外は30度を超えているのに、みな、よく外へ出るなあと思う。人間のエネルギーはすごい。よく日本人はそのエネルギーを三十一文字に入れようとしたね。いや、出来ないから外へ出るのか。それとも、平安時代は、あんまり元気なかったのか。光らない君へ。
2017年11月の短歌など。
1年は10月で終わり今はだから来年までのひらひら踊り
広大な自由な未来目指しつつ決められたレール走れ鈍行
外は30度を超えているのに、みな、よく外へ出るなあと思う。人間のエネルギーはすごい。よく日本人はそのエネルギーを三十一文字に入れようとしたね。いや、出来ないから外へ出るのか。それとも、平安時代は、あんまり元気なかったのか。光らない君へ。
2017年11月の短歌など。
1年は10月で終わり今はだから来年までのひらひら踊り
広大な自由な未来目指しつつ決められたレール走れ鈍行
短歌が表現の極北だったような時代はもう過ぎたんだけど、じゃあ自分の短歌を文学に興味のない人に見せておもしろいのかというと、そうでもないだろうね。自分の短歌がおもしろくない、という話とはちょっと違う話としてね。
短歌など。
昨晩のチータラがより乾きおりおれも渇いて今日のはじまり
王族ではもちろんないが今日もバルス明日もバルスお前もバルス
プロトコルをプロトコールと言う彼のトリコロールのセーターを見る
人を殺せる速度の車で会いにゆききみを助ける、殺せる速度で
キットカットは受験生にはいいだろう窓際の社員さびしくかじる
フルートをぴーひゃらと言われ怒ってた彼女が奴とつき合っている
自販機の缶コーヒーの「しにた〜い」に「ころした〜い」が加わって秋
四季即ち季節の死なる、秋の裏で一つ一つの腐(くた)れゆく菜(さい)
なしてなん? なしてあんたは出ていくん? そういう声を聞いた背中か
クリープとコーヒー 焼酎 ティファールのキッチンの森に遊ぶ飼い鳥
ちちははに記別与えるときのため若かりし日の話聴きおり
ツイッターで1行半の文章を韻律で読む、短歌じゃないじゃん
セスナではなくてデハビラントなのか、まあまた来てよ待ってるからさ
金出せば焼肉食える国で思うゲバラ、ゲバラの焼肉のたれ
東北で芋煮が語られるときのバベルのごとき神の制裁
#困らせることばかり言うから
父ちゃんが蟷螂拳のポーズする困らせることばかり言うから
お守りキャラが急にオトコにならないで困らせることばかり言うから
5次請けの男らの目の野生味よ困らせることばかり言うから
beliefの語の変遷が気になってちょっと汚れてしまったこころ
(この歌はツイッターより結社誌だな)ちょっと汚れてしまったこころ
甘くないペーストを餡と言う時のちょっと汚れてしまったこころ
週はじめはうまい昼めしいのちとはときどき褒めてやらねばならぬ
な、なんと、コンビニたちが次々と? コンビニたちが合体してゆく!
ディスカウント理髪店にてAMラジオの政治批判よ、もみあげは残す
われにとり詩はおならだと言う人の「とり」のところが天皇みたい
小さいとすぐ死ぬそして大きいとすぐに死なない、ではグッドラック!
