2021年4月24日土曜日

土曜牛の日第17回「あるらんか」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。文学ってなんだ?

近代短歌論争史明治大正編の18は「太田水穂と釈迢空の古語論争」だ。といっても、現在の「古語短歌(文語短歌)は是か非か」という議論とはあまり関係がなさそうだ。

大正5年の後半から、かねてからアララギに所属していた釈迢空が作歌、評論を活発にはじめる。彼の評論は独自の鋭さをもっているのだが、とりわけ古語については古代を見てきたように語る民俗学の巨人でもあり、太田水穂の作品の批評の古語文法に関する部分では、「語原的時代錯誤」(古語を使うことの是非でなく、古語が現在とは違う意味になっているのに現在的に使用している混雑状況)を指摘して圧倒した。

釈迢空は当時、独自の「古語復活論」を唱えていて、①詩歌は思想の曲折をあらわす②漢語は固定的で害である③ゆえに口語、新造語、古語を多く使用したい④しかし口語は単語に頼り、新造語もいまひとつである⑤なので古語に期待する

というもので、さらにその使用については①文語と口語が同量であれば文語を採用②口語を文語に直訳しないこと③歌全体に口語的発想がきわだつようにすること④散文的にならないこと⑤より厳密な観照態度をとること⑥文語であらわしえない気分や曲折を形象化しようとすること

という、きわめて方法意識に基づいたものだった。少しややこしいが、ここで言われる「古語」は、現在われわれが使う口語文語の、文語よりもより古い、古語や死語のことである。

太田水穂は、この迢空の論旨には、とくに意見を出さなかったが、迢空の作品を評して、その試みがうまく行っていないことを攻撃した。

アララギは、このような論争の場合、茂吉、赤彦、千樫など援護射撃で外部の敵を総攻撃するのが常だが、迢空については、援護はなかった。それは、迢空は、アララギの同人相手にも、きびしい批評をしていたからで、その後も迢空はアララギにおいて孤立してゆくのだった。

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現在から見ると、古語復活論、②の漢語が固定的、というところで、もうつまづいてしまうなあ。たしかに短歌の評で、熟語が硬質的な印象を与える、という言い方はする。でもこの「硬質的」も、よくよく踏み込むと、事務的、説明的、の言い換えであることが多く、漢語そのものの硬質さ、というのがもうピンと来ないのかもしれない。

ところで近代短歌論争史明治大正編は35あるので、半分を過ぎてしまっていた。短歌の論争とは、結局「いい短歌とはなにか」という論争、ということだろう。平成編、令和編は、なにを「いい短歌」とするために論争がされているのだろう。論争があったらかけつけて見に行きたい(笑)


  七首連作「あるらんか」

命ある限り生きる、ということも贅沢である、桜ちる窓

幸せってなんだっけなんだっけ、しいたけをホイルで焼いてポン酢で食べる

お母さんのお迎え順は決まっててAくんBちゃんDちゃん、C介

衣食足りて権力は横暴だけど衣食足りなくなるまで礼節

水がほしい蛇口がほしい手がほしい心がほしい何もいらない

あっちゅうまに死ぬのはわりと救いよね、短歌にせんと言えんことやが

心にはなんの法則あるらんか、きみが笑うとうれしいやんか


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