2021年11月6日土曜日

土曜牛の日第45回「どっちが大事なの」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編は、第11章「『国民文学』と『アララギ』の類歌論争」です。昭和10年をまるまる使ってのこの論争は、実りが多くなかったと言われてますが、短歌における類歌、暗合、模倣、剽窃、という類似の問題、この先もあるだろう問題の過去事例ではあります。

まずはアララギの若手、渋谷嘉次と五味保義が、あのアララギ調の傲慢な言い口で『国民文学』の批判を始める。松村英一をはじめとして『国民文学』の作品はアララギを模倣した低劣な作品である等。

それに対して『国民文学』の若手、山本友一や小籏(おばた)源三が反論をする。アララギは他誌批判の真摯さが足りないこと、模倣の具体例がないこと、渋谷氏自身の作品も低調下品な散文と変わらないこと、彼らの言う常凡主義を国民文学は唱えていないこと、等。

これに対して、渋谷は松村がアララギを真似たとする例を出してきた。

1)岡山の友がくれたる青き葡萄アレキサンドリアといふを惜しみつつ食ふ(昭8.12 英一)

  信濃路は木曽の友より送り来る栃餅といふをまつは楽しき(昭4.1 文明)

2)城山をめぐりをへて出でし道に真向ふ海は柿崎弁財天か(昭8.6 英一)

  巌の上にとざせる家を一めぐり向ふは東浪見のとほき岬か(昭8.4 文明)

3)吹く風の寒きながらに汗いづるわれは遠くも歩みたるなり(昭9.8 英一)

  汗ばみて夜中の地震(なゐ)に覚(おどろ)きし吾は宿屋にとまり居しなり(昭5.12 文明)

4)高きよりなだれし岩にいくつかの村は埋めてありとこそ聞け(昭9.9 英一)

  石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け(昭6.1 茂吉)

5)檜苗背にうづたかく負ひのぼる人は顔より汗たらしたり(昭9.8 英一)

  二里奥へ往診をしてかへり来し兄の顔より汗ながれけり(昭8.3 茂吉)

  葱を負ひ山をのぼりてゆく人あり焼山谷に汗をながして(昭8.10 文明)

6)山川の鳴る瀬の音をききてよりまたくだるなり斑雪の上を(昭10.4 英一)

  山がはの鳴瀬に近くかすかなる胡頽子の花こそ咲きてこぼるれ(大14.9 茂吉)

  まざまざと影立つ山の峡を来て鳴る瀬の音ぞくれゆきにける(昭9.1 文明)

これらが模倣かどうかははっきりしないが、具体例を出してきたので、小籏も具体例で、上の数字のアララギ以前の類歌を『国民文学』から引っ張ってきた。

1)信濃なる有明山の石楠と心喜び手にかざし見ぬ(昭2 空穂)

  伊予の沖はなれ島にゐて友の詠む拙き歌を我は待ちかね(昭2.9 植松寿樹)

2)出雲路の西の涯に立ちけらし深くくもれる海にまむかふ(昭5.1 英一)

  霧はれて星影つよくきらめけりわが向く方は南の空か(昭和7.11 英一)

3)昨日の今頃は正に汗あへて徳本峠をのぼりゐしなり(昭2 寿樹)

  速吸の瀬戸をいねつつ西風吹きて船かしげるに覚めて驚く(大14 尾山篤二郎)

4)この一日雲にかくろふ妙高を青野が果にありとこそ思へ(昭2 英一)

5)昼日中店の間にしてねむりゐるをんなの額に汗流れたり(昭3.11 英一)

  いくばくの銭にかならむ汗かきて人が背負ひ来しこの袋の繭(昭3 半田良平)

この引用によって、アララギの、あたかもアララギのオリジナルを一方的に模倣したかのような言い草が間違いであることは、はっきりした。

しかし6)の「鳴る瀬」については、土屋文明自身が英一の模倣を非難したので、小籏はすかさず反論し、万葉集にも人麿の「山川の瀬の鳴るなべに」があるとして、特殊な語ではないと言い返した。しかし文明は、「瀬の鳴る」はあっても「山川の鳴る瀬」の句そのものの用例はないとして、ここの自分のオリジナリティがあると主張したのだった。

ここで、小籏のあとをうけて宇田千苳が

 山川の鳴る瀬に月のさす見ればおはれ死にたるひとの思ほゆ(大10 永田寿雄)

以下「鳴る瀬」の用例を短歌、俳句から10例近く挙げて、これは創意ではなく、単なる過去用例の倒置であるとして、土屋文明の論難が身勝手であることを示した。

これはアララギにとっては痛い反論となり、また歌壇からも『国民文学』のほうが印象がよかった。もともと、第三者から見ても、松村英一や土屋文明の作品は、それぞれ彼ら独自の作品となっており、模倣や剽窃を思わせるものはなかった。

しかし、この時代のやや低調な歌壇において、類似を思わせる歌が多かったのは、事実のようであった。

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短歌がネットコミュニティ空間で、ある種の流行が発生している現在、この類似歌の問題はこれからも定期的に発生することは想像に難くない。しかも短歌は本来的に、言葉や着想をミーム化するために韻律をととのえた詩なので、いいものは広がりやすい性質がそもそもあるのだから厄介だ。

個人的な経験として、びっくりするほど自分の短歌にそっくりな歌をつくられたこともあるし、自分がびっくりするほど、他の人と似た短歌をつくったこともあるのだが、自分がパクったと思われてもしかたがない短歌については、「こんなこともあるもんだなあ」と思いながら、自分がパクられたような短歌については「いやーここまで同じ着想や語彙はないだろう」と偶然を疑えなかったりするので、人間というのは厄介だ。それはもう、素直に第三者に判断してもらう他ないだろう。消したりするのはもうゲロったようなものなのでそれは問題にする必要もないだろう。

でも、創作って、オリジナリティを打ち出すものと、共同幻想の中に溶け込むものがあるものだから、簡単ではないよねえ。

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  七首連作「どっちが大事なの」

グーでなくパーでもさいきん「殴る」らし、そのうちチョキでも殴れるものか

新興国の肖像画みたいな色合いで新庄監督たしかに楽し

ほらあれが「賢くなって間違いが許せない人の言葉の剣」座よ

存在と時間とどっちが大事なの、飼われたるものはそんな目で訊く

人生の終局にクイズがあるとしてその時のためのような人生

地獄とは他人のことだ、他人とは自分のことだ、サル、トル、いぬ、い

うがいにも二種類あるしぶくぶくかがらがらかいつも確認したい


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