クロソイドカーブを曲がり高速へ君のつむじを掌(て)で包むため
男らはついにはらまぬものだから永遠に詩がおもちゃのちゃちゃちゃ
定型ってげにお手頃な詩形にて寒くなったらつい記す秋
みなそこで貝はぱくぱく唄うのだ身のほどなんて興味ないのだ
書を捨てよ街に出よう、書を買いに街へ出よう、街を出よう
案の定新宿ラビリンスで迷う地上はどこだ、今何年だ
色とりどりの傘に頭を覆いつつ人はしずくに弱い生きもの
ワゴンなき古本祭り、ブルーシートが文字を隠してつい海のふり
最初からきれいに踏んでくれるのでここでもぼくは二流なんだな
人生は前向きがいい断捨離と思えばさっぱり、すっかり、ぽっかり
#いちごつみより
大地からいろいろな色が湧き出して春ってなんだろうねえおじいちゃん
揺すったらどっぷんどっぷん悲しみを沸かして入ればなんかたのしい
旧駅舎の待合室のストーブの湿ったあたたかさを冬と呼ぶ
この長くゆれる吊り橋の真ん中で引き返すのもいやだ人生
あと処理がすべて終わって残りものの寿司にわさびが無いのに泣いた
川柳
あたたたた たたたたたたた たたか〜い
日曜にポエ散らかして雁渡る
俳句
急いだが回り込まれて秋あかき
収穫の喜び知らで秋まつり
恋人に飽き飽きと秋、柿ぬるん
秋の暮未来のための今でなし
新豆腐ことばがこころを斬るやうに
浴槽にはつか霧笛のようなもの
あるきっかけがあって、2年以上して、自作のサルベージをひさしぶりにする。サルベージして、自選もしていたが、2017年07月からは、自選だけを載せているようだ。さぁて、どうなることやらら。
真夜中に髭を剃りだすこのわれを無視してやさしき家族のありぬ
どこでもドアを手に入れたのでこれからはすぐに駅までいけて嬉しい
薬と水溺れそうにて飲んでいる水飲むの下手でやや可愛らし
きみに似たたましいの子がかつていてごめんその子をしばらくおもう
存在を宇宙で一番この俺を肯定しなきゃならないところ
再びのバラバラのため進化せよインターネットという孤立主義
定型はある種の元気、そこまででないものは自由律のタグつけて
立っている後ろ姿の靴底のいびつな減りも切なき景色
いきるのはつらつらつらしつぶらなるひとみのひかりまたひとつきえ
ペンネームにも人格あらばこの表現はちょっと作者に相談しよう
明日からも消え入りそうに生きていく決意を込めて、おやすみなさい
逃げ場所があればいいけどぼくはぼくをルービックキューブみたいに変えて
さまざまな色で描かれたカニだからさまざまな明日をまっすぐ横へ
外人と朝のホームを並走すアーユーハッピイ? アイムぼちぼち
この電車はもうとめませんお客様のご理解ご協力ご覚悟を
"J"を冠してさも新しい感覚の時代があった、J日本人
JジャパンにまたJを付けまたJを付けて、これじゃぁおみおつけじゃん!
ごきぶりが夕方の町を飛んでいる僕らも平和を希求している
遅々として生きると決めたこの俺の足並みを真似してもいいけど
認めたくないのだわれの青春のソリティアやってた分の遅れは
かなしいじゃあーりませんか人間がいまいるところがつらいだなんて
今日もきみは薄く笑ってでもそれはダイジョウブルー、水底(みなそこ)の青
人はまた権威に帰りゆくを見るエーデルワイスをハミングしたし
Blackbirdのイントロを弾く、ぼくだけが覚えてそうな思い出のため
生命に危険及ばぬ詩を憂いて佐佐木幸綱のさかずきの酒
革命中に詩は生まれぬと言ったのは魯迅だったか、まだ在るのか、詩
奪はれるのは言葉だけかは、愛国の印に和歌のよみがへる明日
きな臭いのきなってなんなの? きぬ擦れの君に尋ねて喃語のごとし
愛し合うのに身体がいるのとあまりにも真顔で訊かれて嘘を答える
もう死にたいと子に漏らし笑う 子の我も微笑んでこの話は終わり
心臓がトマトだったと見つかってもう学校で広まっていた
シジフォスの昼の休みは短くて缶コーヒーを数分で飲む #ギリシャ神話ただごと歌
自撮り中に水に落ちたるナルキッソス、B612の文字消し忘る #ギリシャ神話ただごと歌
秒でファボ、分、時間そして日にてファボ、年のファボやがてその死へのファボ
ポエ爺もポエ婆もいま目の前のゆふちふ婆ほど稼ぐ能わず
パンが無いからケーキを食って革命だ、銀の食器で牛丼を食え
ビルほどの耐震構造もたざれば屹立ったってか細き一首
絶唱にならなくたって短歌とはつまりひとりであるってことだ
新宿の沖縄居酒屋おれたちもミミガー! ミミガー! こよいの祭り #ラピュタ
きみとバルスしたい世界にきみはいず手もつなげずにほんと、バルスだ #ラピュタ
おまいさん今夜バルスを決行よ品川心中くらいの覚悟 #ラピュタ
実在を疑っているラピュタよりシータやパズーのような純粋 #ラピュタ
今日のうちにバルすかバルさぬかを決めてバルさんとする、害虫は死ぬ #ラピュタ
「チョコレートクリームチップフラペチーノ」覚者は七歩あるきて云へり
この夏も田舎のばあちゃん特製のチョコレートクリームチップフラペチーノだ!
