2021年12月25日土曜日

土曜の牛の日第52回「メガネくもれば」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。最終回。

一年間おつきあいいただき、ありがとうございました。来年のことを考えたら鬼が笑うので、やめときましょう(いや、そろそろ考えようよ)。

近代短歌論争史昭和編は18章「事変歌の評価をめぐる論議」です。昭和12年に盧溝橋事件(日中戦争の発端、支那事変、日支事変)が起こり、歌壇の状況は一変する。それまでの短歌滅亡論も、尻すぼみになってしまう。日中戦争をモチーフにした作品は、おびただしい量が作られる。

その中での歌壇の論議は、①作品が具象的な、「中核に迫る」作品が少ない、という議論と、②事変への思想的な批判が少なく、日露戦争の頃の歌と変わらないという議論、③事変をすぐに歌わずともよいか、すぐに歌うべきか、という流れとなる。

ここまでは銃後詠が主だったが、このあと戦地詠が増えると、①無名者への評価、②作歌の場が露営地や戦闘の後の、内省的な時間であること(戦闘を生々しく歌うことの少なさ)が指摘されてくる。

次第に戦争讃歌の兆候が起こってくるし、戦争への批判は出来なくはなるが、歌壇の論者は、作品のレベルについては、銃後詠、戦地詠ともに、作品の未熟さについての批判的な意見は少なからずあった。歌壇全体としても、この事変歌の盛り上がりのなかで、①リアリズムを再評価し、②しかし素材主義の欠陥といえる深まりのなさを注意し、③全体として短歌のモチーフが拡充されたことを評価したのだった。

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事変歌ならずとも、今後も、大きな災害や、国家規模の事件があると、短歌は増えるだろうし、そのときに考えられる議論は、やはりこのような流れになるようにみえる。表層的な作品から、深化を求めるながれ、そして、当事者性と局外者の表現。そして短歌の報告の側面と内省の側面の、一律性。

それと、事変歌あるいは戦争詠は、われわれが今度のどの場所に立つかによって、見え方が変わる可能性がゼロではない、という保留がつねにあるように思う。

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  七首連作「メガネくもれば」

好きな詩を白湯に溶かして飲むときにメガネくもれば師走と思え

誰に見せずダーガーのように詩を残せばアウトサイダーの詩となる言葉

歌集出して もはや歌人になる人よ、日本語をやられたらやりかえせ

朝敵ゆえに詠み人知らずにさせられて載せられた歌ある千載集おもろ

575は不自然だから詩と思う古来心地の良さならずして

善麿の老いたる妻が、こんな日本になると思ってましたかと俺に?!

硬いものに残したものは残りゆく、彫るまでもない言葉と生きる


2021年12月18日土曜日

土曜の牛の日第51回「孤独な者には」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今回は休みが小さい正月だが、正月というものは、もーいくつねるとー、と思わせるわくわく感がありますね。

近代短歌論争史昭和編の17章は、「岡山巌をめぐる連作論議」です。岡山が連作論を打ったが、いくつか反応があった、くらいの論議です。一応にぎやかだった、のかな。

岡山は近代短歌はリアリズムと連作によって成立していて、それは精神においてリアリズム、方法において連作であるとして連作を大いに評価した。そして、連作の中には積極的連作、消極的連作というものがあるが、近代短歌の名作はほとんど連作であることを分析して、短歌が現代性を主張するには、連作という方法が必要であることを力説した。

岡山の論に触発され、かねて連作に関心を持っていた山下秀之助は、岡山の「積極的連作」をさらに推進し、旅行詠、生活詠を自然発生的なものとしないための「高度の構成力」の必要をあげ、また時事詠、社会詠については「個性的観点を離れてはならない」とし、そして連作といえども「一題一首としての独立性」を希薄にしてはならないため、モンタージュ形式の構成を提案した。

岡山の連作論は、詩人の佐藤一英も反応し、岡山の「連作はリアリズムの所産である」という言葉から、裏返せば、歌人が「一首表現単作は断片的表現に過ぎない」と考えていることを引き出し、連作と字余り歌は、「詩的全体的表現への欲求」への傾向であるとみてとった。つまり佐藤は、連作によって短歌が再興するというより、新しい詩精神の胚胎に対して、(連作という)短歌の内部改造は無駄な努力であると考えていた。

この連作論議はしかし懐疑的な反応も多かった。「今更新しくあげつらふべき論題ではあり得ない」「連作は決して短歌をして衰頽せしめるものではないと堅く信じて疑はない」とか、定型短歌より新短歌の方が連作傾向が低いといった意見や、モンタージュ形式のような構成もまた自然発生的といえるくらい無意識に出来ている、という指摘もあって、興味をもたれなかった。

佐藤佐太郎も、自分は連作に消極的だとした上で、他の歌人の多くが、連作に馴れ過ぎて一首が軽くなっている、はじめから連作を意識した一首は軽くなる向きがある、とまで主張した。

のちにこの昭和12年を回顧した岡山巌は、その時も、それでも「連作なくして近代の歌はない」と力説した。

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連作と単作について、現在周囲を見渡すと、結社、歌壇などの賞は連作であり、広く募集する短歌の賞では単作である傾向がある。これは、素人→単作、玄人→連作、とみることもできるし、作品性→単作、作家性→連作、とみることもできる。

もちろん、単なるスペース(作品発表の紙面的制約)という側面もあるだろう。

先日も、短歌雑誌の賞で、入選の歌が2首"選"掲載であることについて、テルヤは否定的な意見を述べたが(テルヤは、連作なのだから冒頭の2首を一律に掲載するべき、という意見)、連作の中から何首か選んであげる、という、あれは結社を体験している人の親切心なのだろうと理解している。このあたり、単作主義と連作主義が、都合よく了解されているってことなんだろう。

ところで、じゃあ文字による表現数が少ない短歌は、その表現の外側を、どうやって補うか、というと、かなりコモンセンス(常識)やコンセンサス(合意項目)や、コモンイリュージョン(共同幻想)に寄りかからざるを得ない。もっというと、個人情報ならぬ個人"属性"や、ルッキズムなども、必要な情報はアリジゴクのように吸い取って解釈しようとする形式だ。

だから、現代において短歌は、充分に配慮された表現形態とは言いにくい(どっちかというと失礼な表現になりやすい)。そもそもこの文明は詩と相性がいいか、という問題からあるんだけど、そこまで大きくしなくても、短歌はそんなに新しい現代の問題群に適切に回答できる形式ではないし、若い人がいつまでも楽しめる形式ではないとは言える。

でも、逆説的に、コモンセンスやコンセンサスや、コモンイリュージョンの、誰でもないコモンさんにはなれる詩ではある。むしろこれが現在の短歌の一部的な盛り上がりの理由のような気もする。

文体よりもテンプレを当てはめるうまさが光る短歌は、そういうことなのかな、とちょっと思う。文体の時代には、もう戻らんやろうねぇ。うまさのレベルが違うよってに。(もちろん現在の方がすごい)

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  七首連作「孤独な者には」

古代エジプトに輪廻転生がないことを考えて君は黙ったままだ

神はそれ孤独な者には見えるように見えないようにヤッパ見えるように

孤独豆腐に孤独納豆と孤独ねぎと孤独醤油をかけたら孤独うまい

敵味方思考でいえばぜんぶ敵、「だれでもドア」を出してドラえもん

ひみつ道具は誰に秘密か知らねどもドラえもんを出して、そのロボット(四次元制御機構)を

サブカルとしての 季語として流行る 俳句として、もう戻れない侵食として

林檎をかじる、果実をかじる罪をかじる季節をかじる果汁をかじる


2021年12月11日土曜日

土曜の牛の日第50回「まぼろしの滝」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今年から始めた土曜の牛の日も、50回となりました。あと残り2回なんですが、短歌論争史は残ってしまいますねぇ。しかし来年は来年で、いろいろ清算が必要な気もしているので、この今のペースでやることもないのかなぁと思ったり。

近代短歌論争史昭和編の16章は「岡野直七郎と佐藤佐太郎の大衆性論争」。局外者をめぐる短歌滅亡論が議論されているなかで、岡野直七郎は「普遍と永遠を貫く短歌」という文を書き、「個我を通して普遍我に至る」努力によって「大衆の胸に響き大衆に何時までも愛誦せられる」歌を生み出すべきだと述べた。

しかしその後の『日本短歌』の大衆性の小特集で、大衆化について否定的な意見がむしろ目立った。佐藤佐太郎は「短歌はつまりは没細部を要求し音象徴を要求する芸術形式であるから、出来の好いもの程大衆的でない」として「短歌作者は余り大衆といふものを顧慮する必要はない」といい、高張福市は「いはゆる大衆文学の変化への興味しか理解し得ぬ人達にまでその努力を及ぼす愚は止めねばならぬ」といい、河野栄は「短歌の大衆化は全く闇であると言ふの他ない」とまで言い切った。岩元迭は「現代短歌に大衆性がないと言つても、巷に唸つてゐる俗歌に聴き入り、身をまかす程卑俗化した大衆は眼目に置かなくてもいい」とし、浜野基斎は、「名歌と言へど、それが必ず大衆に迎へられ、理解されると言ふことは仲々望めないのであつて、如何にしてそれを理解し得るまでに大衆を引き上げてゆくべきか、といふことが大きな問題である」と述べた。中村正爾は、大衆化といっても、それはみだりに流行歌性や俗悪な散文調を取り入れて大衆に媚を売ることではないと主張した。

局外者の短歌滅亡論があるさなか、これら若手は、短歌は専門性のものだという確信と自負をもっていて、大衆性を付加しにくいと考えていた。

これには渡辺順三も驚いていた。彼はプロレタリア短歌のサイドだが、かれらの大衆観が、大衆の概念規定があいまいであり、しかも「大衆は無智で低級」という考え方で、無智な大衆を引き上げようという観点そのものが卑俗低級であると怒った。

先ほどの否定論のなかでも佐藤佐太郎は岡野の論に執拗に攻撃をし、岡野の「個我を終始することしか出来ないのは憐れむべきである」の言葉に対して、短歌は個の感情を尊ぶ芸術であるとし、岡野の「誰がどれをうたつてもいい」という評言を突いて、彼の論は凡作奨励論、人情歌復興論にすぎないとやっつけた。

ただ、彼らだけでなく、岡野の論はぜんたいに不評であった。渡辺順三や坪野哲久はプロレタリア短歌の観点から大衆論の曖昧さを批判するし、福田栄一、海老沢粂吉は短歌は個性、個我に徹するべきことを尊重した。坂本小金は、大衆を意識して作歌することの難しさとむなしさについて述べ、河村千秋は、大衆化もなにも、むしろ歌人が短歌を高級芸術だと思っているあいだに、大衆は短歌を「過去帳に書き入れようとしている」と大衆との乖離の危機感が歌人にないことを告発した。

岡野は、佐藤佐太郎に「個性」と岡野の言う「個我」は異なることを述べて反論し、また、渡辺や坪野の階級的認識にも反対したが、佐藤佐太郎はさらに岡野の論に善悪の道徳的判断が潜んでいることをあばき、岡野が反論する気をなくすまで徹底して批難した。

他には、半田良平が、この論争にふれて、むしろ短歌は、明治末年からくらべて、現在は完全に大衆のものになったのではないかと述べて、岡野の大衆短歌論は不要だと述べた。

岡野は昭和10年代に活躍した論客の一人であったが、この大衆論はさんざんであったようだ。

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個と普遍の問題は、アジアにとってはずっとつきまとっていた問題で、偶然かもしれないがこの議論の翌年タゴールがノーベル賞を取る。ノーベル賞が日本でまったく権威を持たなくなって久しいけど(医学とか物理学以外のものね)、アジアは個だ、という認識が広くあっただろうから、この報は大きかったのだろうと思う。短歌という日本の個が、普遍へ至れるか、というテーマは、彼だけの問題ではない、大きな問題だっただろう。

それはともかく、私はこの岡野の論は好きだ。この啓蒙的な趣旨でいい歌ができるわけではないんだけれど、彼が言いたかった当時の短歌の現在地は、むしろこれらの反論が丁寧に説明してしまっているように思う。思えば岡野は尾上柴舟の『水瓶』にもいたのよね。やっぱり、短歌滅亡論というか、短歌のウチとソトの、境界の場所にいる人の系列なんだろうな、という気がする。

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  七首連作「まぼろしの滝」

即時的な電磁記録はさびしくてタイムラインはまぼろしの滝

宇宙だったくせして今は明るい空、そういう時は君に近づかない

弾かれないフォークギターの弦はさび、それよりゆっくりネック反る昼

哲学者が戦争に反対したとしてその哲学の眉につばくらめ

原発事故以降注文をとらなくなったさくらんぼ農家の知り合いの知り合い

タレントの名前も読めなくなってきて有職(ゆうそく)読みで乗り切るつもり

喧嘩別れした姉弟(きょうだい)はお歳暮とお礼のLINEだけの姉弟


2021年12月4日土曜日

土曜の牛の日第49回「そのへん頼む」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

おまたせしました! 近代短歌論争史昭和編の第15章は「局外者をめぐる短歌滅亡論議」、短歌滅亡論です!(待ってねーよ)

昭和12年(1937)に、3度目の短歌滅亡論議が起こりました。きっかけは、菊池寛が、エッセイで、詩は非科学的なものであり、科学が進むと詩は成立しなくなる、という雑で一般論的な文学観を述べたことだった。

それに対して、歌人の宇津野研が真面目にも、ロマンチック精神が喪失しつつあるのは同意するが、むしろ科学の方がロマンチック精神に富んでおり、生命の問題に関する限りは詩歌は科学を超えている、と正論を書いた。

宇津野の文を受けて『日本短歌』は、国文学者ら局外者から、短歌の将来や伝統継承について意見を聞く特集を組んだが、国文学畑の人たちには、いわゆる新短歌に否定的な意見が多かった。

国文学畑だけでなく、当時の論壇でも、矢崎弾は、短詩形は「それに盛られる精神が非現実的日本精神の象徴で、今日の世界現実を包摂しえず、今日の社会現実の交流を逃亡した精神の哀れな文化のよどみに沈殿する方言的な詩魂」であるとして、その短詩形否定論から短詩形の滅亡を断言していた。

歌人の臼井大翼も滅亡を述べていたが、実作者である彼は、短歌が詩でなくなった理由を近代短歌の方法(写生偏重)のゆきづまりとして指摘する文章を書いた。

歌謡史の研究者であった藤田徳太郎は、短歌に新興芸術の新時代的生命を見出そうとするのがそもそも不当であり、それが物足りないなら「短歌などを作らずに他の新興芸術にその野心を向けるより仕方がない」と、短歌を伝統の形式美の条件から外すような試行については否定的であった。

中世和歌史の専門家の斎藤清衛は、短歌を「日本語が当然に実現すべき律語形式の一」であり「最もよく、この気象風土の中に育まれた超現実生活観的精神を具現するもの」と定義し、その特質を①その形式がはなはだ短いこと②その韻律がきわめて簡素であること③その韻律の制約上、古語との因縁を断ちにくい事情にあること④その調べには一脈の詠嘆か感傷が流れていて、たぶんに「うっとり趣味」をもっていること、とした。そして、「短歌は、短歌であるかぎりに於て、社会の文学思潮の外廓に立つて居り、激しい現実の雰囲気に混ずることは今のところ不可能である。」と、藤田の論理に近い新短歌への否定をのべた。

この斎藤清衛には、歌人の上田官治が反論し、短いということが価値を左右するものではないといい、また高田浪吉は滅亡論を一蹴しようではないかと呼びかけた。

しかし国文学者の風巻景次郎は、斎藤清衛の短歌観に賛同しつつ、「しかし一蹴しようとしまいと、短歌は結局亡びるのである、と言つたら何うなるであらうか」と、実作者が形式に対する危機感をもたないことからいぶかしみ、短歌の滅亡を論ずること自体を排除する機運を指摘した。そして「自由律短歌が自由詩を建設しないで、あくまで自らを短歌であるといふ所に、短歌の持つ不思議なまでの恐しさが感じられる」と、正岡子規以降の近代人が伝統形式に矛盾や疑問を感じるところまで来ていなかったと考えた。

なかには、保田与重郎のように、現代の生活を描くことなどより、古歌の模倣をすべきだ、という否定論もあったが、これは問題意識があまり噛み合わないものだった。

プロレタリア短歌系の森山啓は、斎藤や風巻の論文を「歌人の仕事に対する厭がらせ」とくさして、新短歌の「極く短い、単純な生活表現の文学」の意義を説き、短歌が滅びるときは、それはプロレタリアの自由律短歌が完成するときで、それまでの過渡期として現在の短歌を「恥ずべき理由がない」として肯定した。

他に音声学者、音楽評論家の兼常清佐は、五七調や七五調に我々は飽きてきたことを挙げて、また生きた口語のリズムを活かせていない、という、口語、音数律の観点で現在の短歌の弱点を指摘した。

歌壇からの反駁は、土屋文明が滅亡論について触れたり、松村英一が滅亡論者を反駁したり、岡野直七郎はこんなひまな議論は何の役にも立たないと批判したりした。半田良平は、斎藤清衛の論は最初から短歌の変化を認めない否定論なので、滅亡論以前の段階の話だと論難した。また風巻の滅亡予言も、なまぬるい曖昧な予言に堕ちている、とその発言の不明瞭さを分析した。半田は、短歌はあくまで抒情詩であるとして、その性格を限定することで現在まで続いてきたこととこれからの可能性を主張した。

半田の意見も「現状満足論」と言うものもいたが、国文学サイドの原則論、また短歌にたいする不勉強をしっかり突いた反論となった。

アララギの中堅の村田利明は、滅亡論などは「閑問題」だとして、滅亡するとかしないとか八卦占いみたいなものなら、滅亡しないと言い切って、一つの助詞の心配でもするほうが賢明だと滅亡論自体を批判した。じっさいこれが多くの歌人の本音かと思われた。

しかしプロレタリア系の小名木綱夫は、この態度こそ「現歌壇の非科学性と頽廃」であり、その助詞の心配もまた、作品との関わり、歌人の社会との事情の仕方とつながっていて、短歌の滅亡という歴史の規定との関連において考察されねればならない、とその足をつかんで批難した。

他には、詩人サイドから、短歌は連作によってリアリズムを確保することで滅亡を逃れうるという意見や、萩原朔太郎が、執念深くアララギの写生を攻撃した。

総体として、否定、肯定の段階を超えて、「優れた短歌精神の探求」(阿部知二)へと、この議論が向かったかはこころもとない。短歌滅亡論は、これで終わりではないのである。

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いま短歌は、これは観測範囲の問題にすぎないが、繁盛しているようにみえる。しかし、短歌は滅亡するか、と自分に問いかけてみると、一番近い答えは「イエス、滅亡している」となるかもしれない。上の議論の中では、保田与重郎の意見は、一番浮いているけれど、面白いなあと思ってしまうのだった。

われわれは、何を作っているのだろうか。伝統的な詩を作っている自覚を持っている人はどれだけいるだろうか。旧かなを使ったりしながら、漢字の送り仮名は戦後教育の基準に合わせていたり、要するに様々な日本語の断面をちゃんぷるーしながら、決してわかりやすいものを作ろうともしていない。本にしたって1ページの文字数がよくわからない空白を伝達しようとしている。

でも、なんだかわからない面白いものはぞくぞく出来ていて繁盛している。それは、滅亡したから、なのかもしれない。

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  七首連作「そのへん頼む」

僕は僕の人は人の終わってゆく時の、カンキワマルよキックザカンクルよ

缶蹴りの友の救出で翻弄する鬼が孤独になるとき夕日

人生が終わったらそこでシークバーが止まって永遠なる読み込み中

全世界が動画で金を欲するや、やり過ぎて謝って辞めたりをする

物語が終わってゆくのが手でわかる電子書籍もそのへん頼む

ロシヤ文学の名前の愛称多くして目次と本文と電子書籍頼む

舐めた飴の終わりがいつか分からないような恋だったし飴だった


2021年11月27日土曜日

土曜の牛の日第48回「地球居残り」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編の第14章は、「二・二六事件歌の是非論議」です。昭和11年2月26日に起こった陸軍将校らによるクーデター未遂事件をうたった短歌は、どう評価されたか、という議論です。

そもそも当時の人たちは戒厳令下にあってラジオの検閲された情報とうわさによって歌をつくっていて、事件の大きさのわりに、数は多くなかったようだ。

新浪漫主義を唱えている岡野直七郎は、前々回にもあったが、社会詠を嫌悪した。「どれほど短歌雑誌の上に、今度の事件の表面描写があらはれるだらうか。情景描写よりも更に邪道は、これに対する社会的批判である。ことに女流作者の角ばつたさまと社会的批判ほど見ぐるしいものはない。」と、女性への偏見をもあらわにした。

岡山巌は、岡野の意見に不満をもち、事件歌の存在を認め、自らも発表した。

  何事か既になされたる帝都の空朝くらうして雪しきり降る

  兵☓はまさにまぢかに起りをれど伝へ来たらむ物音もなし

  号外はあかつきいでしが巷にぞ取り押へられ後(あと)ひそけしと

  寄り寄りにささやき合へどこの事件(こと)の批判はさらに拠拠(よりどころ)なし

  三つ四つの夕刊かひてむさぼれどしらじらし何事もなかりし如く

  脳天をうちたたかれし如くにも呆けてもの言へぬ我らにかあれ

尾山篤二郎も一連を発表している。

  何かの物音すらも砲声のとどろきたるやと耳かたぶけぬ

  事なくて終れるラヂオ然るべく然らしめたるごとく告げをり

  家焼かばこの雪消えむひろびろと焼野が原となるべかるらむ

  野津黒木大山乃木につぐ人は居らずなりしやをるもをらぬか

  安んじておのれを守りゆく人は今日の政治(まつり)に言寄せはせず

  高橋是清といふ老翁がよはひよりその末の子の年引き算ふ

半田良平は上の岡山、尾山を好意的にとりあげて、自らも発表している。

  ラヂオにてさきほど聴きしそのままの記事を号外の上に見直す

  七百とも九百とも伝ふる兵士らは今宵いづこに如何にしてゐむ

  誰彼と首相候補者をかぞへゆき一人の上に胸衝かれたり

  愈々(いよいよ)に事は決まりぬといふ噂は雷(いなづま)を見る思ひして聞きぬ

  兵に告ぐる声はラヂオに幾たびか繰返されぬ朝闌(た)くるまま

  馬上より兵を諭(さと)しゐる将校をラヂオに聴きて眼に描くなり

山下陸奥は、この他の事件歌も含め、批判的にみた。歌人の発想がトリビアルなものを歌うのに馴れてしまって、事件の核心にふれるような強烈なものが作れないのではないか、という、歌人の作歌態度と方法を問題にした。

他に峯村国一が事件歌についてある種の落胆を示したが、当時の出版法によると、時局を論じることが出来なかったので、率直な事件の論評に関わる作品は掲載できなかったという事情もあるので、土屋文明はアララギの後記で上の事情を説明して「作者は自信ある作品は銘々に大切に保存されたらばよいと思ふ」と書いたりしている。

