2021年12月25日土曜日

土曜の牛の日第52回「メガネくもれば」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。最終回。

一年間おつきあいいただき、ありがとうございました。来年のことを考えたら鬼が笑うので、やめときましょう(いや、そろそろ考えようよ)。

近代短歌論争史昭和編は18章「事変歌の評価をめぐる論議」です。昭和12年に盧溝橋事件(日中戦争の発端、支那事変、日支事変)が起こり、歌壇の状況は一変する。それまでの短歌滅亡論も、尻すぼみになってしまう。日中戦争をモチーフにした作品は、おびただしい量が作られる。

その中での歌壇の論議は、①作品が具象的な、「中核に迫る」作品が少ない、という議論と、②事変への思想的な批判が少なく、日露戦争の頃の歌と変わらないという議論、③事変をすぐに歌わずともよいか、すぐに歌うべきか、という流れとなる。

ここまでは銃後詠が主だったが、このあと戦地詠が増えると、①無名者への評価、②作歌の場が露営地や戦闘の後の、内省的な時間であること(戦闘を生々しく歌うことの少なさ)が指摘されてくる。

次第に戦争讃歌の兆候が起こってくるし、戦争への批判は出来なくはなるが、歌壇の論者は、作品のレベルについては、銃後詠、戦地詠ともに、作品の未熟さについての批判的な意見は少なからずあった。歌壇全体としても、この事変歌の盛り上がりのなかで、①リアリズムを再評価し、②しかし素材主義の欠陥といえる深まりのなさを注意し、③全体として短歌のモチーフが拡充されたことを評価したのだった。

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事変歌ならずとも、今後も、大きな災害や、国家規模の事件があると、短歌は増えるだろうし、そのときに考えられる議論は、やはりこのような流れになるようにみえる。表層的な作品から、深化を求めるながれ、そして、当事者性と局外者の表現。そして短歌の報告の側面と内省の側面の、一律性。

それと、事変歌あるいは戦争詠は、われわれが今度のどの場所に立つかによって、見え方が変わる可能性がゼロではない、という保留がつねにあるように思う。

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  七首連作「メガネくもれば」

好きな詩を白湯に溶かして飲むときにメガネくもれば師走と思え

誰に見せずダーガーのように詩を残せばアウトサイダーの詩となる言葉

歌集出して もはや歌人になる人よ、日本語をやられたらやりかえせ

朝敵ゆえに詠み人知らずにさせられて載せられた歌ある千載集おもろ

575は不自然だから詩と思う古来心地の良さならずして

善麿の老いたる妻が、こんな日本になると思ってましたかと俺に?!

硬いものに残したものは残りゆく、彫るまでもない言葉と生きる


2021年12月18日土曜日

土曜の牛の日第51回「孤独な者には」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今回は休みが小さい正月だが、正月というものは、もーいくつねるとー、と思わせるわくわく感がありますね。

近代短歌論争史昭和編の17章は、「岡山巌をめぐる連作論議」です。岡山が連作論を打ったが、いくつか反応があった、くらいの論議です。一応にぎやかだった、のかな。

岡山は近代短歌はリアリズムと連作によって成立していて、それは精神においてリアリズム、方法において連作であるとして連作を大いに評価した。そして、連作の中には積極的連作、消極的連作というものがあるが、近代短歌の名作はほとんど連作であることを分析して、短歌が現代性を主張するには、連作という方法が必要であることを力説した。

岡山の論に触発され、かねて連作に関心を持っていた山下秀之助は、岡山の「積極的連作」をさらに推進し、旅行詠、生活詠を自然発生的なものとしないための「高度の構成力」の必要をあげ、また時事詠、社会詠については「個性的観点を離れてはならない」とし、そして連作といえども「一題一首としての独立性」を希薄にしてはならないため、モンタージュ形式の構成を提案した。

岡山の連作論は、詩人の佐藤一英も反応し、岡山の「連作はリアリズムの所産である」という言葉から、裏返せば、歌人が「一首表現単作は断片的表現に過ぎない」と考えていることを引き出し、連作と字余り歌は、「詩的全体的表現への欲求」への傾向であるとみてとった。つまり佐藤は、連作によって短歌が再興するというより、新しい詩精神の胚胎に対して、(連作という)短歌の内部改造は無駄な努力であると考えていた。

