2021年12月18日土曜日

土曜の牛の日第51回「孤独な者には」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今回は休みが小さい正月だが、正月というものは、もーいくつねるとー、と思わせるわくわく感がありますね。

近代短歌論争史昭和編の17章は、「岡山巌をめぐる連作論議」です。岡山が連作論を打ったが、いくつか反応があった、くらいの論議です。一応にぎやかだった、のかな。

岡山は近代短歌はリアリズムと連作によって成立していて、それは精神においてリアリズム、方法において連作であるとして連作を大いに評価した。そして、連作の中には積極的連作、消極的連作というものがあるが、近代短歌の名作はほとんど連作であることを分析して、短歌が現代性を主張するには、連作という方法が必要であることを力説した。

岡山の論に触発され、かねて連作に関心を持っていた山下秀之助は、岡山の「積極的連作」をさらに推進し、旅行詠、生活詠を自然発生的なものとしないための「高度の構成力」の必要をあげ、また時事詠、社会詠については「個性的観点を離れてはならない」とし、そして連作といえども「一題一首としての独立性」を希薄にしてはならないため、モンタージュ形式の構成を提案した。

岡山の連作論は、詩人の佐藤一英も反応し、岡山の「連作はリアリズムの所産である」という言葉から、裏返せば、歌人が「一首表現単作は断片的表現に過ぎない」と考えていることを引き出し、連作と字余り歌は、「詩的全体的表現への欲求」への傾向であるとみてとった。つまり佐藤は、連作によって短歌が再興するというより、新しい詩精神の胚胎に対して、(連作という)短歌の内部改造は無駄な努力であると考えていた。

この連作論議はしかし懐疑的な反応も多かった。「今更新しくあげつらふべき論題ではあり得ない」「連作は決して短歌をして衰頽せしめるものではないと堅く信じて疑はない」とか、定型短歌より新短歌の方が連作傾向が低いといった意見や、モンタージュ形式のような構成もまた自然発生的といえるくらい無意識に出来ている、という指摘もあって、興味をもたれなかった。

佐藤佐太郎も、自分は連作に消極的だとした上で、他の歌人の多くが、連作に馴れ過ぎて一首が軽くなっている、はじめから連作を意識した一首は軽くなる向きがある、とまで主張した。

のちにこの昭和12年を回顧した岡山巌は、その時も、それでも「連作なくして近代の歌はない」と力説した。

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連作と単作について、現在周囲を見渡すと、結社、歌壇などの賞は連作であり、広く募集する短歌の賞では単作である傾向がある。これは、素人→単作、玄人→連作、とみることもできるし、作品性→単作、作家性→連作、とみることもできる。

もちろん、単なるスペース(作品発表の紙面的制約)という側面もあるだろう。

先日も、短歌雑誌の賞で、入選の歌が2首"選"掲載であることについて、テルヤは否定的な意見を述べたが(テルヤは、連作なのだから冒頭の2首を一律に掲載するべき、という意見)、連作の中から何首か選んであげる、という、あれは結社を体験している人の親切心なのだろうと理解している。このあたり、単作主義と連作主義が、都合よく了解されているってことなんだろう。

ところで、じゃあ文字による表現数が少ない短歌は、その表現の外側を、どうやって補うか、というと、かなりコモンセンス(常識)やコンセンサス(合意項目)や、コモンイリュージョン(共同幻想)に寄りかからざるを得ない。もっというと、個人情報ならぬ個人"属性"や、ルッキズムなども、必要な情報はアリジゴクのように吸い取って解釈しようとする形式だ。

だから、現代において短歌は、充分に配慮された表現形態とは言いにくい(どっちかというと失礼な表現になりやすい)。そもそもこの文明は詩と相性がいいか、という問題からあるんだけど、そこまで大きくしなくても、短歌はそんなに新しい現代の問題群に適切に回答できる形式ではないし、若い人がいつまでも楽しめる形式ではないとは言える。

でも、逆説的に、コモンセンスやコンセンサスや、コモンイリュージョンの、誰でもないコモンさんにはなれる詩ではある。むしろこれが現在の短歌の一部的な盛り上がりの理由のような気もする。

文体よりもテンプレを当てはめるうまさが光る短歌は、そういうことなのかな、とちょっと思う。文体の時代には、もう戻らんやろうねぇ。うまさのレベルが違うよってに。(もちろん現在の方がすごい)

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  七首連作「孤独な者には」

古代エジプトに輪廻転生がないことを考えて君は黙ったままだ

神はそれ孤独な者には見えるように見えないようにヤッパ見えるように

孤独豆腐に孤独納豆と孤独ねぎと孤独醤油をかけたら孤独うまい

敵味方思考でいえばぜんぶ敵、「だれでもドア」を出してドラえもん

ひみつ道具は誰に秘密か知らねどもドラえもんを出して、そのロボット(四次元制御機構)を

サブカルとしての 季語として流行る 俳句として、もう戻れない侵食として

林檎をかじる、果実をかじる罪をかじる季節をかじる果汁をかじる


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