2015年12月27日日曜日

2013年11月作品雑感。

この月の作品は、百人一首ならぬ都道府県一首みたいなテーマで、1県で1首を作るような意図であった。でもまだ全県できていなくて、継続中とはいえる。

しかし当然、ご当地ソングでもなければクイズでもないので、その県を示すような単語を入れたりするつもりは基本的にはなく、その県「を」詠う、というよりは、その県「で」詠ったような体裁になっていると思う。

とはいえ、多くの場所は観光として行くことになるので、やはり観光とか旅行詠っぽいといえばいえる。

翻って、短歌と土地の匂いとの関係について考える。

短歌とはかつて都、京都、つまり貴族社会への通行手形であった、という説があるが、鎌倉武士が和歌を学ぶとき、そこになにか、みやこっぽい、優雅だけどもねちねちしていやらしい、いまの関西人が東京の標準語を「きっしょー」と思うようなものを感じたのだろうし、ぎゃくに、身を焦がすほど憧れた人もいただろう。

現在でも、ひょっとしたら、土地と作風を合わせたデータを集計したら、わりあいしっかりとした相関関係が出てくるかもしれない。(個人の作風を超えて)

自選。
  温泉街の売店の古きガラス戸に先代の作が飾られてあり

  おそらくは天気と海の話ならむ訛りを聞けり、海は群青

  東京についに来たれば車窓から街の緑とノザキの書体

  工場のすえた匂いの下宿にてガチャリとテープはB面に行く

  東京に憧れながらこの土地でそれなりにくすぶって彼女は

  連峰の景色を愛しおそらくはここで死ぬことなけむふるさと

  支払いは姉が済ませて血の赤き肉を食いおり、姉弟(きょうだい)は濃し

  シュルレアリスム展を観たがる子を乗せて県越えて父は車を飛ばす

  明るくてさびしい駅に会いにゆき蓋取れやすきCDを返す

2013年11月の30首

トリカブトの白き花咲く散歩道観光化して民族は生く

霊場はあまたの過去をうちしずめみずうみの水澄みて風ゆく

急上昇する夜鷹ひとつ刻まれてこのまま時よ、止まれ/進め

温泉街の売店の古きガラス戸に先代の作が飾られてあり

おそらくは天気と海の話ならむ訛りを聞けり、海は群青

砂浜に車を止めて海見つつコップ酒のみ昼寝せし町

ロードサイドにさっきも見たるラーメン屋の次見れば入ると決めてから見ず

ミニチュアの建築物に降り積もる雪、故宮にもスフィンクスにも

アリーナの横のあたりでヒーローは戦っており、迷いを捨てて

バス停の裏の溝渠を飛び越えて女は家に男を連れて来

東京についに来たれば車窓から街の緑とノザキの書体

傘のしたに野良猫が足にすり寄ってズボンも猫も濡れているなり

平日の駅へと続く商店街の開店直前のままの日常

廃村が世界遺産になるまでの昼でも昏(くら)き板敷を踏む

若き父と二人でウドン啜りいしドライブインに遠きバイパス

誰もいぬ温水プールに飛び込んで本当に疲れるまでひた泳ぐ

坂の途中に老夫婦ひとつ生きており女の方が少し元気に

工場のすえた匂いの下宿にてガチャリとテープはB面に行く

コンビニをテレビの世界と思う頃ぼんやり見おりポール看板

東京に憧れながらこの土地でそれなりにくすぶって彼女は

支払いは姉が済ませて血の赤き肉を食いおり、姉弟(きょうだい)は濃し

シュルレアリスム展を観たがる子を乗せて県越えて父は車を飛ばす

連峰の景色を愛しおそらくはここで死ぬことなけむふるさと

寮生が近道にする農道の彼らばかりが見し彼岸花

友人は見舞いの頃には饒舌ではやくカレーが食いたいと云いき

柿のない季節に来たり、古本のガイドブックで巡る寺刹の

山腹にみかんの色がかがやいてそのかみ友誼をやすく受けいし

人口の減りゆく国のおのずから夜の明かりのあたたかく見ゆ

みずうみは黄色に光り幸福の顔は見ずとも疑わずなり

明るくてさびしい駅に会いにゆき蓋取れやすきCDを返す

2015年12月20日日曜日

2013年10月作品雑感。

短歌とは何か、という問いはさんざんされてきたのであろうが、いちばんふわっとした、大きな言い方をするならば、「五七五七七的なもの」といえないだろうか。照屋は現在そんなふうに考える。
「的」を入れたのは、もっぱら音の問題で、頭の中の拍みたいなものを、ちょっと早めたり遅めたりしてなんとなく五七五七七に収まれば、それもOKである、というような意味である。
いや、もう少し言葉を足すと、「五七五七七的な音数でひとかたまりと言いうるような伝達物」という方が適切かもしれない。このあたりの定義が、いちばんうっすーい、溶けかけのオブラートみたいな境界線なのかなーと照屋は考える。

かつて何かで見知った、正岡子規は、俳句の中で初めて柿を食った俳人で、その瞬間に、俳句で柿を食ってもよくなった、というような、フレームとか共同幻想とか言われるような表現の破れをめざすのは、現代において短歌表現を行なうひとつのねらいだとは照屋は考えていて、そういう、まだ「短歌的」ではないけれども、その作品のあとにはそれが「短歌的」になるようなものが作りたいし、見たいと思ったりする。

なので、短歌が「歌いそうに」なると、ずらすし、外すし、逆に、もっと「歌ったり」する行為をしてしまうのだが、たぶん、それとて、フレームとか共同幻想とかな訳で、ほんとうに破れてしまっているのをみると、これはもう保守的に、理解不能になるのではないかという恐れもある。もうなっているような気もする。

これ別に、この月の作品の雑感じゃないよなあ。
自選。
  練り切りを口に含んでゆっくりと舌で圧(お)しつつある君の黙

  星と星を懐中電灯で結びながら最後まで星の話しかせず

  このビルの裏路地のどこかわからぬが木犀がある、告ぐことならず

  地球ゴマの指の横まで傾いて離れんとする、求めんとする

  朝という場所の明るさ、ひかりとはやはり讃嘆する意を秘めて

  青空の広がる前はなにかしら一過するらむ、辛いことだが

  さびしさは知性のどこか、独語せぬ対話プログラムの待ち時間

2013年10月の31首

エイブラハムは鬱々思う奴隷なき未来に我は憎まれたるや

彼岸花用水の土手に群咲いて今のところは眺めいるのみ

すぐばれる嘘をさりげに混ぜ込んで彼女は生きる粧(めか)し違(たが)いて

何度目かのラストチャンスか残り世をニコニコ生きるか否かの分岐の

秋の米含めばあまし、斬ったのが馬謖であれば涙も流る

雨上がりの蜘蛛の糸にもかがやかずデバイスは君の言葉とつなぐ

練り切りを口に含んでゆっくりと舌で圧(お)しつつある君の黙

鼻先に木犀を寄せて反応を見る君をみる、君に尾を振る

星と星を懐中電灯で結びながら最後まで星の話しかせず

機械から生命の坂をなんだ坂こんな坂とて登りし記憶は

このビルの裏路地のどこかわからぬが木犀がある、告ぐことならず

被援助志向早めに断ちてその後に「困ったらすぐ言いな」と笑めり

追いつかぬけれども走る、身内(みぬち)焼く願いが業に鋳込(いこ)まれるまで

業深き子役の笑顔、おっさんの我が部屋も更け浅漬けを食う

テレビ切ればしんしんと少し肌寒く懐(ふところ)ふかき秋の夜長ぞ

地球ゴマの指の横まで傾いて離れんとする、求めんとする

朝という場所の明るさ、ひかりとはやはり讃嘆する意を秘めて

この生を死ぬのは一度、夜半(よわ)覚めてあれこれ時にまざまざ選ぶ

冷蔵庫にいただきもののラングドシャ、ちびちび食いつオータムに入(い)る

雨と知れば出る予定なき休日に出かけたかった無念のみ湧く

やり過ごす為の密かな知恵としても規則正しく人はあるなり

文字はもう塩昆布(しおこぶ)となり非言語の海で笑顔のあなたが見える

静謐よりしずかなものの共有を終えて余韻を立てるダンサー

不協和音の定義は代わりこの音はかつて和音でありしトリビア

青空の広がる前はなにかしら一過するらむ、辛いことだが

スコップの泥こそぎつつ沈みゆく心のもろもろなどもまとめて

進みゆく予測の円は広がりて外れることなく、なかばにて消ゆ

悲しみと同じ数だけうまいものがあるかもしれぬ、泣きそうに食う

今度君に会うのはたぶん西暦で4000年なら優しくしよう

さびしさは知性のどこか、独語せぬ対話プログラムの待ち時間

包むればぐいと頭を圧(お)してくるハムスター温(ぬく)し頼もし嬉し

2013年09月作品雑感。

この9月でてるやさるどうがツイッターで短歌を作りはじめて1年となる。

この作品もすでにブログには載せていて、「アニバーサリー、メモリアル」というタイトルをつけている。9月の記念日を題詠にしたものであった。

なんの記念日だったか書き留めておかなかったので、調べてみたが、だいたいこういう記念日だったと思う。

1「防災の日」
2「靴の日」
3「ホームラン記念日」
4「くしの日」
5「石炭の日」
6「クロスワードの日」
7「CMソングの日」
8「国際識字デー」
9「救急の日」
10「カラーテレビ放送記念日」
11「公衆電話の日」
12「水路記念日」
13「世界法の日」
14「コスモスの日」
15「大阪寿司の日」
16「マッチの日」
17「モノレール開業記念日」
18「かいわれ大根の日」
19「苗字の日」
20「バスの日」
21「世界アルツハイマーデー」
22「カーフリーデー」
23「万年筆の日」
24「畳の日」
25「主婦休みの日」
26「ワープロの日」
27「世界観光の日」
28「パソコン記念日」
29「洋菓子の日」
30「クレーンの日」