この連作論議はしかし懐疑的な反応も多かった。「今更新しくあげつらふべき論題ではあり得ない」「連作は決して短歌をして衰頽せしめるものではないと堅く信じて疑はない」とか、定型短歌より新短歌の方が連作傾向が低いといった意見や、モンタージュ形式のような構成もまた自然発生的といえるくらい無意識に出来ている、という指摘もあって、興味をもたれなかった。

佐藤佐太郎も、自分は連作に消極的だとした上で、他の歌人の多くが、連作に馴れ過ぎて一首が軽くなっている、はじめから連作を意識した一首は軽くなる向きがある、とまで主張した。

のちにこの昭和12年を回顧した岡山巌は、その時も、それでも「連作なくして近代の歌はない」と力説した。

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連作と単作について、現在周囲を見渡すと、結社、歌壇などの賞は連作であり、広く募集する短歌の賞では単作である傾向がある。これは、素人→単作、玄人→連作、とみることもできるし、作品性→単作、作家性→連作、とみることもできる。

もちろん、単なるスペース(作品発表の紙面的制約)という側面もあるだろう。

先日も、短歌雑誌の賞で、入選の歌が2首"選"掲載であることについて、テルヤは否定的な意見を述べたが(テルヤは、連作なのだから冒頭の2首を一律に掲載するべき、という意見)、連作の中から何首か選んであげる、という、あれは結社を体験している人の親切心なのだろうと理解している。このあたり、単作主義と連作主義が、都合よく了解されているってことなんだろう。

ところで、じゃあ文字による表現数が少ない短歌は、その表現の外側を、どうやって補うか、というと、かなりコモンセンス(常識)やコンセンサス(合意項目)や、コモンイリュージョン(共同幻想)に寄りかからざるを得ない。もっというと、個人情報ならぬ個人"属性"や、ルッキズムなども、必要な情報はアリジゴクのように吸い取って解釈しようとする形式だ。

だから、現代において短歌は、充分に配慮された表現形態とは言いにくい(どっちかというと失礼な表現になりやすい)。そもそもこの文明は詩と相性がいいか、という問題からあるんだけど、そこまで大きくしなくても、短歌はそんなに新しい現代の問題群に適切に回答できる形式ではないし、若い人がいつまでも楽しめる形式ではないとは言える。

でも、逆説的に、コモンセンスやコンセンサスや、コモンイリュージョンの、誰でもないコモンさんにはなれる詩ではある。むしろこれが現在の短歌の一部的な盛り上がりの理由のような気もする。

文体よりもテンプレを当てはめるうまさが光る短歌は、そういうことなのかな、とちょっと思う。文体の時代には、もう戻らんやろうねぇ。うまさのレベルが違うよってに。(もちろん現在の方がすごい)

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  七首連作「孤独な者には」

古代エジプトに輪廻転生がないことを考えて君は黙ったままだ

神はそれ孤独な者には見えるように見えないようにヤッパ見えるように

孤独豆腐に孤独納豆と孤独ねぎと孤独醤油をかけたら孤独うまい

敵味方思考でいえばぜんぶ敵、「だれでもドア」を出してドラえもん

ひみつ道具は誰に秘密か知らねどもドラえもんを出して、そのロボット(四次元制御機構)を

サブカルとしての 季語として流行る 俳句として、もう戻れない侵食として

林檎をかじる、果実をかじる罪をかじる季節をかじる果汁をかじる


2021年12月11日土曜日

土曜の牛の日第50回「まぼろしの滝」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今年から始めた土曜の牛の日も、50回となりました。あと残り2回なんですが、短歌論争史は残ってしまいますねぇ。しかし来年は来年で、いろいろ清算が必要な気もしているので、この今のペースでやることもないのかなぁと思ったり。