雅とは牙をかくまうことならば書いた時点で隠せていない
君はきっと他にはいないという意味でオンリーユーと言ったオンリーミー
長歌「絶唱」
絶唱と 呼ぶべき一首 成したれば 死して悔いなき ものなるか さあれ昨夜の こと切れし 歌人の胸に 絶唱の ひらめきおれば 惜しまれて よきかなしみか さだかならぬも
反歌
絶唱を胸にいだけば短歌とは何首必要なる人生ぞ
川柳
誕生日のろうそくに太陽フレア
太陽フレアのせいで太陽フレアの句
素潜りのぷはっと太陽フレアかな
職探しは太陽フレア過ぎてから
市民課に太陽フレア相談室
俳句
曼珠沙華揺らした風にダンプカー
竈馬なみだにつゆも興味なし
この月は返歌球、という企画をやった。返歌球は、返歌によって歌をつなげて、ひとつの連作のようにしようとした。翌日の同じ時間(24時間)までを返歌の募集の時間にして、そこから一首選ぶ。選ばれた歌の作者は、次の返歌を24時間待って、歌を選ぶ。「選」をしながら「返歌」をつなげる遊びで、作・読・選・評、の作読選をゲーム化しよう、という試みだった。
作品的には、打越の概念のない返歌の連続なので、色彩やイメージが繰り返される感じはありましたね。連句じゃないのだから、全然悪いことでないし、この反復はいいものです。
では、この月の短歌など。
世の中が正しすぎるとこわいので不正になったらまた寄りますね
星団(クラスタ)の黄昏にまだきみがいてほんとにぜんぜん変わらないなあ
ポルティコ(柱廊)がいつまでも続くいつまでも君のうしろを追いかけたかり
「本名は」
本名はアダムスキーといいますがオカルトにまるで興味ないです
本名はシュレーディンガーなのですがぼくはいつでもここにいるから
本名がドップラーなんで救急車に乗らないように健康第一
本名がカウパーですがそういうのは一切、いや、そういう者です
ほとほとと、ほとに伸びたるおっとっとここから先は大人の時間
こちょこちょと二人楽しく眠りせば胡蝶のわたし、こっちよわたし
偏った思想を持った飼い主のそばに寄り添う犬のいたこと
信じれない! 翻訳調の驚きにら抜き言葉が使えるなんて!
渋滞の終わったときの前の車を追いかけて虎になりそうな加速
すごいあのキノコ雲、いや間違えた入道雲だ、まだ平和だった
夭逝の歌人ときどき現れて清涼なものを遺してゆけり
もういいかい産業奨励会館の骨組みだけを見たい気持ちよ
女とは半身が土地、地下鉄の地下のカラーも女がつくる
静ちゃんが「クリリンのぶん」と言う時に審査員大竹まことの真顔
雨の街の夜よ、光ってしまうからオトコは真っ黒になって帰る
ごはんですよとごはんばかりの青春は哲学だったし痔が痛かった
きみとぼくは時々道を外れつつ諌めあってた、いまはばらばら
キツいズボンあきらめてこれにする時の赦すと緩さの「ゆる」の同根
星と星を線で絵にして誕生日と結びつけたる呪術の話
生き物は生まれつづけて死につづけいくさに巻き込まれたらなみだ
時々は自分がけものであることを思い出すため食うビーフジャーキー
揉むような手つき、たしかに揉みやすい形に進化している手だな
マゴノテのその申し訳程度なる指の造形さびしかりマゴ
蜘蛛の糸杜子春の本を抱えたる少女、満員電車に乗れず
短歌つくってるけど君は詩人だし彼は芸人、あいつは迷子
優秀な働きアリと無能なる働きアリに並ぶ定食
甲子園文芸における高校生らしさをファールスタンドへ打て
自殺には意味はあらねどこの人の歌すべて自殺する人の歌
買ってない短歌研究に出してない短歌が乗ってないのを読まず
不条理の数十二万、ひとつずつたった一人の母彫りつづく
「世界」
未来からやってきたけどこの世界の未来のことは知るよしもない