半田は、岡野をはじめとして事件歌の批評の冷遇にたいして反論し、時事詠を「社会的事件を意識の底において、そこから昂揚する作者の感情乃至気分を詠み上げた歌」と定義し、概評でつまらないとしか言わず、ここの歌を適正にみていない批評サイドの評価基準の曖昧さを突いた。

ここでの、浪漫主義と現実主義に置き換わってゆく事件歌の対立は、やがて日中戦争の現地詠の評価をめぐる対立として持ち越されていく。

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たしかに、クーデター未遂事件が起こっても、時事詠の問題になってしまう時点で、歌人の問題意識は優雅だと言える。

しかしこの事件とて、耳の時代だった。今はテレビで観た事件を歌にする時代だ。短歌が虚構かどうかというよりも、短歌にすること自体が、ものごとを虚構にすることを意味しているような時代だ。この声がほんとうだと訴えているのは、作者だけの時代だ。

とはいえ、ややテンプレート化している、二・二六事件の、しずかに雪が降る心象風景も、短歌が作られたからでもあるし、上の歌も、やはり記録的な意味は大きい。芸術に記録性による評価を含みたくないという意見もあろうけれど、時間が立つと、私性なんかより記録性の方が大きくなったりする。絵画でも、印象派なんか流行っちゃったから、あいまいな図像になっているけど、あれ、精密に描いてたら、史料価値がもっと高いよなー、と思うことは時々ある。

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  七首連作「地球居残り」

スーパーデフォルメガンダムのような目で見てるSDGsの環境しぐさ

物欲も決められて黒い金曜日 買いたいものを見つけなければ

パルコにもサンドラッグや百均が入る三丁目の夕日が赤い

下駄箱に下駄がなくなり筆箱に筆がなくなり季語はまだある

機嫌良さゲームに強いきみが好き私を弟子にしてくださらんか

宇宙観、社会感、人生観、自分観。排泄観はな毛観おっと行き過ぎた

マルバツで答えを間違えた方はウラシマ効果の地球居残り


2021年11月20日土曜日

土曜の牛の日第47回「てふてふしない」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の昭和編は第13章「北原白秋をめぐる「多磨綱領」論議」です。当時すでに大御所であった北原白秋が、師の与謝野鉄幹の死を受けて、「多磨」を創刊する。土岐善麿は、白秋がいまさら雑誌作りの犠牲にならなくてもよいのにと心配し、事実2年後に白秋は視力や体力を衰弱させるが、白秋は与謝野鉄幹の「弔ひ合戦」のような決意ではじめるのである。

白秋は「多磨綱領」において、日本における第四期の象徴運動として「多磨」を規定した。

第一期は新古今。「新古今に至つて、此の三十一音型は芸術としての無比の鍛錬台となつた」と述べ、日本詩歌の本流は新古今からであるとした。

第二期は俳諧。「本来一貫したる東洋精神の清明、洒脱、閑寂の諸相はここに寧ろ当時の短歌に於てよりも、茶道、造園、俳諧に於て、その本質の開顕を見、流通無礙の心象を把握した」と評価する。

第三期に『明星』をあげる。「短歌に於てもまたあらゆる西詩派の香薫と機構とが加工され、粉黛さるるに至つて、昔時の和歌意識は全く相貌を変へた詩の新感情によつて揚棄された」として、『明星』が浪漫的精神の烽火となったと評価した。

そして第四期として「多磨」が、浪漫精神を復興し、近代の新幽玄体を樹立することを主張した。

ちなみに白秋は、これが単なる『明星』の継承ではないこと、また同時期に急に新浪漫主義を唱えた岡野直七郎の言うようなものではないことは述べた。

これらに対して、山下秀之助は、アララギリアリズムの対抗馬としてのロマンチシズムとして期待した。

逆に高田浪吉は、アララギ側から、「多磨」の陣容が白秋氏の趣味の域を出ないのではと述べた。

簇劉一郎は、白秋がすでに歌壇における特異な浪漫的潮流の一つを占めていることは明らかなので、これを結社化してむやみに対立するだけになることを怖れると述べた。

坪野哲久はプロレタリア短歌のサイドから、白秋の浪漫主義は人生逃避の芸術になっていると、懐疑的な態度をしめした。

木俣修は、白秋が「近代の新幽玄体の樹立」を提起するに至った文学精神を分析し、それが長期にわたる蓄積と練磨であることを明らかにした。

「多磨」による、アララギとの大論争というものは結局起こらず、「多磨」は理論より実作を重視し、結社性の濃いものとなってゆく。白秋の歌風、個性色はあるものの、白秋の理論もまた、白秋の実作に即した「それ以上に発展することの出来ない抽象理論」(岩間正男)となって若手には窮屈なところがあった。

「多磨」創刊号の白秋の「春昼牡丹園」は、以下のような作品である。

  牡丹花に車ひびかふ春まひる風塵のなかにわれも思はむ

  牡丹園人まれにゐて凪ふかし奥なる花の香ぞ立ちにける

  白牡丹くれなゐ蘊(つつ)みうやうやしこれの蕾に雨ぞ点(う)ちたる

  春日向牡丹香を吐き豊かなり土にはつづく行きあひの蟻

  その道の霞に行かす母のかげ遠き牡丹の花かかがやく

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白秋の近代短歌の歴史のスタートは、明治の新詩社(明星)であって、子規系のアララギの隆盛は、あくまで本流ではなかった、という意識がずっとあったんだろうな、と思うと、白秋もいいなあと思ってしまう。

子規は、自分の作品がいいなら鉄幹の作品をいいと思うわけがない、鉄幹の作品がいいなら、子規の作品がいいと思うわけがない、みたいなことを言ったけど、そのロジックって、この昭和10年の頃も、アララギ系は言うんだよね。新古今がいいなら、万葉が評価できるわけがない、万葉がいいなら、新古今が評価できるわけがない、みたいに。そして白秋を、どっちつかずの、あいまいな歌人とみなす。

まあ、アララギはたしかに歯切れが良かったのよね。そして一番歯切れがよかったプロレタリア短歌が、弾圧で見る影もなくなってしまったんだよね。

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  七首連作「てふてふしない」

君が時々つぶやいているひとりごとの短いポエム、タンカってやつ?

言葉とは生き物なのに定型の標本の蝶はてふてふしない

のどかだな芸能事務所が本名を禁じることが出来るみたいに

若いのとかわいいのとが紛らわし きみってかわいいのか若いのか

モラルハザードというゲームがあれば襲うのは真面目な方か不真面目な方か

寝る時は死の練習のように寝る、練習が仕事、本番は集金

エッチという発音がもうエッチなんて不思議だ、ふしぎというのもふしぎだ


2021年11月13日土曜日

土曜の牛の日第46回「雨夜のように」

 こんばんは。土曜の牛の文学です。

今日は出かけていたので書くのが遅くなるでありましょう。

近代短歌論争史昭和編は、第12章「岡野直七郎をめぐる新浪漫論議」です。

昭和10年は、日本は満州事変から日中戦争へと向かうさなかで、プロレタリア文学運動はすでに挫折して、アララギが低調な状態で、ここで起こったムーブメントは、新浪漫主義でした。近代批判から始まってやがて日本復古へと進む文芸雑誌『日本浪漫派』も昭和10年に創刊され、短歌のほうでも、2つの動きがありました。一つは北原白秋が浪漫精神の復興を目指して『多磨』を創刊、もうひとつは、岡野直七郎が新浪漫主義を提唱しました。

岡野は、「近年の現実主義は、短歌の散文化をもたらしたが、今年の歌壇は伝統形式尊重のきざしを示してゐる。形式尊重は、浪漫主義の取上げと関係なしに理解することは出来ない」として、現実主義の散文短歌から、浪漫主義の定型尊重へと移行することを予想して、自分自身も「財貨を根底とする世界の短歌」とか「自然の美を否定する短歌」から「情緒の歌」「歎美の歌」を作るようになってきたと述べた。

そして、ロマンチシズムと言っても、明星風のそれを繰り返すのではなく、生きている現実の人間の内部に持ち込まれたロマンチシズムであるべきだと主張した。

岡野はあいついで新浪漫主義についてエッセイを発表する。短歌は「芸術作品としての価値」が要求されているとし、「いま非常時の気分から」解放されるための「実から虚」の方向へ行かねばならないと力説する。さらに「歌の調べが第一に重要視されるやうになつた」として定型、調べを重視するような、日本的な感性への回帰をうながした。

岡野はさらに進み、浪漫精神の復興にとっては、五七五七七の定型を守ることは必須条件だとして、「太古から今まで保存されてゐた」器こそ日本精神を盛るにふさわしいとして、「万葉的なものから新古今的なものへ移りつつ」あるというようなことではなく「万葉集こそは最も浪漫的歌集である」と古代回帰を推し進めていった。

岡野に対する周囲の評価は、あまりいいものではなかった。あまりに時流に乗りすぎた性急な論理と、実作の展開のなさに、攻撃や皮肉が多かった。木俣修などは、北原白秋の『多磨』の浪漫精神を評価しつつ、後世の歴史家が、名前が同じ浪漫精神だから(岡野と北原の主張を)混同しないように念じているとまで述べた。

岡野はそれでもさらに過激にすすみ、ちょうど二・二六事件が起きた直後にも「社会批判の歌」など「定型愛の基準によつて自然に取捨選択が加へられる」のであって「何の深みもある筈がない」と拒否した。

一年前には「またたとへロマンチックな歌を作るとしても、生活に於ける現実の相はしつかりと踏まへてゐなければならぬ」と言っていたのが、ここでは「社会的批判ほど見ぐるしいものはない」というところまできてしまう。政治や社会のことなどはそれぞれの専門家にゆだねて、歌人は歌をつくっていさえすればいい、というところまで後退した。

岡野は、社会批判の否定からさらに進行し、「感傷は短歌のふるさとである」という論理に至り、「短歌の永遠性は、人間的な深い感傷の、何か無限なもの、絶対なもの、「神」と名付けてもいいようなものに服従する前後の声が、最も広く最も永遠にわれわれを打つのだ」という、定義にいたる。つまり日本の根源的なものならなんでもよい、という、論理というより信仰に通じる姿勢を示してゆく。

ここまでくると論理的な批判は成立しないので、議論にはならなかったが、二・二六事件の際の社会批判の歌の否定については徹底的な批判がされた。

岡野はその後、浪漫主義の問題については、後味の悪さをみせながら、浪漫主義と現実主義は、振り子のように動くものなのだ、というような趣旨を述べて、要するに時流の問題なのだ、と述べている。

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ロマン主義というのは、背景によって、言う内容が真逆になったりするので、厄介だ。ロマン主義というと、普通は形式を守らない、理性に対する感情と理解されがちだが、ここでは、定型の遵守がロマン主義になる。

この時代の岡野を批判するのはたやすい。しかしプロレタリア短歌が弾圧されて転向が起こったときに、彼は時流に乗ったというより、その一本道が見えたのだろうし、プロレタリア短歌の夢がさめた瞬間というのは、彼だけでなく、それなりにいたのだろうとは思う。

岡野の最後の弁明めいた言説は、あんがい、強い気もする。

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  七首連作「雨夜のように」

人生に偶然はない オートクチュールの言葉の中に「特注」がある

オリジナルな遺伝子だけど母も祖母も同じ寒さに同じ咳した

母と娘がすき焼きの肉をしなさだめ顔寄せあって雨夜のように

ニッポンがスライドしながら年を取る、おいしい肉もそんな食わない

ひとりずつ家から人は消えてゆく、最後の母が口開けて寝る

真夜中に家のどこかがバキッと鳴る不思議な音もなつかしいなど

この人のあるいは家のものがたりを物語られるなき雨の夜


2021年11月6日土曜日

土曜牛の日第45回「どっちが大事なの」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編は、第11章「『国民文学』と『アララギ』の類歌論争」です。昭和10年をまるまる使ってのこの論争は、実りが多くなかったと言われてますが、短歌における類歌、暗合、模倣、剽窃、という類似の問題、この先もあるだろう問題の過去事例ではあります。

まずはアララギの若手、渋谷嘉次と五味保義が、あのアララギ調の傲慢な言い口で『国民文学』の批判を始める。松村英一をはじめとして『国民文学』の作品はアララギを模倣した低劣な作品である等。

それに対して『国民文学』の若手、山本友一や小籏(おばた)源三が反論をする。アララギは他誌批判の真摯さが足りないこと、模倣の具体例がないこと、渋谷氏自身の作品も低調下品な散文と変わらないこと、彼らの言う常凡主義を国民文学は唱えていないこと、等。

これに対して、渋谷は松村がアララギを真似たとする例を出してきた。

1)岡山の友がくれたる青き葡萄アレキサンドリアといふを惜しみつつ食ふ(昭8.12 英一)

  信濃路は木曽の友より送り来る栃餅といふをまつは楽しき(昭4.1 文明)

2)城山をめぐりをへて出でし道に真向ふ海は柿崎弁財天か(昭8.6 英一)

  巌の上にとざせる家を一めぐり向ふは東浪見のとほき岬か(昭8.4 文明)

3)吹く風の寒きながらに汗いづるわれは遠くも歩みたるなり(昭9.8 英一)

  汗ばみて夜中の地震(なゐ)に覚(おどろ)きし吾は宿屋にとまり居しなり(昭5.12 文明)

4)高きよりなだれし岩にいくつかの村は埋めてありとこそ聞け(昭9.9 英一)

  石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け(昭6.1 茂吉)

5)檜苗背にうづたかく負ひのぼる人は顔より汗たらしたり(昭9.8 英一)

  二里奥へ往診をしてかへり来し兄の顔より汗ながれけり(昭8.3 茂吉)

  葱を負ひ山をのぼりてゆく人あり焼山谷に汗をながして(昭8.10 文明)

6)山川の鳴る瀬の音をききてよりまたくだるなり斑雪の上を(昭10.4 英一)

  山がはの鳴瀬に近くかすかなる胡頽子の花こそ咲きてこぼるれ(大14.9 茂吉)

  まざまざと影立つ山の峡を来て鳴る瀬の音ぞくれゆきにける(昭9.1 文明)

これらが模倣かどうかははっきりしないが、具体例を出してきたので、小籏も具体例で、上の数字のアララギ以前の類歌を『国民文学』から引っ張ってきた。

1)信濃なる有明山の石楠と心喜び手にかざし見ぬ(昭2 空穂)

  伊予の沖はなれ島にゐて友の詠む拙き歌を我は待ちかね(昭2.9 植松寿樹)

2)出雲路の西の涯に立ちけらし深くくもれる海にまむかふ(昭5.1 英一)

  霧はれて星影つよくきらめけりわが向く方は南の空か(昭和7.11 英一)

3)昨日の今頃は正に汗あへて徳本峠をのぼりゐしなり(昭2 寿樹)

  速吸の瀬戸をいねつつ西風吹きて船かしげるに覚めて驚く(大14 尾山篤二郎)

4)この一日雲にかくろふ妙高を青野が果にありとこそ思へ(昭2 英一)

5)昼日中店の間にしてねむりゐるをんなの額に汗流れたり(昭3.11 英一)

  いくばくの銭にかならむ汗かきて人が背負ひ来しこの袋の繭(昭3 半田良平)

この引用によって、アララギの、あたかもアララギのオリジナルを一方的に模倣したかのような言い草が間違いであることは、はっきりした。

しかし6)の「鳴る瀬」については、土屋文明自身が英一の模倣を非難したので、小籏はすかさず反論し、万葉集にも人麿の「山川の瀬の鳴るなべに」があるとして、特殊な語ではないと言い返した。しかし文明は、「瀬の鳴る」はあっても「山川の鳴る瀬」の句そのものの用例はないとして、ここの自分のオリジナリティがあると主張したのだった。

ここで、小籏のあとをうけて宇田千苳が

 山川の鳴る瀬に月のさす見ればおはれ死にたるひとの思ほゆ(大10 永田寿雄)

以下「鳴る瀬」の用例を短歌、俳句から10例近く挙げて、これは創意ではなく、単なる過去用例の倒置であるとして、土屋文明の論難が身勝手であることを示した。

これはアララギにとっては痛い反論となり、また歌壇からも『国民文学』のほうが印象がよかった。もともと、第三者から見ても、松村英一や土屋文明の作品は、それぞれ彼ら独自の作品となっており、模倣や剽窃を思わせるものはなかった。

しかし、この時代のやや低調な歌壇において、類似を思わせる歌が多かったのは、事実のようであった。

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短歌がネットコミュニティ空間で、ある種の流行が発生している現在、この類似歌の問題はこれからも定期的に発生することは想像に難くない。しかも短歌は本来的に、言葉や着想をミーム化するために韻律をととのえた詩なので、いいものは広がりやすい性質がそもそもあるのだから厄介だ。

個人的な経験として、びっくりするほど自分の短歌にそっくりな歌をつくられたこともあるし、自分がびっくりするほど、他の人と似た短歌をつくったこともあるのだが、自分がパクったと思われてもしかたがない短歌については、「こんなこともあるもんだなあ」と思いながら、自分がパクられたような短歌については「いやーここまで同じ着想や語彙はないだろう」と偶然を疑えなかったりするので、人間というのは厄介だ。それはもう、素直に第三者に判断してもらう他ないだろう。消したりするのはもうゲロったようなものなのでそれは問題にする必要もないだろう。

でも、創作って、オリジナリティを打ち出すものと、共同幻想の中に溶け込むものがあるものだから、簡単ではないよねえ。

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  七首連作「どっちが大事なの」

グーでなくパーでもさいきん「殴る」らし、そのうちチョキでも殴れるものか

新興国の肖像画みたいな色合いで新庄監督たしかに楽し

ほらあれが「賢くなって間違いが許せない人の言葉の剣」座よ

存在と時間とどっちが大事なの、飼われたるものはそんな目で訊く

人生の終局にクイズがあるとしてその時のためのような人生

地獄とは他人のことだ、他人とは自分のことだ、サル、トル、いぬ、い

うがいにも二種類あるしぶくぶくかがらがらかいつも確認したい


2021年10月30日土曜日

土曜牛の日第44回「僕という絵本」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編の第10章は「岡山巌と渡辺順三の現実主義論争」。岡山巌(いわお)は、歌誌『歌と観照』を創刊していたが、昭和9年11月の『短歌研究』で、現在の歌壇は4つの現実主義を生きていて、どれも行き詰まっていて真の現実を描けていないとした。

それは、アララギの写実説からきた「万葉復古的現実」、そして牧水・夕暮によって代表される自然主義がもたらした「輸入文学的現実」、いわゆる社会派からプロレタリア短歌に受け継がれた「舶来社会学的現実」、さらには最近の近代都市の機械化などを抽出した「新即物性リアリズム」と要約されるとして、それらではない「環境と私との直接的な関係性による現実主義」を提唱した。

ちょうど同じ『短歌研究』11月号で、プロレタリア歌人の渡辺順三が「最近の歌壇に於ける現実主義の理解において」を書いていて、歌壇で言う現実主義が、主観的や観照的、あるいは自然主義的にすぎないとして、無党派的ではない、社会主義的リアリズムを提唱した。これは渡辺独自の論というよりは、プロレタリア文学論に沿ったものを短歌に適用したくらいものだった。

自分のリアリズム論が「舶来的社会学的現実」という行き詰まった現実主義の一つとされたのだから、当然渡辺は岡山に反論を書く。

岡山が「舶来社会学的現実」では具体的な人間関係を掘り下げられないというが、それは「社会関係の総和(レーニン)」として考えなければ、実体をつかめられず、一人の人間の考えや行動は、社会的関係のなかではじめて理解が可能であること、また岡山の言う直観的、主観的に現実に把握することは、西田幾多郎の主観的観念論の影響を受けたものであり『非現実』主義の泥沼に片足を落とし込んでいる、と揶揄した。

岡山と渡辺の応酬は三度も反駁し合うが、論争そのものが動くことはなかった。渡辺はプロレタリア文学理論に自信をもっていたし、岡山はプロレタリア文学理論ほど整理されていなかったし観念的であるきらいはあったが、新しい現実主義を模索する姿勢はあった。

論争のあいまに、岡山は歌壇に対して、結社があって精神や主張があるのではなくて、精神や主張があって、それから集まりがなければならないと言ったり、しかし何々主義よりも前に具体的な人間がひかえていなければならない、というイデーを述べたりした。また渡辺も、短歌が「芸術性」と「大衆性」を(矛盾するものではなく)なんとか統一できるものとして、そのための理論と現実主義を考えていた。しかし彼らの志はともかく、その議論は、抽象的、観念的、またはマルクス主義の公式論的で、現実の作歌にあまり関わらないものだった。

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昭和初期はプロレタリアのロジックが吹き荒れるし、マルキシズムというのは、入り込むと一瞬すごくクリアになるので、人類に猖獗した、というのはわからなくはないのよね。

でもどうかしらね。またプロレタリア短歌、流行ったりするのかなぁ。兆しはないけれども、裏側には居るような印象はあるよね。

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  七首連作「僕という絵本」

心臓に話しかければ心臓は自意識なんか軽んじられて

交響曲を九つ作れば死ぬという時々ほんとのうわさがあった

戦争のない世界とは広告を消すための広告を流す世界で

絵本(picturebook)とはまったく不思議、絵本から出れない僕もウィトゲンシュタインも

コンビニズムの光の中でわれわれという輪郭に突っ込むプリウス

真実しか述べない僧がいるのならおそろしいよねそいつの不朽舌

僕という絵本に君をまねきいれやっぱりきみは姫さまでした


2021年10月23日土曜日

土曜牛の日第43回「短歌はいつよ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争史昭和編第9章は「松村英一と土屋文明をめぐる定型散文化論議」というもので、これは具体的な論争というよりも、昭和8年頃に、短歌の散文化がどのように受け止められていたか、というなだらかな状況についてのものだ。

といっても、まずは『国民文学』の松村英一が、短歌の発想が散文化しがちになることの必然性を述べたさいに、「写生歌が、死物の如き姿を以て現れ」ているとアララギを批判したから、土屋文明が『国民文学』の植松寿樹の作品をくさしたのが論議の始まりではある。

 空にむきて枝はる樹々の早き芽立わが家の庭とくらべて仰ぐ  植松寿樹

 わが側をすりぬけて急ぐ自動車は女同志さそひ合せて乗るか

<空にむきて枝はる樹々><わが家の庭とくらべて仰ぐ><すりぬけて急ぐ><さそひ合せて>のような散文化した発想の低俗はどうなのか、と土屋文明はやりかえした。

松村英一は、土屋の神経質な批評態度に異をとなえつつ、短歌が散文化していくことの妥当性や新しさを主張した。

この話題について、尾山篤二郎は、散文化を試みた最初の歌集は窪田空穂の『濁れる川』だとして、散文の取り扱う世界を歌に取り入れる文化が『国民文学』にはあるとした。またアララギにも、正岡子規以来のリアリズムが根幹にある以上、現在のリーダーである土屋文明にもリアリズムとしての散文化を期待した。

ところが文明は散文化という言葉を疑問視し、この言葉が、単純化の不十分性や、叙情性や、作為的な水増し表現や、定型の調子の張りなどを無視されがちな弊害を警戒した。散文化によるリアリティの深化に期待しないわけではなかったが、否定的な見解をもっていた。