近代短歌論争史昭和編の16章は「岡野直七郎と佐藤佐太郎の大衆性論争」。局外者をめぐる短歌滅亡論が議論されているなかで、岡野直七郎は「普遍と永遠を貫く短歌」という文を書き、「個我を通して普遍我に至る」努力によって「大衆の胸に響き大衆に何時までも愛誦せられる」歌を生み出すべきだと述べた。

しかしその後の『日本短歌』の大衆性の小特集で、大衆化について否定的な意見がむしろ目立った。佐藤佐太郎は「短歌はつまりは没細部を要求し音象徴を要求する芸術形式であるから、出来の好いもの程大衆的でない」として「短歌作者は余り大衆といふものを顧慮する必要はない」といい、高張福市は「いはゆる大衆文学の変化への興味しか理解し得ぬ人達にまでその努力を及ぼす愚は止めねばならぬ」といい、河野栄は「短歌の大衆化は全く闇であると言ふの他ない」とまで言い切った。岩元迭は「現代短歌に大衆性がないと言つても、巷に唸つてゐる俗歌に聴き入り、身をまかす程卑俗化した大衆は眼目に置かなくてもいい」とし、浜野基斎は、「名歌と言へど、それが必ず大衆に迎へられ、理解されると言ふことは仲々望めないのであつて、如何にしてそれを理解し得るまでに大衆を引き上げてゆくべきか、といふことが大きな問題である」と述べた。中村正爾は、大衆化といっても、それはみだりに流行歌性や俗悪な散文調を取り入れて大衆に媚を売ることではないと主張した。

局外者の短歌滅亡論があるさなか、これら若手は、短歌は専門性のものだという確信と自負をもっていて、大衆性を付加しにくいと考えていた。

これには渡辺順三も驚いていた。彼はプロレタリア短歌のサイドだが、かれらの大衆観が、大衆の概念規定があいまいであり、しかも「大衆は無智で低級」という考え方で、無智な大衆を引き上げようという観点そのものが卑俗低級であると怒った。

先ほどの否定論のなかでも佐藤佐太郎は岡野の論に執拗に攻撃をし、岡野の「個我を終始することしか出来ないのは憐れむべきである」の言葉に対して、短歌は個の感情を尊ぶ芸術であるとし、岡野の「誰がどれをうたつてもいい」という評言を突いて、彼の論は凡作奨励論、人情歌復興論にすぎないとやっつけた。

ただ、彼らだけでなく、岡野の論はぜんたいに不評であった。渡辺順三や坪野哲久はプロレタリア短歌の観点から大衆論の曖昧さを批判するし、福田栄一、海老沢粂吉は短歌は個性、個我に徹するべきことを尊重した。坂本小金は、大衆を意識して作歌することの難しさとむなしさについて述べ、河村千秋は、大衆化もなにも、むしろ歌人が短歌を高級芸術だと思っているあいだに、大衆は短歌を「過去帳に書き入れようとしている」と大衆との乖離の危機感が歌人にないことを告発した。

岡野は、佐藤佐太郎に「個性」と岡野の言う「個我」は異なることを述べて反論し、また、渡辺や坪野の階級的認識にも反対したが、佐藤佐太郎はさらに岡野の論に善悪の道徳的判断が潜んでいることをあばき、岡野が反論する気をなくすまで徹底して批難した。

他には、半田良平が、この論争にふれて、むしろ短歌は、明治末年からくらべて、現在は完全に大衆のものになったのではないかと述べて、岡野の大衆短歌論は不要だと述べた。

岡野は昭和10年代に活躍した論客の一人であったが、この大衆論はさんざんであったようだ。

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個と普遍の問題は、アジアにとってはずっとつきまとっていた問題で、偶然かもしれないがこの議論の翌年タゴールがノーベル賞を取る。ノーベル賞が日本でまったく権威を持たなくなって久しいけど(医学とか物理学以外のものね)、アジアは個だ、という認識が広くあっただろうから、この報は大きかったのだろうと思う。短歌という日本の個が、普遍へ至れるか、というテーマは、彼だけの問題ではない、大きな問題だっただろう。

