馬の骨、という言葉は、煮ても焼いても食えない、出汁にもならない、というところから来ているそうだが、検索するとあるみたいね、馬骨の出汁。
短歌というのを、けっきょく、どこに落ち着かせたいのか、なのだろうね。目的というか、ゴールというのか。
芸術の本質の一つに、永遠性への希求、というのがあるのは確かで、この瞬間を、永遠たらしめたい、という気持ちから生まれる。それは、景色だったり、感情であったり。
芸術の本質論まで遡ると、話が長くなるな。やめよう。
短歌のゴールは、この気持ちを書き留めたい、みたいなところから、忘我させる表現に出会って、自分もうまくなってそういうのを作りたい、とか、それを褒められたい、とか、そういう忘我を提供したい、とか、短歌のかたちで自分を表現したいとか、自分を残したい、とか、あらゆる事象を定型にする挑戦に取り組みたいとか、真実や救いのようなものと向き合いたいとか、定型表現そのものの幅を広げていきたいとか、誰もしたことのない表現を作りたいとか、この表現が生み出す場で、人とつながりたい、とか、他にやることがない、とか。
ツイッターで書くわけだから、見せたくないってことではない。表現はすべて承認欲求という考えかたもあるけれども、承認されるかどうか、反応をみたい、というのもあるようだ。現在地を知りたい、という欲求。これは、ちょっと承認欲求と違う。
先日、歌会の得票はポピュリズムだと書いたが、もっと以前には公約数だと書いてもいて、いまそれは中央値(メジアン)を知る行為なのかな、とも思う。
山登りで言うと、ガチで数千メートル級の山をクライミングしたい人と、何合目かまで車で上がって、その辺を散歩したい人もいて、そういう感じに短歌のゴールもある。
自分がどこにいて、どのゴールを行くつもりなのか。他の人はどこにいて、どのゴールを目指しているんだろう。
自選など。
人間のごみを集めてあたたかきミノムシの蓑をずっと見ている
歩くとき詩は涌きやすく足裏(あなうら)にそういうつぼがあるのだヒトは
笹紅をあげたき人であったよと言ってからそんな気をもっていた
人界の苦労を忘れ工場の裏の畑で花を笑む母
時間では心は年をとらざれば心ならざるものばかり老(ふ)く
新しいもの建つために壊れゆき壊されていく側から見おり
人間の入れぬデッドスペースで足突き出して猫がくつろぐ
人間一匹食っていけないことなんてないのだ闇は一寸の先
あまりにも悲しい夢は思い出せずやさしき脳が隠しておりぬ
あのように目を当ていれば男とは一年くらい狂うていたる
どのように生きてもいいと言われたらつらいな、水から遠いスイセン
酔いたればトイレが近くこの国にひろく立小便せしか忠敬
ぎこちないフォームでえいっ遠投す、目的観の低さが不幸
背を反って首かたむけて見つめたる君の景色を時々おもう
子のあらば外から帰りくるたびにかお包みたし耳珠(じじゅ)に触れつつ
悔しいがげんこつを目に当てて泣くそんなしぐさをするわけにいかず
じゃがいもが湯でほどけゆくそれまでにいやその後で大事な話
生きるとはかたちが変わることなので裸体の傷の君たしかなる
この場所をリーフィーアイランドと呼ぼう観葉の鉢数個だけれど
公園の低いベンチは流れゆく時間から少し離れて在らん
きはちすが君の背丈を残しつつ君を失う夢をみていた
とこしなえに名の残ることなきわれに今年の梅が咲きそめている
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