記念日を書かなかったのは、題詠がそうなのだが、その題をどう織り込んだか、という視点が発生するからで、それを避ける気持ちがあったかもしれない。もっとも、タイトルに記念日を匂わせているので、何の記念日を歌っているのか、という別の視点が発生してしまう難点もあるのだろうが。

自選。
  非常食の美味しすぎない配慮など少し可笑しくのち、しん、となる

  気持ちではなくて気分がわかるらし手櫛で髪を調(ととの)えおれば

  水門の湛える水のその中で始まり終わる生を思えり

  モノレール高架の下で雨を避(よ)けいつ止(や)むべきか分からぬ、生も

  世界中を観光に巡りめぐりはて近所のお堂の梁(はり)見上げ泣く

  クレーンの指す方向に月ありて意義深き時を居る心地する

2013年09月の30首

非常食の美味しすぎない配慮など少し可笑しくのち、しん、となる

靴下を靴に押し込み海までの数メートルの裸足だけ夏

ホームランの数を競いて戦後とは明るくなりぬ、昭和の話

気持ちではなくて気分がわかるらし手櫛で髪を調(ととの)えおれば

大森林が石炭層になるように我が生もいつか少し役立て

クロスワードのアルファベットを並べたら「ミルマエニトベ」そんな無体な

CMソングを口ずさみつつ席を立つ分かられづらい怒り見せずに

槃特は文字がいかにも読めなくて悩みはするが過ぎれば笑(え)めり

救急車が増えてゆく街、サイレンに揺れいるごとし菊の花酒

カラーテレビ誕生までは世界には色なかりしと思わざれども

銅貨を落とす擬音で始まる外国の「公衆電話」という曲ありき

水門の湛える水のその中で始まり終わる生を思えり

法による世界平和を惟(おもんみ)るレイヤを渡る群れの車内で

人もまた外来にして群生の破壊の種なる、コスモスの揺(ゆ)る

ぎっしりと詰められて大阪寿司の帰途で食いつつ泣く、鼻腔(はな)痛く

海を恋う心地にも似て玄関で捨てるマッチを燃やしては消す

モノレール高架の下で雨を避(よ)けいつ止(や)むべきか分からぬ、生も

カイワレの栽培棚に長く立ち吾も辛き味の満員電車

苗字とか住所の話をせぬままに分かり合いしが思い出せずき

非悲劇的な乗り物なのでさよならも少し寂しくない深夜バス

我がかたちも記憶こぼれるまでという切なる願いもこぼれていくか

プライドのように輝く自動車の休日、終日洗う男の

ぬるま湯に万年筆のペン先を溶(と)けばただよう昔日(せきじつ)のあを

青春の清しき終わり六畳のアパート解体ののちの跡地は

主婦休みにすることもなく結局は片付けている無言なる午後

わが文字を活字にできる驚きもそのワープロも今はあらずや

世界中を観光に巡りめぐりはて近所のお堂の梁(はり)見上げ泣く

許可を得て父の書斎に友と入りゲームで遊びきパソコンサンデー

道の端の落ち葉踏みつつ洋菓子店を過ぎ、引き返してミルフイユ購(か)う

クレーンの指す方向に月ありて意義深き時を居る心地する

2015年12月13日日曜日

2013年08月作品雑感。

この月の作品は、このブログをこのころスタートしたこともあって、すでに掲載している。
2013原爆対話編八月円環記の二つだ。

八月円環記は、8/1から8/31までの短歌を、5句の言葉と初句を繋いだもので、「八月の〜身じろぐ」→「身じろぎも〜はじまり」→「はじまりは〜噴出孔の」とつなぎ、最後「怯えては〜いとし、八月」で風味を閉じ込めたものであります。料理か。

原爆対話篇は、そのなかの8/6の一首からのスピンオフで、俳句と短歌が返しあう対話形式とした。

自選。
  身じろぎもせぬ一瞬が承諾か拒絶か聞けぬ夏のはじまり

  噴出孔の熱のけぶりに交ぜられて強く閉じれば目の生(あ)るるなり

  一景に迷う、廃墟の東京の地震の秋か空襲の春か

  生まれたる以上死なねばならぬのに生き方だけを述ぶる本閉ず

  

2013年08月の35首(と5句)

八月の息を大きく吸うわれに柑橘は色を増して身じろぐ

身じろぎもせぬ一瞬が承諾か拒絶か聞けぬ夏のはじまり

はじまりは我の意識の浮かぶ海の小暗(おぐら)き熱水噴出孔の

噴出孔の熱のけぶりに交ぜられて強く閉じれば目の生(あ)るるなり

生るる神は身罷る神を笑いつつ一新しおり敬意にも似て

相似なす自然の不思議マシュルームクラウドをかつてアメリカは植ゆ

  季語として句作いそいそ原爆忌

  爆弾を落とした罪はさておいて反省しおり苦い顔して

  そも比喩は不謹慎なりオクラ交(ま)ず

  竹山広全歌集読み重たかり想像力も荷を背負うごと

  積乱雲を遠景として蝉の死ぬ

  無生物の同心円の中心の血走った目をブルと呼ぶかも

  子孫からの糾弾愛(う)きや慰霊祭

  爆弾は精神へ至るプロトコルの物理層にて確固とならむ

  ひこうきもきのこも夢は美しき

植えるにはあらず広がるヨシ原の手を探り入れて楽し子供は

子供らも今駆け抜ける現在を老いて懐古の一景とせむ

一景に迷う、廃墟の東京の地震の秋か空襲の春か

春の芽のもうぐんぐんとどんどんと開くとは今を過去にすること

過去の過誤を繰り返すごと善意なお湧く生とうに苦笑いなる

苦笑いして聴いているシステムへの不満のようで要は不平に

不平怏怏(おうおう)水のシャワーで流しいてサーモグラフの青き生まで

生まれたる以上死なねばならぬのに生き方だけを述ぶる本閉ず

本閉じて人と狭さを分かち合う電車、混むのが止むまで戦後は

戦後には戦後の論理、真っ青な空に見入りし感慨なども

感慨はゲニウス・ロキの草むらのヘビの脱皮と風化してゆく

風化して形こぼれていく時に白亜の記憶刹那、脳裏に

脳裏には何度目の夏、上向きの蛇口の水の弧に口を寄す

口を寄すれば嘴が突くコザクラの戦略の枝ふるく懐(なつ)けり

懐かない子らを見守る公園の遊具のゾウは明るきブルー

ブルーなす夜にかがやく満月は理由になるので君に会わずき

会わず思えば星飛雄馬のほっぺたの猫ひげを持つ女と言えり

言いながら詮(せん)ないことと承知して矛先を天に向ける、白雨の

白雨過ぎ雲まだまだらなる空に大会決行の花火とどろく

とどろいて土砂降る雷雨、人間が追い出されるまでゲリラは続き

続きはまた今度と明るく手を振ってそういう風に終わるかたちだ

かたち確かにベントス(底生生物)らしく奇妙にて身を割けば白き肉美味ならん

美味も喉三寸にしてそののちは君の不在も在も苦しき

苦しい日の餌を求めるアリのごと甘味を嗅げり、少し怯えて

怯えては振り返りつつ前に行く背中を見ればいとし、八月

2015年12月12日土曜日

2013年07月作品雑感。

ネットのどこかで、われわれがずーっと昔からそうだと思っていることのほとんどは、せいぜい100年の歴史も持っていない、というのを読んだことがある。

たしかにそのとおりで、それどころか、50年前には50歳未満の人は生まれていないわけで、その人達は、単純に、見たことすらないわけなのだ。
いや、生きてたって、30年前なら記憶だけで語れることに危うさが出てくるし、5年前のいやついこないだの景色も、外部保管媒体がなければ、微妙で適当になって、つまり、人間はだいたい数日前後をうろうろする生き物ではないかとさえ思えてくる。

  駅前の工事終わればたちまちに上書き前の景失えり

人間の指の動きで歴史を構成しなおしたら、1990年代の半ばから、人類は急速に人差し指で軽く押さえる行為が増え、そのクリックと呼ぶ行為によって、人類は知識を吸収し、生産性を上げ、またストレスを抱え込む生き物となったといえるだろう。これは当然、マウスという、齧歯哺乳類の名前を冠したポインティングデバイスの発明によるものだが、このデバイスも、未来永劫に存在が保証されているわけでもなく、数十年もしたら、誰も持っていないものになるかも知れない。

  現生のホモ・クリクタス(クリックするヒト)も減る未来クリック出来る場所に集まる

その時、あの懐かしいクリックの感触と音を求めて集まる人は、若い人にとってはいささかうっとおしい存在であるかもしれない。

  かき氷の青い光を噛みながら同じ話をする側になる

30年前のSFやアニメの設定では、その未来の多くが、人口爆発の問題を抱えていて、この難問を抱えながら、問題そのものが失われることに気づくことすら出来なかった。でも日本は2008年に人口のピークを迎え、おそろしいことに、人口減少について考えねばならなくなった。(これだって未来のことは分からないと言えるかもしれないけど)
共同幻想、というかフレームが変わると、見る景色すべてが変わる。かつて人口減少になやんだ時代はなかったか。その時代はどうだったのか。彼らも滅びを肌に感じたのだろうか。