それはともかく、私はこの岡野の論は好きだ。この啓蒙的な趣旨でいい歌ができるわけではないんだけれど、彼が言いたかった当時の短歌の現在地は、むしろこれらの反論が丁寧に説明してしまっているように思う。思えば岡野は尾上柴舟の『水瓶』にもいたのよね。やっぱり、短歌滅亡論というか、短歌のウチとソトの、境界の場所にいる人の系列なんだろうな、という気がする。

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  七首連作「まぼろしの滝」

即時的な電磁記録はさびしくてタイムラインはまぼろしの滝

宇宙だったくせして今は明るい空、そういう時は君に近づかない

弾かれないフォークギターの弦はさび、それよりゆっくりネック反る昼

哲学者が戦争に反対したとしてその哲学の眉につばくらめ

原発事故以降注文をとらなくなったさくらんぼ農家の知り合いの知り合い

タレントの名前も読めなくなってきて有職(ゆうそく)読みで乗り切るつもり

喧嘩別れした姉弟(きょうだい)はお歳暮とお礼のLINEだけの姉弟


2021年12月4日土曜日

土曜の牛の日第49回「そのへん頼む」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

おまたせしました! 近代短歌論争史昭和編の第15章は「局外者をめぐる短歌滅亡論議」、短歌滅亡論です!(待ってねーよ)

昭和12年(1937)に、3度目の短歌滅亡論議が起こりました。きっかけは、菊池寛が、エッセイで、詩は非科学的なものであり、科学が進むと詩は成立しなくなる、という雑で一般論的な文学観を述べたことだった。

それに対して、歌人の宇津野研が真面目にも、ロマンチック精神が喪失しつつあるのは同意するが、むしろ科学の方がロマンチック精神に富んでおり、生命の問題に関する限りは詩歌は科学を超えている、と正論を書いた。

宇津野の文を受けて『日本短歌』は、国文学者ら局外者から、短歌の将来や伝統継承について意見を聞く特集を組んだが、国文学畑の人たちには、いわゆる新短歌に否定的な意見が多かった。

国文学畑だけでなく、当時の論壇でも、矢崎弾は、短詩形は「それに盛られる精神が非現実的日本精神の象徴で、今日の世界現実を包摂しえず、今日の社会現実の交流を逃亡した精神の哀れな文化のよどみに沈殿する方言的な詩魂」であるとして、その短詩形否定論から短詩形の滅亡を断言していた。

歌人の臼井大翼も滅亡を述べていたが、実作者である彼は、短歌が詩でなくなった理由を近代短歌の方法(写生偏重)のゆきづまりとして指摘する文章を書いた。

歌謡史の研究者であった藤田徳太郎は、短歌に新興芸術の新時代的生命を見出そうとするのがそもそも不当であり、それが物足りないなら「短歌などを作らずに他の新興芸術にその野心を向けるより仕方がない」と、短歌を伝統の形式美の条件から外すような試行については否定的であった。

中世和歌史の専門家の斎藤清衛は、短歌を「日本語が当然に実現すべき律語形式の一」であり「最もよく、この気象風土の中に育まれた超現実生活観的精神を具現するもの」と定義し、その特質を①その形式がはなはだ短いこと②その韻律がきわめて簡素であること③その韻律の制約上、古語との因縁を断ちにくい事情にあること④その調べには一脈の詠嘆か感傷が流れていて、たぶんに「うっとり趣味」をもっていること、とした。そして、「短歌は、短歌であるかぎりに於て、社会の文学思潮の外廓に立つて居り、激しい現実の雰囲気に混ずることは今のところ不可能である。」と、藤田の論理に近い新短歌への否定をのべた。

この斎藤清衛には、歌人の上田官治が反論し、短いということが価値を左右するものではないといい、また高田浪吉は滅亡論を一蹴しようではないかと呼びかけた。

しかし国文学者の風巻景次郎は、斎藤清衛の短歌観に賛同しつつ、「しかし一蹴しようとしまいと、短歌は結局亡びるのである、と言つたら何うなるであらうか」と、実作者が形式に対する危機感をもたないことからいぶかしみ、短歌の滅亡を論ずること自体を排除する機運を指摘した。そして「自由律短歌が自由詩を建設しないで、あくまで自らを短歌であるといふ所に、短歌の持つ不思議なまでの恐しさが感じられる」と、正岡子規以降の近代人が伝統形式に矛盾や疑問を感じるところまで来ていなかったと考えた。