そのころ、昭和8年5月号『短歌研究』の五十首競詠で、土屋文明は有名な「鶴見臨港鉄道」二十二首を出している。

 本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし  土屋文明

 幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり

 吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は

 横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

 無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ

この作品について自由律の矢代東村は「今年度に於て、散文化の問題に関連し、最も注意された」と評し、釈迢空も「さすがに、こんなのを見ると、世間の空元気のどなり歌とは、はっきり区別が立つてゐる」と高く評価した。

しかし尾山篤二郎はこれは否定的だった。「把握力の強靭さが無く、全く散文化して了」ったという。

散文化の話題は、その後も大熊信行や、清水信や、半田良平などがニュアンスを変えながらすすめていく。概ね散文化を支持する流れであるが、伊沢信平など、反対するものもあった。

散文化をねらった作品は、どうも「漢字・漢音の熟語の羅列、文語体の文章口調、著しい調子外れ等、つまり文語的散文の一節か一行に過ぎないもの、内容的には、恐しく非科学的な、空疎な観念、ファッショ的イデオロギー、瑣末(トリビアル)な俗事の表白等である」(伊沢)

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短歌の散文化の問題は、およそ3つのファクターがからみあっていると思われる。1つは現在性の獲得の問題、2つは非日常の詩から日常の詩(散文)への移行、3つは定型の維持するか否か。

この3つの、たとえば土屋文明は、1は肯定するものの、2は詩であるべきで、3の定型は破壊するわけにはいかなかった。このポジションで、プロレタリア短歌(全部既存のブルジョア的なものは壊せな思想)が元気なあの時代、散文化を言葉の上でも簡単に賛成するわけにはいかなかっただろうと思われる。

でもこれも、思い返せば、明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に含まれた議論なんだよなあ。(土曜牛の日第1回「滅亡論」

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  七首連作「短歌はいつよ」

しのびよる表現の過激忌避の風、本焼けば暖はとれるしばしは

しあわせを君を祈るたびつくづくと、居場所を君は変える旅つづく

青年は詩を 中年は川柳を 老年は俳句を(短歌はいつよ)

「恥ずかしいセリフ禁止!」と言うアニメキャラの恥ずかしいセリフを見つけるはやさ

人生のうわぁなことはやったのであとは生きるだけの人生

水着って下は衛生的に分かる、上は性的な他にあるっけ?

my salad days、(YouTubeのアイコンがまだブラウン管だった時分に)


2021年10月16日土曜日

土曜牛の日第42回「怒らない方に」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

短歌があまり好きではない、という内容の誰かのブログを読んで、ちょっと気持ちが沈んだのだが、そんなやつそもそも多いだろうし、自分が落ち込むのは大変にスジチガイだとあとで冷静になった。そういうときは腕立て伏せ50回やればいいのだ。

近代短歌論争史昭和編の第8章は、「斎藤茂吉と谷鼎の花紅葉論争」。有名なあの歌の解釈をめぐる論争で、斎藤茂吉が完敗したのだ。

新古今和歌集「秋歌上」の藤原定家の、

  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

この歌の<花ももみぢもなかりけり>について、斎藤茂吉と谷鼎(かなえ)が二年あまり対立した。斎藤茂吉は、これを実景として、もう花も紅葉もなくて秋の夕べはさびしい、という解釈をした。

この歌の解釈は、17世紀に北村季吟が八代集抄で「花も無く紅葉も無いが大層おもしろい」と非実景でとらえ、本居宣長もそれに同じ、宣長の門の石原正明も「花も紅葉も及ばぬほどの好景なり」と非実景だったが、茂吉と同世代の国文学者鴻巣盛広は「花モ無ク紅葉モ無カツタワイ。」と実景の説を取っており、茂吉はそれを支持した。当然茂吉にはアララギの写実の理念が念頭にあったのはまちがいない。

それに対して、藤原定家を研究テーマにもしていた谷鼎は、実景説を退けて、象徴説をとって対抗した。まず「花」は秋の千草の花でなく、桜の花であり、象徴の美としての「花」と「紅葉」であること、浦の苫屋に桜や紅葉が無いことを藤原定家がわざわざ言うわけがないこと、「なかりけり」の言い切りの不自然さは、美の象徴の花や紅葉がないのにそれに類した美の気持ちをもたらす浦の景色を表現しようとする「新らしき語調」の詠嘆であること、を述べて、茂吉のように「万葉の目を以て新古今を尽く解さんとするやうな錯誤」に釘をさした。

だまっていられなかった茂吉は、9ヶ月に渡って、「花も紅葉も無いワイ」か「花も紅葉も要らぬワイ」かを、用例を調べて「無い」の用法に「要らぬ」の意味があるかどうかを調べ上げた。「無い」に「要らぬ」の意味がなければ、谷の説を覆せると考えて、そんな用例がないことを証明した。

谷は、茂吉がすべて言い尽くすのを待ってから、逆襲した。まず、9ヶ月かけて調べた「なかりけり」は「無いワイ」の詠嘆でよいとした。「要らぬ」「及ばぬ」の意味は、作品の余韻の解釈なので、茂吉の抗議に抵触しないと言いこなした。それから、茂吉の訳の「もう花も、また紅葉もない」が実景であるなら、両方にかかる副詞の「もう」を考えると、もう紅葉もない、つまり冬になるので、「秋の夕ぐれ」がおかしくなる。そして、この歌が、あるべきものの不在の寂しさではなくて、浦の苫屋の寂しさそのものの趣をよんだ歌であることを、古典和歌における「花」「紅葉」の象徴や観念を説明しながら論じた。

谷は最後に(斎藤)博士のこけおどしの空砲ではなく、実弾を、標的をちゃんとねらって撃ってもらいたい、としめくくったが、茂吉は反論することはなかった。

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無い、という不在が実景なのか非実景なのかを議論する、というのは、なかなかイカれた論争だな、とは思うよね(笑)。だってどのみち無いんだもん。

ただ定家の時代に、幽玄様とか言葉があるけれど、不在のものをよむ、というのは、言葉そのものの力についていくというのは、おそろしく勇気のいる行為だったかもしれないよね。すごく表現として前にいたんだろうな、と思う、和歌は。

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  七首連作「怒らない方に」

鼻の時代、耳の時代がありまして目の時代目は濡れてばかり

人の言葉をさえずりにしてしまったろ、もうそれは快と不快の音色

関係は神社とおおかみのごとし、歩くとは目をあきらめること

人間をからから逃げて信天翁、アホウドリの名は救済だのに

雪野をばひたすらはしる犬の景、探していたがやがて楽しい

価値観がバラバラなのとひとつなのと、より怒らない方に3000点

いまどこで君は落魄してないか、神々を今日も遣わしといた


2021年10月9日土曜日

土曜牛の日第41回「ニュースで不幸」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

先日は関東で震度5強の地震がありましたね。人類は地震と疫病で思想を鍛えてきました。というか、首都圏でこのレベルの地震があって、それほど騒がない国は他にどこがあるかな。

近代短歌論争史昭和編は第7章「土屋文明と高田浪吉の生活詠論争」。島木赤彦亡き後のアララギにおいて、土屋文明系と赤彦系が対立して、文明系が覇権(ヘゲモニー)を握るなかでの論争です。

赤彦系の高田浪吉(なみきち)は、赤彦の鍛錬道、人生即作歌という歌風を守る職人の歌人だが、赤彦亡き後アララギのエリートたちを批判しながら、ついに土屋文明の作品にも批判をはじめた。


「八月十六日」  土屋文明

目覚めたる暁がたの光にはほそほそ虧けて月の寂けき

暑き夜をふかして一人ありにしか板縁(いたえん)の上に吾は目覚めぬ

ふるさとの盆も今夜はすみぬらむあはれ様々に人は過ぎにし

暁の月の光に思ひいづるいとはし人も死にて恋しき

有りありて吾は思はざりき暁の月しづかにて父のこと祖父のこと

空白み屋根の下なる月かげや死の安けさも思ふ日あらむ

たはやすく吾が目の前に死にゆきし自動車事故も心ゆくらし

安らかに月光(つきかげ)させる吾が体おのづから感ず屍(しかばね)のごと

争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ


浪吉は、3首目を「様々に人が死んだという考へ方は好まぬ」から「様々なことをして人が死んで行った」と解釈したいと言い、8首目を自分を「あはれむ気持」が「甘し」とし、9首目の歌を夫婦争いの憎悪の歌として、「さういふ所には歌の大道はあり得ない」と批判した。

しかし、文明も軽くいなして訂正をしたが、浪吉の解釈は作品のポイントが基本的にずれていて、赤彦系のスローガンである鍛錬、大道に説得力をもたせる以前のところでの派閥意識のような批判となっていて、大きな論争にならず、赤彦系の衰弱を示す結果となった。

文明の生活詠も、赤彦系の自然詠の脱却のための新しい方法論が提示されるわけでもなかったが、赤彦系の鍛錬主義、人格の陶冶と写生、という方式はうすらいでいった。

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ヘゲモニーという言葉について考えざるをえないよね。そういうポケモンの名前ではない。

論争というのは、つまるところ覇権争いなので、論争史を読む以上ヘゲモニーの移動を把握することがポイントではあるのだが、覇権を取る主義や作風は、主義や作風それ自体が取るものなのか、時代が選ぶものなのか。今の時代は、何がヘゲモニーをもっていて、それは、新しい論争が変えるものなのか、それとも、ただの飽きなのか。

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  七首連作「ニュースで不幸」

目の前のケーキにだって陰謀論それがおいしいからまずいから

ニッポンは不幸なニュースが多すぎるニュースで不幸を思わせすぎる

むかしむかし物資払底した国で子供の笑顔が光った話

生き物は生き物の悩み、死に物の悩みを覗くとき色は黒

さきゆきが不透明だと言う時に江戸時代は透明っぽいと思ってごめん

起きたらば結構寝てた秋眠も覚えておらずアカツキムーン

コロナ禍でこのなかでこの世の中で転んだままで喜んだままで


2021年10月2日土曜日

土曜牛の日第40回「嘘つきは」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今週の近代短歌論争史昭和編は、6章「浅野純一と影山登志男の自己清算論争」です。面白いけど、ややこしいのよね。

昭和4年(1929)のプロレタリア短歌は、無産者歌人連盟の『短歌戦線』があったものの、他にも『先端』『まるめら』『文珠蘭』『黎明』などがあって、それぞれが対立していたのだが、今回は『黎明』の影山登志男が『短歌戦線』を批判したことを発端とする。

『黎明』は、『短歌戦線』のような政治主義的な観念的態度よりも、痛切な生活苦のクローズアップから階級意識を目指す意識があったので、影山登志男は、対外的な闘争もよいが、ブルジョアイデオロギーで教育された自分たちの「ブル的」なものを「清算」するべきだとした。「封建→近代→プロレタリア」の流れの中で、「封建→プロレタリア」と一足飛びに行かず、近代的自我の確立が必要だという闘争のプログラムを述べた。影山登志男はこのような自作を引いた。

  いざと言ふ時それを妨げる一人の人もあつてはならないその時に今は力を尽さう

ちなみに『黎明』のリーダー田辺俊一の作品は以下である。

  何だか知らないが自分は一たい頭がへんになるのかと思つてゐる

  俺のものは芸術なんかぢやなくていい価値なんかなくてもいい

  俺は今よわい言葉を吐いてしまつたどうしていいかわからなくなつてきた

影山の文を読んで『短歌戦線』の浅野純一は、影山が「自己清算」が何かわかっていない、闘争をしてこそ自己清算はあるのだとおこった。また純一は『黎明』の武政杜郎の作品「血みどろな実感の道を進むことなくいい歌が大久保よ出来ると思ふか」に触れ、「歌作するために闘争するのではなく、闘争の中から歌が生まれてくるやうにしろと言ふのだ。」と、『黎明』の自己清算の考えが筋違いであると諭した。

同時に『短歌戦線』の伊沢信平も、影山登志男の「自己清算」に反対し、彼の理論は旧来の内部葛藤の反省・告白の「自我主義」であり、プロレタリア文学の意味を失っているとした。プロレタリア文学が大衆の中に入る芸術運動のプログラムにおいては、「自己批判的な歌」よりも、「アジ・プロの歌」の努力が必要だとした。

とはいえ『短歌戦線』の作品のつまらなさには内側にも不満があって、花岡謙二は、プロレタリア短歌について根本的な問題として①短歌は階級闘争の具たり得るや②プロレタリア短歌は短歌たり得るや、という提起をおこなった。しかしこれは、渡辺順三が花岡が階級芸術論をわかっていないとこき下ろし、いわゆる短歌たりうる必要はなく、プロレタリア的な世界観による、新しい芸術観を建てなおすべきだとやりこめた。

論争は、影山が『短歌戦線』の浅野の作品を挙げて批判したことで、作品の話になって矮小化していった。批判した浅野純一の作品「従業員表彰式」はこのような作品である。

  うやうやしく、表彰状をもつてよぶ、老ぼれ会長が壇上から。

  くだらない表彰状がうれしくて、女工は抱く、児を抱く胸へ。

  正午(ひる)がきた。弁当がでるかと待つてゐた。正午(ひる)には白湯もでなかった。

  諸君と叫んで警部は待つてゐた。あてにしてゐた拍手がないので。

  折詰の弁当が来たと喜んだ、職工に見せるな、資本家だけの弁当なら。

論争はふたたび自己清算論に戻るとみえたが、『短歌戦線』は別の文章で発禁になり、論争は途切れた。その後メーデーに出版された『プロレタリア短歌集』も発禁になり、弾圧のなかで、ふたたび小グループで対立していたプロレタリア歌人たちは結束するようになり、プロレタリア歌人同盟の成立へと向かうのだった。

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プロレタリア短歌のおもしろくなさは、とても興味深いし、ひとつの謎でもある。一応の理由はつけられそうなんだが、それは、いつか自分に帰ってくるのではないか、という気がするのである。歴史が繰り返すなら、また表現はここに来ることがあるように思うからだ。

文明は必需品のレベルによって決まる。文化は不要品のレベルによって決まる。

そんな格言を今考えてみるけれど、表現という不要品は、不要であることによって、排斥の風はときどき猛威をふるうのだ。そのなかで、表現は必要だ、と訴えてしまうと、理論や根拠が必要になる。そして理論や根拠が認めるものは、プロレタリア短歌のようになってしまうのだろう。

彼らの、政治的な、表現の正しさの議論は、現在もismと名付けられた考えによって、表現を不要なものにしようとしている。不要なんだが、それは文化のレベルを決める。

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  七首連作「嘘つきは」

人間はおろおろおろか、簡単なことばを簡単なことばと思う

トロイの遺跡を見つけたというシュリーマンがいなければないままのトロイア

嘘つきは表現のはじまりなればライン作業の漢字のドリル

平等な地平はけっきょくどこだろう? どこまで降りれば(お前は上か)

叫び足りないんじゃなくて酒びたり、知らないコンテンツの中で寝る

男とは(女もだけど)根性のある顔がいいよね、我(が)と違い

人間はすごすごすごい、ことばにてこころをまだ見ぬものにも描く


2021年9月25日土曜日

土曜牛の日第39回「こんど飲もうよ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

先日、宮沢賢治のやまなしを久しぶりに読むと、あれが大正の作品だったことを改めて知る。宮沢賢治の文体は、誰しも一度は「出会う」と思うけれど、出会うってことは、生きているわけで、たいした寿命だな、と思うのだ。

近代短歌論争史昭和編の5章は、「斎藤茂吉と高浜虚子の客観写生論争」。客観写生を確立していた高浜虚子が斎藤茂吉を招いて、『ホトトギス』誌上で短歌と俳句の写生の比較をこころみたものだった。

茂吉は客観写生に反対したが、①短歌と俳句は短歌の方が主観的で俳句は客観的である。②写生は実相を写すものであるから、主観や客観に限るものではない。③したがって俳句が客観写生に限定するのは範囲を狭めることである、という理由からであった。

しかし虚子は短歌は主観写生がその長所であり、俳句は客観写生こそが俳句本来の面目であると、少しも揺るがなかった。そして、茂吉が提出した客観写生の短歌を、俳人側はほとんど評価しなかった。

これに対して茂吉は憤然として「和歌に対する鑑賞眼の低級なのに驚いた」「態度の幼稚さ」「和歌の初学者にも及ばず」とあの調子でやりかえした。驚いたであろう虚子は、控えめに返答したが、意見がゆらぐことはなく、もの別れに終わった議論だった。

この論争は、何も生まなかったようにも見えるが、俳人の中でも水原秋桜子など客観写生に飽き足らない者は、茂吉の写生論へ近づき、のちの新興俳句運動への下地へとつながっていくものであった。

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近代短歌の写生は、ふりかえると、やはりいびつな定義に思われる。ものを写しとる、という行為において、客観と主観は、明確に分かれるものでもない。言葉で写すとなおさら、その言葉の選択が客観か主観かを論じるのは、フレーム(枠組み)の問題になってしまうだろう。茂吉は、そのフレームを認識しているメタな主体をも写すことを実相観入と呼んでいるのだろうが、斎藤茂吉のおかげで、日本人は、客観と主観をローコンテクストで判断できない病気にかかってしまっている。

正岡子規のいう写生というのは、せいぜい説明せずに描写せよ、くらいの意味だったはずなんだよなぁ。

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  七首連作「こんど飲もうよ」

人類の最初に花を供えたる変わった人を思う休日

思い出は尽きないなんて言うけれど、無い思い出もみえる時代に

沼なれば泳ぐというか潜るちゅうか汚れを気にせず進むがたのし

漸進ということだろう、カタツムリのけっこう速い遅さについて

理想論だけどさ、お金は足りなめで虚勢を少し張る男たれ

シラケてた時代も終わり、見渡せばシラケてたのはここだけだった

オレたちはいつまで虚像? 作中の主体同士でこんど飲もうよ


2021年9月18日土曜日

土曜牛の日第38回「そんな物理へ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編の第4章は「斎藤茂吉と太田水穂の<病雁>論争」だ。昭和4、5年(1929-30)のこの論争は、茂吉の「よひよひの露ひえまさるこの原に病雁(やむかり)おちてしばしだに居よ」という歌を、太田水穂が、芭蕉の「病雁の夜寒におちて旅寝かな」の象徴の模倣であると書いたことからだった。

茂吉は例によって、語義出典を調べまくり、宋の『誠斎詩集』に「病雁」があるので芭蕉のオリジナルでないことを示した。そして、芭蕉の句が帰雁(春)であるのに対しこちらの病雁は秋の季であることを説いて、模倣を反論した。さらに、太田水穂の象徴主義が、アララギの写生即象徴の方法論よりも非論理的であることを攻撃した。

そこからの斎藤茂吉の太田水穂攻撃は執拗をきわめて、「太田水穂の歌を評す」は1〜7まで、「太田水穂を駁撃す」は1〜5まで、「太田水穂の面皮を剝ぐ」は1〜4までと、アララギ誌上で、太田水穂の作品、人格、批評、私信まで晒して徹底的に攻撃を行った。これには、茂吉が論争には勝ったとされているが、アララギ内部においても、冷ややかな反応となり、茂吉はやや浮いてしまうようになった。

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この時代は、短歌の若い人たちがプロレタリア短歌にひかれるなかで、写生主義の『アララギ』と、象徴主義の『潮音』が、それぞれ、自分の主義を第一において、他を2番3番と位置づけていることの、三つ巴のような背景があって、太田水穂が斎藤茂吉にしかけただろうことが想像される。

短詩において模倣、剽窃、暗合、は、死活問題っちゃあそうなんだけどね。現在ではこういう戦い方にはならんわねぇ。

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  七首連作「そんな物理へ」

早食いのように思想を飲み込んで塩と甘さと油でうまい

キンモクセイの花言葉が謙虚だなんてふふっと笑うふふっと香る

メメント・モリみたいな気取ったものじゃなく死ぬる命として夜眠る

戦争になったらぼくらどうしよう勝てる方へとカニ歩きしそう

死ぬことはそんなに悪いことじゃない永遠が永遠に終わるだけ

白樺の林を歩く、包帯を巻いた少女のアニメも終わる

再生(Renaissance)に犠牲が要るか、だとしたら手も合わせるぜそんな物理へ


2021年9月11日土曜日

土曜牛の日第37回「ありのまま」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

結局あまりいいまとめ方が思い浮かばないまま、第三章「『短歌戦線』のプロレタリアリアリズム論議」へ進む。

プロレタリア短歌は昭和3年11月に無産者歌人連盟を結成し、『短歌戦線』を創刊する。無産者歌人連盟は、前身として新興歌人連盟があるが、こちらはすぐに意見が分裂して、メンバーの交代が何名かあって無産者歌人連盟となった。

もちろんプロレタリア短歌の流れはこれだけでなく、口語歌人のあつまりの『芸術と自由』があったし、地方歌誌「まるめら」の大熊信行などがプロレタリア短歌を打ち出していたし、そもそも文学全体として全日本無産芸術家連盟(ナップ)が結成され『戦旗』も創刊されていた。プロレタリア文学が勢いを増していたのだ。

坪野哲久は階級闘争の武器として大衆に叫びかける短歌形式はふさわしいとしながら、今の封建的イデオロギーの形式のままでは無産階級的内容を盛り得ないので、その形式を揚棄(止揚)しなければならないとした。

会田毅は、坪野の論を発展させて、プロレタリアリアリズムとは、「空想と想像に築きあげられた観念的な歌」を否定すること、「三十一音に依つて調子をととのへられたものではない」こと、「ごつごつした非韻律的なもの」を採用することだとした。そして、プロレタリアートの目線を獲得するには、プロレタリアートにならなければならないのだが、それだけでなく、それを目指す過程もまた、プロレタリアリアリズムだとした。

これに対して、新しい定型を提唱する大熊信行に接近している浦野敬は、この方法自体が観念的で単純であると批判したし、渡辺順三は、マルクス主義の公式理論や観念的革命理論を発表するには短歌は不自由すぎるため、無産派の短歌はいい意味で生活の愚痴の範囲は出ないだろうとの考えを示した。

伊沢信平は、プロレタリアの思想や生活が現在の定型にすっきりと作品として定着するはずがないとして、「定型律そのものに一定の歴史的限界がある」と結論し、プロレタリア短歌に歌学の適用はないとした。そして、形式と内容の矛盾の克服がプロレタリア短歌の出発点とした。

新形式をとるのか定型の止揚を取るのかを議論するも、自由律や短詩になることには全体として否定的であった。坪野哲久は「短歌的」なるものについて、「一息に言ひきることの出来る完了体としての詩型であること」「句と句との間に階級的な粘り強さが必要であること」を挙げた。プロレタリア短歌は、このように、形式と内容の不安定なバランスのなかで短歌的なるものを追求してゆくのだった。

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この時代のプロレタリア文学の跋扈はすごかっただろうね。自分がそれを否定できるとは思えないくらいの"完成された社会科学の結論感"があったと思う。同時に、日本文学や短歌への、"土足の蹂躙感"も、反対の人にはあっただろう。現在の、西洋のポリティカルな善悪に対する感じが、近いかもしれない。間違っちゃいないけど、なんにでもどこにでも適用する性急さは結局あなたがたの嫌う暴力と同じになるよ、ということを理論に対して提言するのは、簡単ではないんだよね。

