうるおえる連鎖に似たる思いか慈悲は

バルビゾン、ふるさとをそう呼んでいた君の地方の大雪の報

宇宙より長い寿命を移動する陽子に意味をそろりと載(の)せる

熱帯のイグアナのまるでみずからの寒さの弱さを知らないままの

大統一理論以前もその以後も石にもたれて祈る景あらん

建物の影に割られて白黒のその明暗のゼブラゾーンの

さびしさに遺伝のあれば明るさのうしろのこれは父もだろうか

ごくごくと水飲んでいる加湿器のまだ生き物になるにははやく

冗談が意味深みたいになる夕べ、互いにスルーしてはいるけど

博愛か引きこもりかの極端な選択は実に彼には一歩

長寿への期待はありや残り柿いっしんについばむ雀瞶(み)つ

柚子二つ浮かべて夜の浴槽に回転させたりして無為香る

干物の背に食らいつく時、海面を切り裂くスリルの景浮かび消ゆ

美しい廟ほどかなし、残された生者の悔いに似た大理石

霧雨に蜘蛛の巣白く浮かびおりたましいの通りぬけたるごとく

きっと君を思い出さずに過ぎていく山下夫妻の稼ぐ季節を

生命樹という枝分かれのさびしさを植物はときに交叉(こうさ)するらし

三国志好きの父へと年末に赤兎の名前の酒をひと瓶

反論に同意しながらダーウィンが知りたきことの知りたさに打たる

諦観のいくつかはあのロボットの不気味の谷に似た生悟り

助け合いと殺し合いある人間(じんかん)の意図せずここに来た口ぶりの

感情に消えてゆくなる戦いと知りつつ引き止めたりまではせず

朝の道に釘が一本落ちていてそれでもうまく動く世界は

まだまだらなるかーちゃんの痴呆との応策として、同じ気づかい

電柱が電線もたず立ちいけり強さにみえて弱さにみえて

礼厳の血をまざまざと受け継ぐにあらねど与謝のふるさとに立つ

公園のベンチにまなざしがありて立つときはもう人として去る

階段をなぞって流れくる雨の平面は押され落下は無心

耳の裏にかなぶんぽろり自転車を降りて慌てる夏の思い出