「おっさん」
タレントの美少年いつか美おっさんになっているけど受け入れている
「無痛」
飛んでゆく痛いの痛いの降ってくる痛いの痛いの傘で防ごう
「鳩」
ものすごく飢えたる鳩よハトったってドバトが象徴する平和はなぁ
「恋人」
日中の夏に男女かしらねども影を重ねて黒い恋人
「黒」
もう少し派手な色でもよかったと思う眼鏡を選ぶときなど
「路線」
大都市の動脈に血栓できて静脈にすぐ乗り換えて帰る
「脈」
横になる人間という山脈のもう何回も遭難をした
「高速」
高速で事故った時の走馬灯がちょっと速すぎるよ待ってくれ
「夏草」
草が切る頰も少しも痛くない今締めている首を思えば
「大人」
大人の階段の踊り場に柵がないなんて危ないじゃないか落ちるじゃないか
「踊り」
法を得た喜びで舞う菩薩らの一万年の苦行も軽し
「新人」
最初はみんな初めてだから師匠とはわたくしに死を見せくれる人
「祭り」
時々は進まなくなるお神輿の神のきまぐれとうリアリズム
「短歌」
短歌ではなくて私に詩を書いて、だって短歌は難しいから
「脱出」
果たしたる脱出ののち胡瓜には味噌を掻きたき伊太利亜にわれ
「胡瓜」
錬金的救済を描くジュゼッペの野菜の顔の鼻はやキュウリ
「錬金」
どうしても金にならないことを知り神とはかがやかしかる絶望
「絶望」
ミサイルが発射するとき絶望は、独房の窓を光が舐める
「独房」
南極に旅立つ君を見送りき、場所ではなくて生が独房
ヘイケツ! って結構大きい声で言うそのネタの使い込んだ光沢
作者ではなくて作中主体たる<私>が驚いている短歌
一首屹立さう言ひながら依りかかり凭れかかつて連作ぞ美(は)し
人に言えば伝染ってしまう悲しみのシーンを抱いて祈りを注ぐ
片乳の妻の残りを舐めるときぼくはほんとにいやらしい舌
ウユニ湖に最初の雪が落ちる音を聞きとるように真面目な寝顔
北半球は北が寒いとカルロスが書き込む手帳がかなり読みたい
寒風を水に溶かして固めたる薄荷飴舐めて今夜さみしい
黙ったままじゃ分からないって言うけれどにちゃにちゃの飴なんだよ今は
水田に月を配って、この道はその先でキスをもらったところ
俳句
本当に負けてもよいか原爆忌
亡き人の召喚刹那盆踊り
自由律パピプペポ川柳
自分の感受性くらい賞取れば安心パピプペポ
パピプペポは不謹慎だからバビブベボ
のうぜんかずらに涙がぽとりパピプペポ
新年あけましておめでとうございます。
過去の短歌を掘って洗っておこうと思っております。それが美味しい芋であるかのように。
先日、いいねの多い短歌がよい短歌とは限らない、みたいなおしゃべりがありましたが、ツイッターという場で、機会詩としての短歌はとても活躍しうると思っているし、歌集という、機会詩の力を失った媒体でよいとされる歌が、よい歌とも限らない、とわたしは思うものです。
2017年07月の短歌から。
端末を辞めたあいつはいまどこでどの精神を抱きしめている
半分に割ったパピコを順番にわたしが食べるわたしのものだ
短冊に素直に願い書いたらばピースポールの文言に似る
朝起きて夜寝てそれを繰り返し心臓止まればよく頑張った
もう君が誰かもわからないけれど来年もまた会ってください #七夕
政治的に正しくしかし常識的じゃない表現を詩と呼ぶ朝(あした)
ひさかたのイーアルカンフーななめ飛びが出来ず真上にぽぴゅうぽぴゅうだ
人間がやっと言語を捨てたにゃらわれわれのことがわかるであろう #ネコ短歌後夜祭
北斗百裂拳はすべてが致命なる秘孔らし、その殺意丁寧
こんな日は死にたいだろう、後ろから突然宗旨を見抜かれており
画面いっぱいに描けば牛は褒められると知ってる子らの写生大会
開陳と男が言えば結局はジャンルを問わず開チンである