  縄文の人口減少期の空にかかるエフェクトすさまじからむ

そして、自分たちが減ってゆく時に、増えてゆくものを、じっとりと眺める心境は、いかなるものだろうか。

  とんぼ少年絶滅ののち人界をうかがうようにとんぼあらわる

というか、なんやこの歌物語。雑感としてありなのか、こういうの。

自選。
  固き言葉にまだ成りきらぬ内面のとろりとしたるものだから吐露

  だいたいは三万日に収まれる喜怒哀楽に君といるなり

  橋の下に豪雨を凌ぎ寄り来れば先客の目が集まって散る

2013年07月の32首

友人の記事を読みつつわれもまた何かの花を買わんとするか

百年目の自転車競技を思いつつ慣れにし道を落車するなり

ねずみ色の粘土の背びれするどきをかたまりに戻し遊びに行けり

現生のホモ・クリクタス(クリックするヒト)も減る未来クリック出来る場所に集まる

固き言葉にまだ成りきらぬ内面のとろりとしたるものだから吐露

駅前の工事終わればたちまちに上書き前の景失えり

今日までがセールといって渡されるカタログの夏タイヤ一覧

目が冴えて真夜に思えりこの国語の邪な智の逃げ込める闇を

煙草の輪のきれいに宙に浮くように「わっかりました」の「わっか」清しき

理屈では救えぬところにいるを知り火を受けとらぬ茴香ゆれる

きずなとは悲しき言葉海からの綱離さねど細きゆくよう

酒飲めば寂寥の水位上昇し電話したきがせぬ夜である

だいたいは三万日に収まれる喜怒哀楽に君といるなり

君が貼った取れない言葉の付箋紙が今朝もシャワーにぴろぴろ跳ねる

要求が独裁的に響きたる夕べ、多寡なら多に身を隠す

橋の下に豪雨を凌ぎ寄り来れば先客の目が集まって散る

起きててもしょうがないかと寝るように生き死ぬことの罪を探れり

かき氷の青い光を噛みながら同じ話をする側になる

縄文の人口減少期の空にかかるエフェクトすさまじからむ

とんぼ少年絶滅ののち人界をうかがうようにとんぼあらわる

選ぶようで選ばれている心地してフォトショ加工の顔を瞶(み)るなり

朝もやの農道で野菜もつ我がカラスと対峙せしはうつつか

キミのコト知りたいと書きベタなのかメタなのか分からないまま送る

教条の冷たき言葉を最後まで伝えずなりき、慈なきにも似て

振替輸送に地下の通路を並びいて人生の比喩にしたき誘惑

表現はひたすらさびし、血反吐など一度も吐かず吐ける言葉の

夏休みだったと思う畳間にチャッとくっつく脛(はぎ)を見ていた

さびしいと書けば紛れるさびしさもあるか、静かなタイムラインに

振り向けばすべて決まっていたような未来を前にしばし酔いおり

感傷はかくのものかはひとり海に近づけばつまり生臭かりき

何というカニか知らねど海沿いのアスファルトの上で思案している

公園の明かりがぽっと灯るまで本を読みいし姉妹が去りぬ

2015年12月6日日曜日

2013年06月作品雑感。

6月の短歌だ。こう現在の季節とちがうと、感想を書きにくい感じがありますね。

  かたつむりを知らねば恋えぬ紫陽花の発色のピーク過ぎし一角

かたつむりは、本当にみなくなったもので、かつては、アジサイのイラストには、必ずといってよいほど、葉の上にかたつむりが描かれていましたが(いやイラストではなく現実にも葉にいたものです)、現在は、アジサイは見るものの、かたつむりは見てないですね。

動物は、植物よりも種族として弱いのかもしれません。

  あと何度ぽっかりと胸に穴を開け前後左右にさみしさに圧(お)さる

慣用句とか、ベタな組合せとか(あじさいにかたつむりとか)に対するメタな視点は、日本では、ある時期からもうずっと飽和していて、それがけっこう知的レベルの高い行為である、という意識すらない状態になっているので、現代において表現行為は、どこか二次創作的な雰囲気をともなうことがある。

そして、やっかいなことだが、こういうメタ視点というのは、反転したり、一周することで、同じ言い方に戻ってくることがある。すなわち、ベタを避ける→あえてベタに行く、の反復作用が起こるので、評価が分かれてしまうのだ。

または、ベタな慣用表現が、ある心情を実にうまく言い表していたことを発見するプロセスというのもあって、上の「ぽっかりと胸に穴」なんて、ベタなんだけれども、ここはベタで、いやベタがいい、みたいなことになったりする。

恋すると、浜省がグッと沁みるみたいなね。なんの話やねん。

自選。
  メルカトル図法の北は限りなく引き伸ばされてそれゆえに冷ゆ

  ようやくに夜を惜しまずなる生となるか、車を聴きつつ眠る

  腐りたる叢(むら)より光る虫ひとつ天にのぼると見れどただよう

  夭逝するほど才をもたねば人生は長くて楽しくてわからない

  町よりも土ふたつ書く街に住み記憶の土はいつのぬかるみ

2013年06月の30首

桜の実の歩道の黒き染みとなりふつふつと歩く六月たのし

かたつむりを知らねば恋えぬ紫陽花の発色のピーク過ぎし一角

えのころのいっせいに風に撫でられて自業自得の男沈めり

あと何度ぽっかりと胸に穴を開け前後左右にさみしさに圧(お)さる

製氷器に水を注ぎつ、満ち足りてあとは時間が崩していきぬ

メルカトル図法の北は限りなく引き伸ばされてそれゆえに冷ゆ

見た目にも心地良きこころざしもなく生きいる人と水平におり

君の目の太陽と月は今は少し月光が強く包んで白し

人類史に我とう偽史を挿し入れて撹拌されたホイップましろ

ようやくに夜を惜しまずなる生となるか、車を聴きつつ眠る

淡々と続きを生きていく日々のなお眈々とする時もあり

カロリーにて生くるにあらず、昼を抜いてケーキセットに至る心の

雨に濡れて吾を見よとぞ紫陽花のあざやかに濃きひとむらの黙

腐りたる叢(むら)より光る虫ひとつ天にのぼると見れどただよう

眷属は鏡のごとし、後輩の浅ましく上手い行為に沈む

複雑性悲嘆にも似て絶望は時に快楽(けらく)となることもある

懐かしい一角に来て木造のアパートと過去が無いことを知る

路地裏に夕餉の香りたなびいて、見えておらぬがたなびくでいい

燃焼の同義にて生、汗にじませ夏至近き日の全部肯定

夭逝するほど才をもたねば人生は長くて楽しくてわからない

雲なくばオレンジ色の月を背に帰るにあらん夏至の家路を

生活に"馴れて"思いしにわが声が李徴か虎か不意に迷えり

肯定のらり否定くらりと終わらない電話、予定を潰して聞けり

雨上がりの恐竜児童遊園に使用禁止の遊具くぐもる

何もせぬ男が抱く絶望も希望も幻肢の痛みと似たる

町よりも土ふたつ書く街に住み記憶の土はいつのぬかるみ

天道も是々非々にして現実を丸呑みにするクジラ泳がす

白樺の皮を削りて「奮迅」と手書きしただけのスーベニアあり

仏典に慈悲魔、魔仏のあらわれて魔とは反転、いな、鏡映か

六月の終わりの朝のあたたまる前の空気とコーンフレーク

2015年12月5日土曜日

2015年11月うたの日作品雑感。

題詠の、むずかしいというか、気をつけなきゃなーと思うことは、その題がなかったとしても短歌としてちゃんと面白いか、というところで、そうでないなら、それはやはり題に負けてしまっているのかな、とふと考えた。

じっさいその視点で作ってないので、まあ自分を棚にあげた話です。

「百」
百台のサーバにひとつ生まれたる自我、瞬殺し安定稼動

百という言葉は、思考停止の数だ、という指摘がある。つまり、たくさん、程度の意味で使われることが多く、99とか101とかでない100であることを指すことはあまりない。
その意味で、百とは、たとえば自我を殺す数字ではないか、また、コンピュータは人類に反逆する恐怖で描かれるけれど、実はコンピュータこそみずからの自我をもっとも抑制するシステムなのではないか、みたいな内容を込めてみた。

(作品の解説をおもむろに始めるのは初めてだ)

「国」
現在も196に分かれいて200になりたがらぬ世界か

ネットジャーゴン、というかスラングに「出羽守でわのかみ」というのがあって、これは「世界では〜、それに対して日本では〜」のような論調を張る人のことを指すが、この場合の世界の観測範囲はいつも気になるところである。一般に世界は196ヶ国・地域くらいあるらしく、世界を語る時にはそこから何ヶ国を、どのような基準で選択して観測したかを明示するだけで、ネットの議論はもっと明るくなるのではないだろうか、と思うのである。


「一緒」
大事故に慮(おも)っては消す、命日の一緒となるはいかなる絆

ここの「絆」については以前の別の雑感で書いたが、やはりその「きづな」の言葉には、犬が杭につながれているような、馬が人間に引かれるような、自由を奪い逃げられないイメージがあるので、縁という言葉には換えられなかった、と思うのです。


「レンガ」
レンガ模様のシートを壁に貼るだけで洋風である、パリジャンである

この頃、フランスで同時多発テロが発生した。日本は今年のはじめごろ、ISという国に宣戦布告され、邦人が殺害されているので、もうすでに日本は戦時中だという認識でいるのだが、まだ日本は戦争状態でないと思っている人も多く、SNSのアイコンをフランス国旗にすることについて、いろんな意見があった。善意の文脈であれば、テロに屈しない、連帯の意味を示すことになるが、同時にそれは、戦闘状態にある一方の旗を支持する、つまりかの戦争への加担の意味も持つ。でも、そんな強い意味を、アイコンに込めてない、と多くの人は思っているわけで、その都合のよさ、でもその当然な気持ちを、この短歌には込めた。

