こんにちは。土曜の牛の文学です。
近代短歌論争史はひとまずおいて、(さては読み進んでないな)、古今集について書かれた本を読んでいて、古今集ってなんなんだろうか、と考えてしまうものであった。
言うまでもなく、近代の短歌は、和歌の否定からはじまったようなところがあるし、正岡子規が戦略的に古今集を攻撃することで短歌が現代的であることを印象づけたようなところがある。でもその正岡子規も、ほんとうは、と言ったらなんだけど、古今集、好きだったんだよね。
万葉集が、日本の言葉を文字にする格闘として歌をのこした段階だとすると、古今集は、仮名序で書いているとおり、日本のなかでことばとこころの型をつくるために歌をのこした段階になっている。季節をそろえ、恋の段階を分け、論理をつくり、レトリックを増やす。
漢詩という、海外の高い文化水準は依然としてあるものの、5句節31音で、だいたいのこころは言葉にできる、という、自分の王朝に対する、肯定感があったのだろうね。
ひるがえって現在のわれわれは、短歌と和歌をほとんど断絶して考えている。いやもっと、短歌のなかでも、近代や前衛や、そことも断絶している感があるので、和歌なんて、同じ文芸表現とさえ思っていない。じじつ、そこで使われる技法は、和歌とは無縁のようにもみえる。
しかし、古今集のころに発明された「題詠」をわれわれは今も楽しんでいるし、短歌の美意識は、どこかで和歌の美意識を前提にして、うらぎったり、うらぎりをうらぎったりしている。
短歌の歴史は、「万葉期」「古今期」「新古今期」を循環している、という史観が、かつてあったような気がするが、今はひょっとして「古今期」なのではないか。正岡子規が、「再び歌よみに与ふる書」で、くだらない歌と書いていた、古今集の第一首は、
年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ
であるが、この歌の、ひとりミルクボーイのようなネタ感は、じゅうぶん現在の短歌に通じている。
古今集って、おもろいかもしれんね。
七首連作「ボーンインザ」
その前にミサントローポス(人間嫌い)だったのでウイルス的にも都合よかった
疫病で大変な世に、隠れてはないけどゆっくり風呂で液態(えきたい)
ボーンインザUSAのテンポにてシャワーから水が漏れてしたたたく
アメリカも大変やねぇハグしたり互いの頬を当てたいだろうに
恋人がマスクもなしに抱き合って何年前のドラマだもんね
このスーパー、密だと思うわれがいてわれがいなけりゃ密マイナス1
さかなさかなさかな、言葉を食べると、あたまあたまあたま、心がみつかれ
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