こんなにも歌を作って気がつけば自分の歌があんな遠くに
ポエジーに酔い過ぎたきみ金曜の終電前にもう詩を吐いて
手作りのこのポエジーを渡したいけれどあなたはポエず嫌いで
俺も詩もどっちも嘘をつくからな信じるとかでなくていいんだ
「明日死ぬ病(あすしぬびょう)」にかかってしまいうろたえてうろたえてこれ「今日死なぬ病」だ
文学的放屁について一時間の思索ののちに音せぬ放屁
オブラートで着ぶくれる夏、真実はビブラートかけるとうそっぽい
ゴッホみたいな星空がきみといるときで良かった、黙ってそう思ってた
おじいちゃん今日分の歌は詠んだでしょ、最近ちょっと増えてきたわね
文学はもっと遠くに行けるのにどうしてここで楽しんでいる
タイムラインながめておればわが死後の楽しきやりとりみているごとし
暗所から急に眩しい場に出ると目が痛くなる書き出しがいい 『雪国』#誤読文学
#俳句
竹床几半透明の使命感
#あいうえお順川柳
土砂降りで愛にすがってザジズゼゾ
おれはまだ酔ってないんだラリルレロ
すこしずつきみに服毒さしすせそ
愛したらこんなにケモノあいうえお
へいケツ、じゃなくてhey siri、なにぬねの
こんにちは。土曜の牛の文学です。最終回。
一年間おつきあいいただき、ありがとうございました。来年のことを考えたら鬼が笑うので、やめときましょう(いや、そろそろ考えようよ)。
近代短歌論争史昭和編は18章「事変歌の評価をめぐる論議」です。昭和12年に盧溝橋事件(日中戦争の発端、支那事変、日支事変)が起こり、歌壇の状況は一変する。それまでの短歌滅亡論も、尻すぼみになってしまう。日中戦争をモチーフにした作品は、おびただしい量が作られる。
その中での歌壇の論議は、①作品が具象的な、「中核に迫る」作品が少ない、という議論と、②事変への思想的な批判が少なく、日露戦争の頃の歌と変わらないという議論、③事変をすぐに歌わずともよいか、すぐに歌うべきか、という流れとなる。
ここまでは銃後詠が主だったが、このあと戦地詠が増えると、①無名者への評価、②作歌の場が露営地や戦闘の後の、内省的な時間であること(戦闘を生々しく歌うことの少なさ)が指摘されてくる。
次第に戦争讃歌の兆候が起こってくるし、戦争への批判は出来なくはなるが、歌壇の論者は、作品のレベルについては、銃後詠、戦地詠ともに、作品の未熟さについての批判的な意見は少なからずあった。歌壇全体としても、この事変歌の盛り上がりのなかで、①リアリズムを再評価し、②しかし素材主義の欠陥といえる深まりのなさを注意し、③全体として短歌のモチーフが拡充されたことを評価したのだった。
ーーーーーーーーーー
事変歌ならずとも、今後も、大きな災害や、国家規模の事件があると、短歌は増えるだろうし、そのときに考えられる議論は、やはりこのような流れになるようにみえる。表層的な作品から、深化を求めるながれ、そして、当事者性と局外者の表現。そして短歌の報告の側面と内省の側面の、一律性。
それと、事変歌あるいは戦争詠は、われわれが今度のどの場所に立つかによって、見え方が変わる可能性がゼロではない、という保留がつねにあるように思う。
ーーーーーーーーーー
七首連作「メガネくもれば」
好きな詩を白湯に溶かして飲むときにメガネくもれば師走と思え
誰に見せずダーガーのように詩を残せばアウトサイダーの詩となる言葉
歌集出して もはや歌人になる人よ、日本語をやられたらやりかえせ
朝敵ゆえに詠み人知らずにさせられて載せられた歌ある千載集おもろ
575は不自然だから詩と思う古来心地の良さならずして
善麿の老いたる妻が、こんな日本になると思ってましたかと俺に?!