やっぱり自注は量が多くなる。
自選。

「大学」
大学に来るたび匂いが変わるのと言いて真顔の犬的のきみ


「たまご焼き」
あたたかい長方形のしあわせぞ、布団でいうと頭から食う


「イチョウ」
ゆっくりと燃えるイチョウの大木に鳥飛びこんで再生ごっこ


「計算」
ぼくもまた水と電気の計算機と思えば君に素直に会える

2015年11月うたの日作品の30首

「サッカー」
よちよちとサッカーボール突(つつ)きたるロボット、今は拙(つたな)さが花

「エレベーター」
エレベーターで二人は斜め上を見るポスターの若人(わこうど)ならざれど

「大学」
大学に来るたび匂いが変わるのと言いて真顔の犬的のきみ

「県」
県を分ける川を渡りて振り向けばああこのようにきみ来(こ)ぬ未来

「たまご焼き」
あたたかい長方形のしあわせぞ、布団でいうと頭から食う

「百」
百台のサーバにひとつ生まれたる自我、瞬殺し安定稼動

「並」
並ばない自転車の前を行くときも後ろのときも愛であるのだ

「雑」
どの道を選んでもきっと混雑をするが口笛ふいて行くべし

「国」
現在も196に分かれいて200になりたがらぬ世界か

「いい人」
いい人になってしまった帰り道ふたりでホッとしたのもたしか

「一緒」
大事故に慮(おも)っては消す、命日の一緒となるはいかなる絆

「マラソン」
ひとりだけコースをはずれ降りたのに右上あたりのタイムが消えず

「ナルシスト」
何億人の同じ星座の運勢を神妙に読む、このうぬぼれや

「本のタイトル」
亞書もまた史料となりし未来にて予言書として読む群れあらん

「雲」
にんげんの心から白が離れゆきもう届かねば雲とは呼べり

「ピンク」
ブルーフィルムをピンク映画と訳したる先人のリアリズム明るし

「放課後」
放課後の待ち伏せを逃げ遠くとおく君と歩いていたけもの道

「飛行機」
飛行機がいちまいの町を越えてゆく彼がジェイルと呼ぶ、爪ほどの

「虫」
人間がすぐに滅びてしまわぬよう虫のデザインせし世界かも

「レンガ」
レンガ模様のシートを壁に貼るだけで洋風である、パリジャンである

「全校生徒600名の前で一首」
いつか戻り君は言うのだ「変わったなー」「変わってねえなー」自分のことを

「ラブレター」
ハートマークを書かざるべきか書くべきか重くはいかん、軽くてもダメ

「イチョウ」
ゆっくりと燃えるイチョウの大木に鳥飛びこんで再生ごっこ

「貝」
そんなにも世界から身を守りつつ生きていくのだ、食べてもうまい

「病院」
黒光りする板廊下を大きめの茶色いスリッパでじゃあ、またね

「好きだった教科」
月曜の一限だから好きだったけれど落とした「イタリア事情」

「凛」
いままさに誰かやられているだろうその上空に凛々しくも夜

「消」
町の灯(ひ)がだんだん消えてほんとうに夜になれたら朝が選べる

「イケメン」
傘のない駅までの道はつめたくて水もしたたるイケメン、の横

「計算」
ぼくもまた水と電気の計算機と思えば君に素直に会える

2015年11月29日日曜日

2013年05月作品雑感。

前回は文系不要論的な話をしましたが、古くは夏目漱石の小説なども一段低級な娯楽と考えられていたように、文学といわれる存在がなにか高尚な、立派なものであった時代というのはそもそも少なくて、現在は文学が低迷しているように見えているけれども、やはり日本の戦後がちょっと特殊だったのではないか、というふうに思ったりします。

文学は、かつて心理学が普及しだした頃も、文学なんて不要に思われただろうし、情報処理技術が発展した頃も、文学の役目は奪われるように感じられたし、昨今では、社会学がことごとく現象に名前をつけてゆくので、文学がようやっと編み出した言葉も、ああ、〇〇のことね、と理解されてしまったりします。

  NIMBYのエゴを正義にすり替えて傷つきたくない行列が行く

そうした時代に短歌表現は、気の利いた言葉あそびだったり、伝わりにくい個人感覚だったり、あるいは、用語のコミュニケータだったりしながら、ハイコンテクストに、誤解と理解の草をなびかせてゆく。

  マザーグースのことばのようによみかえてよみかえてなお不思議なあなた

かつて、このまま短歌を続けるのはあまり良くないのではないか、と考えて、離れた時期があった。自分が、短歌を作ることで、自分は短歌的に思考し、世界を短歌的に切り取って理解する癖がついてしまったのではないか、と恐れたのだ。

  国際化できえぬ宿痾、日本語が世界を日本語化して佇む

それについてはいろいろあって現在なわけですが、まあ短歌的というには、もうちょっと上手いのを作れよ、という声はおっしゃるとおりです。

自選。
  ゴータミーの悲しみが消えたわけでなく孤独が加わって罌粟の咲む

  新世紀13年目の休日を浴槽で少し居眠りをする

  さわやかな初夏の電車の昼前の床にひとつの海月溶けおり

  数日で消えると知りて洗面器にくらげを飼うことを許したる父

  だんごむし死しては生まれ生まれして人間の終わる日を待ちにけり

  今日の光を真白く受けて万華鏡の細片がぎこちなく落ちつづく

  陽の光に部屋の埃の舞い上がるしばらく、ひとつの肯定ありぬ

2013年05月の31首

海の名を冠した山の名の酒にひとしきり酔い五月、花桃

端末の電波の強度をタネにして知人と呑みつ、年古ればかく

檻を離(か)り森のけものとなる今も人間を見れば一声鳴けり

小書店に君の名前を見つけるも文体少し寒々しかり

兄の子を片手であやし失くすまで確かに持ちいし生の意味思う

紙魚跳ねて泳ぐ気配の古書店の正午を過ぎて思想かたよる

NIMBYのエゴを正義にすり替えて傷つきたくない行列が行く

マザーグースのことばのようによみかえてよみかえてなお不思議なあなた

国際化できえぬ宿痾、日本語が世界を日本語化して佇む

ゴータミーの悲しみが消えたわけでなく孤独が加わって罌粟の咲む

別れの日にこんな笑顔を見るなんて祭りのお面の中の汗顔

新世紀13年目の休日を浴槽で少し居眠りをする

十年を一日にして蝋燭の消えそうなまでうねって消えず

霊長のまなざしをもて森林とともに減りゆく生き物を観る

さわやかな初夏の電車の昼前の床にひとつの海月溶けおり

老兵というわけでなく、魂も肉体もすぐに君から去らむ

数日で消えると知りて洗面器にくらげを飼うことを許したる父

だんごむし死しては生まれ生まれして人間の終わる日を待ちにけり

今日の光を真白く受けて万華鏡の細片がぎこちなく落ちつづく

来世紀もクリックすると人類は思えず、遅い昼食に行く

あーあ、と嘆くほど土屋文明の歌面白く四十路のくるか

死者名簿を風通しして吹く風の去りしようにて居るここちする

板縁に腰かけて眺むあじさいの色決まる前のみどり若やか

「差別的」は差別か否か、「父親的」と牽制されて君に突っかかる

投影の技術のことを考えてプラネタリウムの時間終わりぬ

甘すぎるミルクティーなり、仕事から逃れて迷わず頼んだものは

花の降る午後に誰かが祝福を受けるにあらむ、泣くまいと思う

陽の光に部屋の埃の舞い上がるしばらく、ひとつの肯定ありぬ

気圧計で気圧の下降を確かめてこの失望を頭痛と知りぬ

枯れ枝の完全に枯れてしまうまで芯は青さに湿れるものか

生きている世界をうんと変えるべく夏断(げだ)ちをはじむ、世界とはわれ

2015年11月28日土曜日

2013年04月作品雑感。

もう来週は12月なので、ずいぶん寒くなってきました。日本人はマスクをよくしている、と何かで読んだ記憶がありますが、日本人にとってマスクは、風邪や花粉症だけでなく、防寒具であったり、もっとメンタルな装備であったりします。

  マスクとは拒絶のかたち、ウイルスから花粉から匂いから社会から

マスクも数年前から比べると高くなったよね。

最近の話題で、文系学部不要論みたいなのがあって、これ自体はむかーしからある理系文系対立の系譜だろうし、実利と豊かさみたいな(いや、逆に豊かさは実利で実利は豊かさで、みたいな)軸のコンセンサスがとれていない議論が繰り返されるのだろうけれど、文学史を振り返ると、文学はやはり豊かさのようなものが前提に必要であるし、本質的でありながら余剰、不要分も含まなければならなくて、攻撃されるのは当然であると思いながらも、数が減ると貧しくならざるをえないなあとは思う。

  「文学は突進せよ」のアジ遠く仮死状態の眉が引き攣る

  茂吉忌は二月だったか、敗戦後葡萄を見ている老人を思う

たしかに文学は、サッカーの日本代表のレベルを上げるにはサッカー人口を増やさないといけないような側面もありながら、結局天才1人が道をひらく、そういう側面があることも否めないけどね。

