こんにちは。土曜の牛の文学です。
『近代短歌論争史明治大正編』の2の論争は、若山牧水の第三歌集『別離』を伊藤左千夫およびアララギが批判した一連の動きだ。
この流れは文壇の流れというものが溶解してしまった現在ではやや不明瞭だが、与謝野鉄幹らの浪漫主義の作風に疑問を持った牧水らが自然主義を掲げて『創作』という同人を作り、その彼の作品を写実主義のアララギが分析的に批判して、牧水はその批判に、反論よりもむしろ感謝した、という論争(?)だ。
牧水は浪漫主義の「没個性の、いかにも歌らしい歌」を嫌ったが、その牧水の歌もまたアララギから「拵え物」と批判された。牧水は「歌そのものを見るのが願いではない」「生きた人間の歌が詠みたい」「作歌によって己を知りたい」と考えていたが、そこにアララギほどの方法論はなく、ただ人生主義の方向に向く。一方、アララギは、論争好きの左千夫とその弟子とも内部で対立してゆくが、自然主義の方向にも同調してゆく。なんというか、牧水の大きさの話にまとめたくなるが、この流れは、短歌が、リアリティを求めてゆく流れと、短歌を分析批評する方向に向かった論争といえる。
3の論争は、土岐哀果や石川啄木が、ローマ字短歌、三行書き、定型の拡大解釈(31音以上でもよい)をよしとしたのに対し、牧水が川柳のようだといい、茂吉がその不真面目さを非難した一連のやりとりだ。そんな「ただごと歌」「そうですか歌」「報告歌」「筋書き歌」は三十一文字でなくてもよい、そんな空気があったのだろう。そしてこの対立は、従来の自然主義と、あたらしい社会主義の対立とも、うたいぶりにおいて重なってもいた。
百年後の現在、牧水の人生主義はなかなか難しく、三十一文字でなくてもよいものを短歌にすることがメインのようにも思われる。でも、生きた人間の歌が詠みたい、と思う? かなあ?
七首連作「盛った演奏」
損得の向こうにはるかそびえたつ今日は見えない薄い富士山
しあわせは損得であるものだろか ひっくり返せば聖書のことば
人に説く教えをなにか持たなくちゃ、教えを乞われる人がいなくちゃ
過去は低い、未来は高い 現在は 顎ひとつ上げてたたかえ兵士
ペダル踏んでゆっくりとバッハ弾くピアノ、宗教性を盛った演奏
SIerがその明け方に見る窓の外にあかるい丸と三角
軽犯罪ぐらいといえぬ昨今を寝不足のせいにしつつポイ捨て
もっと雑談がしたいような気もするのだが、どうもかたい感じがするね。
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