2021年10月30日土曜日

土曜牛の日第44回「僕という絵本」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

近代短歌論争史昭和編の第10章は「岡山巌と渡辺順三の現実主義論争」。岡山巌(いわお)は、歌誌『歌と観照』を創刊していたが、昭和9年11月の『短歌研究』で、現在の歌壇は4つの現実主義を生きていて、どれも行き詰まっていて真の現実を描けていないとした。

それは、アララギの写実説からきた「万葉復古的現実」、そして牧水・夕暮によって代表される自然主義がもたらした「輸入文学的現実」、いわゆる社会派からプロレタリア短歌に受け継がれた「舶来社会学的現実」、さらには最近の近代都市の機械化などを抽出した「新即物性リアリズム」と要約されるとして、それらではない「環境と私との直接的な関係性による現実主義」を提唱した。

ちょうど同じ『短歌研究』11月号で、プロレタリア歌人の渡辺順三が「最近の歌壇に於ける現実主義の理解において」を書いていて、歌壇で言う現実主義が、主観的や観照的、あるいは自然主義的にすぎないとして、無党派的ではない、社会主義的リアリズムを提唱した。これは渡辺独自の論というよりは、プロレタリア文学論に沿ったものを短歌に適用したくらいものだった。

自分のリアリズム論が「舶来的社会学的現実」という行き詰まった現実主義の一つとされたのだから、当然渡辺は岡山に反論を書く。

岡山が「舶来社会学的現実」では具体的な人間関係を掘り下げられないというが、それは「社会関係の総和(レーニン)」として考えなければ、実体をつかめられず、一人の人間の考えや行動は、社会的関係のなかではじめて理解が可能であること、また岡山の言う直観的、主観的に現実に把握することは、西田幾多郎の主観的観念論の影響を受けたものであり『非現実』主義の泥沼に片足を落とし込んでいる、と揶揄した。

岡山と渡辺の応酬は三度も反駁し合うが、論争そのものが動くことはなかった。渡辺はプロレタリア文学理論に自信をもっていたし、岡山はプロレタリア文学理論ほど整理されていなかったし観念的であるきらいはあったが、新しい現実主義を模索する姿勢はあった。

論争のあいまに、岡山は歌壇に対して、結社があって精神や主張があるのではなくて、精神や主張があって、それから集まりがなければならないと言ったり、しかし何々主義よりも前に具体的な人間がひかえていなければならない、というイデーを述べたりした。また渡辺も、短歌が「芸術性」と「大衆性」を(矛盾するものではなく)なんとか統一できるものとして、そのための理論と現実主義を考えていた。しかし彼らの志はともかく、その議論は、抽象的、観念的、またはマルクス主義の公式論的で、現実の作歌にあまり関わらないものだった。

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昭和初期はプロレタリアのロジックが吹き荒れるし、マルキシズムというのは、入り込むと一瞬すごくクリアになるので、人類に猖獗した、というのはわからなくはないのよね。

でもどうかしらね。またプロレタリア短歌、流行ったりするのかなぁ。兆しはないけれども、裏側には居るような印象はあるよね。

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  七首連作「僕という絵本」

心臓に話しかければ心臓は自意識なんか軽んじられて

交響曲を九つ作れば死ぬという時々ほんとのうわさがあった

戦争のない世界とは広告を消すための広告を流す世界で

絵本(picturebook)とはまったく不思議、絵本から出れない僕もウィトゲンシュタインも

コンビニズムの光の中でわれわれという輪郭に突っ込むプリウス

真実しか述べない僧がいるのならおそろしいよねそいつの不朽舌

僕という絵本に君をまねきいれやっぱりきみは姫さまでした


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