思うに、昭和初期は、社会が良くない原因を、ぜんぶ封建的イデオロギーのせいにしたんだよね。だから、今ぜんぶ○○のせいにしちゃっているとしたら、ああ、昭和初期のあの熱病のそれだと思えばいいのかね。

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  七首連作「ありのまま」

太陽を地表がはなれただけで秋、君がやさしいだけでバリバリ

頑張らなくていいと言うのは気持ちいい蟻ならありのままついてゆく

謝らない嘘は心に永くいてそういう嘘といま飯を食う

人間の遠くつながる儀式ありて灯るからにはそれは火である

音のない写真があった、それについて目線の主に二、三言ある

人を見る目などないない、たまたまのでこぼこ道でいい人だった

考えの異なる人をどうしよう、殺すか殺されるか、じゃあなぁ


2021年9月4日土曜日

土曜牛の日第36回「恋だ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

昭和の短歌論争史は前回もそうだが、どうまとめたものか定まっていない。第二章は「前川佐美雄と土屋文明の模倣論争」で、例によって排他的なアララギの、土屋文明が他結社の作品を時評で上から目線で批判していると、「心の花」の前川佐美雄が「行き詰つてしまつてどうにも動きのとれぬ今の『アララギ』の盲ら評だ」とつっかかり、土屋文明の作品の至らぬところを指摘して「詩の足りぬ側の人」とののしり、アララギの排他主義を攻撃した。

それに対して土屋文明は、前川佐美雄の作品が茂吉・赤彦の作品を模倣したものがあることを指摘して、批判しているのにアララギ模倣がうまいことをからかった。

前川は、あれはアララギ風の作品は容易であり、古いことを示すために真似をしたのだと反論し、師匠の真似をする寺子屋アララギでは行き詰まるのも当然だ、と言って、先輩格の土屋を激しくわらった。

この模倣論争はけんかわかれに終わったが、前川佐美雄はここでアララギズムとはっきり別れ、モダニズム短歌へ進んでゆき、土屋と茂吉はさらなる論争の準備をすすめるのだった。

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インターネットはSNS、とりわけツイッターによって、ある言葉のやりとりの空間を作り上げるに至ったが(これは今は当たり前のようだが、時代が変わると想像ができなくなるような、特殊な空間であるだろう)、この世界でも、他人の短歌を、きらくに上から目線でああした方がいい、こうした方がいい、と言うのを見ることがある(自分もかつてしたことがある)。

これに対して反論したところで、これが実りのある論争になるかどうかというのは、なかなか難しい。そもそも、相手をやっつけるような論争と実りのバランスは、本質的に悪いのではないか。現代において論争がないのは、論争すべき主義主張がないというのもあるだろうが、そのバランスの悪さを続けるにはわれわれの関係はスマートになってしまっているからではないか。

まあ、論争すべきなにかでは、短歌はもうない、という、元も子もない意見もあるだろうけれどね。

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  七首連作「恋だ」

食欲と食べたい欲がちがう夜こういう夜はよく間違える

会うことをやめたと決めたので恋だ卵黄はけっきょく破るのに

人生ゲーム、という比喩ともかくルーレットをいっつも強く回したお前

最近のゲームは終わりがなくなって永遠のゲームみたいな恋だ

骨の化石がのこったとある恐竜のさぞかし立派な竜生であれ

恐竜もこんなに愛くるしいように鳥類だけの地上の恋だ

ラブレターは読み返さない方がよい、初回限定のみに羽ばたき


2021年8月28日土曜日

土曜牛の日第35回「あらあら不幸」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の明治大正編が終わったので、そのまま昭和編もやろうかと思ったのですが、昭和編は26章ですが一章一章が長いし、論争内容も、だんだん似通ってきているんですよね。

たとえば第一章「斎藤茂吉と石槫茂の短歌革命論争」は、島木赤彦の没後、反アララギのムードが盛り上がってくるにしたがって、石槫茂が「短歌革命の進展」という連載を始める。

プロレタリア文学の「伝統的短歌・結社組織=有産者階級・ブルジョア」「口語歌=無産者・プロレタリア」という構図にのって石槫はアララギだけでなく口語歌の西村陽吉や自由律の石原純・清水信、象徴派の太田水穂、モダニズムの前田夕暮も批判した。

それに対してアララギへの批判に怒った斎藤茂吉が長期にわたってしつこく反撃する。プロレタリア理論を模倣する観念的な石槫の態度をバカにし、その理論を一蹴し、さらには、アララギよりも先に自分の所属する「心の花」同人や佐佐木信綱博士、石槫の妻の五島美代子の作風を変えてから言ってみよ、話はそれからだと煽る。

そこでは、茂吉の「短歌は思想を盛りがたい」というテーゼについての議論もあったが、実相観入・写生という方法とプロレタリア短歌のあり方について深まるところはあまりなく、茂吉はアララギを守るリーダーとしての振る舞いもあったし、石槫は大正時代までのそれぞれを新しい理論ですべて否定するスタンスもあって、実作で時代が動く感じではなかった。

という感じになるのですね。(こういう感じになりますよね)

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大正時代は写実というアララギの方法論が主流となって、その周辺に芸術主義が対立していた、という構図になっていたが、昭和になると、社会主義からプロレタリア文学の主義が台頭して、短歌もこれに巻き込まれてゆく。プロレタリア文学は、それまでの芸術の主義というより、政治思想や歴史科学のような相貌をもっているので、正義か不正、善か悪、0か1かという中間のない議論になりやすい。この点で、昭和のプロレタリア文学の猛威は、令和の分断状況と少し通じるところがある。

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  七首連作「あらあら不幸」

かこかこと過去へと行ける角がある路地はいかにもあやしい感じ

アパートに帰りたくなる帰ったらわざと寝ている君がいるあの

蓮の花のあいだを白い車椅子のあなたを見たり見えなかったり

残業がまだある時代、きらきらをお金に変えて拗ねてる時代

地球人は地球のことを考えてファミコンのようなドットの荒らさ

狂人と狂人のふりが分からないようにあらあら不幸なわたし

縄文の土器みたいのが胸にあり人目に出せる日はまだみらい


2021年8月21日土曜日

土曜牛の日第34回「キャリーオーバー」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

緊急事態と文学は相性がいいでしょう。

近代短歌論争史明治大正編は最終章の35、「清水信と西村陽吉をめぐる新技巧派論議」です。

口語歌人の大同団結を目指して作られた雑誌『芸術と自由』は、口語歌であること以上の思想や理念の共有がなかったため、「西村陽吉と岸良雄の生活派論争」では生活優先か美尊重かが問題となり、「奥貫信盈と服部嘉香・西村陽吉の新短歌論争」では定型か自由律かが問題となったが、西村陽吉はその分断をうまくまとめることが出来なかった。

そこにさらに、口語歌のなかでも有力なひとりである清水信の「新技巧派」の作品が、議論としてあがる。

 透明な花粉をこぼす雨後の月 しきりに電車が触覚を振る  清水信

 靴の塵拭きながらしずかに退け時の汽笛の音を耳にひろった

瀬鬼惺は、このような表現上の新鮮さは作品の論理性に関係がない「感受過敏な人間の新奇、珍類、変形語的な表現上の是非論に過ぎない」「技巧本位な精神」だと批難する。そして、清水が新技巧派を、「生活派風をあきたらないとする人々が、一歩をすすめた」と言うことに対して、西村陽吉も批判をはじめる。清水のいう「新しい表現には新しい内容がなければならぬ」という表現と内容の関係について、西村は、「内容」と「表現」は密接であるべきであり、「表現」のみのゆきすぎをあやぶむような、西村の当初からすると後退するような態度をとった。

新技巧派のようなモダニズムにも反対をしめし、自らの歌集はプロレタリア派からもプチブルジョア的と批判された西村陽吉は求心力を失って、『芸術と自由』は部数が伸び悩み、多くが離脱していった。

昭和2年、口語短歌はモダニズム短歌とプロレタリア短歌の2つの重心に分かれながら、昭和へと進んでゆく。

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瀬鬼惺(せきさとると読む?)は、新技巧派はやがてプロレタリア短歌のまえにくずされると予想して、新技巧派を「言葉の遊戯的自慰」であり、短歌の社会的逃避でしかないとした。

ついこないだまで万葉と写実、対、象徴主義、みたいな論争をしていたところが、あっという間にプロレタリアとブルジョアの対立に短歌も巻き込まれた感がある。とはいえ、西村陽吉は啄木からの社会派からの流れなので、ずっとあったといえばあった考えでもある。今回西村と対立した前田夕暮門の清水も、西村に長く選をしてもらっていたので、このあたりの、それぞれの進む速度が違ってゆく感じは、茂吉らが台頭する頃の伊藤左千夫のようでもあり、流れのつよさも感じられるところである。

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ざっくりですけど、ひとまず近代短歌論争史の明治大正編は終わりました。今年の1月から読み始めて、8月で読み終わり。おつかれさまでした。

昭和編? どうしましょうかねえ?

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  七首連作「キャリーオーバー」

人間め暑いじゃないか公園の青い遊具に蝉はわぢわぢ

引きこもったもん勝ちみたいな世よ、石の下の湿った土からそとのおと聴く

いつまでも挙国一致にならなくて今いくらくらいのキャリーオーバー

イマヌエル・カントは街を出なかった 今ならいえるそれで良かった

世界遺産になりそうもない暮らしですエアコンがあってスマホがあって

大きいのはいいことのような代名詞 大人は誰から見て大の人

もろもろを差し引いたなら人間の時間はこんなつまめる時間


2021年8月14日土曜日

土曜牛の日第33回「歌なんか」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

ワクチンって日本語でなんて言うのだろう。枠沈? (それは当て字やろ

近代短歌論争史の34は「奥貫信盈と服部嘉香・西村陽吉の新短歌論争」。大正時代の終わりに口語歌雑誌『芸術と自由』が文壇や詩壇に「口語歌をどう見るか」という質問をして、意見をもとめたことで、自由律や定型律のディスカッションがさかんになった。たとえば詩人の川路柳虹は「私は率直にいふ。三十一文字の口語歌をやめ給へ。それは滑稽なる悲劇的努力だ。口語歌を作るなら全然新たな今の吾々の口語の生々しい発想がそのまま伝へられるやうな新らしい口語の短歌型を考へ給へ」と書いたように、口語歌にも定型と自由律のあいだにも幅があったし、口語も、古語でないだけで、現在の書き言葉と話し言葉とのあいだにも幅があって、まとまりを欠いていた。

『芸術と自由』の創刊者の西村陽吉は、定型・自由律の以前に、まず口語の革新が必要であるとして、たとえば歌壇では土田耕平の作品がいかに古くさいかを実作を例に批判した。

 わが庭に来啼く鶯朝な朝なわれのめざめをこころよく啼く  土田耕平

このような歌が大正の現在、30そこそこの青年がうたうとは、なんというアナクロニズムか、と皮肉った。

ところが、これに、文語歌の陣営の『覇王樹』から奥貫信盈が、西村陽吉の実作をもって切り返しにかかった。

 客を待つ間の歌ひ女(め)たちの一ト屯ろ よべの噂さに桐の花咲く  西村陽吉

 生みのままの白いししむら うすものの襦袢にくるみ 生きてゆきます

<歌ひ女><一ト屯ろ(ひとたむろ)><ししむら>など、土田耕平よりもむしろ古語を多用しているというのだ。現代性は名詞において現れるのであれば、西村の作品はその考え方が不徹底である、とした。

また、奥貫信盈は、口語歌の「〜あります」「〜です」は、報告や対話に属するもので、短歌の「詠嘆」を内包しない、というのを問題視した。「<悲しきろかも>は詠嘆であるが、<悲しいのです>は報告で」「<悲しい>とは感じても<のです>とは感じない」

これは、奥貫におなじく批判された服部嘉香が反論しようとしたが、これからの努力である、というような悩みの吐露で、論理的な反駁とはならなかった。

このように、新しい短歌、新短歌には関心が高まっているが、口語定型律は旗色が思わしくなく、昭和に向かって、口語歌は自由律へと傾斜をつよめてゆくのだった。

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大正時代、そういえば「〇〇時代」って、明治、大正は時代っていうけど、昭和時代って、まだ言わないねえ。大正時代って、いつから(昭和何年くらいから)人は呼ぶようになったんだろう。

それはともかく、大正のはじめころは服部嘉香も、定型で表現できなくなったら詩の時代が来る、なんて言って斎藤茂吉と喧嘩していた(土曜牛の日第6回)のに、おわりごろには口語定型律側にいるのだから、この時代も強い風が吹いていたのだろうことが想像される。

ネットがある現代ほどで早くはないかもしれないが、第一線はマラソンランナーのようにみんな走っていたんだろうねえ。

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  七首連作「歌なんか」

太陽のかがやく浪費、まだ半分50億年たゆまず浪費

帰ったら電気をつける、電気がつく、明るいことはひとまず救い

体育館でボールが弾む音がした、告白したいような静寂

たましいがよゆうがなくて歌なんかよんでもなあといってみたんだ

蛍光灯のようなUFO浮かんでてカーテンをなぜちゃんと閉めない

ちょっと待てその、たましいって何ですのん? たましひってことは火の玉かしら

のびのびと生きのびましょうダメなときはダメだったーと残念がるがる


2021年8月7日土曜日

土曜牛の日第32回「なのに」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

暦の上では秋なんですって。

近代短歌論争史は33、「西村陽吉と岸良雄の生活派論争」。口語歌を推進する歌誌『芸術と自由』の創刊者である西村陽吉に、同じく口語歌に賛同している岸良雄が雑誌内で意見を異にし、岸が離れていった、という論争だ。

『芸術と自由』は、土岐哀果の雑誌『生活と芸術』の影響を受けてそれを発展させようと西村が作った雑誌であるので、口語歌というだけでなく、無産階級の文学、民衆芸術としての口語歌である、という社会派の理念が強かった。

一方岸良雄は口語歌にはおおいに関心があったものの、文語歌からの出身であり、その芸術意識は、生活派とは異なるところがあった。西村のいうような「芸術美よりも無産者の生活に即しているべきである」というのは、かつての自然主義と同じではないか、という危惧をもっていた。また、口語歌であっても三十一文字を超えるような口語自由律もまた、短歌と呼ぶ必要がないと考えていた。

この議論は、作歌態度の問題となって、「現実偏重」「美尊重」のどちらが優先されるべきか、という、言葉を尽くせば尽くすほど硬直化して、断絶を生む議論となってゆき、岸良雄が編集メンバーから追い払われる、という終わり方をすることになった。生活派という無産階級の文学が、口語であるべきという思想的必然性を論理的に提示することができれば、雑誌内の内部対立を超える問題提起になったかもしれない論争であった。

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思想と実作の関係がリニアである、というのは一応信じたいけれど、実際はそれがどの程度の影響かは判断が簡単ではないよね。影響、という文字のとおり、影や響きみたいなものだろう。

この論争のなかで、岸が批判した吉植庄亮の口語自由律は、案外悪くないと思ってしまう。「出納農場」から4首。

ぐいと曳き出した大黒の挽馬の力をおれはすぐに感得した

馬はクライテルチースの駿馬です、地平につづく大幅の道路です

軽快な乗用馬車だ、すてきだなあこの反動のやはらかさは

おい見給へ、この大黒の挽馬の山のやうな尻のゆたけさを

こういう、短歌的な韻律からはじまりながら、短歌としてほつれてゆく、または逆に、散文的にはじまりながら、短歌的におさまってしまうこの感じは、テルヤはながく理想のような気がしている。でもこれ評判がそれほどよくなかったみたい。吉植庄亮もこの路線はやめた。

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  七首連作「なのに」

金銭を得るためなのに働けばがんばれなかったとき悔いがある

新人の叱りどころを見逃した、叱る上司は似合わないのに

フェンシングは戦いなのに人類のいつかどこかでああいう喃語

一瞬をミスする選手、人間の一瞬なんて一瞬なのに

質問がないのに答えを言う人よ、雪見だいふく一つの対価に

スマホ見る主人の顔を犬が見る時間はほんと有限なのに

テレビとかネットで勝手に落ち込んで、世界は君が担ってるのに


2021年7月31日土曜日

土曜牛の日第31回「わたしあるまで」

 こんにちは。土用の丑はうなぎです。じゃない土曜の牛の文学です。

うなぎ食べた? あんなのは無理して食べなくてイール。

今日の近代短歌論争史は32「『改造』における短歌滅亡論議」です。

明治の終わり、それから大正の終わりに短歌滅亡論がそれぞれ登場するが、大正の終わりの滅亡論は、歌壇の停滞、プロレタリア文学の成長の他に、島木赤彦の死もあったようだ。

プロレタリア文学系の雑誌『改造』の特集「短歌は滅亡せざるか」は、文壇からは佐藤春夫、芥川龍之介、歌壇からは斎藤茂吉、釈迢空、古泉千樫、北原白秋に、それぞれ回答を求めたものだった。

回答は、滅亡を否定したのは、茂吉、千樫、白秋の3人、肯定しているのは迢空、春夫の2人、芥川は明言していないが、否定的な意見だった。肯定否定が3対3だったのは、かなりの危機感のあらわれだったと思われる。

肯定)古泉千樫は「歌に対する信念」として肯定論を述べたが、「ただ歌は抒情詩である。さうして最も素朴な詩形である。大地に深く根ざした吾々の生命を表現するに最もふさはしいものである」という楽観的な肯定論であった。

否定)佐藤春夫「三十一文字といふ形式の生命」は万葉の直接な感情表現は評価しているものの、現在のアララギ風の作品を窮屈なものと否定的に見ていて、現代人の多くの感情を三十一文字に縮めるのは自然ではないと考えた。そして、詞書や連作、口語や自由律が起こっていることこそ「短歌なる形式の現代人にとつての不自由と不徹底とを意味してゐる」と、短歌の可能性を否定し、明治大正が短歌の最後の夕栄の光だと言いきった。

どちらかというと否定)芥川龍之介「又一説?」は、短い、気合の入った文章ではなく、短歌が短いから情感が盛れないというのなら、近代歌人の仕事を無視している、としながらも、その近代の仕事も、古い猪口にシロップを入れて嘗めていると言われればそうかもしれないし、それでいいのか悪いのかよくわからない、という文章だった。

大肯定)斎藤茂吉「気運と多力者と」は短歌は滅亡しないと豪語したものだった。明治の短歌滅亡論から現在まで、短歌が盛大であること、「けるかも」調の歌が普遍化されていることを挙げて、歌人の心に「魄力」が充満している限り歌は滅びない、しかも国が興る限り短歌は盛んになると述べた。これは茂吉個人の信念でもあろうが、赤彦亡き後のアララギを背負う責任の表れでもあったろう。そして短歌をさかんにするために①「多力者」の出現が必要である②他の芸術にも目を向ける必要がある③短歌は翻訳を許さない微妙で深遠な形式なため、他の文学ジャンルにも指導してゆく必要がある、と述べた。しかし、やや本音の部分で、「人間には「飽く」という心理があり、日本人はそれに敏であるから、万葉調を棄てて、何かほかの変わつたものに就くであろう。」と短歌の将来を想像したりもしていた。彼自身、口語歌に関心も持っていた。

肯定)北原白秋「これからである」は、前回に土田杏村と議論したように、実作者の個人的な決意のような文で、①自分はまだ短歌を極めたものではないので滅亡などは考えもしない②詩興におうじて形式は変えるものである③定型のなかにあってこそ鍛錬されるものがある、という考えであった。茂吉とは反アララギであったが、上の茂吉の文については敬意を払うことを表明した。

大否定)釈迢空「歌の円寂する時」は、実作者側からの、熱のこもった滅亡論であった。「歌は既に滅びかけて居る」と結論を先に示し、その理由を①歌の享けた命数に限りがあること②歌よみが人間ができていなすぎること③真の意味の批評がいっこうに出てこないこと、とした。理由については③から説きはじめ、分解的な宗匠添削は真の批評ではなく、作品と作者ににじみ出る主題を具現化することであり、批評家はそれをおこなう哲学者でなければならぬとした。また②は、歌人が人間として苦しみをして居なさすぎるため、小技工の即興性を突破する情熱を持てないことを警告した。そして①は、短歌の発生が宿命的に性欲恋愛の抒情詩であり、叙事詩のように概念や理論を取り込むことが出来ぬのに、さらにいくばくの生命をつなぐことができるのか、と疑問を呈して、滅亡の証明をおこなった。

そして、短歌の滅亡についてだけでなく、今後の展望として、和歌形式が最終的に民謡の二句並列の四行詩になった歴史をもとに、口語を取り込むことで、形式が変わることを予言し、自らは四行詩を提案した。

明日の短歌は「小曲」になる、と悲観的な見通しをした迢空は、この論の続編でも、「明日の短歌は、もう私等の短歌とは違うてゐる筈だ。短歌でさへもなくなつて、唯の小曲となつて居るだらう」としめくくった。

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この釈迢空の文を読むたびに、彼が現在の短歌を見たらなんというのだろう、と考えてしまうね。「私等の短歌」とは違っている、その意味では、彼の予言は当たって、いまは滅亡後の世界かもしれない。迢空の滅亡論は、短歌がうたう人がいなくなる、という滅亡論とは違って、違った短歌が隆盛する、そういう滅亡論のようだものね。また、茂吉の滅亡否定論もまた、逆の意味で、おそろしい予言でもあるよね。国が興るとき、また短歌は盛んになるわけだから。それは現在の意味の短歌ではないよね、きっと。

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  七首連作「わたしあるまで」

イエ電に自動電話がかかってきて留守電が返事する近未来、今

線香の煙は過去の比喩にして、もういない人はほんとにいない

手の中に鳥の感触ありましたこの感触はわたしあるまで

現代に天才義賊あらわれて盗みをはたらけば咎めらる

悪いことはうまく隠して生きたいし地球史的に多めにみたい

たかいたかい平和はとてもむずかしい辿りつく日までたかいたかい

生きるのがどうしてたたかい 夜も更けて額づくように、生きよ、って言う


2021年7月24日土曜日

土曜牛の日第30回「大空をもし飛べたなら」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

運動が旬の時期ですが、こっちは地味に短歌運動の話。近代短歌論争史の31は「北原白秋と土田杏村の短歌革新論争」。

大正時代終わり頃の短歌の状況は、前回の萩原朔太郎の「短歌は行き詰まっている」という沈滞論があって、一方、『現代口語歌選』のアンソロジーが出て、口語歌運動がおしすすめられ、さらに、労働運動からのプロレタリア短歌、自由律の動きがあった。つまり、従来の歌壇の停滞、新しい口語歌、自由律、プロレタリア短歌の動きというものが、それまでのアララギー反アララギの対立項から複雑に移行していた。