自選。
  善も悪もいや生い茂る律動の春とう舟にわれも揺れつつ

  落ち椿馘首のごとく無残なりし門前も掃除されて跡なし

  一寸の虫にもあらむ魂のナノあたりから比率あやしき

  虫眼鏡の焦点を過ぎて広がりぬ円錐形の淡き明るさ

2013年04月の30首

善も悪もいや生い茂る律動の春とう舟にわれも揺れつつ

人の壊れに段階のあるを思いつつ真顔の母に笑顔を返す

もう少し白くてもいいこの街を高架橋から君と見ており

確率論のしわざのままでいたいから因果を云うと聞き流すなり

イヤホンのヘヴィーメタルのサウンドがバロックめく頃会社に着けり

絶句して桃を見ていた、過ぐ春の空気も光る風景にあって

「文学は突進せよ」のアジ遠く仮死状態の眉が引き攣る

茂吉忌は二月だったか、敗戦後葡萄を見ている老人を思う

レーゼドラマのような女性のジェンダーの口調で我を拒みてし人

クリックで分かり合えたる心地して釣り合わぬほどの孤独の生(あ)るる

浴槽に身を沈めふと幸福はあふれるごときことかと思う

落ち椿馘首のごとく無残なりし門前も掃除されて跡なし

マスクとは拒絶のかたち、ウイルスから花粉から匂いから社会から

景として君のピントはぼやけゆき青黛の眉のラインひとすじ

音楽の孤独の部分ばかり聴き薄青き朝をさみしく思う

いまひとつ掴めていない言説が承認されないことぞたのしき

セーヌ川に頭を突っ込む日本人の曲を聴きつつ目黒川越ゆ

貴種流離の花屋の娘が変装し悪と戦うアニメの世界

嘘をつく子供の目には臆病と怒りと怯えと優しさがある

校庭のなんじゃもんじゃの木の下で少年期ひとつ終わるを見おり

放課後の食堂の脇で延々と音階練習して青春期

苦しみを乗り越えて君の精神の様のごとくに深きホルンは

コンビニのポスターで知る定演の店長OB説の妄想

ここまでは来たのだけれどコンビニで一本煙草を吸うまでに決める

目の前に分岐コマンド現れてリスクを選ぶ心を量る

確信もいらぬ理詰めの手堅さで人間の玉が詰められていく

生命の系統樹には僕までの運ぶ決意が枝なしていて

アクセスの切れ目が縁の切れ目にて私淑とか格好つけてさびしき

一寸の虫にもあらむ魂のナノあたりから比率あやしき

虫眼鏡の焦点を過ぎて広がりぬ円錐形の淡き明るさ

2015年11月23日月曜日

2013年03月作品雑感。

よく、薄っぺらい社会批評は、大きな事件があると、すぐ◯◯以前◯◯以後なんて言い方をする、と書かれたりするが、2013年3月は、やはり、震災2年目であった。

東日本大震災は、地震と、津波と、原発事故の側面があるが、災害から2年経つと、その被害の大きさは、津波、地震そして原発であったことが、冷静に見えてくるのだ。

  死者もまた生きたるものの身を案じ繋がっている一日(ひとひ)となりぬ

  翌日はただの日常、忘れられぬ人々を置いて記念日過ぎる

いやおうなく時間はすぎて、冬は春となってゆく。

  海を走る春風の足が水を蹴り白くめくれて舞い上がりたり

3月になると春の歌が増えてくるが、書いている今が11月なので、あまり引くのもどうかという気分になる。

自選。
  愛想笑いで異国の夜を起きながら部屋では抑えがたきこころざし

  脳という記憶の森が生まれては消えてゆくのだ心配いらぬ

  春なので夜の道路を横切って二匹の猫が揉みあって消ゆ

  

2013年03月の31首

演劇批評に植民地の語あらわれて細き定義のかげろうをみる

腓の細い女の何に憤りデパートの床の反射を睨む

一生二生を君と別れてその後は彗星のカーブ過ぎたるごとし

水車小屋は冥府の口に佇んで午睡のような声響くなり

彗星の軌跡のついに違(たが)えれば星のまたたく意味ひとつ知る

いにしえは洞窟に知を匿いて巨人となりて天球に触(ふ)る

地を割って濫喩の馬が湧き上がり鼻を鳴らして探すは我か

杉玉のくたびれている居酒屋に人を待ちいて何ぞ朽ちいる

昼間から酒飲むオヤジの軽口に笑う店員の日本語訛り

愛想笑いで異国の夜を起きながら部屋では抑えがたきこころざし

死者もまた生きたるものの身を案じ繋がっている一日(ひとひ)となりぬ

翌日はただの日常、忘れられぬ人々を置いて記念日過ぎる

海を走る春風の足が水を蹴り白くめくれて舞い上がりたり

「社会からしばらく席を外します」付箋を貼って明るき午後へ

パスワードを記した付箋を失ってもう二十代にログインできぬ

花びらのひとつコップに浮かぶのを見ていし春よ、あれより独り

せんだって胃瘻の報を聞きたりしが今日訃のメールが来たる知人の

選びくれし菓子のいつでも美味しくてその才能の訃報を聞けり

脳という記憶の森が生まれては消えてゆくのだ心配いらぬ

瞳から君が湛えてきた夜の森林を見つ、木陰の蒼し

君のいう天国(heaven)はどこか避難所(haven)の匂いを帯びているが触れずき

桜並木を抜ければ車ごとの春、春の男の顔をするべし

二十年の旧友に会う、鰹節の表面のような会話でもよし

春なので夜の道路を横切って二匹の猫が揉みあって消ゆ

見る前に跳ぶか否かを迫りいし昭和、レミングの自殺も虚妄

成し遂げねば死ねぬ理想に取り置かれ残滓は残滓として節しおり

持続可能な未来の為に人類は節制すべし、まずは数から

見上げては春が来たよと呼びかけつ、つぼみのままの夜の枝先

人なきあとネットのアスレチックには女と猫が愉しんでおり

明け方のまだ明けきっていない夜オリオン傾きいる臭い街

ゲーテ論の終わりまできて乙女座の性格とされて論ごと消せり

2015年11月22日日曜日

2013年02月作品雑感。

インターネットがインフラとして定着する前は、知らない人と会話することは、基本的には不可能であった。不特定多数の人に考えを述べたり、著名人と意見を交換することは、運やみずからの才能の他がないかぎり、お金や時間がかかるものだった。

現在ではこうして、あまり読まれないにしても文章を公開することができるし、著名人に話しかけたりも出来なくはない。この生活様式は、とても異常なはずなのだが、当たり前に思ってしまっている。インターネットによる生活様式の変化は、他にもアップル製品や、ツイッター、ニコニコ動画、2ちゃんねるなどあるが、やはりグーグルは、検索だけでなく、地図など、生活に欠かせないものになってしまった。

  グーグルアースにゲニウス・ロキも映されて蛇怒りつつ去っていくなり

  衛星写真にコラージュされたふるさとの無人のくせに明るいおもて
 
鏡の中のぼくも思考しうるのなら、ゲニウス・ロキ(地霊)も鏡に住めるのかもしれない。いや、むしろ、人がいなくなって、記憶する人もなくなってしまってから、この風景は脈うつのかもしれない。

こんなに生活様式が異なって、過去を失いながら、なお、31文字の表現を、声に出さず、書きもせず、打ち言葉で、横書きで、ディスプレイに表示しながら、表現するのは、とても奇妙なことだ。万葉人の心情がわかるのは、不思議なことだ。

  第一歌の解釈あやしき万葉の菜摘ます君がかすみつつ笑む

  手紙、電話、ファクス、メールと近づいて逢ってしまわぬまでが相聞

もっとも、恋は不変だ、みたいなものも、様式が変われば、たぶんなくなる。というか、すでに相当変わっているのだろう。

自選。
  冷蔵庫にパンのシールを貼りしまま彼女は去りにけり、去りにけり

  水車小屋の遠くに見える川辺にてオフィーリアの手のかたちを思えり

  水瓶座のぼれば乾季ようやくに終わらんとする異国の夜分

  慈雨はじまりみるみる染まる土の色の雨とは何か土とは何か

2013年02月の28首

スカラベが星を観るとうポエジーが学術となる21世紀

公正世界信念の外にはみ出して激流の天の川頭上たり

永遠に希望持たねばシシュポスの岩より軽きいじめと思う

ブロンズに輝く玉を佩きながら石の時代を措きしおほきみ

自転車のカワセミ号も錆びついてブレーキ音の響く川ぞい

ドーピングで剥奪されし栄光の後輪を手で回す、止まらず

返信のメールを消して書き直し角取ればそりゃ無難にもなる

手紙、電話、ファクス、メールと近づいて逢ってしまわぬまでが相聞

冷蔵庫にパンのシールを貼りしまま彼女は去りにけり、去りにけり

ともしびのまだしばらくは続くので暗きところに行かねばならぬ

第一歌の解釈あやしき万葉の菜摘ます君がかすみつつ笑む

グーグルアースにゲニウス・ロキも映されて蛇怒りつつ去っていくなり

衛星写真にコラージュされたふるさとの無人のくせに明るいおもて

よく言うとコンプレックスハーモニーそういう理由で君の隣に

情けない使命のごとし、ごう音を震わせて土砂を一日運ぶ

この席は窓の向こうに梅が見え図鑑に載らぬ鳥が止まれり

ケフェウスとアンドロメダの切手貼り届きし手紙の二つの意味ぞ

侵略的外来種として憎むべきかご抜け鳥のtweetを聞く

陰謀論の浮き出るメガネかけたまま毎日を歩き暗き足元

映画的演出のことは知りつつもこの方が心地よい歴史もの

ポップコーン取り続く指のふやけつつ塩キャラメルの娯楽を舐める

水車小屋の遠くに見える川辺にてオフィーリアの手のかたちを思えり

友を選ばば友から選ばれざる日々のバルで飲み干す一杯、二杯

水瓶座のぼれば乾季ようやくに終わらんとする異国の夜分

慈雨はじまりみるみる染まる土の色の雨とは何か土とは何か

打たれつつ思想は下から匂うべし冷たい雨が続くあいだに

貧しかった昭和を知らず名づけたる「維新」の声に亡霊さやぐ

百年を鎮まりかえる海はなく人間の声で無災をば祈る

2015年11月21日土曜日

2013年01月作品雑感。

短歌におけるハレとケについて書いてきたけど、じっさいに正月というハレの日にどんなのを歌ったんやこのサルは、というとこんなのだった。

  よろよろの足まで揮発する酔いの今年の決意もう置き忘れ

  一年を描きつつ飲む日本酒の酔いては事をし損ずるかも

  うたびとのくせにろくろく寿がずテレビの皮肉たのし、三ヶ日

酒のんでテレビ見とるだけやないか。まあ、そういうのがお正月です。
でもたしか2013年は「一人自由連句365」(http://goo.gl/O1WQ1g)というのもやって、出来はともかく、毎日歌を作るリズムみたいなものに挑戦はしたのだった。

最近ヨーロッパの方が物騒だが、人が人と衝突して自分を知るように、国家も国家とぶつかってはっきりするものなのだろう。

  国家ひとたび自我障害に陥ればぶつかりながら形をみるか

そして、そういう深刻さからは、遠いままでいたい自分もいるにはいるよね。

  肝心の時に寝ている男にて人生舐めたまま死ぬもよし

自分の短歌は、わりと作ったそばから思い出せなくなるタイプなので、こんな風に今の心境の文章に折り込むと、当時の自分からそうではないと怒られそうな気もしますが、死人に口なし、なので、よしとしたり。

