こんにちは。土曜の牛の文学です。
竈門テル治郎です。(このネタ2回やるほどのものか)
某人気アニメが遊郭を取り上げたことについて、けしからんということで話題になったみたいですが、ちょうど1世紀前の短歌界隈でも、遊郭に行った短歌を発表したら、けしからんと新聞がさわいだ話は、この土曜の牛の日の3回でやっていたよね。社会って、ダウングレードされてね?
『近代短歌論争史明治大正編』の論争の⑨は、アララギ内部の世代の、対立というよりは融和の話。
伊藤左千夫が急逝することで、彼らと対立していた若いアバンギャルドな斎藤茂吉たちの世代は、支柱を失ったことに気づく。対立、攻勢によって理論を深めていった彼らは、ある種の乱調状態に陥る。ここで、左千夫と同世代の長塚節が迎えられる。長塚節は、左千夫ほど若い世代と対立的ではなく、結核でもあってそれまで多くを指摘していなかったが、斎藤茂吉や古泉千樫を逝去の一年前頃から批判をはじめる。茂吉については、①論評に客観性がない②『赤光』の作歌態度は品位を理解していない、というものであり、古泉千樫については、茂吉の模倣への厳しい批判だった。
この批判は、若い世代にとっても厳しいもので、左千夫の時のように対立するものではなく、若い世代に方法意識の再確認をうながして、とくに古泉千樫の茂吉模倣については、アララギでも問題となり、千樫は苦闘することになる。
ちなみに千樫の茂吉模倣とは、たとえば
あかあかと一本の道とほりたり玉きはる我がいのちなりけり(茂吉)
山のうへに朝あけの光ひらめけりよみがへり来る命なりけり(千樫)
これの「命なりけり」が、古泉千樫のやみがたい内部衝迫から出たものではなく、安直な方法意識でしかないのではないか、というレベルのものである。当時のアララギの、実相観入に向かっていく短歌観では、そこに作者がいない、他人の言葉を借りている表現は、無意味でしかない、という世界であった。
古泉千樫は、その後独自の方法意識を見つけてゆくが、この長塚節の古泉千樫批判とその対応は、アララギ全体の方法意識の深化へとつながってゆく。しかしこれはアララギの、内部化、結社化にもつながってゆき、外部の批評観と異なってゆくのであった。
七首連作「石の話」
石ひとつに宇宙の歴史があるとして この石は聖者を痛めた自慢
上から下へきれいな水が流れるよ石さえまるく不幸さえまるく
元素番号最後の原子をミステリウムと勝手に名付く、虹色の石だ
きみのてをはなれてぼくの手におちる石のぬくみが恋のつかのま
笹ヤブから石のつぶてが飛んでくる、妖怪を信じる者にのみ
河川敷で石の話をしばらくは意志の話として聞いていた
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