そんな時期に、土田杏村という哲学者・評論家が、雑誌『改造』での「短歌は滅亡せざるか」という特集に対して不満をもって、革新論を立ち上げたのだった。

彼の革新論は、(1)現代語の採用、(2)現代語にふさわしい律の形成、(3)プロレタリア文芸の一環として短歌をあらしめたい、というもので、以下のスローガンのような言葉で締めくくった。「歌人よ、其の最も忌むべき宗匠気質をやめよ。自らの生活を革命することによって、短歌を革命せよ。短歌は今他の芸術と並行することが出来ない。勿論時代の進みとは没交渉だ。短歌の革命は今まさに必然の勢ひではないか。定型律古典語の旧短歌より自由律現代語のプロレタリア新体詩へ。」

これに反応したのは白秋だった。白秋は「短歌は滅亡せざるか」の回答に①私にはまだまだ短歌がわかったなどとは言えない②詩興は変通自在である(定型か自由律かは決めない)③定型によって真の鍛錬は得られよう、と答え、つまり滅亡しない派であったが、土田杏村にこれらの回答を否定され、この否定にもさらに反論した。

反アララギの雑誌『日光』を創刊して意欲的であった白秋は、短歌革新は(私のような)さまざまなジャンルで詩作を行っているものによって為されると自負し、定型か自由律かなどをひとつに決めるのは自縄自縛のようなものだとし、しかし短歌の自由律は、短歌の格(定型の短歌性)をやぶってはじめて成立するものだとして、自分と『日光』への意欲を述べた。白秋のはあくまで自身の経験的な短歌論であって、プロレタリア新体詩とか、定型=旧短歌、自由律=新短歌、という図式で話すことはなかった。

なので、この議論は昭和のプロレタリア短歌に先んじた議論であったが、白秋の体験的意見と、土田杏村の抽象的な概念論とがうまく噛み合わず、終わった。

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白秋も、口語歌をいくつか作っているけど、できは微妙、というか、習作レベルのようだ。

 シルクハットの県知事さんが出て見てる天幕の外の遠いアルプス

 あの光るのは千曲川ですと指さした山高帽の野菜くさい手

 風だ四月のいい光線だ新鮮な林檎だ旅だ信濃だ

それよりも、矢代東村の口語歌は、当時、白秋も土田杏村も一致して評価していた。

 うみたての卵の白さ

 このおもたさ

 茶碗にあててかちりひとつ割る

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物事が複雑で不安な状況にあるとき、簡単な図式で言い切る言葉は支持を得やすくなる。こういうスローガンめいた発言に、複雑なまま誠実に言を張るのは骨が折れるものだ。昭和にむかってプロレタリア短歌という、労働運動から政治運動へ図式化する思想へ、短歌も巻き込まれてゆくのだが、どの情報によってどの立場に立つにせよ、世をうらむことのない健全性を確保したいものだと思うものだ。

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  七首連作「大空をもし飛べたなら」

マン・イン・ザ・ミラーよ この世で水仙の一番似合う男はだあれ

陽炎でゆらいでるのは街である街に入れば私もゆらぐ

どう考えても自分が正しいはずなのでどう考えてもあいつはおかしい

冬の雀が金属パイプにくっついて生き物はかなしいあたたかい

ギザギザの歯の似顔絵がよく似てる歯がギザギザなわけがないのに

しゃがみこみ紫陽花と撮る笑うきみ、一瞬きみが消えて焦った

大空をもし飛べたなら大空を飛べない人ともうまくやりたい


2021年7月17日土曜日

土曜牛の日第29回「真夏日や」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

大正11年(1922)に大きな爆弾が投下されました。近代短歌論争史の30は「萩原朔太郎をめぐる歌壇沈滞論議」です。

萩原朔太郎が『短歌雑誌』にもちこんだ「現歌壇への公開状」の書き出しはこうである。「歌壇は詩の本分を忘れてゐる」。朔太郎は、当時の歌壇が「老人の隠居仕事にする風流三昧の如く、我等の時代の人心と没交渉である」ことを批判した。

また、歌壇が前時代の<徹底自然主義>にまだいることを指摘し、文壇から7、8年遅れて埋没しているとした。

さらに、「歌壇は万葉集を理解しない」として、万葉のエネルギッシュな情熱を受け止めず「古典趣味」にとらわれていると批判した。そしてこの古典趣味は、短歌を「専門家の楽屋落ちの趣味にすぎない。必然性のない普遍性のない、全くくだらない独りよがりの趣味」にしているとした。

結論として、朔太郎は、日本の和歌の運命は、行き詰まっていて「殆ど絶望に近い」もので、この疑義は天才が出て一掃してもらいたいと言い、歌壇に挑んだのだった。

これについて、歌壇からは、まず橋田東声が「部分的に見てくると欠点もあるやうぢゃが、歌壇に熱情が足りないといふのは事実だね」といい、吉植庄亮は、逆に詩のわからなさ、翻訳詩壇をなじる方へいき、尾山篤二郎は歌壇を代表するような態度で強く反対し、西洋の思想を取り入れるのが若々しいなら、みな西洋に移住しなければならないのか、と言葉尻を捉えた反撃をおこなった。

反響は続き、藻谷六郎は、詩の本分は忘れても歌の本分は忘れていない、とか、時世に遅れるなどという流行でなく、流行を超越している、というピントがずれた反論もあった。そしてまた、詩壇(詩人)に短歌のなにがわかる、というスタンスが根底にある意見もあった。

朔太郎はこれらに自信をもって丁寧に答え、主張がゆらぐことはなかった。比較的交友関係もあった尾山篤二郎とも、「1,詩と時代の関係」「2,西洋の文明と新日本との関係」「3,詩のわからなさ」について議論を深め、①現代の人間が作れば現代の詩になるとしても、それでも歌壇が古臭すぎる、②西洋から日本に目を向けるのは悪くないが、しかし古典趣味に埋没している、と言い切った。③については、詩の未熟なることを認めた。

他に大小さまざまな反響はあったが、この論議には、肝心のアララギはほとんど加わらなかった。斎藤茂吉がオーストリアに外遊していたのもあったろうが、詩人と取り組むのを苦手と思ったのか、ほとんど雑音あつかいのようだった。

この議論が、前回の橋田東声の歌壇改革案の提案にもつながるし、大正15年の「短歌は滅亡せざるか」という企画へと流れ、昭和初期の歌壇の盛況への遠因ともなる、大きな役割となったのだった。これが、近代短歌の短歌滅亡論の、大きな2の矢であった。

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短歌滅亡論。第一の矢は、近代化にともなって、日本の和歌の形式が近代に適用できるか、という絶望であった。そしてこの第二の矢。これは、要するに歌壇が閉じてゆくことへの絶望だったと言える。歌壇というのがあいまいなら、結社と言い換えてもいいだろう。

閉じてたっていいじゃないか、という問いも、もしかしたら現在では発生するかもしれない。そうだな、その選択肢はなくはない。でも、それはあれだ、田舎に来た若者に対して、うちの長男の嫁になるんじゃったら、いろいろの土地や役職を与えてくれるような状態になるんじゃないかな。

この時代は、まだ人口爆発が起こる前の時代なので、先細る民族の生存戦略の意識など、毛頭なかったに違いない。



本日はシェイクスピア風交叉脚韻ソネット(14行詩)で。(abab cdcd efef gg)

  七首連作「真夏日や」 

真夏日や絵画のようなかきごおり

 ひとさじごとの 暑い 冷たい

幽霊はいないと信じてるこっそり

 いつからボクはここにはいない


星の音がんがんと田舎の夜に

 恋をするしかないふたりきり

うれしいとまたそうやって噛みつくし

 調子っぱずれのうたもまたいい


遮断せよ! インターネット的何か

 血塗られているマウスカチカチ

黙示録、世紀末には会いたいな

 小さくなった月にバイバイ


たそがれになみだひとすじなるめざめ

 とおくにやまがあるてんきあめ


2021年7月10日土曜日

土曜牛の日第28回「なのにね」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争は29、「橋田東声と尾山篤二郎の物語性論議」です。短歌にとって物語とはどうあるべきか、という議論の、初期にあたるものでしょう。

発端は、橋田東声の連作「朝霧」に、『短歌雑誌』主幹の尾山篤二郎が否定的な言辞をおこなったことだった。橋田東声は前回は(「島木赤彦と中山雅吉・橋田東声の写生論議」)で反アララギの『珊瑚礁』の創刊者として出て、尾山篤二郎は(「窪田空穂と尾山篤二郎の『濁れる川』論議」)で窪田空穂の作品を攻撃していた。

連作「朝霧」は、28首の、弟の看病と無情な養家との間で苦しみながら解決を図る作品で、長い詞書の合間に短歌を置いた作品だった。東声は前作にも兄の死を詠った60首の連作があり、東声はこの作品に自信はあったものの、前作ほど評判はよくなかった。

そして篤二郎は「橋田東声君の『朝霧』といふ物語風な歌を見ると、橋田君は何を今更血迷つてゐるのかと思ふ」「短編小説を書くつもりで歌をうたつてゐるが、かういふことのどうにもならぬ位は千年以前から分明である」とあたまから否定した。篤二郎はこの物語風な発想について「橋田君は或る事件があつて、その事件を正直に歌つて行けば自らそこに気分があり、そしてその事件を歌つて行く態度に深みがあれば、其処に人生の或は性の深みが必然的に出てくるとでも考へてゐるのか知れないが、さういふことは散文芸術のねらひ処だ」と述べた。

東声はそれに対して「複雑な人事や世相を短い歌によみこむことは困難である。それを補ふところに連作の価値があるともいへる」と短歌の物語性を信じる発言をし、「散文のねらひ処だつていいぢゃないか」と反駁する。

ただ、それ以上に尾山の、中央雑誌の『短歌雑誌』の主幹が上のような放言をすることへの批判が多く、尾山はあとで「朝霧」について批評態度をあらためて書いている。

東声はこの議論を進めて、吉植庄亮の「連作と短歌の散文化」という反連作論に対して、一首の緊密が緩むことの弊害も受け入れながら、一首の独立性とその有機的総合としての連作を目指すことを提唱した。

尾山篤二郎がこういう物語批判をおこなう背景に、次回のテーマだが、萩原朔太郎が、歌壇は沈滞している、という1年歌壇を巻き込む議論があった。尾山は萩原にまっこうから対立しながら、この批判をしているので、この物語批判は、短歌の独自性をきわだたせたい気持ちがあったのかもしれない。

なのでこの議論は、物語性の是非ではなく、東声からも、歌壇をもっと盛り上げるために、4つの提案をする方向に向かう。1歌壇の品位をもそつと高めること、2歌を他の文学と対等に取り扱ふこと、3遊戯としての作歌を排すること、4頭がよくて親切な批評家が要ること。

尾山篤二郎は、この提案を「大賛成であるが、先ずその前に、諸君は社友雑誌を出来るだけ早く廃刊することが、何よりも先に必要だと僕は考へるのである。そしてこの『短歌雑誌』だけになり、その歌人の大団結たる『短歌雑誌』をひつさげて、橋田君の第二説のやうなことを主張するならば、僅かに可能を信ずるものである」と主張した。尾山の問題意識は、それぞれが結社雑誌の中で歌壇的地位を知ろうとする歌壇人根性をきらうと同時に、朔太郎の歌壇批判に対抗したかったのであろう。

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短歌の近代的な物語性というと、まず『赤光』が浮かびそうなものだけど、『赤光』から10年後のこの議論は、どう受け止めていたんだろうね。反アララギだったから無視、ってわけでもないだろうに。

それから、歌壇。この言葉は、その時に話者が誰を想定しているかによって変わる言葉だから、案外取り扱い注意だよね。要するに、当事者の言葉じゃない。オレがマリオ、じゃなくて、オレが歌壇、という人が存在しない。

橋田東声の提案の1、品位をもそつと高める、の、もそっと。橋田東声はこれでわかった気になっちゃうね。いい人だ。


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  七首連作「なのにね」

年取ると時間がはやくなるらしい死んだらみんな光なのにね

鉢の水ようよう腐りこの写生を社会批判につなげてもいい

言い方のその雰囲気をトゲトゲとかふんわりと呼ぶふんわり時代

怒るべき時とはいつかインバーターはドレミファそんなことしちゃいかん!

欲しいのはちくちく言葉だったねんきみのザクザク言葉やのうて

ドラゴンレディすずしく前を生きてゆく言葉はどれもぴしゃりと強い

怪獣がこわした道を汗にぬれみんなでなおす、悲劇なのにね


2021年7月3日土曜日

土曜牛の日第27回「以前の訛り」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

7月、今年も折り返しのようなところです。疫病も3年と考えたら、去年からこれまた折返しのようなところかもしれません。

近代短歌論争史の28は、名前は有名な「北原白秋と島木赤彦の模倣論争」です。でもこれはあまり書くことがないなあ。大正12年(1923)くらいに、北原白秋の影響を受けている(模倣説)と言われた島木赤彦や斎藤茂吉らアララギが、それを否定するために白秋攻撃をしかけたという、結社政治の話でしかない。

その5、6年前にはアララギからも作品掲載を求められて提出してもいた白秋は、その攻撃に疑問を感じつつ、批評態度の失礼さに憤激して、しだいに現在のアララギの封鎖的な態度を批判するようにもなった。「以前の清朗と無邪が認められず、妙に傲風な荘重病と渋がり病とにかかった感がある」

白秋は斎藤茂吉選集の序文でも、同時代の詩人どうしが影響を受けるのは当然のことだ、というスタンスであったが、アララギでは、赤彦が白秋の歌を「歌になつて居らぬ」アララギに比べて白秋の歌を「杉とどんぐり」赤彦門の土田耕平が「濫作」「粗悪」と、その攻撃は口汚いものであった。

この半年くらいのやりとりは、歌壇ではおおむね白秋に好意的で、この模倣論争が、結果的に半アララギの雑誌『日光』の創刊をさらに加速させることにつながったのだった。

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短歌、(俳句や川柳の中にもあるらしいが)とりわけ結社の、上で白秋が書いた「傲風」とか排他性は、この頃から養われている。先日もある現代詩人が俳句を書いたことに対して、傲風のいいサンプルのような反応があった。この傲風、排他性を最初に無くすのは、どの短詩形だろうね。結社が少ない方が有利だろうね。(当時は一つの結社に反対するにも、結社を作ることが対抗だったけど、現代はその必要はないのはラッキーなところだ)



  七首連作「以前の訛り」

物質を切り刻んだら究極は「太初(はじめ)に業(わざ)ありき」とゲーテ書きよん

思想だろう、ウイルスも検査もワクチンもひょっとしたらこの生とか死とか

雨だからどしゃぶりだろう籠ってもどしゃぶるだろう愛は怒りは

近づけば絵の具だ、かつて好きだった人の顔もうもう印象派

新宿の百年前は牛がいて、風向きであのにおいもあるん

反対の考えもあるそりゃあるさ、住めば都だ都に住めど

正岡子規の句集読みつつ楽しみは標準語意識以前の訛り


2021年6月26日土曜日

土曜牛の日第26回「食い込む時間」

 こんにちは。徳川家康です。(大河ドラマかよ)

土曜の牛の文学です。徳川家康にこんにちはって言わせるのも、なかなか憑依芸っぽくてすごいよね。しかも自分の幕府の終わりを語らせるし。

今日の近代短歌論争史は27「清水信をめぐる口語歌論議」。関東大震災をはさむ1923年、98年前にも、口語短歌論が息巻いていたのです。もっとも、この時期の口語に対する文語のなかには、「けるかも」などの万葉語の使用者も少なからずいたし、存在感があった時代ではあります。

前田夕暮がカムバックしてアララギに対して批判を含んだ宣言をすると(土曜牛の日第23回)、夕暮門の流れの、若い清水信(しみずしん)が、雑ではあるが同調して、古語文語の否定を表明した。「万葉や古今の重苦しい古着をさつぱりと脱ぎ捨てる時だ。新しい酒は新しい器に盛るべしーーとは太古の人でも言つてる言葉ではないか」「短歌だけが、今の時代に一千年前の言葉でうたはねばならない等といふとらはれを排したい」として、現在使っている言葉をわざわざ万葉の言葉に取り替えて調べを整えることを否定して、われわれの詠嘆は日用語で発せられるものだとした。

しかし夕暮の場合もそうであったが、清水にはたちまち反対意見が続出した。永瀬英一は「創造されるものに用語の如何を強ひてはいけない。吾々は感動が古語で直接に表現される場合を知つて居るのだ。君の偏見よ呪はれてあれ」といい、また、清水が文語歌も作っていることの矛盾は多くから指摘された。藤川紫水は、万葉調にも良いものがあるので、私が口語を嫌っていても排さないように、文語を排することは間違っていると言った。「私にとつて口語歌は極めて不自由で窮屈なのである。妙な言分だが全く口語を用ひて三十一文字の歌は詠はうとすると頗る破壊しなければならないといふ不利な結果に陥るのである」

清水信はさらに「口語には無駄が多い。古語は簡潔にして、よく歌調をととのへるに適する」というが、「それらの人々はあまりに口語を蔑視し過ぎはしないか。それほどわれわれの口語には無駄があり、歌の言葉として野卑であらうか。かりに数歩を譲つても、だからと言つて古語使用のいさぎよい理由とはならない」と問題提出をおこなう。

「短歌雑誌」の同じ号では田中愛花が「古語はいけない、口語に限るなどといふのは、理解のない取るに足らない表面上の言葉に過ぎないのだ。真に短歌といふものを理解すれば、古語といふものがどうしても短歌といふ芸術は捨てる事が出来ないといふ事がわかるのである」といい、「古語を口語にかへてもまだ短歌のつもりでゐるが、それは間違つてゐる。口語歌は最早短歌といふ芸術の本質を備へてゐないのだ」と激しい反論を展開していた。

このような議論が毎月のように行われているなかで、石原純は「短歌の新形式を論ず」を出す。「古典的国語に十分明るい人たちがそれを用ひて短歌をつくらうとすることは、たとへいつの時代になされようとも、決して批難される筈はな」いとして肯定しつつ、「併し古典語よりも口語により多く慣熟してゐる私たちは、そのおのづからな芸術的感興がまた口語で発せられると言ふ要求をもつてゐる筈であり、そしてその場合にはまたこの芸術的感興におのづから適応した律動形式がもとめられなければならない」として、新しい口語的発想を提唱した。

ここでは石原は「短唱」と名付けて、次のような作品を出す。

  見る限り、トタン屋根が雨に濡れて

  しろく寒さうに光つてゐる。ああ、災後の町よ。

  いま蘇るべき喘ぎに忙しい。     石原 純


口語歌論のなかであらわれたこの文は注目され、口語歌に否定的な者も、その具体的な実証に考えさせられるものがあった。何よりも、この提唱は、三十一文字にこだわっていた口語歌にはひじょうな暗示となり、のちの自由律への移行への呼び水となっていくのであった。

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口語歌と文語歌の話題の基本的な輪郭は、あまり変わっていないようである。これも短歌滅亡論の枝分かれの一つだからであろうか。文語は「文語こそが短歌らしい、口語は冗長だ、歴史的に正統だ」というのに対して、口語は「文語が自分の言葉でない、今の人に伝える表現ではない、現代語で表現するのが歴史の正統だ」という、短歌をやるものには、なぜか謎の選択肢があるのである(笑)。

でも、最初に清水が書いちゃってるよね。新しい酒は、新しい器に盛るべし、って(笑)。

あと、フラワーさん、あれ短唱の流れだったりするのかな。



  七首連作「食い込む時間」

ガードレールを痛いベンチにしてふたり、ふたりのおしりに食い込む時間

コンビニになんでもあるさお祭りのようなアメリカンドッグの甘さ

誰もいない音楽室のピアノの蓋がなぜかあいてる 弾けないわれに

準備室でキスをしたとき金管はわれらをにゅーと伸ばしただろう

その笑顔は明るいけれど陶器よね こっちが中身を見たいからかな

年取れば磨いたものが光るという 年取らないと見えないという

雨上がりの町のキラキラ長靴で帰る、若さが目立たんように


2021年6月19日土曜日

土曜牛の日第25回「最後の良書」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の26は、「三井甲之と花田比露思の冒涜論争」。花田比露思の長歌と反歌に三井甲之が冒涜だと言った論争だ。花田の作品は、

  詠小竹歌並反歌

 森戸辰男氏等筆禍に逢ひし頃     花田比露思

外つ国の無可有の郷に、こしぼそのすがる少女と、

白ひげの長きおきなと相隣り住まひしにけり、

少女は小竹(しぬ)をし欲れば、その庭に小竹をぞ植ゑき、

おきなは苔を愛づれば、その庭は苔むし古りき、

少女のや小竹の節根は、下延へに隠ろひ延びて、

いつしかに隣に入りて、白ひげのおきなの庭の、

苔庭の下に延ぶれば、あづさ弓春のある日に、

その苔を下ゆつらぬき、小竹の芽し鉾なし立ちき、

素破こそや小竹が生ひしと、この翁鋏をもちて、

小竹の芽を切りて棄てけれ、しかれどもその根ゆ小竹は 

又も延びんかも

 反歌

小竹の芽は断ちも捨つべしそれの根の強き力はすべなかるべし

小竹の芽は切りて捨つとも根にこもる力を強み又も延びんかも


三井甲之も花田比露思も、子規の直系を自負する人物で、三井はアララギと「なむ」論争で負けてしまったが、時事評論の近代主義への批判者として、歌壇へも評言を行っていた。三井は、この森戸事件(1920年に森戸辰男がクロポトキンの無政府主義を雑誌で紹介したことが、彼自身が無政府主義者として有罪になった事件)を取り上げた長歌を、歌に対する冒涜だとしたのである。これは、第一に思想の批判であり、第二に三井の歌の神聖視(作歌することによって救われるといった、旧来の歌道の理念の復活)からくるものだった。

それに対して、花田も、「森戸氏の論文そのものを小竹に比べたのではない。私は小竹に比べたのは新しき思想そのものである」と視点をぶらすような発言をしたので、ではこの詞書はなんだ、と、論争は泥沼化したのだった。結局、この論争は、子規の直系を名乗る者同士の意地と、近代主義へ両者の距離の論争でしかなく、歌壇からはうんざりして両者とも止めるよう提言されることとなった。

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この長歌は対比がしっかりしすぎていて、社会主義を是としない者からしたら、不愉快に映ったのはわかるところだ。この論争の問題自体は、解決したとはいいがたいところがあって、思想と短歌の問題は、今でも潜在化して、ある。歌は思想を直接うたうよりも、それに対する好悪を伝えるのが得意なのだ。空気になびく。歌は世につれ世は歌につれ。三井の批判はイチャモンにも見える。しかし、思想と表現はいつまで、どこまでパージできるものだろうか。



  七首連作「最後の良書」

本当はたましいなんて無いけれどそういう言葉がちゃんとある世だ

本ばかり読んで自分を読まぬまま 有情非情の最後の良書

何色で最初に塗った世界かな 転んで擦りむく、表面はげる

平らなる大地はだんだん丸くなる途中はなくていきなり丸し

ビルドゥングスロマンなつかしゲーテ以後生徒を自殺させる文学

バイスハイト(weisheit)! 智慧は知識と違うもの あなたがぼくを喜ばすもの

存在は許されるたび消えてゆくグラデーションは多様の夜明け


2021年6月12日土曜日

土曜牛の日第24回「涙川」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の25は、「杉浦翠子と西村陽吉をめぐる啄木論議」。