なかには、保田与重郎のように、現代の生活を描くことなどより、古歌の模倣をすべきだ、という否定論もあったが、これは問題意識があまり噛み合わないものだった。

プロレタリア短歌系の森山啓は、斎藤や風巻の論文を「歌人の仕事に対する厭がらせ」とくさして、新短歌の「極く短い、単純な生活表現の文学」の意義を説き、短歌が滅びるときは、それはプロレタリアの自由律短歌が完成するときで、それまでの過渡期として現在の短歌を「恥ずべき理由がない」として肯定した。

他に音声学者、音楽評論家の兼常清佐は、五七調や七五調に我々は飽きてきたことを挙げて、また生きた口語のリズムを活かせていない、という、口語、音数律の観点で現在の短歌の弱点を指摘した。

歌壇からの反駁は、土屋文明が滅亡論について触れたり、松村英一が滅亡論者を反駁したり、岡野直七郎はこんなひまな議論は何の役にも立たないと批判したりした。半田良平は、斎藤清衛の論は最初から短歌の変化を認めない否定論なので、滅亡論以前の段階の話だと論難した。また風巻の滅亡予言も、なまぬるい曖昧な予言に堕ちている、とその発言の不明瞭さを分析した。半田は、短歌はあくまで抒情詩であるとして、その性格を限定することで現在まで続いてきたこととこれからの可能性を主張した。

半田の意見も「現状満足論」と言うものもいたが、国文学サイドの原則論、また短歌にたいする不勉強をしっかり突いた反論となった。

アララギの中堅の村田利明は、滅亡論などは「閑問題」だとして、滅亡するとかしないとか八卦占いみたいなものなら、滅亡しないと言い切って、一つの助詞の心配でもするほうが賢明だと滅亡論自体を批判した。じっさいこれが多くの歌人の本音かと思われた。

しかしプロレタリア系の小名木綱夫は、この態度こそ「現歌壇の非科学性と頽廃」であり、その助詞の心配もまた、作品との関わり、歌人の社会との事情の仕方とつながっていて、短歌の滅亡という歴史の規定との関連において考察されねればならない、とその足をつかんで批難した。

他には、詩人サイドから、短歌は連作によってリアリズムを確保することで滅亡を逃れうるという意見や、萩原朔太郎が、執念深くアララギの写生を攻撃した。

総体として、否定、肯定の段階を超えて、「優れた短歌精神の探求」(阿部知二)へと、この議論が向かったかはこころもとない。短歌滅亡論は、これで終わりではないのである。

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いま短歌は、これは観測範囲の問題にすぎないが、繁盛しているようにみえる。しかし、短歌は滅亡するか、と自分に問いかけてみると、一番近い答えは「イエス、滅亡している」となるかもしれない。上の議論の中では、保田与重郎の意見は、一番浮いているけれど、面白いなあと思ってしまうのだった。

われわれは、何を作っているのだろうか。伝統的な詩を作っている自覚を持っている人はどれだけいるだろうか。旧かなを使ったりしながら、漢字の送り仮名は戦後教育の基準に合わせていたり、要するに様々な日本語の断面をちゃんぷるーしながら、決してわかりやすいものを作ろうともしていない。本にしたって1ページの文字数がよくわからない空白を伝達しようとしている。

でも、なんだかわからない面白いものはぞくぞく出来ていて繁盛している。それは、滅亡したから、なのかもしれない。

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  七首連作「そのへん頼む」

僕は僕の人は人の終わってゆく時の、カンキワマルよキックザカンクルよ

缶蹴りの友の救出で翻弄する鬼が孤独になるとき夕日

人生が終わったらそこでシークバーが止まって永遠なる読み込み中

全世界が動画で金を欲するや、やり過ぎて謝って辞めたりをする

物語が終わってゆくのが手でわかる電子書籍もそのへん頼む

ロシヤ文学の名前の愛称多くして目次と本文と電子書籍頼む

舐めた飴の終わりがいつか分からないような恋だったし飴だった