2021年2月27日土曜日

土曜牛の日第9回「青いほど空」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の論争の10は、窪田空穂と田山花袋の態度論争と言われるものです。この議論はちょっと面白いです。

1914年(大正3年)に、窪田空穂、彼は与謝野鉄幹らの浪漫主義から短歌に入り、そこから離れて自然主義をめざす「国民文学」を創刊して、やがて境涯詠というジャンルの一人になる歌人ですが、彼が古今集を研究する中で、ある一首を批判する。

 雪の内に春は来にけり鶯の氷れる涙いまや解くらむ(二条后の春の始めの御歌)

これの〈鶯の氷れる涙〉が、リアリティのない、知識で作った、いやな誇張で、我々の感情から自然に流れ出したものではない、と否定した。

それに対して、窪田と親しい、窪田よりやや先輩の、しかし短歌の専門ではない田山花袋が反論する。この表現は、たんに鶯だけでなく、二条后本人の境遇も重ね合わせた悲嘆の表現であり、自然と人工との微妙な一致の境であるとした。窪田の、現行の自然主義の、とにかくな表現の直接性の肯定(つまり間接性の批判)をたしなめたのだ。

この、田山花袋の短歌観が面白い。彼は自然主義の小説を書いたりする前、桂園派の短歌理論にしたしんでいたので、彼の写実の理論は桂園派の影響を受けているのだ。桂園派の、香川景恒門下の松浦辰男(田山の短歌の先生)は、誇張にも「自然の誇張」と「人工の誇張」とがあり、短歌は虚飾を拒むから人工の誇張はよくないが、自然の誇張もまた非論理的で主体的でないからダメであり、人工でありながら天然に至る表現がめざすところである、という理想をもっていた。田山花袋は、古今集のこの歌は、決してよい歌とは言えないが、そこを目指している歌だとしたのだ。

これは、田山花袋が、自然主義文学者として、当時行き詰まっていたことも示唆していたらしく、これから自然主義短歌をめざそうとする窪田に対してと、そして自分自身へのアドバイスのような側面もあったようだ。

田山はその後自然主義の平面描写から、観照主義へ向かい、自我の限界から、「個」と「全」の総合をこころみる。表現の直接性と間接性は、個の主体性と全の客観性の問題へと変質してゆくのだ。

ちなみに窪田は、〈鶯の氷れる涙〉については譲れないまでも、個と全の問題については賛成をしめした。ずっとのち、窪田は日本文学報国会の理事の一人になるが、それはまた別の話だ。


  七首連作「青いほど空」

同じことおんなじことをくりかえす吉田しだ、みたいな名前みたいな

このスマホのカドは固くていざとなれば武器として、あと電話もできる

病める日も健やかなる日も病める日も健やかなる日も健やか?なる?日?も?

許してという声を背に家を出る許したいのに家を出てゆく

買ってきた「めだまシール」を動かないものに貼ったらずっと下向き

矛盾とは不快であるが無矛盾はまったく狂気、青いほど空

ベートーベンが生まれなかった異世界に運命はダン↑ドン↓ですぐ来る


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