大正12年(1223年)は石川啄木の没後10年で、ちょっとした啄木ブーム、再評価があったようだ。その評価の方向に納得できなかった一人が、杉浦翠子(すいこ)であった。当時アララギにいた翠子は、啄木の作品について、新聞で激しく批難した。社会主義派として評価されている啄木の作品は、同情的で、冗長で、わざとらしい芝居がかったポーズで、浅薄な悲憤慷慨な歌だ、というのだ。

これについて、社会派の、啄木の歌集も出版した西村陽吉をはじめとして、彼女への圧倒的な反対意見が湧いたのだった。彼女の表現も激烈だったが、その反対意見も「血迷ひしか」「癒え難きヒステリー症」「杉浦翠子だまれ、プチ・ブルジョアの貴様なんかに何が解るか!」「アカデミックな言葉尻のあげつらひ」と、ひどいものだった。(篠弘は痛快と書いているが)

杉浦翠子はそのあとも数度啄木論を書くが、旗色はまったく悪かった。橋田東声がやや弁護し、また尾山篤二郎が、啄木は社会派とされているけれど社会主義思想の理論的な歌が実は少ないことを別の視点で書いたくらいで、さらに、かつて翠子が入門した北原白秋も、翠子をたしなめるくらいであった。

これはこの時代の、社会主義思想の流行や、アララギへの反感や、実際の貧富や、物言う女性への反感が、盛り上がったものだったと思われる。関東大震災の3ヶ月前の、歌壇の大きな話題であった。

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今回の章で一番おもしろいのは、啄木ではなく、杉浦翠子という歌人だ。白秋門から斎藤茂吉のアララギに入るが、島木赤彦門にうとまれて再び白秋系に移るが、「短歌至上主義」を創刊する。写生も批判し、独自の歌論をもち、散文と短歌を明確にわけるべきとし、卓上短歌を批判する。大戦後も生きて敗戦歌集も出す。

  男子(おのこ)らと詩魂を競う三十年みちの小石も我が歌に泣け(1956年)

現在、啄木がおもしろい、とするなら、何がおもしろいかというと、実は、まさしくこの杉浦翠子が指摘した点でおもしろいのだと思う。なので、皮肉なことに、翠子に反対して彼らが擁護した意味では、啄木はおもしろくない。しかし、白秋は、ただ啄木は技巧がすぐれていた、と言っていて、白秋もすごいな、と思う。

あと、白秋、翠子って、1885年生まれで、啄木は1886年生まれなんだよね。よくも悪くも同時代を生きてる人間の、わかりあった感じがあるのかもしれない。



  七首連作「涙川」

休日のすずしい朝のテーブルにたしかにしたたかに伸びる豆苗

向こうから来る柴犬がかわいくて国家改造案あとまわし

先のことはわからないのに愛欲というより好奇心でふたりは

SFは事実より奇なりと言ってみる そりゃそうだろうそりゃそうだろう

古今集のようにかなしい涙川 袖濡らしつつ過去で逢えない

ロボットが勤勉なのに人間が勤勉なんてなんと非人間的

寝そべって今宵の月をながめたいスマホ明かりにぼくら照らされ


2021年6月5日土曜日

土曜牛の日第23回「不死の都」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史は24。「前田夕暮と土田耕平・島木赤彦の万葉論争」。

のちに自由律、口語短歌を牽引する前田夕暮は、大正12年、歌壇にカムバックするにあたって、やはり反目する島木赤彦、アララギへの批判から始まった。しばらく離れた原因も、島木赤彦との対立は大きくあっただろう。

夕暮の意見は①万葉語を使用するのは、万葉の本質を受け継いでいるといえるのか②短歌の用語は口語でなければならないとは言わないが、もう「現代語彙」によって表現すべき時期が来ており、ほどよく古語も現代語化して使用したい、というものだった。

これに対して、島木赤彦の門下の土田耕平が、反論した。まず万葉依存の批判は、すでに多く受けていたので、万葉語も理解せず、万葉の本質が理解できるわけがないから、語と本質を分けるのはナンセンスだという、アララギの言い分で話をつぶした。口語については、「新しい用語には慎重の態度を取る」「口語と文語を比較して、そこに勿論一長一短はあるけれど、文語の方が遥かに韻文的要素を具へてゐることは明らかである」として、口語に反対であった。

さらに耕平は前田夕暮の作品の絵画性を幼稚だと批判したけれども、この絵画性はむしろ茂吉らが夕暮から学び取ったもので、これは知らなかったか無視したか、批判が先走ったようだ。

島木赤彦も論駁に加わったが、彼の万葉観は「深く人生の寂寥所に入り、幽遠所微細所に澄み入つてゐる。形は三十一字にしても内に深く籠るものがある。これが東洋芸術の特徴であつて、同時に生活形式を中枢的要求によつて簡素にする東洋的精神の現れである」という、それまで「鍛錬」で言いくるめてきた、東洋的な心境鍛錬主義から動くことはなかった。

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万葉論争といいながら、古語論争よね。

大正時代のこの頃は、学校教育でもこの論争の三年前に三省堂の中学国語が口語体になり、小学の国定教科書が四年後に文語体から口語体になる、文語と口語の変遷期にあたる。

この時期に、尾上柴舟(土曜牛の日第1回)門下の前田夕暮が、古い言葉の使用に疑問をもとうとしない歌壇の方向に何か言わないわけがないよね(笑)。

ただ、結局、近代に「和歌」が「短歌」となった時に、今の言葉でうたうか、古い言葉でうたうか、の問題は、横たわっている。どちらが正統、などという問いは、設定が根本的におかしいのだ。



  七首連作「不死の都」

傲慢なバベルの塔はつくりかけ不死の都の不死の人たち

ばらばらの言語野に咲く紫陽花の青と赤とのあいだの無限

呆け、痴呆、認知症へと名を変えていつか誰でもなれる社会だ

いつまでも歳を取らないわれわれはドラゴンクエストまたやり直す

人生はロンダルキアへの洞窟だ復活の呪文はもうちがいます

罰も救いも赦しもすべて先延ばしキューサイの青汁ももうまずくない

多摩川にオフィーリアならぬ評論家、さらさらに死のうつくしからず


2021年5月29日土曜日

土曜牛の日第22回「雨の森」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の23は、「斎藤茂吉と田辺駿一・太田水穂の良寛論議」です。

明治以後、短歌は、さまざまな歌人を発見しようとして、人麿、定家、西行、実朝、景樹、曙覧を掘り起こしては、現代の短歌を考えようとした。その中に良寛もいて、斎藤茂吉などは、大正の良寛ブームの火付け役として再発見したと自負していた。

しかし、こういうのは、意外と同時期にいろんな人が同じ再発見をするもので、太田水穂も芭蕉の研究つながりから再発見、評価した。

この論争は、良寛をそれぞれが再発見するのだが、斎藤茂吉は、万葉調、写生の体現の一つとして良寛をほめ、田辺駿一は主観主義者の「自然心」(写生と対抗する精神)でもって良寛をほめ、太田水穂は自身の提唱する「愛の現はるる相」という創作概念において良寛をほめた、という、誰もがみたいものをみて他に対抗した、小さめの論争となった。

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自分たちが今どこにいるかを考えるために過去を探る、というのは、それ自体、面白いわけで、こうして100年前の短歌の論争を読むのも、そういう面白さのひとつである。このあたりで斎藤茂吉を再発見する人もいるのかもしれないけれど、現代と茂吉をどうピントを合わせるか、というのは、まだちょっと力技が要る気がする。ふと、この当時の茂吉たちにとって100年前がどのくらいの時代かと振り返ると、1820年代、異国船打払令を幕府が出したのが1825年だから、大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一の生まれる20年前、ということになる。というか、良寛の生きてた時代なんだよね。つまり、茂吉も、力技やりながらもがいていたんだよね。



  七首連作「雨の森」

ボルテールは格言などで知られつつなかなか近づけない雨の森

君の意見に反対だけど言う権利は守らないけんからねブロック

そんなものはヴォルテールに言わせると安心でも安全でも帝国でもないよ

恐竜の遊具は古く 危険テープが巻きつけられて恐竜らしさ

世界はすべて善いとするのかその逆か 忘れられたる鉢に一輪

界隈で人気のお天気お姉さん 界隈の処理のうまさが人気

詩をつくる詩人と 詩とみなす詩人、結果的にはよかれ黙食


2021年5月22日土曜日

土曜牛の日第21回「われにひとつの」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の22は、「斎藤茂吉と太田水穂の写生論争」。この当時の状況は、ざっくりいうとこんな感じだろう。アララギが一つの流れを作っていて、そこで島木赤彦と斎藤茂吉が写生を旗印に牽引している。しかし固有の思想にはまり込んでいく茂吉に対して、歌壇全体が反発してゆく。しかし論争によって茂吉は生き生きと、さらに独自の理屈を組み上げる。

大正8年頃、太田水穂は、主宰する『潮音』で、茂吉のいうような「主観の表現は写生によって形象化しうる」という考えを、無理筋だよねと否定する。

「主観の波瀾を最も剴切に表現しようとする心、写生を極めて丁寧にしようとする心との間は非常な距離がある。或いは全然方向を異にして居る問題であると思ふが如何。若し距離も無い、方向も異なつてゐないと言ふならば、写生と言ふことの意味が普通の意味で無いと解するより外無い。」

また、赤彦が万葉調を、心と形が合致した状態だと言うと、それに対して太田水穂は、万葉調は万葉人の主観が描かれているからよいのであって、現代の短歌も、現代人の主観があってこそすばらしいのだ、と、自らの「主観ー象徴主義」にひっぱりこんで、アララギの「客観ー写生主義」を取り崩しにかかる。

茂吉は、この後も更に写生とはいのちを写す、という「普通の意味で無い」写生論をすすめるが、太田水穂は、芭蕉研究に取り組み、短歌の文芸に芭蕉を持ち込み、連歌を流行らせたりする。

あと、太田水穂の写生論反駁で鋭いのが、茂吉らが写生論の根拠にした東洋画論、つまり江戸時代の南画家・中林竹洞が「余さず漏らさず描き取り(写生)たるは卑しく見ゆ。其の中に無くて協はぬ処ばかりを写してよけむ」と言ったのを、「無くて協(かな)はぬ処」が「神、たましい、いのち」として「いのちを写す」写生のことだと言うのは牽強付会で、これはむしろ南画の「略筆の要」、つまり写生でなく、単純化された主観の凝縮のことではないか、というものだ。

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結局、真実味、つまりリアリズムがあれば作品としてよいわけで、よい作品に写生がなされている、という理由をつけてゆくことから、写生論は拡大解釈されてゆき、写生の意味が混乱した。太田水穂が、ここで写生の、拡大解釈されない「普通の意味」を指摘したことは、彼の明晰さを物語るところだろう。

あらためてテルヤが文字表現における写生というのを整理すると、まずは①外界を説明する記述と、②内面を説明する記述があって、①が本来の写生だが、①を使って②を表現する、または①のような方法で②を試みる、というのも写生に含まれてきた。実相観入は、外界と内面を一つの実相として把握し、その境地を描く、というのものであるから、①のような方法で②を試みる、のバリエーションと言ってよいだろう。(①と②を一つにして、①をやればよい、という意味だろうから)

でもこれは結局、境地論であり、修行であり、道になりやすいんだよね。先生と弟子になりやすいし、同人でなく結社になりやすい。

ところで、もっとも新しい結社って、いつが最後なんだろうね。今は同人の時代だと思うし、また結社の時代になる可能性は、無ではないだろうけど。



  七首連作「われにひとつの」

騒音をかき消す機能つけたまま音楽のないイヤホンをする

モニタ越し文字越しまたは音声越し ガラス越しに走る傘のない人

朝、そとは鳥の鳴き声、それでもう幸せがプラス1する不思議

自画像がうるさいという、ゴッホって夜空もなんか音がするしね

観たことのある作品はすぐ観れる、ユーチューブってそういう感じ

自転車が倒れたような無防備なあなたを見てるだけでいいのか

わき役ということでなく、ラジオとはわれにひとつの受信ダイヤル


2021年5月15日土曜日

土曜牛の日第20回「思想の出どころ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史は21回、「斎藤茂吉と半田良平・中山雅吉の写生論議」です。写生が続きます。

大正8年頃のアララギについて、茂吉は、アララギ内部のディスカッションも充実して、若手も「邪(よこしま)ならざる歌」を多く作っていると言っている。「邪ならざる歌」とは、アララギの写生の精神にのっとった歌、という意味である。

これまでの写生についてのアララギの対外的な批判に対して、排他的に言い捨てる島木赤彦のような姿勢も、内部の若手には自信のあらわれのように見えただろう。

ぜんたい、写生そのものに反対している歌人がいるわけではなく、問題は写生の定義についてだった。アララギに反対する歌人のほとんどは、写生が、神秘主義的な「生」とか「いのち」までを含むことに不満であった。

茂吉は、赤彦の「信念としての写生論」を引き継ぎ、①東洋画論の用語例と②正岡子規の用語例を根拠として、良平、雅吉に対抗して、写生は主観・客観を含むものであることとした。その途中で、伊藤左千夫の「調子を得ようとすれば写生にならず、写生らしくすれば調子がなくなり、到底両立しない性質のものである」といった、写生を客観描写と考えている意見も「写生の語義をてんで知つてゐない」と否定した。左千夫没後七年、自分たちが子規の正当後継であることを、対外の議論のなかでさらっと行っている。

そして、写生が、「外界を」「客観的に」「静的に」「視覚的に」「記述する」ことではなく、「実相観入によって自然自己一元の生を写す」ものであることを、短歌における写生であると宣言した。

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近代短歌が、写生という方法にここまでこだわったのは、近代の文学、または文字芸術の歴史の必然だったのだろうとは思うが、やはり論理と感覚が、現代ほど明晰でなかったような印象がある(現代もまた、未来からみると、そんなに明晰ではないだろうが)。

文字芸術の歴史は、事実を「美辞麗句」で飾るところから始まっていて(叙事詩などそうだろう)、近代になって、「美辞麗句」を剥ぎ取る自然主義リアリズムというものが西洋で登場し、日本にも持ち込まれる。しかし日本の自然主義文学は、私生活を露悪するようなものと受け止められて、衰退する。正岡子規は、和歌の伝統の残る短歌を近代化するに際して、雅語や小境涯を取り除くために、西洋絵画におけるスケッチの方法を援用して、これを写生と呼んだ。ここにおいて、近代短歌は、浪漫主義、自然主義が自信を失ったあと、写生を掘り下げるほかなかったのかもしれない。

でも、正岡子規が「歌よみに与ふる書」でも書いているとおり、歌人はなぜか短歌しか読まない人を量産する傾向があるようで、この時代に写生論を掘り下げる人たちは、そういう人々であったのではないかという気がする。他ジャンルをまたいで表現する歌人は、そこまで短歌に「実相観入」するのはおかしい、と、何か感じるところがあったと思う。あらためて、「実相観入」、これもう仏教だよね。



  七首連作「思想の出どころ」

そらのことを「空(くう)」って当てたやつヤバい「空」って考えたやつ相当ヤバい

星の手前に人工衛星があるはずの、まつげも無理して見えるときある

他人事(ひとごと)はだいたい喜劇、失敗をわらってくれるきみのやさしさ

子どもには着けられぬようなとても固いチャッカマンがある 子のいない家

「身内への愛はあとまわし」の思想の出どころを探して、無い、ブックオフ

老いたればこれも開けられないようなペットボトルを二人分買う

雲から森、川から海の循環図、矢印がある水よ わたしも


2021年5月8日土曜日

土曜牛の日第19回「ひとりでちゃんと」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の20もまた写生について。「島木赤彦と中山雅吉・橋田東声の写生論議」。

赤彦、茂吉がアララギで写生論を固めてゆくのに対して、前回は「国民文学」の半田良平が攻撃をしたが、今回は、雑誌「珊瑚礁」の中山雅吉からの批評である。

雅吉はそもそも「写生」に固執することには反対で、写生によって外界に密着することで普遍性は得られるかもしれないが、その分作者のオリジナリティは削られるものであり、この頃の写生にこだわった短歌作品は、写生によって外界を表現しきったところの瞬間的な面白みしかなく、それで終結して余情や暗示を残さないものであるとした。

それに対して赤彦は、以前からの、写生が物を写すだけというのは、素人の考えである、という立場のままであった。

しかし雅吉は赤彦らの、写生に「いのち」とか「生」が包含される考えについて行こうとはせず、短歌においてディテールにこだわることは、心の動きが置き去りにされ、作品がただ客観化、静化されることを問題視した。

赤彦はアララギの写生についての批判を受けて、ついに、東洋の画論(唐の六法など)を取り上げて、東洋の絵画は象形からはじまって伝神に至る写生である、という神秘主義的なドグマを反論に使用するようになる。そして「『珊瑚礁』では写生をスケツチと殆ど同義に解して、性命を盛る芸術を写生主義の名で唱へるのは、我儘であると言うた。吾々が我儘ならば古来東洋の写生論は大抵我儘である。」と、名ばかりの反論をおこなった。

さらに「『アララギ』の万葉集を尊信することと、写生を念とすることは議論ではない。信念である。(中略)作歌道に於ける吾々の一動に徹し、一止に徹し居常行往、念に透徹せんことを冀う信念である」と、ディスカッションの余地のないものであることを表明したのである。

しかしこの「珊瑚礁」の主観主義からの批判もあって、アララギの写生主義は、内的論理をさらに深めてゆくこととなる。

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写生が、まずものを写すものであって、そこから、対象や言葉のチョイスや視点に個性があらわれるというのは、たしかにそうだが、それは推し進めると、すべてが写生になり、文は人なり、という境涯のチキンレースが発生するに至る。近代をどう描くかから始まった近代短歌が、東洋美術論を援用するのは近代詩であることのかなしい否定であるが、短歌は、油断するとここへ引き戻され、虚構設定は剥ぎとられてしまうものなのだろう。



  七首連作「ひとりでちゃんと」

「あなたも遺そう! 泣ける辞世の句」のページを開いてみるが目にかからない

字余りや字足らずはいい 定型にあらがってしかも勝ったのだから

仏壇に孤独な果実供えたり なぜ「孤独な」と付けたんだろう

おれはいまひとりでちゃんと悲しいからついてくるな月ついてくるなよ

生き物の明るい終わりをカンガルー そんなものってきっとありの実

本読みて彼奴(あいつ)のことを考へて涙を落とすその本の上(へ)に

あの友へしばしの祈り 生死さへ不明であるもかまはぬ祈り


2021年5月1日土曜日

土曜牛の日第18回「夏のころぶり」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の19は「土屋文明と半田良平をめぐる写生論議」。アララギリアリズムが論理的基盤を持つ少し前に、若手の土屋文明と、「国民文学」の半田良平が写生についてやりとりをしたことで、界隈が賑わった、という話だ。しかし、この論議は、整理が難しい。用語がもつ意味とニュアンスが拾いにくいからだ。

文明が大正5年に写生論を書いた念頭には、その前の、村上鬼城の「本情とか本性とかいふものを写すのが写生の目的であつて、我と対象と、ピタリと一枚になったところに、写生が終るのである」という観念論とか、島木赤彦の「我等は只事象より深く澄み入らん事を冀(こいねが)ふ」という精神論への反対があった。

文明の写生論は、まず「写生は外界(即客観)から受ける知覚表象に重きをおく」創作方針であるとして、①写生の方針で作った作品は、客観そのものではなく、主観的要素も加わる②写生による作品は、主観的な作品よりもむしろ個性的になる③写生は俳句だけの方法でなく、短歌でも通用する、と提唱した。そして、写生がただのスケッチになりやすい、という指摘には、それは写生の罪ではなくて、主観の、写生をなすための意志活動の不十分さであると考えた。

そのころ半田良平がアララギの写生運動を分析した文章を書いて、文明の写生論についてとくに対抗したわけではないが、写生という「子規の啓蒙運動」から離れた現在、自然描出の技術としての写生だけでなく、主観のうごきを自在にあらわす描写にまで一歩踏み出す必要があると述べた。この部分は、文明の内容とは対立するところとなった。

つまり、主観を表出するのに、写生という方法が優れているかどうか、というテーマとなり、さまざまなディスカッションがはじまる。このディスカッションで、アララギは、赤彦や茂吉のような、狭いリアリズムに入り込んでゆくのである。そこに文明の合理的な考えは、多く反映されなかったようだ。

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やはり整理がむずかしい。写生といっても子規の時代の写生と近代の写生、そして本来の絵画の意味での写生とがあり、しかも写実や、リアリズム、という、近接した用語がある。そしてこの時代の主要な短歌のテーマ、主観と客観、という話が立体的にからんでいる。

外界(客観) → 知覚(主観) → 外界’ 

写生論って、基本的にはこの図式で、後は(主観:客観)の、表出割合のような議論にも思える。客観よりか、主観よりかみたいな。

しかしそもそも子規の時代の写生というのは、和歌が花札のように類型(梅に鶯、みたいな)を持っていて、その模倣がすなわち和歌の上達であったので、類型から脳を自由にして、見たものを見たまま写す修練としてあったのが写生であったろう。なので、類型がない時代に、写生というのは、まああまり意味がないことであったので、のちに精神論にもなったのだろう。

もちろん、現在において、身の回りの短歌を見渡したとき、まだ知識化されていない「類型」はすでにいくつか存在する。それからのがれるために、写生の技法は、役に立つかもしれない。たとえば「エモい」というのは、すでに類型化した何かかもしれないのだ。だとしたら、写生主義の時代は、次にやってくる可能性は、未来の可能性として、あるだろう。



  七首連作「夏のころぶり」

大いなる解決として死があって、小さな問いとして五月われ

風船ガムふくらみすぎてつぶれたり 笑ったけれど雲のない青

チップスの中身これだけしかなくて覗く銀色の宇宙船内

食卓にワニ全員が集まって自分もワニだなんて思春期

2リットル毎日水をわたくしは「流れ」を飲んで「流れ」になりたい

こころって語が久しぶり、水鉄砲で好きな子をねらった夏のころぶり

影を踏むゲームが終わらないように夜という影に来る問いあなた


2021年4月24日土曜日

土曜牛の日第17回「あるらんか」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。文学ってなんだ?

