2021年4月10日土曜日

土曜牛の日第15回「しずかな疲労」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争史16の「前田夕暮と島木赤彦の『深林』論議」もまた、歌集についてのあれこれなので、あっさりと。

前田夕暮が、第四歌集『深林』をまとめたのに対して、島木赤彦が、かなり批判的に批評を行なった。夕暮の珍しい熟語や語句を陳列する構成について、自己の内面を開拓していないというものだった。しかしこれは、前年の赤彦の作品『切火』の合評にて、夕暮が赤彦の作品を、写生にとらわれて平板になっている、という指摘に対する意趣返しのような趣きが好戦的な赤彦の文章に含まれていた。

『深林』は雑誌「詩歌」で特集も行い、萩原朔太郎ら詩人や歌人の8人が批評したが、概ね好評で、ただ、夕暮の作品が事実偏重であったり、散文的であることへの問題点の指摘はいくつかあった。これは、この歌集の以前から、土岐哀果も指摘しているところで、夕暮はこの指摘については感謝して受け止めてもいた。

しかし、赤彦の批評については、その対抗意識のようなものいいに反発もあって、赤彦の最近の作品を夕暮は取り上げて、その平板さと「歌の調子」のみのただごと歌に不満を述べた。

論議はこれ以上発展することはなかったが、夕暮はこの中で「歌の調子」と「リズム」とを分けて使っていて、「歌の調子」だけで歌になることを拒否して、リズムでうたう、ということを意識していた。これは、のちに夕暮が自由律を作る方向にむかう、重要な考え方の枠組みであっただろう。

それにしても、現在の短歌の批評用語に、存在しえないよなぁ、赤彦の「自己の内面を開拓していない」という言葉。


  七首連作「しずかな疲労」

マスクして家を出てゆく、誰もいないところに着けばいない安心

さくら! の、しずかな疲労(八重桜はあるけど)のあとに嗚呼花水木

嗚呼ぼくは花水木なんてきらひです過去を照らさうとするまぶしさが

奥の付く地名に行こうきみがいない前にも横にも行きたくないし

電気街に騎士道のまぼろしありて、あれ やせぎすの男とふとりぎすの男

古い町のきれいな水がわくところにおれが硬貨を投げた確率

寒いところで飲む缶コーヒーは美味しくて茶色い舌だ そのあと帰る 



土曜牛の日のタイトルを七首連作のタイトルにしているけど、これって、論争を探したい時にきわめてわかりにくいね(笑)。論争の名前にした方がよかったな。(直すならまだ間に合うか!)

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