2021年3月6日土曜日

土曜牛の日第10回「翌年の春」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の論争⑪は、沼波瓊音(ぬなみけいおん)と斎藤茂吉のフモール(ユーモア)論争だ。この論争も、短歌の現在に参考になって、おもしろい。

けいおん! じゃなくて沼波瓊音は俳人で、「俳味」を創刊するが、のちに宇宙の存在に疑問を持って信仰生活に入ったり右翼となっていったり、興味深い人物であるが、俳味というネーミングもなかなか鋭いと思う。

でこの瓊音が『心の花』に載った沢弌(さわいち?はじめ?)の作品を褒める。ほめるというか絶賛する。作品自体は、軽妙な思いつきで日常を描いたような作品だが、瓊音がその時求めていたものがそこにあったのだろう、図書館で沢の前作品を調べ、心の花に問い合わせて、沢の連絡先を得て、面会までした。

これに噛み付いたのが、斎藤茂吉だった。まず、「予は現世で短歌を鑑賞する人々の中に沼波氏の如き、予等と全く異る雰囲気の中に住む人のゐることを知って、いたく驚いた」と瓊音のまとはずれの評価を嘲笑する。そして「生活と歌と一髪の隔てなく、ピタリと一つになっている」と瓊音の言う歌を「家常茶飯の単なる輪郭の報告」にすぎず、ふざけて、気取って、得意で、安っぽい安心の歌であると批難した。瓊音は斎藤の真面目さと固さを反論するが、斎藤はますます執拗に、排他的に、短歌の論理性と精神主義を押し付けてゆく。

この茂吉の、局外者を馬鹿にする態度は、周囲からも反感があって、何人かは、茂吉のユーモアのなさ、攻撃の執拗さに対して批判もした。茂吉は、のちにやや反省めいた事も書いたが、基本的に訂正をすることはなかった。

この議論は本来、短歌におけるユーモアとそのあり方、へと至る論争のように見えたが、結局、結社で短歌論理を深めていった茂吉が、俳人が俳句の角度からの作品のリアリティを語るのを排他的に攻撃して、結社が孤立する流れをつくった論争のひとつとなった。

つまり「あんな歌のどこがよいのかわからない」という意見の発症、いや発祥は、結社での排他的な議論と無関係ではない、ということだよね。


  七首連作「翌年の春」

初心忘るべからずの初心はいつだっけどこだっけあと誰だったっけ

人生の三つの坂の三つ目のプラモデル三昧の石坂浩二

春夏は戦争なので秋冬は戦後処理ですねえお父さん

戦後処理のながい時間をソシュールのシュールな穴ぐらなるアナグラム

白秋を名乗る十六の少年のなかなか中二病の先達

戦争が終わった年の翌年の春をうたうか敗戦詩人

サンガリア 炭酸水は 風呂上がり テレビのなかで 民が圧されて  


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