近代短歌論争史明治大正編の18は「太田水穂と釈迢空の古語論争」だ。といっても、現在の「古語短歌(文語短歌)は是か非か」という議論とはあまり関係がなさそうだ。

大正5年の後半から、かねてからアララギに所属していた釈迢空が作歌、評論を活発にはじめる。彼の評論は独自の鋭さをもっているのだが、とりわけ古語については古代を見てきたように語る民俗学の巨人でもあり、太田水穂の作品の批評の古語文法に関する部分では、「語原的時代錯誤」(古語を使うことの是非でなく、古語が現在とは違う意味になっているのに現在的に使用している混雑状況)を指摘して圧倒した。

釈迢空は当時、独自の「古語復活論」を唱えていて、①詩歌は思想の曲折をあらわす②漢語は固定的で害である③ゆえに口語、新造語、古語を多く使用したい④しかし口語は単語に頼り、新造語もいまひとつである⑤なので古語に期待する

というもので、さらにその使用については①文語と口語が同量であれば文語を採用②口語を文語に直訳しないこと③歌全体に口語的発想がきわだつようにすること④散文的にならないこと⑤より厳密な観照態度をとること⑥文語であらわしえない気分や曲折を形象化しようとすること

という、きわめて方法意識に基づいたものだった。少しややこしいが、ここで言われる「古語」は、現在われわれが使う口語文語の、文語よりもより古い、古語や死語のことである。

太田水穂は、この迢空の論旨には、とくに意見を出さなかったが、迢空の作品を評して、その試みがうまく行っていないことを攻撃した。

アララギは、このような論争の場合、茂吉、赤彦、千樫など援護射撃で外部の敵を総攻撃するのが常だが、迢空については、援護はなかった。それは、迢空は、アララギの同人相手にも、きびしい批評をしていたからで、その後も迢空はアララギにおいて孤立してゆくのだった。

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現在から見ると、古語復活論、②の漢語が固定的、というところで、もうつまづいてしまうなあ。たしかに短歌の評で、熟語が硬質的な印象を与える、という言い方はする。でもこの「硬質的」も、よくよく踏み込むと、事務的、説明的、の言い換えであることが多く、漢語そのものの硬質さ、というのがもうピンと来ないのかもしれない。

ところで近代短歌論争史明治大正編は35あるので、半分を過ぎてしまっていた。短歌の論争とは、結局「いい短歌とはなにか」という論争、ということだろう。平成編、令和編は、なにを「いい短歌」とするために論争がされているのだろう。論争があったらかけつけて見に行きたい(笑)


  七首連作「あるらんか」

命ある限り生きる、ということも贅沢である、桜ちる窓

幸せってなんだっけなんだっけ、しいたけをホイルで焼いてポン酢で食べる

お母さんのお迎え順は決まっててAくんBちゃんDちゃん、C介

衣食足りて権力は横暴だけど衣食足りなくなるまで礼節

水がほしい蛇口がほしい手がほしい心がほしい何もいらない

あっちゅうまに死ぬのはわりと救いよね、短歌にせんと言えんことやが

心にはなんの法則あるらんか、きみが笑うとうれしいやんか


2021年4月17日土曜日

土曜牛の日第16回「片隅なのに」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の17は、三井甲之と斎藤茂吉・島木赤彦の<なむ>論争です。これもそんな大層な論争でないのでさっぱりといきましょう。

根岸短歌会からの本流を自負している三井甲之は、なにかとアララギを攻撃していたが、それが気に食わない斎藤茂吉と島木赤彦は、ついに三井の

北風の吹き来る野面をひとりゆきみやこに向ふ汽車を待たなむ

の「待たなむ」は「待ちなむ」の誤用であるとした。三井はこれは「待ちなむ」の意味ではなく、「待たむ」或いは「待たな」の意味に、綴り上の都合と「なむ」に新しい語感を持たせるため、と説明した。

これに対して茂吉は、アララギ誌上で何度も記紀歌謡、万葉、三代集あたりの膨大な用語例調査を行い、三井の使用が誤りであることを示した。これは単純な誤りの指摘ではなく、要するに三井を歌壇から追い出そうとする意図を持った攻撃であった。

旗色の悪い三井は、苦しい弁解をおこない、彼らの論争を「勝敗偏執遊戯」と呼んで批難した。

三井は<なむ>論争については敗退したが、歌人よりも短歌の批評家として活躍する期間が長く、彼のアララギ歌人への作品評は鋭く、政治的な論争でない部分では見るべきところもある批評家ではあった。

でも、三井甲之、Wikipedia読むと、この右翼思想家の思想の変遷、たどりたくなるような人物だね。


  七首連作「片隅なのに」

そういえば牛乳瓶のくちびるを付けるとこ、くちびるに似ている

峠道うねうねのぼり信仰と理性のあいだにひと世は終わる

ニューノーマルみたいな言葉がつらいのだむしろ言っちまおうアブノーマル

「八十年戦争」期の若きデカルトは剣よりも火器に現代をみる

この世界の片隅なのにこの職場で文明的な言い争いになる

われ夢みるゆえに夢あり、カーテンのすきまの光はゆっくり昇る

ねむるときぼくは地球を5周して光をちょっとびびらせて寝る


2021年4月10日土曜日

土曜牛の日第15回「しずかな疲労」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争史16の「前田夕暮と島木赤彦の『深林』論議」もまた、歌集についてのあれこれなので、あっさりと。

前田夕暮が、第四歌集『深林』をまとめたのに対して、島木赤彦が、かなり批判的に批評を行なった。夕暮の珍しい熟語や語句を陳列する構成について、自己の内面を開拓していないというものだった。しかしこれは、前年の赤彦の作品『切火』の合評にて、夕暮が赤彦の作品を、写生にとらわれて平板になっている、という指摘に対する意趣返しのような趣きが好戦的な赤彦の文章に含まれていた。

『深林』は雑誌「詩歌」で特集も行い、萩原朔太郎ら詩人や歌人の8人が批評したが、概ね好評で、ただ、夕暮の作品が事実偏重であったり、散文的であることへの問題点の指摘はいくつかあった。これは、この歌集の以前から、土岐哀果も指摘しているところで、夕暮はこの指摘については感謝して受け止めてもいた。

しかし、赤彦の批評については、その対抗意識のようなものいいに反発もあって、赤彦の最近の作品を夕暮は取り上げて、その平板さと「歌の調子」のみのただごと歌に不満を述べた。

論議はこれ以上発展することはなかったが、夕暮はこの中で「歌の調子」と「リズム」とを分けて使っていて、「歌の調子」だけで歌になることを拒否して、リズムでうたう、ということを意識していた。これは、のちに夕暮が自由律を作る方向にむかう、重要な考え方の枠組みであっただろう。

それにしても、現在の短歌の批評用語に、存在しえないよなぁ、赤彦の「自己の内面を開拓していない」という言葉。


  七首連作「しずかな疲労」

マスクして家を出てゆく、誰もいないところに着けばいない安心

さくら! の、しずかな疲労(八重桜はあるけど)のあとに嗚呼花水木

嗚呼ぼくは花水木なんてきらひです過去を照らさうとするまぶしさが

奥の付く地名に行こうきみがいない前にも横にも行きたくないし

電気街に騎士道のまぼろしありて、あれ やせぎすの男とふとりぎすの男

古い町のきれいな水がわくところにおれが硬貨を投げた確率

寒いところで飲む缶コーヒーは美味しくて茶色い舌だ そのあと帰る 



土曜牛の日のタイトルを七首連作のタイトルにしているけど、これって、論争を探したい時にきわめてわかりにくいね(笑)。論争の名前にした方がよかったな。(直すならまだ間に合うか!)

2021年4月3日土曜日

土曜牛の日第14回「誰かの夢で」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の15は、窪田空穂と尾山篤二郎の『濁れる川』論議です。

これは、窪田空穂の第五歌集『濁れる川』の、おおむね好評だった批評に対して、毒舌家とおそれられていたらしい尾山篤二郎が批判したというものだ。

尾山は、この歌集で空穂がいう「歌と散文との境界線の上を、危くも辿つてゐる」作品を、なんとなく「悟り済ましてゐる」として、その調子の緩慢さや結句の軽さを批難した。また万葉集の即興性を引き合いにだしたのだが、これは劇作家の泉三郎が、尾山の万葉観に批判して別の論議となった。空穂としては、直接に反論せずに、尾山の作品を評するさいに、尾山の作品の、主観のない写生や自己省察からくる自嘲や人情の歌を批判した。

この時代の空気として、アララギの主導する万葉調と、日本自然主義からの転換、また写生と主観の問題について、多かれ少なかれ歌人たちは同じ問題意識を持っていたことで、一冊の歌集は、よい話し合いの場であったようだ。

ただ歌集の論議については、歌集を読まないとわからないし、その歌集の当時の読まれかたも、想像するしかないところがあるからね。そして現在人のわれわれは、「イマ読み」という、ずるい鑑賞の仕方もあって、贅沢だよね。でもあれか、歌集、おそろしく手に入りにくいんだ。


  七首連作「誰かの夢で」

会社にも世界にも愚痴なき男、つっぱしるツバメを目で追わず

目薬を二滴さしたらほおをつたう あの時泣いてよかったよなあ

夕方と明け方のオレンジ色は すなどけいをうらがえす手のいろ

欠点が長所に変わる例えとしてナガミヒナゲシを出すのかきみは

コート・ダジュールの海の色なぞ知らないし青色LEDは訓読み

半馬身の差しかなくて特別なオンリーワンか、それはほんまか

誰かの夢で講釈たれているオレよもっとやさしい顔をしないか


2021年3月27日土曜日

土曜牛の日第13回「まるでなし」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の14は、これはこんにちでも形を変えて残っている問題ですね。斎藤茂吉と西出朝風(にしでちょうふう)の口語歌論争。

西出朝風は明治30年代くらい(子規の短歌革新運動のころ)から口語歌運動をおこなってきた短歌史の最初期の口語歌人で、その頃の口語歌運動の問題意識は「私たちが古語古調を排斥するのは、古い言葉と古い格調によることで、我々の心境や発想も『歌らしい歌』になってしまうだけでなく、我々の肉体や生活までも歌人式タイプになってしまうのを怖れる」ので、口語駆使によって認識を新しくする、というものであった。そして、アララギの「偽万葉調と擬古文辞」の当時の歌壇の方法論を批判する、異端者意識をもったものだった。

斎藤茂吉は、大正3年くらいの口語短歌についての感想として、「けるかも」を「であった」にするような歌は否だとして、言語のひびきを無視して口語を混ぜるような歌は無理心中未遂の姿だとあしらった。

朝風はもちろん反論をするが、茂吉にとって口語がさしせまったテーマではなかったのだろう、口語短歌への批判というより、自分の信念を述べたものだとして、口語短歌の素晴らしい作品をみせて、教えてもらいたい」と返した。

その後茂吉は朝風の作品を一首ずつ批判するかたちで、口語短歌を批判してゆく。茂吉の批判は、①口語短歌といっても、完全に口語になりきれていない(慣用句が古語である場合など)、②口語で57577に揃える際の、無理した付け足しや入れ替えが見苦しい、③古語でもほとんど同じ内容になる歌を、文法だけ口語にすることに大して必然性はない、というものであった。応酬は、そこから進むことはなかった。

この議論は、口語と文語の問題の、現代性と音楽性の噛み合わない話になったようだ。短歌の論争は、最初の滅亡論から、口語と文語の問題を抱えているし、口語と文語といっても、現代語の話し言葉(口語)と現代語の書き言葉(文語)と、古語(文語)の、文語のカテゴリが重なっているのもあって、議論がすれ違いやすいところがある。ここでの朝風も、話し言葉口語で定型遵守であり、当時の、現代語で破調の北原白秋たちの路線とも違っていたし、茂吉は古語定型だった。

話し言葉と書き言葉もまた、厳密には分けにくいところがあって、現在でも、完全な話し言葉のみの口語短歌の人は、そう多くないし、古語の完全否定なんてできない(「急がば回れ」が古語だ、なんて言い分は今では重箱の話にしかならない)。

これ、現在ではどのような問題系になっているだろう? 現在では、古語自体がなじみが薄くなっているので、非日常言語(=詩)として、三十一文字、古語、旧仮名、というスタイルがセットになっているふうもあって、これはもう問題意識という感じではない。でも、この話題は、今でも面白い。たぶん最初の口語短歌の異端な感じが、いまでもあるからなんだろうね。


  七首連作「まるでなし」

自転車で行くのはよそう、歩いたら自分がちゃんと遅いしみじみ

この時期の花がリレーをなすはやさ 梅をゆっくり見なかったまま

春の風ひっきりなしなわけでなし私から熱でないものを奪う

青春は、過ぎ去りにけり——こういうとき釈迢空の文体はよい

そのうちに世界まるごと一枚の写真になるし、さびしくないし

長距離のレースは現地で観るよりもテレビがいいのはそうなんだけど

すきあらばスマホに指をすべらせて充電の心配まるでなし


2021年3月20日土曜日

土曜牛の日第12回「受け継がれたい」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の13は、島木赤彦と窪田空穂・松村英一の写生論議、と言われるものです。論争というか、写生にまつわる「すれ違い」が近いような、そう、論議であった。

雑誌『国民文学』を創刊した空穂は、そもそも他人の作品に注文をつけることは「作者を萎靡させ面白くなくさせるだけだ」という考えもあって、わけへだてなく評価し、批難することはなかったが、島木赤彦の第二歌集『切火』の、作者の写生の態度について、主観をおさえて、素材と描写だけになるなら、散文との境がなくなるようなもので、むしろ前の歌集の抒情的な作風のほうがよいのではないかと述べた。

それに対して島木が、またアララギ特有の偉そうな物言いで、「空穂氏には到底われわれの写生の奥底はうかがえない。主観と物とは別々のものと考えて、万象の中枢に深く澄み入る本願が理解できないのは、素人の見方である」などと反論した。

しかしその頃空穂は『作歌問答』という本を出していて、写生についてじゅうぶんな理解と分析をすでに行なっていて、歌とって写生は尊重すべきだが、歌の本来であるのは「心持ち」であって、写生は歌そのものではない、写生にとどまっただけのものではない、という、当時のアララギよりもリアリズムの基本的な方法として認識していたので、島木の反論に答えることはなかった。

すると、空穂の後輩の松村英一が、島木に対して、茂吉風の、島木の作品を各個撃破するやり方で論争に打って出た。松村の基本的な写生の考えは空穂と同じだが、島木の作品は①かたちが整いすぎている②説明的な言葉が目立つ③調子のながれるようなものが欠けている④作者独自の発見が乏しい⑤情景がはっきりしても、気分がない⑥理屈っぽい⑦発想が伝統主義的、と攻撃した。しかし島木は、これには反応しなかった。

写生はのちにアララギにとって専売特許になってゆくが、この段階では、島木の写生観は、「楽しい、悲しいという抽象化された輪郭言語の歌は、抽象描写で、比喩をもちいた感情表現は、間接描写、説明描写だ」から、これら抽象描写、間接描写を用いないのが写生である、という程度の写生論であった。

この論議がすれ違いになったのは、平行して、前回の土岐哀果と茂吉の論争が行なわれていた、というのもあるし、『国民文学』は、短歌だけでなく文芸一般に関心があったからでもあったろう。最初にもあったように、空穂自身は、アララギの、一音一句に注意をうながす緊張した歌風をほめていたのであるし、『切火』の批評も、前作と比較した程度の批評であった。


  七首連作「受け継がれたい」

生きることのオノマトペを朝決めている、ぞろぞろ、にょろにょろ、ざばざば、ケロケロ

ものが動くことはセクシーつまりつまりおはようセクシーおやすみセクシー

人間に人間のはだかはいやらしい隠せば隠したところはさらに

ラテン系の「イーヤッホー!」のアクセントは宇宙に行っても受け継がれたい

おじいちゃんの地球の昔話などみな聞き飽きておじいちゃんだまる

梅の木が気づけばぱっと赤みして可視光線界ほろほろうれし

ニッポンの話題はすぐにイッポンの束に収束する背負投げ


2021年3月13日土曜日

土曜牛の日第11回「いっこのまぶし」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日も1915年の短歌の議論をみていきましょう。近代短歌論争史明治大正編の⑫は(この機種依存の丸数字、何番まであるんじゃろ?)、土岐哀果と斎藤茂吉・島木赤彦の表現論争だ。

この頃の短歌の論争は、もう狂犬・斎藤茂吉が、あらゆる相手に噛み付いて短歌に関心がある人をドン引きさせてゆくようにしか見えないが、今回もそうです(笑)。

アララギという結社によって、短歌を独自の文芸として深めてゆくことと、広い表現の一つとして短歌を考える人達とのあいだに、目に見えない溝のようなものができつつあり、それでも短歌の側であった土岐にもまた、近代短歌を失望させる論争であった。

土岐哀果は言うまでもなくローマ字(横書き)短歌、破調、三行書き、句読点、口語、日常表現の短歌という、2021年の現在と同じか、ちょっと先も通用する作品を作っていた歌人であり、石川啄木や、前田夕暮、釈迢空という、当時の短歌の外周的な場所でも呼吸できるグループの一人だった。

論争は、哀果が、茂吉が自分の作品で古典から用語を借用したことをとくとくと語っていたことに対して「衒気(自分の学や才をひけらかす)をまつわらせるのは自分の論理の生々しさが枯れていきづまっているのではないか」と指摘したのがはじまりだった。ついでに、アララギの万葉礼賛も、行き過ぎていることを批難した。万葉のみずみずしい精神を継承すべきなのに、修辞や技巧を複雑にみなしたり、当時の言葉をそのまま使うのは、「万葉のミイラ」の礼賛にすぎない、とまで言った。

ガルルルル、茂吉が黙っているわけがないよね。自分が借用した言葉を表記するのは、用語の吟味行為そのもので、表現の基礎をなす用語が、いままでどのように使用され、それが十分な活用であったのか、徹底的に検証しなければならないのであって、日常語を思いついたように使う土岐君には想像もつかない境地なんだよね、理解できないと思うけど、と辛辣に回答する。

哀果は、いくら用語を吟味すると言っても、「父母の詞」ではなくて、「僕自身の詞」を発しようするするべきだし、狭い歌壇や結社の中で「けり」がどうとか「かも」がどうとか論じたって、くだらんだろう、と返答する。茂吉は当然相容れない。父母の詞をも愛着して僕の詞を発することが必要だし、一語をも馬鹿にしてはならないのだから、「けり」「かも」の吟味から実行しなければならない、といい、茂吉得意の、相手の作品をとりあげて、ねちねちと問い詰めてゆく。

哀果はそういう挑発には乗らず、全体としては茂吉有利のような論争になったようで、それも理由になったのだろうか、このあと、哀果は啄木の遺志をついだ雑誌「生活と藝術」を廃刊する。彼は廃刊の理由として「雑誌が短歌的になるのがいやだった」「ぼくが社会主義というものと行動的に結びつきえな」かった、と後に語っている。

また、茂吉の「用語の借用」は、茂吉が俊恵法師から採用したと言っていた「出で入る息」は、白秋が近年に使っていて、実はある人から「(斎藤は)北原氏を模倣しないといっていたのに、これは泥棒行為だ」と指摘されていた。そうなると、何が模倣で何が借用であるのか、その前年に古泉千樫を自分(茂吉)の模倣だと言っていた話はどうなるのか、結局、個人的な判断でしかなく、この持論が客観性がないことについて言明されることはなかった。

それでも、当時、アララギは、中心であり、いきおいがあったんだろうね。


  七首連作「いっこのまぶし」

もし〜ならば、仮定形とは過去形だ 未来こそたった一個の「眩(まぶ)し」

IF文とGOTO文で延々とスクールアドベンチャー書いた放課後

会いにゆくGOTOトラベル 旅行だとあなたに遭ってしまいそうだわ

「天国に行く」という慣用句ありて死ぬだけで行ける天国あるの?

描写ゆたかな地獄のようにジオン軍のモビルスーツはよりどりみどり

敷島の道も善意で舗装され地下活動としての三十一文字(みそひと)

かみなりを首をすくめて過ぎるのを待っているふたりの連帯「感」




2021年3月6日土曜日

土曜牛の日第10回「翌年の春」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の論争⑪は、沼波瓊音(ぬなみけいおん)と斎藤茂吉のフモール(ユーモア)論争だ。この論争も、短歌の現在に参考になって、おもしろい。

けいおん! じゃなくて沼波瓊音は俳人で、「俳味」を創刊するが、のちに宇宙の存在に疑問を持って信仰生活に入ったり右翼となっていったり、興味深い人物であるが、俳味というネーミングもなかなか鋭いと思う。

でこの瓊音が『心の花』に載った沢弌(さわいち?はじめ?)の作品を褒める。ほめるというか絶賛する。作品自体は、軽妙な思いつきで日常を描いたような作品だが、瓊音がその時求めていたものがそこにあったのだろう、図書館で沢の前作品を調べ、心の花に問い合わせて、沢の連絡先を得て、面会までした。

これに噛み付いたのが、斎藤茂吉だった。まず、「予は現世で短歌を鑑賞する人々の中に沼波氏の如き、予等と全く異る雰囲気の中に住む人のゐることを知って、いたく驚いた」と瓊音のまとはずれの評価を嘲笑する。そして「生活と歌と一髪の隔てなく、ピタリと一つになっている」と瓊音の言う歌を「家常茶飯の単なる輪郭の報告」にすぎず、ふざけて、気取って、得意で、安っぽい安心の歌であると批難した。瓊音は斎藤の真面目さと固さを反論するが、斎藤はますます執拗に、排他的に、短歌の論理性と精神主義を押し付けてゆく。

この茂吉の、局外者を馬鹿にする態度は、周囲からも反感があって、何人かは、茂吉のユーモアのなさ、攻撃の執拗さに対して批判もした。茂吉は、のちにやや反省めいた事も書いたが、基本的に訂正をすることはなかった。

この議論は本来、短歌におけるユーモアとそのあり方、へと至る論争のように見えたが、結局、結社で短歌論理を深めていった茂吉が、俳人が俳句の角度からの作品のリアリティを語るのを排他的に攻撃して、結社が孤立する流れをつくった論争のひとつとなった。

つまり「あんな歌のどこがよいのかわからない」という意見の発症、いや発祥は、結社での排他的な議論と無関係ではない、ということだよね。


  七首連作「翌年の春」

初心忘るべからずの初心はいつだっけどこだっけあと誰だったっけ

人生の三つの坂の三つ目のプラモデル三昧の石坂浩二

春夏は戦争なので秋冬は戦後処理ですねえお父さん

戦後処理のながい時間をソシュールのシュールな穴ぐらなるアナグラム

白秋を名乗る十六の少年のなかなか中二病の先達

戦争が終わった年の翌年の春をうたうか敗戦詩人

サンガリア 炭酸水は 風呂上がり テレビのなかで 民が圧されて  


2021年2月27日土曜日

土曜牛の日第9回「青いほど空」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の論争の10は、窪田空穂と田山花袋の態度論争と言われるものです。この議論はちょっと面白いです。

1914年(大正3年)に、窪田空穂、彼は与謝野鉄幹らの浪漫主義から短歌に入り、そこから離れて自然主義をめざす「国民文学」を創刊して、やがて境涯詠というジャンルの一人になる歌人ですが、彼が古今集を研究する中で、ある一首を批判する。

 雪の内に春は来にけり鶯の氷れる涙いまや解くらむ(二条后の春の始めの御歌)

これの〈鶯の氷れる涙〉が、リアリティのない、知識で作った、いやな誇張で、我々の感情から自然に流れ出したものではない、と否定した。

それに対して、窪田と親しい、窪田よりやや先輩の、しかし短歌の専門ではない田山花袋が反論する。この表現は、たんに鶯だけでなく、二条后本人の境遇も重ね合わせた悲嘆の表現であり、自然と人工との微妙な一致の境であるとした。窪田の、現行の自然主義の、とにかくな表現の直接性の肯定(つまり間接性の批判)をたしなめたのだ。

この、田山花袋の短歌観が面白い。彼は自然主義の小説を書いたりする前、桂園派の短歌理論にしたしんでいたので、彼の写実の理論は桂園派の影響を受けているのだ。桂園派の、香川景恒門下の松浦辰男(田山の短歌の先生)は、誇張にも「自然の誇張」と「人工の誇張」とがあり、短歌は虚飾を拒むから人工の誇張はよくないが、自然の誇張もまた非論理的で主体的でないからダメであり、人工でありながら天然に至る表現がめざすところである、という理想をもっていた。田山花袋は、古今集のこの歌は、決してよい歌とは言えないが、そこを目指している歌だとしたのだ。

これは、田山花袋が、自然主義文学者として、当時行き詰まっていたことも示唆していたらしく、これから自然主義短歌をめざそうとする窪田に対してと、そして自分自身へのアドバイスのような側面もあったようだ。

田山はその後自然主義の平面描写から、観照主義へ向かい、自我の限界から、「個」と「全」の総合をこころみる。表現の直接性と間接性は、個の主体性と全の客観性の問題へと変質してゆくのだ。

ちなみに窪田は、〈鶯の氷れる涙〉については譲れないまでも、個と全の問題については賛成をしめした。ずっとのち、窪田は日本文学報国会の理事の一人になるが、それはまた別の話だ。


  七首連作「青いほど空」

同じことおんなじことをくりかえす吉田しだ、みたいな名前みたいな

このスマホのカドは固くていざとなれば武器として、あと電話もできる

病める日も健やかなる日も病める日も健やかなる日も健やか?なる?日?も?

