2021年12月4日土曜日

土曜の牛の日第49回「そのへん頼む」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

おまたせしました! 近代短歌論争史昭和編の第15章は「局外者をめぐる短歌滅亡論議」、短歌滅亡論です!(待ってねーよ)

昭和12年(1937)に、3度目の短歌滅亡論議が起こりました。きっかけは、菊池寛が、エッセイで、詩は非科学的なものであり、科学が進むと詩は成立しなくなる、という雑で一般論的な文学観を述べたことだった。

それに対して、歌人の宇津野研が真面目にも、ロマンチック精神が喪失しつつあるのは同意するが、むしろ科学の方がロマンチック精神に富んでおり、生命の問題に関する限りは詩歌は科学を超えている、と正論を書いた。

宇津野の文を受けて『日本短歌』は、国文学者ら局外者から、短歌の将来や伝統継承について意見を聞く特集を組んだが、国文学畑の人たちには、いわゆる新短歌に否定的な意見が多かった。

国文学畑だけでなく、当時の論壇でも、矢崎弾は、短詩形は「それに盛られる精神が非現実的日本精神の象徴で、今日の世界現実を包摂しえず、今日の社会現実の交流を逃亡した精神の哀れな文化のよどみに沈殿する方言的な詩魂」であるとして、その短詩形否定論から短詩形の滅亡を断言していた。

歌人の臼井大翼も滅亡を述べていたが、実作者である彼は、短歌が詩でなくなった理由を近代短歌の方法(写生偏重)のゆきづまりとして指摘する文章を書いた。

歌謡史の研究者であった藤田徳太郎は、短歌に新興芸術の新時代的生命を見出そうとするのがそもそも不当であり、それが物足りないなら「短歌などを作らずに他の新興芸術にその野心を向けるより仕方がない」と、短歌を伝統の形式美の条件から外すような試行については否定的であった。

中世和歌史の専門家の斎藤清衛は、短歌を「日本語が当然に実現すべき律語形式の一」であり「最もよく、この気象風土の中に育まれた超現実生活観的精神を具現するもの」と定義し、その特質を①その形式がはなはだ短いこと②その韻律がきわめて簡素であること③その韻律の制約上、古語との因縁を断ちにくい事情にあること④その調べには一脈の詠嘆か感傷が流れていて、たぶんに「うっとり趣味」をもっていること、とした。そして、「短歌は、短歌であるかぎりに於て、社会の文学思潮の外廓に立つて居り、激しい現実の雰囲気に混ずることは今のところ不可能である。」と、藤田の論理に近い新短歌への否定をのべた。

この斎藤清衛には、歌人の上田官治が反論し、短いということが価値を左右するものではないといい、また高田浪吉は滅亡論を一蹴しようではないかと呼びかけた。

しかし国文学者の風巻景次郎は、斎藤清衛の短歌観に賛同しつつ、「しかし一蹴しようとしまいと、短歌は結局亡びるのである、と言つたら何うなるであらうか」と、実作者が形式に対する危機感をもたないことからいぶかしみ、短歌の滅亡を論ずること自体を排除する機運を指摘した。そして「自由律短歌が自由詩を建設しないで、あくまで自らを短歌であるといふ所に、短歌の持つ不思議なまでの恐しさが感じられる」と、正岡子規以降の近代人が伝統形式に矛盾や疑問を感じるところまで来ていなかったと考えた。

なかには、保田与重郎のように、現代の生活を描くことなどより、古歌の模倣をすべきだ、という否定論もあったが、これは問題意識があまり噛み合わないものだった。

プロレタリア短歌系の森山啓は、斎藤や風巻の論文を「歌人の仕事に対する厭がらせ」とくさして、新短歌の「極く短い、単純な生活表現の文学」の意義を説き、短歌が滅びるときは、それはプロレタリアの自由律短歌が完成するときで、それまでの過渡期として現在の短歌を「恥ずべき理由がない」として肯定した。

他に音声学者、音楽評論家の兼常清佐は、五七調や七五調に我々は飽きてきたことを挙げて、また生きた口語のリズムを活かせていない、という、口語、音数律の観点で現在の短歌の弱点を指摘した。

歌壇からの反駁は、土屋文明が滅亡論について触れたり、松村英一が滅亡論者を反駁したり、岡野直七郎はこんなひまな議論は何の役にも立たないと批判したりした。半田良平は、斎藤清衛の論は最初から短歌の変化を認めない否定論なので、滅亡論以前の段階の話だと論難した。また風巻の滅亡予言も、なまぬるい曖昧な予言に堕ちている、とその発言の不明瞭さを分析した。半田は、短歌はあくまで抒情詩であるとして、その性格を限定することで現在まで続いてきたこととこれからの可能性を主張した。

半田の意見も「現状満足論」と言うものもいたが、国文学サイドの原則論、また短歌にたいする不勉強をしっかり突いた反論となった。

アララギの中堅の村田利明は、滅亡論などは「閑問題」だとして、滅亡するとかしないとか八卦占いみたいなものなら、滅亡しないと言い切って、一つの助詞の心配でもするほうが賢明だと滅亡論自体を批判した。じっさいこれが多くの歌人の本音かと思われた。

しかしプロレタリア系の小名木綱夫は、この態度こそ「現歌壇の非科学性と頽廃」であり、その助詞の心配もまた、作品との関わり、歌人の社会との事情の仕方とつながっていて、短歌の滅亡という歴史の規定との関連において考察されねればならない、とその足をつかんで批難した。

他には、詩人サイドから、短歌は連作によってリアリズムを確保することで滅亡を逃れうるという意見や、萩原朔太郎が、執念深くアララギの写生を攻撃した。

総体として、否定、肯定の段階を超えて、「優れた短歌精神の探求」(阿部知二)へと、この議論が向かったかはこころもとない。短歌滅亡論は、これで終わりではないのである。

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いま短歌は、これは観測範囲の問題にすぎないが、繁盛しているようにみえる。しかし、短歌は滅亡するか、と自分に問いかけてみると、一番近い答えは「イエス、滅亡している」となるかもしれない。上の議論の中では、保田与重郎の意見は、一番浮いているけれど、面白いなあと思ってしまうのだった。

われわれは、何を作っているのだろうか。伝統的な詩を作っている自覚を持っている人はどれだけいるだろうか。旧かなを使ったりしながら、漢字の送り仮名は戦後教育の基準に合わせていたり、要するに様々な日本語の断面をちゃんぷるーしながら、決してわかりやすいものを作ろうともしていない。本にしたって1ページの文字数がよくわからない空白を伝達しようとしている。

でも、なんだかわからない面白いものはぞくぞく出来ていて繁盛している。それは、滅亡したから、なのかもしれない。

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  七首連作「そのへん頼む」

僕は僕の人は人の終わってゆく時の、カンキワマルよキックザカンクルよ

缶蹴りの友の救出で翻弄する鬼が孤独になるとき夕日

人生が終わったらそこでシークバーが止まって永遠なる読み込み中

全世界が動画で金を欲するや、やり過ぎて謝って辞めたりをする

物語が終わってゆくのが手でわかる電子書籍もそのへん頼む

ロシヤ文学の名前の愛称多くして目次と本文と電子書籍頼む

舐めた飴の終わりがいつか分からないような恋だったし飴だった


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