2021年2月13日土曜日

土曜牛の日第7回「ここまで詩」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

こんにちは、竈門テル治郎です。禰豆子も近代短歌楽しんでる?(ムー!)

ということで、近代短歌論争史明治大正編ですが、鬼滅の刃の時代の大正時代に、近代の歌人たちが何を論争していたかという今回の論争⑧は、若山牧水と斎藤茂吉の破調論議です。

明治の浪漫主義から自然主義へと向かった若山牧水は、第三歌集『別離』でアララギの写実主義から攻撃を受けるも、牧水の影響はアララギの内部で伊藤左千夫と茂吉らの新旧交代のトリガの一つになった。

その牧水は、第五歌集『死か芸術か』(すげえタイトル)、第六歌集『みなかみ』で、破調作品に挑戦する。で、この二作は、不評だったので、以降は、また既成の方法にもどってゆく。

牧水は、破調を「実生活にたいする一種の自棄的反抗の自己表出」と考えていたが、茂吉は、定型を「プリミチーブな自然的拘束」と考えていたので、牧水の破調の作品を、だらだらして力がない「浮気者の歌」と非難した。

牧水は『死か芸術か』が不評だったので、みずからの同人『創作』で、破調の評論特集を組んで、ひろく意見をあつめた。はたして、牧水の期待にそった内容だったか。

服部嘉香は、「破調は定型の否定であり、詩のはじまり」という視点から、賛成。

広田楽は、「自己内心の已みがたい要求に依って」なら定型と共存するとして賛成。

北原白秋は、なにも宝石にわざと傷とつけなくてもよいではないか、と反対。

西出朝風は、口語であってもどうも日本語の音脚はやはり五音七音だ、と反対。

島木赤彦は、自分もちょっと破調を作っていたのだが、彼は、破調は定型あって緊張が生まれるかもしれないが、定型に執着のない破調は、無造作の破壊であって、意味がない、と反対を示した。

牧水は、悩んだろう。彼には自然主義の志向性として、定型の欠点の①なんでもいちおうの抒情性となる完結性、②未分化なリアリズムに逆行する感傷性と閉塞性、③文語使用による発想の間接性、に対する一つの解決として破調を考えたのであろうが、どうも理論的な根拠を得られそうになかった。

新体詩としての可能性も視野にいれた第六歌集『みなかみ』も不評になるに及んで、彼は自信をなくし、茂吉に停戦も申し入れる。茂吉はそれでも追い打ちをやめなかったが、この牧水の挑戦は、アララギの定型万能主義や定型意識を深める一方、のちの自由律への先駆的な役割にもなったのだった。


  七首連作「ここまで詩」

ギュスターブ・モローの見つめあう絵たち、輪廻転生が噛みあわなくて

認知症も神の偉大な許しにてまろやかにほどけたれば母は

仏像の仏の指のささいなる角度が悟り、仏師の祈り

ここまで詩、ここからは詩の外にある線引けば線で分かれるこころ

撫でられて顔の溶けたる木喰仏さて、木喰は昏き効率化知りて

神もまた詩のレトリックになるときにジュディマリのYUKIが使う軽さで

知っている、輪廻転生ということばは輪廻転生を否定するためにある


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