硬いものに残したものは残りゆく、彫るまでもない言葉と生きる
こんにちは。土曜の牛の文学です。
今回は休みが小さい正月だが、正月というものは、もーいくつねるとー、と思わせるわくわく感がありますね。
近代短歌論争史昭和編の17章は、「岡山巌をめぐる連作論議」です。岡山が連作論を打ったが、いくつか反応があった、くらいの論議です。一応にぎやかだった、のかな。
岡山は近代短歌はリアリズムと連作によって成立していて、それは精神においてリアリズム、方法において連作であるとして連作を大いに評価した。そして、連作の中には積極的連作、消極的連作というものがあるが、近代短歌の名作はほとんど連作であることを分析して、短歌が現代性を主張するには、連作という方法が必要であることを力説した。
岡山の論に触発され、かねて連作に関心を持っていた山下秀之助は、岡山の「積極的連作」をさらに推進し、旅行詠、生活詠を自然発生的なものとしないための「高度の構成力」の必要をあげ、また時事詠、社会詠については「個性的観点を離れてはならない」とし、そして連作といえども「一題一首としての独立性」を希薄にしてはならないため、モンタージュ形式の構成を提案した。
岡山の連作論は、詩人の佐藤一英も反応し、岡山の「連作はリアリズムの所産である」という言葉から、裏返せば、歌人が「一首表現単作は断片的表現に過ぎない」と考えていることを引き出し、連作と字余り歌は、「詩的全体的表現への欲求」への傾向であるとみてとった。つまり佐藤は、連作によって短歌が再興するというより、新しい詩精神の胚胎に対して、(連作という)短歌の内部改造は無駄な努力であると考えていた。
この連作論議はしかし懐疑的な反応も多かった。「今更新しくあげつらふべき論題ではあり得ない」「連作は決して短歌をして衰頽せしめるものではないと堅く信じて疑はない」とか、定型短歌より新短歌の方が連作傾向が低いといった意見や、モンタージュ形式のような構成もまた自然発生的といえるくらい無意識に出来ている、という指摘もあって、興味をもたれなかった。
佐藤佐太郎も、自分は連作に消極的だとした上で、他の歌人の多くが、連作に馴れ過ぎて一首が軽くなっている、はじめから連作を意識した一首は軽くなる向きがある、とまで主張した。
のちにこの昭和12年を回顧した岡山巌は、その時も、それでも「連作なくして近代の歌はない」と力説した。
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連作と単作について、現在周囲を見渡すと、結社、歌壇などの賞は連作であり、広く募集する短歌の賞では単作である傾向がある。これは、素人→単作、玄人→連作、とみることもできるし、作品性→単作、作家性→連作、とみることもできる。
もちろん、単なるスペース(作品発表の紙面的制約)という側面もあるだろう。
先日も、短歌雑誌の賞で、入選の歌が2首"選"掲載であることについて、テルヤは否定的な意見を述べたが(テルヤは、連作なのだから冒頭の2首を一律に掲載するべき、という意見)、連作の中から何首か選んであげる、という、あれは結社を体験している人の親切心なのだろうと理解している。このあたり、単作主義と連作主義が、都合よく了解されているってことなんだろう。
ところで、じゃあ文字による表現数が少ない短歌は、その表現の外側を、どうやって補うか、というと、かなりコモンセンス(常識)やコンセンサス(合意項目)や、コモンイリュージョン(共同幻想)に寄りかからざるを得ない。もっというと、個人情報ならぬ個人"属性"や、ルッキズムなども、必要な情報はアリジゴクのように吸い取って解釈しようとする形式だ。
だから、現代において短歌は、充分に配慮された表現形態とは言いにくい(どっちかというと失礼な表現になりやすい)。そもそもこの文明は詩と相性がいいか、という問題からあるんだけど、そこまで大きくしなくても、短歌はそんなに新しい現代の問題群に適切に回答できる形式ではないし、若い人がいつまでも楽しめる形式ではないとは言える。
でも、逆説的に、コモンセンスやコンセンサスや、コモンイリュージョンの、誰でもないコモンさんにはなれる詩ではある。むしろこれが現在の短歌の一部的な盛り上がりの理由のような気もする。
文体よりもテンプレを当てはめるうまさが光る短歌は、そういうことなのかな、とちょっと思う。文体の時代には、もう戻らんやろうねぇ。うまさのレベルが違うよってに。(もちろん現在の方がすごい)
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七首連作「孤独な者には」
古代エジプトに輪廻転生がないことを考えて君は黙ったままだ
神はそれ孤独な者には見えるように見えないようにヤッパ見えるように
孤独豆腐に孤独納豆と孤独ねぎと孤独醤油をかけたら孤独うまい
敵味方思考でいえばぜんぶ敵、「だれでもドア」を出してドラえもん
ひみつ道具は誰に秘密か知らねどもドラえもんを出して、そのロボット(四次元制御機構)を
サブカルとしての 季語として流行る 俳句として、もう戻れない侵食として
林檎をかじる、果実をかじる罪をかじる季節をかじる果汁をかじる