こんにちは。土曜牛の日の文学です。
『近代短歌論争史明治大正編』の論争の⑦は、服部嘉香(よしか)と斎藤茂吉の象徴論争だ。
服部は、詩歌全般をながめる立場から、短歌形式はそのひとつであって、内容によって短歌形式を選ぶこともあり、内容によって自由詩を選ぶこともあるので、ことごとく詩をつくる、ことごとく短歌をつくる、その固定的態度を批判していた。
そして、形式については「破調は定型の否定であり、詩のはじまり」といい、内容については、「真の象徴は短歌にはありえないのでないか」と、短歌は詩にくらべてイマジネーションの拡充とリズムの自律性の深化ができないとした。
この服部に対して茂吉は、西洋の象徴詩を翻訳しただけのような人工的であいまいな作品を批判し、独自の象徴論、象徴技術論にもってゆく。茂吉にとって短歌は、因習美ではなく、「短歌の体を愛敬し交合し渾一体に化する心願」の対象であり、短歌のリズムによって象徴性が獲得できないのは、個々の技法の問題であると、技術論に置き換えて反論したのだった。
この論争は、互いのサンボリズムの前提がいまひとつ噛み合わず、深化することのない論争のようであった。ただ、この服部は、いわゆる前田夕暮、土岐哀果、石川啄木のように、形式そのものを相対化してみる流れの一人であり、短歌滅亡論からはじまった近代短歌の、信と不信の二重構造がはっきりしてきたような印象がうかがえる。
関係ないけど、テルヤが57577以外の形式が繁栄した可能性をかつてツイートしたさい、57577をこの言語の必然と考えている節のある方から、ならばそれはあなたの優れた作品で示してください、と言われたことがあった。いや、それはテルヤの作品の質の話ではないんだ、と言いたかったが、言わなかった。あれ、言ったっけ?
ちなみに斎藤茂吉はこれ、尾上柴舟の短歌滅亡論でも、こういう議論展開してたよね。短歌が滅亡するんじゃなくて、尾上柴舟が短歌がヘタだから短歌に希望が見いだせないんじゃないの? っていう。ひでえけど(笑)、黙らせるには有効なロジックである。
七首連作「紙一重」
神の目線なのにわたしはスクリーンを見上げておりぬ暗き館にて
神々がエレベータから降りてくる なに食べようか考えながら
AIが人間性をめざす街、人間は機械へ紙一重
人口比に適切な職業枠を考えてそうな呼び込みバイト
介護用未満の見守りデバイスのちょうど良いのがないスマートさ
いやだって日本語がまだ慣れてない スマホに気さくに呼びかけるのに
神様にゆっくりしゃべる能楽の 祈りのアップデートよしあし
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