2016年1月3日日曜日

2015年12月うたの日作品雑感。

9月の大阪文学フリマでうたの日というネット題詠歌会の存在を知って、飛び込んで参加させてもらってから3ヶ月とちょっと。お目汚しのような感じながら年を越しました。これからもどうぞよろしくです。

しま・しましまさんという方がうたの日の感想のブログを書いてらして、ときどきこの方に取り上げていただいて評を読むと、作者のてるやよりもいい作品解釈をしていただけるので(笑)、これはもうそういう作品にしてしまおうと黙って喜んだりしています。

基本的に褒められて喜ぶタイプです。褒められて伸びにくいのが残念です。

題詠のパターンというのは、いくつかあって、与えられた題を直接使う場合、言い換える場合、隠す場合、ひねる場合、音だけを採る場合、等々、題との関連があるならば、わりと自由度は高いのだが、題の自由度というのもあって、こっちは、自由度がたかすぎても、低すぎても、けっこう厳しい時がある。

たとえば漢字一文字の題は、熟語よりも自由度が高いが、熟語そのものを作るところから始まるので、意外としんどい。

「的」
師走なお休日なれば可及的ゆるやかに午後の湯舟のあくび

「まと」でもいいのだけれど「てき」にしてしまうと、一気に選択肢が広がって、なんでもありになってしまい、作品のストーリーを絞るところから大変になる。
逆に、自由度が低い、低いというか、課題性を含んでしまう題も、限定されてしまってつくりにくい。

「近くの公園でいちばん大きな樹」
鳥になった君を近くの公園でいちばん大きな樹の上で呼ぶ

上の作品は、いっそ課題をそのまま語彙として使ってやれっていうトリッキーな作り方をしてしまったが(鳥だけに)、つまり、題詠の題は方向性がゆるくてもきつくても、大変なのである。てるやにとってはね。

