2016年1月2日土曜日

2013年12月作品雑感。

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

年末、といっても3年前の年末の作品です。
年末というのは、次の月が明けてしまうものだから、より明けてしまう直前の、より暗い部分があったりなかったり。

  シネイドの少し甘えた声をして喪失を歌う、歌うほど憂し

照屋などはずっとシンニード・オコナーと呼んできたから、シネイド言われてもピンと来ないけれどねえ。いつぞやラジオを聴いていたら、シンニード・オッコナーと呼んでいる人もいたな。その人にとっては、オッコナーなんだろうね。

  軽妙に気持ちは沈む年ふれば季節天気が身に及びゆき

  無害また老害に似てさびしげな笑みなどはつゆ浮かべてならぬ

  衰滅(すいめつ)の正体を深く辿りいて思い当たりしひとつの不信

憂いというのは、老いというものとつながっていて、現代の日本の空気は、全体がそうでないにしても、とても老いを恐れているようなところがある。恐れているから、◯◯力みたいに逆説的にポジティブにとらえてみせるし、老害と嫌悪したりする。

むかしは痴呆症のことをボケと呼んだが、これはボケは病気ではなく、老人の一属性であったのだろうし、ボケててもそれなりに生きることが可能であったのかもしれない。(もちろん長寿によって深刻度は増しただろうし、迷惑やしんどさはあっただろう)

老いの問題は、たぶんもっと大きな日本の思想文化のひとつの現れ方にすぎなくて、自殺とか差別とか、フェミニズムとか、オタクとかと根っこでつながっているように思う。

はっきりとはよくわからないけれど、ここ数年、ネットなどの議論は、ずーと同じ話題が繰り返されているようにもみえる。

ま、新年のあらたな気持ちなんか、千年以上繰り返されているんだけどね。

自選。
  人心も自然の比喩であるならば明けない夜があったりもする

  小麦粉を水に溶きおりかつて人は錬金という救いに燃えつ

  来世にもこんな喧嘩をするのだろうテーブルに冷めた食事のような

  花笠の娘の踊り明るくて過去世の業を断ちゆくごとし

  本質に届かなくてもいい夕べ、小動物を撫でて酒飲む

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