2021年3月20日土曜日

土曜牛の日第12回「受け継がれたい」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史明治大正編の13は、島木赤彦と窪田空穂・松村英一の写生論議、と言われるものです。論争というか、写生にまつわる「すれ違い」が近いような、そう、論議であった。

雑誌『国民文学』を創刊した空穂は、そもそも他人の作品に注文をつけることは「作者を萎靡させ面白くなくさせるだけだ」という考えもあって、わけへだてなく評価し、批難することはなかったが、島木赤彦の第二歌集『切火』の、作者の写生の態度について、主観をおさえて、素材と描写だけになるなら、散文との境がなくなるようなもので、むしろ前の歌集の抒情的な作風のほうがよいのではないかと述べた。

それに対して島木が、またアララギ特有の偉そうな物言いで、「空穂氏には到底われわれの写生の奥底はうかがえない。主観と物とは別々のものと考えて、万象の中枢に深く澄み入る本願が理解できないのは、素人の見方である」などと反論した。

しかしその頃空穂は『作歌問答』という本を出していて、写生についてじゅうぶんな理解と分析をすでに行なっていて、歌とって写生は尊重すべきだが、歌の本来であるのは「心持ち」であって、写生は歌そのものではない、写生にとどまっただけのものではない、という、当時のアララギよりもリアリズムの基本的な方法として認識していたので、島木の反論に答えることはなかった。

すると、空穂の後輩の松村英一が、島木に対して、茂吉風の、島木の作品を各個撃破するやり方で論争に打って出た。松村の基本的な写生の考えは空穂と同じだが、島木の作品は①かたちが整いすぎている②説明的な言葉が目立つ③調子のながれるようなものが欠けている④作者独自の発見が乏しい⑤情景がはっきりしても、気分がない⑥理屈っぽい⑦発想が伝統主義的、と攻撃した。しかし島木は、これには反応しなかった。

写生はのちにアララギにとって専売特許になってゆくが、この段階では、島木の写生観は、「楽しい、悲しいという抽象化された輪郭言語の歌は、抽象描写で、比喩をもちいた感情表現は、間接描写、説明描写だ」から、これら抽象描写、間接描写を用いないのが写生である、という程度の写生論であった。

この論議がすれ違いになったのは、平行して、前回の土岐哀果と茂吉の論争が行なわれていた、というのもあるし、『国民文学』は、短歌だけでなく文芸一般に関心があったからでもあったろう。最初にもあったように、空穂自身は、アララギの、一音一句に注意をうながす緊張した歌風をほめていたのであるし、『切火』の批評も、前作と比較した程度の批評であった。


  七首連作「受け継がれたい」

生きることのオノマトペを朝決めている、ぞろぞろ、にょろにょろ、ざばざば、ケロケロ

ものが動くことはセクシーつまりつまりおはようセクシーおやすみセクシー

人間に人間のはだかはいやらしい隠せば隠したところはさらに

ラテン系の「イーヤッホー!」のアクセントは宇宙に行っても受け継がれたい

おじいちゃんの地球の昔話などみな聞き飽きておじいちゃんだまる

梅の木が気づけばぱっと赤みして可視光線界ほろほろうれし

ニッポンの話題はすぐにイッポンの束に収束する背負投げ


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