こんにちは。土曜の牛の文学です。
近代短歌論争史の昭和編は第13章「北原白秋をめぐる「多磨綱領」論議」です。当時すでに大御所であった北原白秋が、師の与謝野鉄幹の死を受けて、「多磨」を創刊する。土岐善麿は、白秋がいまさら雑誌作りの犠牲にならなくてもよいのにと心配し、事実2年後に白秋は視力や体力を衰弱させるが、白秋は与謝野鉄幹の「弔ひ合戦」のような決意ではじめるのである。
白秋は「多磨綱領」において、日本における第四期の象徴運動として「多磨」を規定した。
第一期は新古今。「新古今に至つて、此の三十一音型は芸術としての無比の鍛錬台となつた」と述べ、日本詩歌の本流は新古今からであるとした。
第二期は俳諧。「本来一貫したる東洋精神の清明、洒脱、閑寂の諸相はここに寧ろ当時の短歌に於てよりも、茶道、造園、俳諧に於て、その本質の開顕を見、流通無礙の心象を把握した」と評価する。
第三期に『明星』をあげる。「短歌に於てもまたあらゆる西詩派の香薫と機構とが加工され、粉黛さるるに至つて、昔時の和歌意識は全く相貌を変へた詩の新感情によつて揚棄された」として、『明星』が浪漫的精神の烽火となったと評価した。
そして第四期として「多磨」が、浪漫精神を復興し、近代の新幽玄体を樹立することを主張した。
ちなみに白秋は、これが単なる『明星』の継承ではないこと、また同時期に急に新浪漫主義を唱えた岡野直七郎の言うようなものではないことは述べた。
これらに対して、山下秀之助は、アララギリアリズムの対抗馬としてのロマンチシズムとして期待した。
逆に高田浪吉は、アララギ側から、「多磨」の陣容が白秋氏の趣味の域を出ないのではと述べた。
簇劉一郎は、白秋がすでに歌壇における特異な浪漫的潮流の一つを占めていることは明らかなので、これを結社化してむやみに対立するだけになることを怖れると述べた。
坪野哲久はプロレタリア短歌のサイドから、白秋の浪漫主義は人生逃避の芸術になっていると、懐疑的な態度をしめした。
木俣修は、白秋が「近代の新幽玄体の樹立」を提起するに至った文学精神を分析し、それが長期にわたる蓄積と練磨であることを明らかにした。
「多磨」による、アララギとの大論争というものは結局起こらず、「多磨」は理論より実作を重視し、結社性の濃いものとなってゆく。白秋の歌風、個性色はあるものの、白秋の理論もまた、白秋の実作に即した「それ以上に発展することの出来ない抽象理論」(岩間正男)となって若手には窮屈なところがあった。
「多磨」創刊号の白秋の「春昼牡丹園」は、以下のような作品である。
牡丹花に車ひびかふ春まひる風塵のなかにわれも思はむ
牡丹園人まれにゐて凪ふかし奥なる花の香ぞ立ちにける
白牡丹くれなゐ蘊(つつ)みうやうやしこれの蕾に雨ぞ点(う)ちたる
春日向牡丹香を吐き豊かなり土にはつづく行きあひの蟻
その道の霞に行かす母のかげ遠き牡丹の花かかがやく
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白秋の近代短歌の歴史のスタートは、明治の新詩社(明星)であって、子規系のアララギの隆盛は、あくまで本流ではなかった、という意識がずっとあったんだろうな、と思うと、白秋もいいなあと思ってしまう。
子規は、自分の作品がいいなら鉄幹の作品をいいと思うわけがない、鉄幹の作品がいいなら、子規の作品がいいと思うわけがない、みたいなことを言ったけど、そのロジックって、この昭和10年の頃も、アララギ系は言うんだよね。新古今がいいなら、万葉が評価できるわけがない、万葉がいいなら、新古今が評価できるわけがない、みたいに。そして白秋を、どっちつかずの、あいまいな歌人とみなす。
まあ、アララギはたしかに歯切れが良かったのよね。そして一番歯切れがよかったプロレタリア短歌が、弾圧で見る影もなくなってしまったんだよね。
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七首連作「てふてふしない」
君が時々つぶやいているひとりごとの短いポエム、タンカってやつ?
言葉とは生き物なのに定型の標本の蝶はてふてふしない
のどかだな芸能事務所が本名を禁じることが出来るみたいに
若いのとかわいいのとが紛らわし きみってかわいいのか若いのか
モラルハザードというゲームがあれば襲うのは真面目な方か不真面目な方か
寝る時は死の練習のように寝る、練習が仕事、本番は集金
エッチという発音がもうエッチなんて不思議だ、ふしぎというのもふしぎだ
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