自選。
  寒い日に病みて動かぬかたまりよ、爬虫のごとき貌(かお)かもしれぬ

  天球という言葉のせいで一枚のオリオンの下を帰途につくなり

  ユーミンのたいらな声の流れたるモールは宗教施設のごとし

  首の裏に寂しさは載りたがるので上向いて肩を揺すって落とす

2013年01月の31首

「ことよろ」
よろよろの足まで揮発する酔いの今年の決意もう置き忘れ

一年を描きつつ飲む日本酒の酔いては事をし損ずるかも

うたびとのくせにろくろく寿がずテレビの皮肉たのし、三ヶ日

肉体を物理が漸(やや)くほどきゆくひと日よ進め、心は進め

あと何度跳ねたる我か湯の面(おもて)叩けば鈍い音ひとつして

一句一偈を求めて走る修行者の風受けて鳴る袋のごとし

古き良き時代を尋ね結局は若さのことを時代とか呼ぶ

摘んだこと無くて七草、食材は購入すれば済む人生か

オンリーワンかつひとりじゃない想定の聴衆に漏れて孤独きわだつ

年古れば馬鹿も難し、冗談を書き込む前に少し数える

被災地の空にあまたの折鶴を描きし影絵のうその優しさ

本年は幾たび世界が滅亡し日本の終わりを聞くか想えり

多摩川にさらす赤貧さらさらに貧しき暮しのここだかなしき

勇気のない顔を照らしてキンセンカの暖色が我の内側を呼ぶ

バリシャリと側道の雪を楽しんで騒ぐ子供はかわいかるべし

雑巾のように勇気を絞りだしほぼキモさから始まるものを

古生代の爆発に似た心地して読めない子供の名を聞いており

寒い日に病みて動かぬかたまりよ、爬虫のごとき貌(かお)かもしれぬ

悲しいことはくるものなので楽しみを遣らねばならぬ、匙を混ぜおり

肝心の時に寝ている男にて人生舐めたまま死ぬもよし

国家ひとたび自我障害に陥ればぶつかりながら形をみるか

天球という言葉のせいで一枚のオリオンの下を帰途につくなり

罵って溜飲を下げている彼の耳の在り処を探しあぐねる

機械が回る前の未明の青色の町ぞ、今日また今日が来るなり

コボルトの魔法のようにこごえたる未明の町の我も青色

藁を編まぬ民族となりやさし手の心ばかりがささくれ立ちぬ

ユーミンのたいらな声の流れたるモールは宗教施設のごとし

鳥よけのCDを選ぶ数秒の季節にあった曲を探せり

寒椿の赤にかすかに積む雪の演歌を許すような楽しさ

薬しか効かぬポケットと知りながら言葉の力を探してもいる

首の裏に寂しさは載りたがるので上向いて肩を揺すって落とす

2015年11月15日日曜日

2012年12月作品雑感。

短歌がハレからケに移行してひさしいという話を続けているが(この話題を続けるのね)、じゃあ、現代の日常って、ケなのかというと、それはそれで議論の余地があるよね。

世界にはニュースがあふれているし、自分の生活が地味であったとしても、なにかしら華やかなイベントに世間は満ちている。それは楽しいことばかりでなく、悲しいことも同様だ。いやむしろ、悲しみや不満の方が、何も起こらないわれわれをなぐさめるコンテンツとして優秀かもしれない。

  自らは何も負わずに待っている革命、目玉焼きの底は焦げ

この月は12月で、そして今から3年前の2012年。まだ震災、原発事故から2年経っていない頃だ。この時期に照屋がとった表明は、以下のような立ち位置だった。

  原発にあらあらうふふ、推進や脱や卒にも微笑むばかり

2015年11月の現在も、どこかで、全部が、ガラガラポンと一挙に問題解決するような期待感があるし、世界はいかにもいびつに動いているような感じがある。そう、もっと自分は賢いのだ、みんながそう思っている時代なのだ。

  空青く風は冷たし、幾たびの死を繰り返し此度も愚か

短歌はケのものになったが、日常はケではなくなった。民俗学用語であるハレとケではあるが、ここでいうハレは、おめでたいだけの意味ではなく、悲しみや死といった、マイナスの非日常も指している。てことは、やっぱり、この時期の照屋の暗い作品は、ケに入り込み、ケが枯れるのを、ケガレを待っている時期だったのだろう。

  ことのはの一輪のため内側にまだ不可触の沼地をもてり

  襤褸まとえば心も襤褸、さもなくば魂は裸にて屹立す

  人間愛を歌えぬ咎を詩型とか世相のせいにしてもう師走

自選は以下。

  動物は家に閉じこめうきうきと雨季は植物ばかり楽しき

  呑んだので無理ではあるが浜を噛む闇夜の波を見せたき夜更け

  洗面所で大口ひとつ、朝なので身内の闇に光いれおり

  滅亡の日の浴槽に浮かびたる柚子の掬われざる一千夜

  昭和生まれに昭和が遠くなりゆくを突風が帽子飛ばして、追わず

  始まりと終わりが寒い国にいて幸福とやらのこと思うなり

2012年12月の32首

母国語が同じなだけであったかと反論を書けど送信はせず

辺土にて夜ちびちびと舐めている孤独、朝には覚めるのである

自らは何も負わずに待っている革命、目玉焼きの底は焦げ

冷蔵庫以上冷凍庫未満の温度だと馬来の人に師走を伝えき

動物は家に閉じこめうきうきと雨季は植物ばかり楽しき

呑んだので無理ではあるが浜を噛む闇夜の波を見せたき夜更け

悲哀とか孤独で繋がりたかりしがはやばやと自死しやがった奴は

空想の悲哀をもいで歌を吐く擬似晩年の霧深からん

錆びついた我が実存にふつふつと泉涌くまで朝の祈りを

洗面所で大口ひとつ、朝なので身内の闇に光いれおり

原発にあらあらうふふ、推進や脱や卒にも微笑むばかり

空青く風は冷たし、幾たびの死を繰り返し此度も愚か

ことのはの一輪のため内側にまだ不可触の沼地をもてり

襤褸まとえば心も襤褸、さもなくば魂は裸にて屹立す

横たわりたがる身体を持ち上げて今日の終わりを終わるまで待つ

人間愛を歌えぬ咎を詩型とか世相のせいにしてもう師走

円熟と老化は同じ、みずみずしく未熟の脳を懐かしみつつ

つぶやきは蒼穹に満つはずもなくおぐらき溜飲下げて、さびし

壁のしみが魔仏となって一人(いちにん)をたぶらかすまで黙ってみおり

衰えて笑みなき師匠、生命の基(もとい)に不快の置かれしごとく

夢にあらわれ夢覚めてなお舌の上に続き流れたがるパルティータ

滅亡の日の浴槽に浮かびたる柚子の掬われざる一千夜

水平線の線を小指でひっかけて一気に啜って君を笑わす

二日酔いの脳が脈打ち人生は今が旬だと甘く囁く

あらあらはテンプレートの如く生き、追伸に個性らしき一行

コイン式駐車場には人の世ののちのごとくに風が回れり

昭和生まれに昭和が遠くなりゆくを突風が帽子飛ばして、追わず

人類に滅亡がわれに晩年が毎年ささやかれて微苦笑

死刑囚はおそらくはまず辞世から短歌を詠みて歌人となるも

おまえの中でおまえばかりが死にたがり塞いでいると夢で叱りき

始まりと終わりが寒い国にいて幸福とやらのこと思うなり

湧きあがる思念を抑え刑囚の記録を読めりおおつごもりに

2015年11月14日土曜日

2012年11月作品雑感。

短歌っていうのが、もともとはハレの日のものなのに、現代ではケの日のものになっている、みたいな話を前月の雑感でしたけれど、さりとて日記のように、あったことを書くのが短歌かというと、そういうことでもない。

あったことを書くでもない、思ったことを書いてるでもない、そもそもリアルタイムな感情でもない、じゃあなんだ、これは、というものを、毎日、1行、書いている。

  絆とはみえるすべてを断ち切って未開の地にて惜しむまぼろし

先日、別の短歌で絆という言葉を使ってそれに違和の批評をいただいたのだが、絆がいい意味で使われるようになったのはここ数十年のことらしくて、たしかに6,70年代の書物で、断ち切るべきしがらみのような文脈で使われていたのを覚えている。

