2021年8月21日土曜日

土曜牛の日第34回「キャリーオーバー」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

緊急事態と文学は相性がいいでしょう。

近代短歌論争史明治大正編は最終章の35、「清水信と西村陽吉をめぐる新技巧派論議」です。

口語歌人の大同団結を目指して作られた雑誌『芸術と自由』は、口語歌であること以上の思想や理念の共有がなかったため、「西村陽吉と岸良雄の生活派論争」では生活優先か美尊重かが問題となり、「奥貫信盈と服部嘉香・西村陽吉の新短歌論争」では定型か自由律かが問題となったが、西村陽吉はその分断をうまくまとめることが出来なかった。

そこにさらに、口語歌のなかでも有力なひとりである清水信の「新技巧派」の作品が、議論としてあがる。

 透明な花粉をこぼす雨後の月 しきりに電車が触覚を振る  清水信

 靴の塵拭きながらしずかに退け時の汽笛の音を耳にひろった

瀬鬼惺は、このような表現上の新鮮さは作品の論理性に関係がない「感受過敏な人間の新奇、珍類、変形語的な表現上の是非論に過ぎない」「技巧本位な精神」だと批難する。そして、清水が新技巧派を、「生活派風をあきたらないとする人々が、一歩をすすめた」と言うことに対して、西村陽吉も批判をはじめる。清水のいう「新しい表現には新しい内容がなければならぬ」という表現と内容の関係について、西村は、「内容」と「表現」は密接であるべきであり、「表現」のみのゆきすぎをあやぶむような、西村の当初からすると後退するような態度をとった。

新技巧派のようなモダニズムにも反対をしめし、自らの歌集はプロレタリア派からもプチブルジョア的と批判された西村陽吉は求心力を失って、『芸術と自由』は部数が伸び悩み、多くが離脱していった。

昭和2年、口語短歌はモダニズム短歌とプロレタリア短歌の2つの重心に分かれながら、昭和へと進んでゆく。

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瀬鬼惺(せきさとると読む?)は、新技巧派はやがてプロレタリア短歌のまえにくずされると予想して、新技巧派を「言葉の遊戯的自慰」であり、短歌の社会的逃避でしかないとした。

ついこないだまで万葉と写実、対、象徴主義、みたいな論争をしていたところが、あっという間にプロレタリアとブルジョアの対立に短歌も巻き込まれた感がある。とはいえ、西村陽吉は啄木からの社会派からの流れなので、ずっとあったといえばあった考えでもある。今回西村と対立した前田夕暮門の清水も、西村に長く選をしてもらっていたので、このあたりの、それぞれの進む速度が違ってゆく感じは、茂吉らが台頭する頃の伊藤左千夫のようでもあり、流れのつよさも感じられるところである。

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ざっくりですけど、ひとまず近代短歌論争史の明治大正編は終わりました。今年の1月から読み始めて、8月で読み終わり。おつかれさまでした。

昭和編? どうしましょうかねえ?

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  七首連作「キャリーオーバー」

人間め暑いじゃないか公園の青い遊具に蝉はわぢわぢ

引きこもったもん勝ちみたいな世よ、石の下の湿った土からそとのおと聴く

いつまでも挙国一致にならなくて今いくらくらいのキャリーオーバー

イマヌエル・カントは街を出なかった 今ならいえるそれで良かった

世界遺産になりそうもない暮らしですエアコンがあってスマホがあって

大きいのはいいことのような代名詞 大人は誰から見て大の人

もろもろを差し引いたなら人間の時間はこんなつまめる時間


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