2017年3月12日日曜日

2017年02月うたの日自選と雑感。

歌会をやると、選のあとに作者が自分の作品について述べる時間があって(ないところもあるだろうが)、それを解題(かいだい)と呼んだりする。

最近になって知ったのだが、この解題は、地方によって好まれたり好まれなかったりするらしい。なんでも、関西はあまりしない傾向、東京はわりとする傾向があるとか。ほんまかいな。(そして他の地方はどうだろう?)

わからなくはない。関西は、ネタばらし、というか、自分の笑いどころを自分で説明するのがとても野暮にみえるのだろう。

たぶんこれは、短歌の独立性と自意識の比重が生み出す現象なんだろう。

解題のレイヤをほどくと、いくつかのレベルグラデーションがあるように思う。
1、その歌の背景となった出来事や、気持ちを語りたい場合。
2、自分がうたいたいことが、ちゃんと表現出来ているかどうかの技術検証。
3、自分のねらいはともかく、この歌が到着している地点はどこかを共に考えたいケース。
4、独立した短歌表現として、作者の立場を離れて批評するスタンス

短歌を語るときによく将棋をテルヤは持ち出すのだが、解題というのは、将棋の感想戦に似ている。勝ち負けはあるものの、よりよき将棋を指すために、ここはどう指すべきだったか、この時に何を考えていたか、を語りあうあのシーンは、将棋文化の実はいちばんカッコイイところだと思うが、それはさておき。

だから、感想戦で、自分がどんなにこの将棋に勝ちたかったか、どういう勝ち方をしたかったか、というのを力説するのは、やっぱり野暮な場合はある。さりとて、ここのこの一手はどういう狙いで? と訊ねても、ご想像におまかせします、ばっかりだと、それもそっけない場合がある。
盤上の駒の結果がすべてだ、作者の意図なんか雑音だ、という考えも、あることはあるんだけどね。

表現って、自分の一部を切り取って見せる行為だから、やっぱり自意識はあるし、負けて感想戦するような脳の心肺停止状態から防衛したくはなるんだよね。

(これ書いたあと、自選ってやりにくいぞ)

自選。

「蟹」
われわれの祖先が蟹でなくたって右か左についかたよるよ

「福」
マンサクの花が咲いたらもういないあの老人は福の神かも

「昔話」
100年後昔話になるために宝を集めておこうぜ友よ

「宇宙」
カウンターにいつもの宇宙人がいて宇宙の愚痴が長い金曜

「ピクルス」
われがまだまったきピクルスになる前にビンの中より見る無情の世

「起」
起きてるよ話もちゃんと聞いてるよ⋯⋯、⋯⋯、ひよこ。(ひよこ?)

「サーカス」
サーカスの帰り途(みち)なんとぼくたちはドラムロームのない生を生(い)く

「甥/姪」
遅刻ばかりしている姪の通学のコースは鶏(とり)、犬、犬、窓の猫

「くじら」
肺呼吸で海に棲む業の引き換えに死後鯨骨は宇宙となりぬ

「そっと」
20万年そっと彼らを見ていたがあと10万年様子をみよう

「牛」
世間的にはしずかで優しい彼だけど牛の顔していることがある

「タンバリン」
チキチキチャ、チキチキチャリチャ、きみの部屋会社で嫌なことがある日の

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