許してという声を背に家を出る許したいのに家を出てゆく

買ってきた「めだまシール」を動かないものに貼ったらずっと下向き

矛盾とは不快であるが無矛盾はまったく狂気、青いほど空

ベートーベンが生まれなかった異世界に運命はダン↑ドン↓ですぐ来る


2021年2月20日土曜日

土曜牛の日第8回「石の話」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

竈門テル治郎です。(このネタ2回やるほどのものか)

某人気アニメが遊郭を取り上げたことについて、けしからんということで話題になったみたいですが、ちょうど1世紀前の短歌界隈でも、遊郭に行った短歌を発表したら、けしからんと新聞がさわいだ話は、この土曜の牛の日の3回でやっていたよね。社会って、ダウングレードされてね?


『近代短歌論争史明治大正編』の論争の⑨は、アララギ内部の世代の、対立というよりは融和の話。

伊藤左千夫が急逝することで、彼らと対立していた若いアバンギャルドな斎藤茂吉たちの世代は、支柱を失ったことに気づく。対立、攻勢によって理論を深めていった彼らは、ある種の乱調状態に陥る。ここで、左千夫と同世代の長塚節が迎えられる。長塚節は、左千夫ほど若い世代と対立的ではなく、結核でもあってそれまで多くを指摘していなかったが、斎藤茂吉や古泉千樫を逝去の一年前頃から批判をはじめる。茂吉については、①論評に客観性がない②『赤光』の作歌態度は品位を理解していない、というものであり、古泉千樫については、茂吉の模倣への厳しい批判だった。

この批判は、若い世代にとっても厳しいもので、左千夫の時のように対立するものではなく、若い世代に方法意識の再確認をうながして、とくに古泉千樫の茂吉模倣については、アララギでも問題となり、千樫は苦闘することになる。

ちなみに千樫の茂吉模倣とは、たとえば

あかあかと一本の道とほりたり玉きはる我がいのちなりけり(茂吉)

山のうへに朝あけの光ひらめけりよみがへり来る命なりけり(千樫)

これの「命なりけり」が、古泉千樫のやみがたい内部衝迫から出たものではなく、安直な方法意識でしかないのではないか、というレベルのものである。当時のアララギの、実相観入に向かっていく短歌観では、そこに作者がいない、他人の言葉を借りている表現は、無意味でしかない、という世界であった。

古泉千樫は、その後独自の方法意識を見つけてゆくが、この長塚節の古泉千樫批判とその対応は、アララギ全体の方法意識の深化へとつながってゆく。しかしこれはアララギの、内部化、結社化にもつながってゆき、外部の批評観と異なってゆくのであった。


  七首連作「石の話」

石ひとつに宇宙の歴史があるとして この石は聖者を痛めた自慢

上から下へきれいな水が流れるよ石さえまるく不幸さえまるく

どこからが星なのだろう巨大なる石は着地を保留せられて

元素番号最後の原子をミステリウムと勝手に名付く、虹色の石だ

きみのてをはなれてぼくの手におちる石のぬくみが恋のつかのま

笹ヤブから石のつぶてが飛んでくる、妖怪を信じる者にのみ

河川敷で石の話をしばらくは意志の話として聞いていた


2021年2月13日土曜日

土曜牛の日第7回「ここまで詩」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

こんにちは、竈門テル治郎です。禰豆子も近代短歌楽しんでる?(ムー!)

ということで、近代短歌論争史明治大正編ですが、鬼滅の刃の時代の大正時代に、近代の歌人たちが何を論争していたかという今回の論争⑧は、若山牧水と斎藤茂吉の破調論議です。

明治の浪漫主義から自然主義へと向かった若山牧水は、第三歌集『別離』でアララギの写実主義から攻撃を受けるも、牧水の影響はアララギの内部で伊藤左千夫と茂吉らの新旧交代のトリガの一つになった。

その牧水は、第五歌集『死か芸術か』(すげえタイトル)、第六歌集『みなかみ』で、破調作品に挑戦する。で、この二作は、不評だったので、以降は、また既成の方法にもどってゆく。

牧水は、破調を「実生活にたいする一種の自棄的反抗の自己表出」と考えていたが、茂吉は、定型を「プリミチーブな自然的拘束」と考えていたので、牧水の破調の作品を、だらだらして力がない「浮気者の歌」と非難した。

牧水は『死か芸術か』が不評だったので、みずからの同人『創作』で、破調の評論特集を組んで、ひろく意見をあつめた。はたして、牧水の期待にそった内容だったか。

服部嘉香は、「破調は定型の否定であり、詩のはじまり」という視点から、賛成。

広田楽は、「自己内心の已みがたい要求に依って」なら定型と共存するとして賛成。

北原白秋は、なにも宝石にわざと傷とつけなくてもよいではないか、と反対。

西出朝風は、口語であってもどうも日本語の音脚はやはり五音七音だ、と反対。

島木赤彦は、自分もちょっと破調を作っていたのだが、彼は、破調は定型あって緊張が生まれるかもしれないが、定型に執着のない破調は、無造作の破壊であって、意味がない、と反対を示した。

牧水は、悩んだろう。彼には自然主義の志向性として、定型の欠点の①なんでもいちおうの抒情性となる完結性、②未分化なリアリズムに逆行する感傷性と閉塞性、③文語使用による発想の間接性、に対する一つの解決として破調を考えたのであろうが、どうも理論的な根拠を得られそうになかった。

新体詩としての可能性も視野にいれた第六歌集『みなかみ』も不評になるに及んで、彼は自信をなくし、茂吉に停戦も申し入れる。茂吉はそれでも追い打ちをやめなかったが、この牧水の挑戦は、アララギの定型万能主義や定型意識を深める一方、のちの自由律への先駆的な役割にもなったのだった。


  七首連作「ここまで詩」

ギュスターブ・モローの見つめあう絵たち、輪廻転生が噛みあわなくて

認知症も神の偉大な許しにてまろやかにほどけたれば母は

仏像の仏の指のささいなる角度が悟り、仏師の祈り

ここまで詩、ここからは詩の外にある線引けば線で分かれるこころ

撫でられて顔の溶けたる木喰仏さて、木喰は昏き効率化知りて

神もまた詩のレトリックになるときにジュディマリのYUKIが使う軽さで

知っている、輪廻転生ということばは輪廻転生を否定するためにある


2021年2月6日土曜日

土曜の牛の日第6回「紙一重」

 こんにちは。土曜牛の日の文学です。

『近代短歌論争史明治大正編』の論争の⑦は、服部嘉香(よしか)と斎藤茂吉の象徴論争だ。

服部は、詩歌全般をながめる立場から、短歌形式はそのひとつであって、内容によって短歌形式を選ぶこともあり、内容によって自由詩を選ぶこともあるので、ことごとく詩をつくる、ことごとく短歌をつくる、その固定的態度を批判していた。

そして、形式については「破調は定型の否定であり、詩のはじまり」といい、内容については、「真の象徴は短歌にはありえないのでないか」と、短歌は詩にくらべてイマジネーションの拡充とリズムの自律性の深化ができないとした。

この服部に対して茂吉は、西洋の象徴詩を翻訳しただけのような人工的であいまいな作品を批判し、独自の象徴論、象徴技術論にもってゆく。茂吉にとって短歌は、因習美ではなく、「短歌の体を愛敬し交合し渾一体に化する心願」の対象であり、短歌のリズムによって象徴性が獲得できないのは、個々の技法の問題であると、技術論に置き換えて反論したのだった。

この論争は、互いのサンボリズムの前提がいまひとつ噛み合わず、深化することのない論争のようであった。ただ、この服部は、いわゆる前田夕暮、土岐哀果、石川啄木のように、形式そのものを相対化してみる流れの一人であり、短歌滅亡論からはじまった近代短歌の、信と不信の二重構造がはっきりしてきたような印象がうかがえる。


関係ないけど、テルヤが57577以外の形式が繁栄した可能性をかつてツイートしたさい、57577をこの言語の必然と考えている節のある方から、ならばそれはあなたの優れた作品で示してください、と言われたことがあった。いや、それはテルヤの作品の質の話ではないんだ、と言いたかったが、言わなかった。あれ、言ったっけ?

ちなみに斎藤茂吉はこれ、尾上柴舟の短歌滅亡論でも、こういう議論展開してたよね。短歌が滅亡するんじゃなくて、尾上柴舟が短歌がヘタだから短歌に希望が見いだせないんじゃないの? っていう。ひでえけど(笑)、黙らせるには有効なロジックである。



  七首連作「紙一重」

神の目線なのにわたしはスクリーンを見上げておりぬ暗き館にて

神々がエレベータから降りてくる なに食べようか考えながら

AIが人間性をめざす街、人間は機械へ紙一重

人口比に適切な職業枠を考えてそうな呼び込みバイト

介護用未満の見守りデバイスのちょうど良いのがないスマートさ

いやだって日本語がまだ慣れてない スマホに気さくに呼びかけるのに

神様にゆっくりしゃべる能楽の 祈りのアップデートよしあし


2021年1月30日土曜日

土曜の牛の日第5回「倍速の舞」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

『近代短歌論争史明治大正編』の論争の⑥は、論争好きの伊藤左千夫が、アララギの新旧交代の旧側に立って、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明らの新人層と対立し、一年半ほど論争をしながら、敗北しつつ受け入れてゆく流れとなる。

ここでの論点は現在ではやや実感しにくい。左千夫側は「実感を消化した上での写実」を短歌の本流としているのに対して、一方の茂吉を筆頭にする新人層は「表現主義の予感をはらんだリアリズム」に取り組もうとしているのだが、左千夫にはそれが作り物にみえて、どうも納得できなかったようにもみえる。ただこの論争によって、茂吉ら新人は素材や連作について、ブラッシュアップしていくことになるし、左千夫も自分の表現について完成に向かうようである。

左千夫は先生にあたる立場だが、茂吉らが新人とはいえ論詰してくるのは、こわいよね。


  七首連作「倍速の舞」

歳時記をひらけば不意に寒卵、ないよね寒卵の記憶など

にっぽんのむかしのくらしクラシカル クラシアン要らぬぽっとん便所

能楽をネットの動画で流しつつ、時間がないので倍速の舞

和ロックの四字熟語百花繚乱にキャロルのカタカナ英語なつかし

通勤は11世紀のヒルデガルトの聖歌を耳に 手に古今集

駅に着きあなたと何を食べようか オレひとりならエサでよい夜

レイヤーを一枚めくれば貧しさがめくるめく街 きみのて つなぐ



1月も終わりますねー。この土曜の牛の日も、月4回を12回もやればもう一年なんだから、そう考えると早いよね。まあできない日もあるらん。(急に新かな文語!


2021年1月23日土曜日

土曜牛の日第4回「ボーンインザ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史はひとまずおいて、(さては読み進んでないな)、古今集について書かれた本を読んでいて、古今集ってなんなんだろうか、と考えてしまうものであった。

言うまでもなく、近代の短歌は、和歌の否定からはじまったようなところがあるし、正岡子規が戦略的に古今集を攻撃することで短歌が現代的であることを印象づけたようなところがある。でもその正岡子規も、ほんとうは、と言ったらなんだけど、古今集、好きだったんだよね。

万葉集が、日本の言葉を文字にする格闘として歌をのこした段階だとすると、古今集は、仮名序で書いているとおり、日本のなかでことばとこころの型をつくるために歌をのこした段階になっている。季節をそろえ、恋の段階を分け、論理をつくり、レトリックを増やす。

漢詩という、海外の高い文化水準は依然としてあるものの、5句節31音で、だいたいのこころは言葉にできる、という、自分の王朝に対する、肯定感があったのだろうね。

ひるがえって現在のわれわれは、短歌と和歌をほとんど断絶して考えている。いやもっと、短歌のなかでも、近代や前衛や、そことも断絶している感があるので、和歌なんて、同じ文芸表現とさえ思っていない。じじつ、そこで使われる技法は、和歌とは無縁のようにもみえる。

しかし、古今集のころに発明された「題詠」をわれわれは今も楽しんでいるし、短歌の美意識は、どこかで和歌の美意識を前提にして、うらぎったり、うらぎりをうらぎったりしている。

短歌の歴史は、「万葉期」「古今期」「新古今期」を循環している、という史観が、かつてあったような気がするが、今はひょっとして「古今期」なのではないか。正岡子規が、「再び歌よみに与ふる書」で、くだらない歌と書いていた、古今集の第一首は、

  年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ

であるが、この歌の、ひとりミルクボーイのようなネタ感は、じゅうぶん現在の短歌に通じている。

古今集って、おもろいかもしれんね。


  七首連作「ボーンインザ」

その前にミサントローポス(人間嫌い)だったのでウイルス的にも都合よかった

疫病で大変な世に、隠れてはないけどゆっくり風呂で液態(えきたい)

ボーンインザUSAのテンポにてシャワーから水が漏れてしたたたく

アメリカも大変やねぇハグしたり互いの頬を当てたいだろうに

恋人がマスクもなしに抱き合って何年前のドラマだもんね

このスーパー、密だと思うわれがいてわれがいなけりゃ密マイナス1

さかなさかなさかな、言葉を食べると、あたまあたまあたま、心がみつかれ


2021年1月16日土曜日

土曜牛の日第3回「地上にはない」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

『近代短歌論争史明治大正編』の論争の④は、前田夕暮の『収穫』が、元恋人であろう人妻への想いをうたったことで引き起こされた、風俗壊乱論争だ。歌壇では好評価だったのだが、新聞が「こんなの姦通歌だ」と批判したんだよね。そして、近藤元が遊郭へ女郎買いに行く歌を作ると、匿名の新聞記者石川啄木などが「狂者と変質者の文芸」「頭と陰部ばかりの人間」「堕落せる短歌」と罵って、いくつかの歌集は、そのとばっちりで発禁になったりした。

現在の雰囲気でいうと、短歌は虚構だと思って非人道的なあることないことをうたっていたら、世間の目にみつかっていきなり炎上するようなのに近いといえる。

もちろん厳密には、綺麗事を歌わない自然主義の方向性が、醜悪、欲望の方向の描写に向かってゆき、刹那主義、快楽主義になってゆくという自然主義の本質的な問題が横たわっていたのだが、世間の公序良俗が表現を攻撃すると、表現はそもそも弱いというのは、現在も同じである。

日本自然主義の流れは、ここでほとんど勢いを失うことになる。

論争の⑤は、服部嘉香(よしか)が、短歌の固定形式は自由詩のように主観詩になることはできないだろうが、抒情詩としてなら行けるところまで行けるだろう、という否定論を出したことによる、方法論争というものだ。つまり、形式とその形式を守るためのレトリックは、表現の革新には使えないよね、という自由詩目線の論だった。

この論は短歌が彫刻的で、自由詩は音楽的であるとか絵画的であるとか、散文詩は短歌のゆるいものだとか、現在ではさじ加減の話のような議論にもみえるが、自然主義のような内容の暴露具合でなく、叙情と主観、情調と思想、また内容とサンボリズムと、自然主義のあとの近代詩を、方法について模索、整備する方向に向かわせたようだ。

この論争で森川葵村(きそん)という詩人が、芸術至上主義として服部と論争したが、彼はその基盤の脆さをあらわにして、やがて詩をやめたようだ。でも彼の「芸術はまじめな遊戯であり実用品ではない、もっと高尚な尊いものであること」という考え方は、わりと好きだな。


  七首連作「地上にはない」

夢で見たシャチと娘の物語 つづきはたぶん地上にはない

人間は取り締まれるが夢までは取り締まれないはずだが、さあね

断崖に沿った車道でときおりに海を割るツクヨミなる彼岸

異種族はことばはいわばなんとかなる、その罪がふたりをわかつまで

ワゴン車のフラットシートで今日は寝る エンジンを切るやいなや浸食

レコードを漁る手つきだ、探してたものじゃないけどほしい目つきだ

つづきなど地上にはない、差し替えたこれも途中で終わりのはなし



閑話休題。昨年末のM-1グランプリで、テルヤはニューヨークという芸人のネタを2番めに面白いと思ったが、彼らの軽犯罪ネタはとても現在への批評性があって、いい表現だなと思った。軽犯罪が問題なのではなくて、軽犯罪を笑えなくなっている自分たち、という目線が組み込まれていることが、批評性ということだと思ったのだ。(ちょっと古い話題だったな)


2021年1月9日土曜日

土曜牛の日第2回「盛った演奏」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

『近代短歌論争史明治大正編』の2の論争は、若山牧水の第三歌集『別離』を伊藤左千夫およびアララギが批判した一連の動きだ。

この流れは文壇の流れというものが溶解してしまった現在ではやや不明瞭だが、与謝野鉄幹らの浪漫主義の作風に疑問を持った牧水らが自然主義を掲げて『創作』という同人を作り、その彼の作品を写実主義のアララギが分析的に批判して、牧水はその批判に、反論よりもむしろ感謝した、という論争(?)だ。

牧水は浪漫主義の「没個性の、いかにも歌らしい歌」を嫌ったが、その牧水の歌もまたアララギから「拵え物」と批判された。牧水は「歌そのものを見るのが願いではない」「生きた人間の歌が詠みたい」「作歌によって己を知りたい」と考えていたが、そこにアララギほどの方法論はなく、ただ人生主義の方向に向く。一方、アララギは、論争好きの左千夫とその弟子とも内部で対立してゆくが、自然主義の方向にも同調してゆく。なんというか、牧水の大きさの話にまとめたくなるが、この流れは、短歌が、リアリティを求めてゆく流れと、短歌を分析批評する方向に向かった論争といえる。

3の論争は、土岐哀果や石川啄木が、ローマ字短歌、三行書き、定型の拡大解釈(31音以上でもよい)をよしとしたのに対し、牧水が川柳のようだといい、茂吉がその不真面目さを非難した一連のやりとりだ。そんな「ただごと歌」「そうですか歌」「報告歌」「筋書き歌」は三十一文字でなくてもよい、そんな空気があったのだろう。そしてこの対立は、従来の自然主義と、あたらしい社会主義の対立とも、うたいぶりにおいて重なってもいた。


百年後の現在、牧水の人生主義はなかなか難しく、三十一文字でなくてもよいものを短歌にすることがメインのようにも思われる。でも、生きた人間の歌が詠みたい、と思う? かなあ?


  七首連作「盛った演奏」

損得の向こうにはるかそびえたつ今日は見えない薄い富士山

しあわせは損得であるものだろか ひっくり返せば聖書のことば

人に説く教えをなにか持たなくちゃ、教えを乞われる人がいなくちゃ

過去は低い、未来は高い 現在は 顎ひとつ上げてたたかえ兵士

ペダル踏んでゆっくりとバッハ弾くピアノ、宗教性を盛った演奏

SIerがその明け方に見る窓の外にあかるい丸と三角

軽犯罪ぐらいといえぬ昨今を寝不足のせいにしつつポイ捨て



もっと雑談がしたいような気もするのだが、どうもかたい感じがするね。



2021年1月2日土曜日

土曜牛の日第1回「滅亡論」

 新年あけましておめでとうございます。土曜の牛の文学です。

今年さいしょに紐解く本は『近代短歌論争史』明治大正編。篠弘が1976年に出した本で、名前のとおり、近代以降の短歌の議論をまとめた本なので、つまり文学としての短歌の輪郭がつかめるという意味で、基本的なテキストと言ってよいのでしょう。

35章ある最初の論争は、明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に始まる。篠弘は、近代短歌のスタートは、短歌滅亡論に始まる、という認識を示している。短歌はその後、たびたび滅亡論を繰り返すが、そのはじまりはここからと言える。

短歌滅亡私論のポイントは3つあって、

1、近代人の自我を一首で表現するには短くて、連作が必要になる。

2、57577の形式は、己を表現する型なのだろうか。

3、短歌で使う文語は、生きた言葉ではないのではないか。

ほとんど今でも行われる議論のベースが、1910年、百年前に出ているということだ。明治とともに近代国家日本ができて、20年くらいは近代国家の詩歌として、和歌改良論なども議論されたが、改良論で提案された「現代語化、題詠否定、恋より勇壮、形式の自由」をすすめようとして、結局なにが短歌なのかよくわからなくなったのであろう。

この3つのポイントを、100年後のわれわれがみるとどうだろうか。1は、むしろ一首で見るのが現在は優位で、連作はゆるいまとまりレベルになっているようだ。2は、これもまた、57577を守る人が多い印象だ。3は、文語派は、少数になっている。これは教育の影響が強そうだ。

ただ、もっと本質的に短歌滅亡論が言いたいことは、短歌が当時の文学的問題を担うに足る、文学の中心にあると言えるだろうか、という問いであって、その問いは現代で担うには、なかなかハードルが、いまでも高い。


  七首連作「滅亡論」

眠りひとつ冷たい部屋にこぼれおり、水銀のように照る月明かり

滅亡の夢をみたんだ、都合よく自分は都合よく助かって

鳥かごも水槽もなんなら家も檻という目で見ちゃだめですよ

粉ものがヘラでぐちゃぐちゃ混ぜられてへらへら焼けてゆく楽しさは

恋人をだきしめるとき僕は鼻、または両腕、残りコンニャク

変化するこの世の中で創業以来の秘伝のたれがこぼれる夜中

永遠につづく敷島、感情に形容詞ひとつだけの花々



近代短歌論争史、いつまでかかるかな。途中で別の本読んだりして(笑)。

あと作品を評しあったりするのもよいかなーと考えたり。