2021年8月28日土曜日

土曜牛の日第35回「あらあら不幸」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史の明治大正編が終わったので、そのまま昭和編もやろうかと思ったのですが、昭和編は26章ですが一章一章が長いし、論争内容も、だんだん似通ってきているんですよね。

たとえば第一章「斎藤茂吉と石槫茂の短歌革命論争」は、島木赤彦の没後、反アララギのムードが盛り上がってくるにしたがって、石槫茂が「短歌革命の進展」という連載を始める。

プロレタリア文学の「伝統的短歌・結社組織=有産者階級・ブルジョア」「口語歌=無産者・プロレタリア」という構図にのって石槫はアララギだけでなく口語歌の西村陽吉や自由律の石原純・清水信、象徴派の太田水穂、モダニズムの前田夕暮も批判した。

それに対してアララギへの批判に怒った斎藤茂吉が長期にわたってしつこく反撃する。プロレタリア理論を模倣する観念的な石槫の態度をバカにし、その理論を一蹴し、さらには、アララギよりも先に自分の所属する「心の花」同人や佐佐木信綱博士、石槫の妻の五島美代子の作風を変えてから言ってみよ、話はそれからだと煽る。

そこでは、茂吉の「短歌は思想を盛りがたい」というテーゼについての議論もあったが、実相観入・写生という方法とプロレタリア短歌のあり方について深まるところはあまりなく、茂吉はアララギを守るリーダーとしての振る舞いもあったし、石槫は大正時代までのそれぞれを新しい理論ですべて否定するスタンスもあって、実作で時代が動く感じではなかった。

という感じになるのですね。(こういう感じになりますよね)

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大正時代は写実というアララギの方法論が主流となって、その周辺に芸術主義が対立していた、という構図になっていたが、昭和になると、社会主義からプロレタリア文学の主義が台頭して、短歌もこれに巻き込まれてゆく。プロレタリア文学は、それまでの芸術の主義というより、政治思想や歴史科学のような相貌をもっているので、正義か不正、善か悪、0か1かという中間のない議論になりやすい。この点で、昭和のプロレタリア文学の猛威は、令和の分断状況と少し通じるところがある。

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  七首連作「あらあら不幸」

かこかこと過去へと行ける角がある路地はいかにもあやしい感じ

アパートに帰りたくなる帰ったらわざと寝ている君がいるあの

蓮の花のあいだを白い車椅子のあなたを見たり見えなかったり

残業がまだある時代、きらきらをお金に変えて拗ねてる時代

地球人は地球のことを考えてファミコンのようなドットの荒らさ

狂人と狂人のふりが分からないようにあらあら不幸なわたし

縄文の土器みたいのが胸にあり人目に出せる日はまだみらい


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