2021年9月4日土曜日

土曜牛の日第36回「恋だ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

昭和の短歌論争史は前回もそうだが、どうまとめたものか定まっていない。第二章は「前川佐美雄と土屋文明の模倣論争」で、例によって排他的なアララギの、土屋文明が他結社の作品を時評で上から目線で批判していると、「心の花」の前川佐美雄が「行き詰つてしまつてどうにも動きのとれぬ今の『アララギ』の盲ら評だ」とつっかかり、土屋文明の作品の至らぬところを指摘して「詩の足りぬ側の人」とののしり、アララギの排他主義を攻撃した。

それに対して土屋文明は、前川佐美雄の作品が茂吉・赤彦の作品を模倣したものがあることを指摘して、批判しているのにアララギ模倣がうまいことをからかった。

前川は、あれはアララギ風の作品は容易であり、古いことを示すために真似をしたのだと反論し、師匠の真似をする寺子屋アララギでは行き詰まるのも当然だ、と言って、先輩格の土屋を激しくわらった。

この模倣論争はけんかわかれに終わったが、前川佐美雄はここでアララギズムとはっきり別れ、モダニズム短歌へ進んでゆき、土屋と茂吉はさらなる論争の準備をすすめるのだった。

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インターネットはSNS、とりわけツイッターによって、ある言葉のやりとりの空間を作り上げるに至ったが(これは今は当たり前のようだが、時代が変わると想像ができなくなるような、特殊な空間であるだろう)、この世界でも、他人の短歌を、きらくに上から目線でああした方がいい、こうした方がいい、と言うのを見ることがある(自分もかつてしたことがある)。

これに対して反論したところで、これが実りのある論争になるかどうかというのは、なかなか難しい。そもそも、相手をやっつけるような論争と実りのバランスは、本質的に悪いのではないか。現代において論争がないのは、論争すべき主義主張がないというのもあるだろうが、そのバランスの悪さを続けるにはわれわれの関係はスマートになってしまっているからではないか。

まあ、論争すべきなにかでは、短歌はもうない、という、元も子もない意見もあるだろうけれどね。

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  七首連作「恋だ」

食欲と食べたい欲がちがう夜こういう夜はよく間違える

会うことをやめたと決めたので恋だ卵黄はけっきょく破るのに

人生ゲーム、という比喩ともかくルーレットをいっつも強く回したお前

最近のゲームは終わりがなくなって永遠のゲームみたいな恋だ

骨の化石がのこったとある恐竜のさぞかし立派な竜生であれ

恐竜もこんなに愛くるしいように鳥類だけの地上の恋だ

ラブレターは読み返さない方がよい、初回限定のみに羽ばたき


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