2021年1月2日土曜日

土曜牛の日第1回「滅亡論」

 新年あけましておめでとうございます。土曜の牛の文学です。

今年さいしょに紐解く本は『近代短歌論争史』明治大正編。篠弘が1976年に出した本で、名前のとおり、近代以降の短歌の議論をまとめた本なので、つまり文学としての短歌の輪郭がつかめるという意味で、基本的なテキストと言ってよいのでしょう。

35章ある最初の論争は、明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に始まる。篠弘は、近代短歌のスタートは、短歌滅亡論に始まる、という認識を示している。短歌はその後、たびたび滅亡論を繰り返すが、そのはじまりはここからと言える。

短歌滅亡私論のポイントは3つあって、

1、近代人の自我を一首で表現するには短くて、連作が必要になる。

2、57577の形式は、己を表現する型なのだろうか。

3、短歌で使う文語は、生きた言葉ではないのではないか。

ほとんど今でも行われる議論のベースが、1910年、百年前に出ているということだ。明治とともに近代国家日本ができて、20年くらいは近代国家の詩歌として、和歌改良論なども議論されたが、改良論で提案された「現代語化、題詠否定、恋より勇壮、形式の自由」をすすめようとして、結局なにが短歌なのかよくわからなくなったのであろう。

この3つのポイントを、100年後のわれわれがみるとどうだろうか。1は、むしろ一首で見るのが現在は優位で、連作はゆるいまとまりレベルになっているようだ。2は、これもまた、57577を守る人が多い印象だ。3は、文語派は、少数になっている。これは教育の影響が強そうだ。

ただ、もっと本質的に短歌滅亡論が言いたいことは、短歌が当時の文学的問題を担うに足る、文学の中心にあると言えるだろうか、という問いであって、その問いは現代で担うには、なかなかハードルが、いまでも高い。


  七首連作「滅亡論」

眠りひとつ冷たい部屋にこぼれおり、水銀のように照る月明かり

滅亡の夢をみたんだ、都合よく自分は都合よく助かって

鳥かごも水槽もなんなら家も檻という目で見ちゃだめですよ

粉ものがヘラでぐちゃぐちゃ混ぜられてへらへら焼けてゆく楽しさは

恋人をだきしめるとき僕は鼻、または両腕、残りコンニャク

変化するこの世の中で創業以来の秘伝のたれがこぼれる夜中

永遠につづく敷島、感情に形容詞ひとつだけの花々



近代短歌論争史、いつまでかかるかな。途中で別の本読んだりして(笑)。

あと作品を評しあったりするのもよいかなーと考えたり。


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