昨日は東京文学フリマがありまして、ふだんツイッターのタイムラインで拝見している方が、本当に実在するのか、AIではないのか、確かめるために行きました。そして、本当にゴーストをコピーした擬体でないのか、虹彩まで確認して、その実在を確認しました。(もちろん、私自身が水槽に沈められた脳であることを否定することは出来ていないのですが)
という冗談はともかく、多くの方にお会いできて、うれしかった。そしてみなさん、いろんな活動をされていて、凄いことだと思うのです。
短歌名刺からはじまって、フリーペーパー、ネットプリント、冊子、そしてまあ、歌集というのがあるのですが、自分もなにかやったほうが良かったような気になります。
これは以前もツイートしたことがありますが、ネットというのは、あるいはブログ、HPというのは、本質的には、電子書籍と同じ、いやそのものだと私は考えていて、ツイッターというマイクロブログを、表現の場に選んでいました。
ところが、やはり、ツイッターは、本当に大事なことを書く場所ではない、と考えている方は、多いようにも思います。それもわからないでもありません。
たとえば、本に嗜好的に趣味がある方は、活版印刷の本を喜んで、指で字をなぞり、その凸凹を愛でます。しかし、活版印刷しかなかった時代には、その凸凹は職人の下手さを示すものであり、いかに凸凹させないで印刷するかが、職人の腕であったのですが、皮肉なことに、その下手な凸凹こそが、愛でられたりすることになっています。
短歌もきっとそうで、歌集に載っていそうな短歌が、短歌然としている短歌で、ツイッターに流れている短歌なんて、本式の、正式な、純粋な、短歌ではない。どこかでそんな気持ちがあるのは、わりと誰もが持っているかもしれない。
それは、活版印刷の凸凹で、本当にないのだろうか。
名刺代わりの歌集が欲しい時もある説明しがたきおのれにあれば 沙流堂
2015年10月の自選など。
ルナティックなんだからこれはしょうがない詩を作ったり電話をしたり
同じ場所で違う時間を歩く君と笑顔を交わす、笑顔だよな
チャタテムシを三匹爪で潰しいき、長き寿命を説く経の上(え)に
ループする母の会話にスタンド使いならざる我は敵見つけえず
ぬるぬるん、ぶどうを口に入れながらふたりはいつか飲み込む機械
やや雑に犬は頭を叩かれて飼い主の知人なれば許しき
子の首に薬を塗っている母のごく手慣れたる祈りのごとし
食べたあと可能な限りすぐ横に寝転がるのに牛になれない
好きだった娘もかあちゃんになっていてその大きなる尻ぞ善きかな
いきものの多くが生きるか死ぬか死ぬ寒さの冬がくる、冬がくる
殴られて地にうつ伏せて土を噛むこれは放線菌のにおいだ
お別れは悲しいけれど悲しさに側坐核ふるえることも知る
昼飯は会社の外は明るくて小雨、ぱらつくチャーハンにする
モアイみたいな蓋付き便所怖かりしばあちゃんの家の跡地、コンビニ
掌(て)のなかのいのちに承認されていてわれ顔のある樹木のごとし
懐かしくブーニンを聴く音楽が亡命に至るわかき時代の
さわやかな10月の夜歩きつつ話したいけどあかるくひとり
父方の実家の庭になっていたサザンキョウなど飢えの備えの
台形の土地にある家壊されてまた台形の家が建ちゆく
パロディ短歌
とつぷりと真水を抱きてしづみゆく鳥人間を近江に見をり
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