これはひらがな表記の問題(きずな、きづな)もあるのだが、やはり原義の「引き綱」説のように、照屋はあまりいい意味を付与していない。

こういった少しずつ変わっていくニュアンスのようなものは、もうどうしようもないので、気がついた時には、自分が過去になってしまっている、ということだ。

  同じものをみているという気持ちさえ分かてぬほどには人とは孤独

  我もまた過去に属していくことをマーラーに先に言われて思う

  一挙または時間をかけて世の中がこおるところへ転がってゆく

この月は、なんだか同じことばかり歌っているような気がするな。自選は以下。

  お前だけ大福吹雪の模様して寂しくないか遊具に雀

  治るということとは違い、川べりを幼くなりし母と歩けり

  一切の過去をたくわえ火曜日の脳は夕べに少し横たう

  楠緒子のひたいの白さ思いつつ空想の菊を投げし漱石

  美しい弟子こそ道を開くべしいばらに面(おもて)傷つけられて

2012年11月の33首

キュレーターというフィルターが賢しらの言葉を語る、すぐ読み流す

死してなお成分のこす魂よほのおとなってなお饐(す)えており

夜行性動物の夜は明るくて視覚を剥いだ君うつくしき

印象派の印象という軽蔑の言葉を弟子に投げたかも師は

魂の懶惰懈怠をシンプルと呼んですずしく現代を生く

同じものをみているという気持ちさえ分かてぬほどには人とは孤独

絆とはみえるすべてを断ち切って未開の地にて惜しむまぼろし

しげしげといのちのかたち瞶(み)るほどにいびつでまいるが最後まで生く

僕は君の一介のコンテンツだが君を欲しがるコンテンツである

立冬を過ぎてじりじり陽光の燃える平日ランドスケープ

粉末状の魂をふんと吹き飛ばし自分のそれに水を与える

秋晴れの空青くしてわれひとりにあらずと思えど苦しかりけり

我もまた過去に属していくことをマーラーに先に言われて思う

理想という冷たき雨に濡れぬよう傘に隠れて首をすぼめて

一挙または時間をかけて世の中がこおるところへ転がってゆく

太陽の分からぬ曇り、憧れを失くしたようにきょろきょろとして

ママゴトの虚しさに似て公園のここのベンチに初めて座る

お前だけ大福吹雪の模様して寂しくないか遊具に雀

ちちははの衰えの為立冬の快晴の今日に謝意を渡せり

治るということとは違い、川べりを幼くなりし母と歩けり

同じ会話を繰り返す母の老年を笑って寄り添う父も老年

ぶつかって淀んでしまう戻り水のような住処で生きると云うか

急速に若さが白く落ちてゆく心地して頭掻く癖やめる

平穏を未来ものぞむ男らの怒りも笑いもあらぬ職場の

おそらくはまだ晩年にあらざれどさびしくなりにけりとは思う

スロープのあそこにいたのは僕だった、もうあの場所ごとないと思うが

冬眠は寝るばかりだし春先は痩せてもクマはクマなのであり

中年の危機はあやうく救いがたし便座で慟哭もないもんだ

茫漠の僕らの中で君の眉の輪郭だけは確かであった

一切の過去をたくわえ火曜日の脳は夕べに少し横たう

両親の夢は悲しも、真夜覚めてtumblr100枚見てまた眠る

楠緒子のひたいの白さ思いつつ空想の菊を投げし漱石

美しい弟子こそ道を開くべしいばらに面(おもて)傷つけられて

2015年11月8日日曜日

2015年10月うたの日作品雑感。

この場で書くのもどうかと思うが、ハートや音符をくれた方には、本人、とてもうれしがっております。毎回ツイートするべきなのかなあ。どうもタイミングを逸してしまったままであります。

前回の雑感では、題詠の気恥ずかしさみたいなことをちょっと書いたけれど、短歌(歌会というべきか)というのは、わりとハイコンテクストな場で成立する文芸なので、ベタ(NGワード)かどうか、とか、ヒネり過ぎてないかどうか、とか、あまり普段の作歌では考えない思考が働いてしまって、違う脳の筋肉を使っている感じがあります。

「筋肉」
武道家が隠れてみがく筋肉の天賦の才のような怪力

たしかこの歌はどんまい(ハート、音符なし)なんだけど、そしてまぁさもありなんな感じもあるのだけど、そういう歌こそ作者が愛さないでどうする(笑)というような気持ちもあったり、なかったり。


今回の自選はこのあたりかしら。

「折」
主人(マスター)の心が折れてないかぎり駱駝はあるく、砂漠ゆく舟

「℃」
5000°Cの熱を包んで冷えている海王星の愛すさまじき

「父」
4分の3を与えて無口なる建物のことを父とは思う


2015年10月うたの日作品の31首

「重力」
あこがれは重力と思い来たりしが近づいて実は斥力(せきりょく)と知る

「ラーメン」
秘密基地でぬるき湯そそぎベビースターラーメンすする、うまさいまいち!

「ピアノ」
誰もいない体育館にしのびこみピアノを弾きに今夜も行くのか

「折」
主人(マスター)の心が折れてないかぎり駱駝はあるく、砂漠ゆく舟

「鈴木」
東京の職場にいつも買い来たる東京ばな奈、これが鈴木だ

「誰」
誰かひとりも一緒に嘆く人がいれば起こらぬ事件ばかりにみえて

「象」
象とても未来のことを考える誰よりも先にある嗅覚で

「ビル」
背も高く機能もすぐれたる者に場を譲るのを待つビルヂング

「画面」
画面、画面、画面に囲まれた部屋の消すとき急に鏡になるな

「筋肉」
武道家が隠れてみがく筋肉の天賦の才のような怪力

「笛」
仕事中の口笛を叱られて拗ねる前世がイタリア人のオレなのに

「暇」
にちようは暇か訊かれて暇と言う会いたいことを暇とよぶなら

「おでこ」
おでこ以上くちびる未満の関係をつき合った数に入れてしまった

「ドジ」
生命はドジっ子だから幾万種も生まれてはてへぺろと消えゆく

「失敗」
敵に当たり落ちゆくマリオが消えてすぐスタート地点に別のマリオが

「栗」
中身なきイガグリのイガ落ちており守りきれたか訊かないでおく

「見」
見ることで所有してゆく生き物のさいごの望みにふと、見られたし

「封筒」
差出人のない封筒を受け取って開ければたぶんもう戻れない

「困」
困難に総量なんてないよなあ、回避しながら生きてきたのに

「ポケット」
冬物のポケットにあのレシートがまざまざと別れは過去と云う

「ひげ」
なにもかもやる気をなくし部屋に寝てそれでもまあたらしきひげである

「蝶」
君の蝶がぼくにけなげについて来て気になる頃に消えてゆくのだ

「ジャム」
マレーシアの知人がくれしこのジャムの美味いけど何のジャムだか読めず

「結」
彗星は進むんじゃなく後ろ向きに落ちてると云う君こそ、結句

「別」
昼食のパスタが冷めていくんだが大事な話なので別にいい

「同級生」
流氷のみえる学校に赴任した同級生を訪ねて、おらず

「続」
ふさふさのネズミのおもちゃが気に入って噛んで叩いて愛撫は続く

「℃」
5000°Cの熱を包んで冷えている海王星の愛すさまじき

「はしご」
休憩中はしごで開けた缶コーヒーの置き場所がないしマジ降りにくい

「父」
4分の3を与えて無口なる建物のことを父とは思う

「四字熟語」
こんな時間に呼び出されても行くぼくも眠眠打破の買いおきがある

2015年11月7日土曜日

2012年10月作品雑感。

短歌というのは本来ハレとケの、ハレに属するものなので、毎日詠(うた)うなんていうのは矛盾しているもので、その矛盾はしんどさとなって人を襲うので、こういうことはやるべきではないのだろう。

だいたいストックもないのに始めたので、たしか1週間もしたらかなりしんどかったと思う。

10月は、秋という、変化を感じやすい季節なのだろう、そういう短歌が目につく。

  少しずつ季節が変わりゆくようなことであるよと言いそうになる

  太陽が沈む世界に夕方はそれ自体良き知らせのごとし

  待つことと育むことと何もせぬことの間で麦酒を注げり

  人の心は秋の空とか、湯豆腐の崩れぬものは奥に熱なく

先日、ネットの記事で、「飛行機」が誕生するまえに「紙飛行機」は何と呼ばれていたかという記事を読んだけれど、同様の問題に、糸電話というのがある。

  紙コップと電話の普及してのちに糸電話なるおもちゃ生まれる

糸電話にも言及されていたと思うが、明確にはわからないようだ。ちなみに紙飛行機は、紙ダーツだったとか。

この企画も、どこまで続くだろうか。ネットにあるものは、突然あるし、突然消えるものでもある。

  電脳に預けておいた思い出は失うだろう、悲しみもなく

今回の自選は以下。

  仏教に帰依したのちも時々は柘榴を噛みていし母の神

  抜け殻の僕はどこまで行くだろう橋本行きは橋本に行く

  表現は風にふかれて俺の顔にぺっと当たって消えゆくものを

  悲しみが死滅せぬのでもう少し風に吹かれてから帰ります

2012年10月の35首

見えぬものに怯えて生きよ、自分だけ被害者として世を憎みはて

少しずつ季節が変わりゆくようなことであるよと言いそうになる

君の無力や不如意は全部陰謀が善意の弱者に変えてくれるね

教導権の届かぬ女のつぶやきを苦しんでいる、時間にまかす

太陽が沈む世界に夕方はそれ自体良き知らせのごとし

反神論と汎神論に苦しんで阪神も勝てぬ、君にも会えぬ

愉快だが少し陽気の度が過ぎる義弟の酒に言葉を入れる

待つことと育むことと何もせぬことの間で麦酒を注げり

常緑のさいわいはあれおおかたを失って幹のあらわになれば

コカ・コーラの体が君を抱くだろう、同世代のみの淋しさあれば

アーティストの善の迷走、翻って、罰せられない善行ありや?

