こんにちは。土曜の牛の文学です。
結局あまりいいまとめ方が思い浮かばないまま、第三章「『短歌戦線』のプロレタリアリアリズム論議」へ進む。
プロレタリア短歌は昭和3年11月に無産者歌人連盟を結成し、『短歌戦線』を創刊する。無産者歌人連盟は、前身として新興歌人連盟があるが、こちらはすぐに意見が分裂して、メンバーの交代が何名かあって無産者歌人連盟となった。
もちろんプロレタリア短歌の流れはこれだけでなく、口語歌人のあつまりの『芸術と自由』があったし、地方歌誌「まるめら」の大熊信行などがプロレタリア短歌を打ち出していたし、そもそも文学全体として全日本無産芸術家連盟(ナップ)が結成され『戦旗』も創刊されていた。プロレタリア文学が勢いを増していたのだ。
坪野哲久は階級闘争の武器として大衆に叫びかける短歌形式はふさわしいとしながら、今の封建的イデオロギーの形式のままでは無産階級的内容を盛り得ないので、その形式を揚棄(止揚)しなければならないとした。
会田毅は、坪野の論を発展させて、プロレタリアリアリズムとは、「空想と想像に築きあげられた観念的な歌」を否定すること、「三十一音に依つて調子をととのへられたものではない」こと、「ごつごつした非韻律的なもの」を採用することだとした。そして、プロレタリアートの目線を獲得するには、プロレタリアートにならなければならないのだが、それだけでなく、それを目指す過程もまた、プロレタリアリアリズムだとした。
これに対して、新しい定型を提唱する大熊信行に接近している浦野敬は、この方法自体が観念的で単純であると批判したし、渡辺順三は、マルクス主義の公式理論や観念的革命理論を発表するには短歌は不自由すぎるため、無産派の短歌はいい意味で生活の愚痴の範囲は出ないだろうとの考えを示した。
伊沢信平は、プロレタリアの思想や生活が現在の定型にすっきりと作品として定着するはずがないとして、「定型律そのものに一定の歴史的限界がある」と結論し、プロレタリア短歌に歌学の適用はないとした。そして、形式と内容の矛盾の克服がプロレタリア短歌の出発点とした。
新形式をとるのか定型の止揚を取るのかを議論するも、自由律や短詩になることには全体として否定的であった。坪野哲久は「短歌的」なるものについて、「一息に言ひきることの出来る完了体としての詩型であること」「句と句との間に階級的な粘り強さが必要であること」を挙げた。プロレタリア短歌は、このように、形式と内容の不安定なバランスのなかで短歌的なるものを追求してゆくのだった。
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この時代のプロレタリア文学の跋扈はすごかっただろうね。自分がそれを否定できるとは思えないくらいの"完成された社会科学の結論感"があったと思う。同時に、日本文学や短歌への、"土足の蹂躙感"も、反対の人にはあっただろう。現在の、西洋のポリティカルな善悪に対する感じが、近いかもしれない。間違っちゃいないけど、なんにでもどこにでも適用する性急さは結局あなたがたの嫌う暴力と同じになるよ、ということを理論に対して提言するのは、簡単ではないんだよね。
思うに、昭和初期は、社会が良くない原因を、ぜんぶ封建的イデオロギーのせいにしたんだよね。だから、今ぜんぶ○○のせいにしちゃっているとしたら、ああ、昭和初期のあの熱病のそれだと思えばいいのかね。
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七首連作「ありのまま」
太陽を地表がはなれただけで秋、君がやさしいだけでバリバリ
頑張らなくていいと言うのは気持ちいい蟻ならありのままついてゆく
謝らない嘘は心に永くいてそういう嘘といま飯を食う
人間の遠くつながる儀式ありて灯るからにはそれは火である
音のない写真があった、それについて目線の主に二、三言ある
人を見る目などないない、たまたまのでこぼこ道でいい人だった
考えの異なる人をどうしよう、殺すか殺されるか、じゃあなぁ
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