熟語がいいよ、熟語が。

自選。
「冬」
蒸し暑い電車の中で掌(て)にくれし白くすずしき冬をひと粒

「ブーツ」
少なくとも少しは頼られているか玄関にへたりこんでるブーツ

「DNA」
二重らせんのとおくはるかな食卓の食われる側へお辞儀して食う

「温泉」
海岸の海獣の群れにわれもいて温泉保養センターの午後

「遅刻」
ひざを組みあたまを両の掌(て)に載せて遅刻している雲を見ている


2016年1月2日土曜日

2015年12月うたの日作品の31首

「冬」
蒸し暑い電車の中で掌(て)にくれし白くすずしき冬をひと粒

「ブーツ」
少なくとも少しは頼られているか玄関にへたりこんでるブーツ

「コート」
本当は頼られてなどいないかもソファに折りかけたままのコート

「門」
裏門の駐輪場で冷えながら待っている重たいのは知りつ

「洗」
洗うたびお前は逃げて本棚の上の埃にまみれて怒る

「予定」
感情をここでスパッと打ち切ってそれでぼくらは変われる予定

「おまけ」
ウエハースに挟まれたチョコは美味しいがそのために買う人のあらなく

「定規」
こころとか残せないため全身の君に定規をくまなく当てる

「DNA」
二重らせんのとおくはるかな食卓の食われる側へお辞儀して食う

「住所」
電柱を気にして散歩する彼ににおいの濃淡である住所は

「キリン」
背の高い桐谷くんはなんとなく黄色が似合うそう呼ばないが

「俺」
少年は隠れ読みつつ育つべしたとえば俺の空、は古いか

「的」
師走なお休日なれば可及的ゆるやかに午後の湯舟のあくび

「ダンス」
入力の装置と思う、楽しそうな君のダンスの君の楽しさ

「後」
後ろにも目があるわけでないけれど君との距離はおよそ正確

「紅」
冷めている紅茶は渋し、しぶしぶと受けた用事がややややこしく

「編」
ビッグデータがおよそ未来を当てる日のぼくの死ぬ日は今日と出た編

「歯」
月に一度曲がって伸びるハムスターの歯を切る、褒美のゼリーのまえに

「温泉」
海岸の海獣の群れにわれもいて温泉保養センターの午後

「近くの公園でいちばん大きな樹」
鳥になった君を近くの公園でいちばん大きな樹の上で呼ぶ

「リモコン」
リモコンをわたしにむけて電源の赤いボタンを押せばさよなら

「遅刻」
ひざを組みあたまを両の掌(て)に載せて遅刻している雲を見ている

「吊」
つい冬は肩をまるめて歩くのでつむじあたりにフックが欲しい

「前」
メロディに乗る直前の低音を響かせてイケメン歌手っぽく

「おもちゃ」
おもちゃ屋があるのに子どもがおらぬ町、あるいは子どもが遊ばない町

「餌」
新製品のチョコレート菓子を餌にして話そうとしてくれたが逃げた

「名」
恐竜ハカセとかつて呼ばれていたのだがテレビのクイズで名を言えずなる

「バイオリン」
バイオリンの先輩に憧れて入りしがビオラを弾いていた三年間

「肉」
輪ゴムのような手首の線の幼な子よ肉というより水満(み)ついのち

「一番印象に残ってる先生」
涙ぐんで教科書を読む先生よ次の授業も泣くのだろうか

「大晦日」
寝転んで大つごもりのテレビ観る決意に声を与えないまま

2013年12月作品雑感。

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

年末、といっても3年前の年末の作品です。
年末というのは、次の月が明けてしまうものだから、より明けてしまう直前の、より暗い部分があったりなかったり。

  シネイドの少し甘えた声をして喪失を歌う、歌うほど憂し

照屋などはずっとシンニード・オコナーと呼んできたから、シネイド言われてもピンと来ないけれどねえ。いつぞやラジオを聴いていたら、シンニード・オッコナーと呼んでいる人もいたな。その人にとっては、オッコナーなんだろうね。

  軽妙に気持ちは沈む年ふれば季節天気が身に及びゆき

  無害また老害に似てさびしげな笑みなどはつゆ浮かべてならぬ

  衰滅(すいめつ)の正体を深く辿りいて思い当たりしひとつの不信

憂いというのは、老いというものとつながっていて、現代の日本の空気は、全体がそうでないにしても、とても老いを恐れているようなところがある。恐れているから、◯◯力みたいに逆説的にポジティブにとらえてみせるし、老害と嫌悪したりする。

むかしは痴呆症のことをボケと呼んだが、これはボケは病気ではなく、老人の一属性であったのだろうし、ボケててもそれなりに生きることが可能であったのかもしれない。(もちろん長寿によって深刻度は増しただろうし、迷惑やしんどさはあっただろう)

老いの問題は、たぶんもっと大きな日本の思想文化のひとつの現れ方にすぎなくて、自殺とか差別とか、フェミニズムとか、オタクとかと根っこでつながっているように思う。

はっきりとはよくわからないけれど、ここ数年、ネットなどの議論は、ずーと同じ話題が繰り返されているようにもみえる。

ま、新年のあらたな気持ちなんか、千年以上繰り返されているんだけどね。

自選。
  人心も自然の比喩であるならば明けない夜があったりもする

  小麦粉を水に溶きおりかつて人は錬金という救いに燃えつ

  来世にもこんな喧嘩をするのだろうテーブルに冷めた食事のような

  花笠の娘の踊り明るくて過去世の業を断ちゆくごとし

  本質に届かなくてもいい夕べ、小動物を撫でて酒飲む

2013年12月の31首

鈍色のうみそらを橋に巻きながら海峡の風は声に変われり

訛りたる老父の話をこたつにて聞くとき末っ子の顔がある

晴れたれば島がかすかに見えるとう島端にきて眺めては去る

喜ばしたき顔をいくつ浮かばせて花屋の赤と緑の人は

シネイドの少し甘えた声をして喪失を歌う、歌うほど憂し

アートとは刺激物にて名品に慣れた眼(まなこ)を知で初期化する

蔵のようなくらきところで泣いている怠惰不遜と人恋うこころ

人心も自然の比喩であるならば明けない夜があったりもする

好もしい人間はそう易くなし愚直にソ音で挨拶をすれど

小麦粉を水に溶きおりかつて人は錬金という救いに燃えつ

辿るならつらつらつらき時期なるを思い出はほんの数シーンのみ

軽妙に気持ちは沈む年ふれば季節天気が身に及びゆき

無害また老害に似てさびしげな笑みなどはつゆ浮かべてならぬ

来世にもこんな喧嘩をするのだろうテーブルに冷めた食事のような

衰滅(すいめつ)の正体を深く辿りいて思い当たりしひとつの不信

律儀なる生のかなしや、決めたことを迷いまよいて、まよいて守る

飲むような飲まないような夕方になんとかディンガーの猫が横切る

花笠の娘の踊り明るくて過去世の業を断ちゆくごとし

卑しき身を労働は救うかにみえて疲れて少し軽かるものを

至高なる落語に眠る、人間の業はサゲにて救われざるも

タクラマカンの語を検索す数刻前稚拙なる人のたくらみに遭い

寒く冷たく風また傘を押し引いて日本の今日の雨は悲しき

モノレールものもの進み鐵道よりのちの技術で遅きがたのし

いちねんも十日を切れば醤油の香ふとただよえり新宿駅に

磔刑のアイコンは祝を吸い続く咆哮の夜の絶えぬ種族に

おっさんもおおむね孤独、風来坊の顔して定食屋にくぐり入る

本質に届かなくてもいい夕べ、小動物を撫でて酒飲む

始まりは終わりの比推、なるゆえに今年の詩句は今年のうちに

テレビ欄の区切りが消えてだらだらの堕落の深き果てに決意は

並びいる土鈴かわゆし、めでたくて清しきものを魔は除けるらし

鬼どもを集めて語る来年の大法螺を仕込み楽しき真顔ぞ