仏教に帰依したのちも時々は柘榴を噛みていし母の神

坂の上で猫が横切る千年前もそうだったかもしれないところ

人の心は秋の空とか、湯豆腐の崩れぬものは奥に熱なく

醜悪な生であります、千のナイフのにっこりと肉に埋もれて抜けて

電脳に預けておいた思い出は失うだろう、悲しみもなく

悲しみの変容を知る夕方に木犀いっせいに我に香るぞ

雨風の神を見下ろす気象図の台風の目が次々にらむ

集中する君を見ている、君はいつかシンメトリーの形と化して

つなぎ目のない布まとい、つまりそははだかのことで、我を見おろす

花火止んで浮き足立っている町を走って過ぎる、うれしくなるか

抜け殻の僕はどこまで行くだろう橋本行きは橋本に行く

人生の時満つるとは何事かきたない町も輝くごとし

紙コップと電話の普及してのちに糸電話なるおもちゃ生まれる

宣教師は芋を渡して空っぽの胃袋に落ちる思想の甘き

夕方の家々に灯のともりゆく町を見ており、いとなみがある

ホーム、線路、電車を統べるなめらかなカーブの途中で立ちすくむなり

後悔はないはずである、おそろしく遠くまで凪いでいる場所に来て

表現は風にふかれて俺の顔にぺっと当たって消えゆくものを

輝かす為というより濁るのを少し遅めるべく歯を磨く

島とねりこの若芽を濡らし10月の雨は冷たし語るべからず

雨上がりの曇りの暗さジョニミチェルが強さについて歌う朝(あした)に

死後もなお役に服して魂の自由の無きをゾンビと呼べり

はっさくの皮膚のいろ目に優しくて伝えんとする言葉も染まる

悲しみが死滅せぬのでもう少し風に吹かれてから帰ります

2015年11月3日火曜日

2015年9月うたの日作品雑感。

うたの日、というハッシュタグはそれまでちらほら見たことがあるような印象だったが、それについて詳しく聞いたのは9月20日の大阪文フリだった。

うたの日(http://utanohi.everyday.jp/)とはネット上で行なう、誰でも参加可能な歌会で、昼と夜に題が出てくるので、どちらか一つに詠草を投稿する。投稿の〆切(24時間)を過ぎたら次は投票の時間(3時間)で、ハートをひとつ、音符とコメントは好きなだけ投票できる。ハートの数が一番多い人が花束となる、というようなしくみのようだ。(他にもいくつかコーナーがあるが、その辺はまだ詳しく知らない)

照屋は、あまり題詠に得意意識をもっていないので、大変な気もしたが、せっかくだから、やってみようと思ったのだ。

この月は、「ごっこ」と「ぬいぐるみ」にハートを3ついただいた。投票の際にひとつしか持っていないハートをつけてくれるのは、やはり嬉しい。

「ごっこ」
何年も孤独ごっこを演じいるやめたらただの孤独になるし

「ぬいぐるみ」
ぼくたちはさいわい生きていないから笑ったままで破(やぶ)かれてゆく


短歌というのは、すべて何かしらの題詠、と言えるかもしれない。あるいは、題へ到ろうとするこころみの、まだ題になっていないことが短歌である場合もある。

だから、なんとなくだけど、題が最初にある題詠って、すこし気恥ずかしい感じがして、上にも「得意意識をもっていない」みたいな、変な表現になる。嫌いじゃないし、苦手ってわけでもないと思うんだけどね。

ときどき、自分のなかに無い語彙が題になったりすると、ほんとうに言葉が動かなくて困ることがある。でもそのしんどさは、題詠の面白いところでもある。

この月の自選は、これかなあ。

「遅刻」
遅刻した罰としてきみはカバになり間にあってトリのぼくは啼きおり

2015年9月うたの日作品の10首

「原チャリ」
放置されて白き原チャリ、ご主人を待つような泣ける話もなくて

「人」
鳥一羽人間ひとり住んでいるあの家の、鳥は変わらぬらしい

「うまい棒」
うまさとは人それぞれでそもそもに筒じゃないか、と流暢なきみ

「コピー」
コピペって言葉はあれね貼るときの擬態語が、あと加トちゃん、あるね

「ごっこ」
何年も孤独ごっこを演じいるやめたらただの孤独になるし

「ぶどう」
皿の上のぶどうがホネになるを見つ、どれだけの房を食ったオトコか

「料理」
小麦粉を水で溶きいてスプーンの背でつぶすダマ、生き延びさせず

「ぬいぐるみ」
ぼくたちはさいわい生きていないから笑ったままで破(やぶ)かれてゆく

「遅刻」
遅刻した罰としてきみはカバになり間にあってトリのぼくは啼きおり

「煙草」
ため息を紫煙に混ぜて吐くそばで空気清浄機がみな吸えり

2015年11月1日日曜日

2012年9月作品雑感。

過去作品を読んで雑感など。

  一年半原発の文字を追いつつも半減したる手応えもあり

照屋沙流堂の短歌は2012年9月11日に開始した。この日は東日本大震災から1年半で、震災まで反原発論者だった照屋が、震災後1年を経て、どうもこれは自分は間違っているんじゃないかと思い始め、そういう変化することも含めて、ツイッター上で短歌を書いていこうというのが動機だったような気がする。

でもこの月に原発のこと書いてるのは、2首だけだね。あ、陰謀論の短歌もあるか。

  陰謀という名の君の世界への善側にいたい願いのかたち

今年の9月に、とある同人誌のお誘いをうけ、代表作を5首出す話があって、「代表作なんてないなあ」と思いながら自選しようと思ったが、自選よりも作った方が早くて楽だったので、

  さめやらぬ地表に少し水落ちて最期は水で満ちると思う

この歌を元に5首を作って送った。その同人の会は、いろいろあって、創刊号の出る前に退会をした。

この月の短歌から自選したら、いくつあるだろう。

  類似とは"べつべつ"のこと、やがて君とも類似の未来を歩むと思えば

  昏き夜に船と船とがゆるやかに行き交うように君を思うよ

  人生に弾圧もなく、眼前に入道雲が消えぬドライブ

  去り際に少しく膝を曲げたのはご褒美なのか疑うトマス

  夕方にリビングでひとり泣くような老後もありぬ、涙があれば

打率? そんなものは気にしないのさ。

2012年9月11日〜30日の49首

一年半原発の文字を追いつつも半減したる手応えもあり

21世紀初日の如くして911は燃え上がりけり

言論に述志の気風消えうせて発電所の煙たなびくごとし

我の為に広告さえも選ばれてネットワークの外堀深し

「述志とかカッコつけてるだけよねえ」マックで女子高生らが笑う

病む友のおそらくは命からがらの明るいメールを息とめて見る

カクパトリックの貨幣石圏の熱の夢、可視化されねば今は無きごとし

カンブリア紀の大爆発と大虐殺の豊かで殺伐たる悲しみの

新宿駅の石もて追わるる貨物車両、車両なきあとも石は投げたし

魅惑とは"わからない"こと、また君がひとつベールを脱いでしまえり

類似とは"べつべつ"のこと、やがて君とも類似の未来を歩むと思えば

崩壊を感じつつ父は父として崩壊するか、百日紅まだ

大げさに空の青さを驚いてかつて歌人は見神の職

ルーチンという語の忌まわしさ、生命は終わる時こそ一瞬と知れば

同世代の活躍がちらほら見えてポッキー三本まとめてかじる

陰謀という名の君の世界への善側にいたい願いのかたち

「弱肉強食福祉社会」の到来に備えんとしてどちらか迷う

大丈夫すぐ降る雨はすぐに止む、永い悲しみのひとときに言う

さめやらぬ地表に少し水落ちて最期は水で満ちると思う

深淵で怪物に目を見らるごと端末は我を端末とせり

文学は救うと思うな、足跡に頬を付けたき心はあれど

咆吼にかたちがあらわ、勇敢より卑怯に依って生きたいのちの

髪をほどいて帰りを待つと思いしが帰らぬ、クリック音が響けり

孤独とは耳から糸を垂らしつつ誰のことをも思わぬ時間

私のは中心のない自由です、なんでもありでなんにもなしの

人間界に風がそよめき、このような嬉しさをメールには入れられず

たしかに死が解放であるならば苦楽の釣り合わぬ茜雲

消費の覚めないような夢に居て充実は指をこぼれるモーラ

天才に噛み付いて若き青年は中年となり、甘美もありぬ

生きがいのない日々となり小人は閑居するなり文明生活

昏き夜に船と船とがゆるやかに行き交うように君を思うよ

ドードーの最後の一羽の眠る時の夢を悲しむほどの感傷

人類と合わぬ種は弱小とされ、アスファルトにコアラの死のマーチ

生き物は心拍とともにドメインを渡る、誰かの呼ぶ声がする

世界とは心拍のこと、自分とは違うリズムに耳を付けたり

サルトルは文学に飢えた俺たちに何をくれたか考える朝

いっせいに磁石の赤は北を指しもう北について議論は出来ず

紫外線や磁性や超音波の国で衆生を度する仏もあらむ

五十億年後の膨張しきったる太陽は豚のように笑うか

思い出に十年ぶりに追記する夜のドライブ、奇跡を走る

ウェブ上で"友達"となりもうこれで関係は固定されて動かぬ

お祭りがあるのであろう神社から少し離れてあくびする猫

人生に弾圧もなく、眼前に入道雲が消えぬドライブ

去り際に少しく膝を曲げたのはご褒美なのか疑うトマス

脳みそが永遠を理解する頃にもう一度君に逢えると思う

夕方にリビングでひとり泣くような老後もありぬ、涙があれば

一日の終わりの終わり、休息が希望とならば死とはあるいは

知をかさね遂には信に至らずば掌(て)の一滴を二文字と知れり

肝心要は最初か最後、君だけが最後であればおおかたはよし

2015年1月21日水曜日

戦争周辺論

戦争周辺論

「あの映像を、観た時僕は、まるでやっと、歴史に目を止め、られた気がした」

10人を超えるであろう濃き赤のぬくい血流すその映像は

表現は義憤に燃えて規制派が案ずるほどに戦時は健全

ボードリヤールの予言ちまちま外れいてそれでも君に聞きたい言葉

8500キロの距離こそ平安の根拠であったと今は知ってる

人権が無限大へと膨らんで具体的には1円にならぬ

こんな歌まで国を憂いているような涙、別離も変容すれば

過去からの学習といえば慰安的不謹慎的表現の保護

剣呑の隣国もいまや足並みが揃う思わぬ戦さの評価

役に立たぬ者から熱くなる夏の無料で配られたるガリガリくん

この国の第二形態、あといくつ変身をのこし丁寧語なる

空気より強い信仰持ちたればもう結論は殉教ひとつ

同じナイフが品切れになるほど売れて同胞の胸にしずかに入る

周辺が中心であるドーナツの左にかじりうろぼろこぼす

漠然であるゆえ強くこの国の勝利を疑わざりしほほえみ

日常をぺらとめくってきたようにこの状況をめくる人待つ

正義と正義が戦うように悪と悪も争う場所で強さを量(はか)る

出生率か出征率のいずれかに貢献せねばいけない感じ

その頃は火の玉アゲインなんていうスローガンにも感心しきり

許す側も許される側も立てなくて運良き方に従(つ)きたるが勝ち