2021年7月17日土曜日

土曜牛の日第29回「真夏日や」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

大正11年(1922)に大きな爆弾が投下されました。近代短歌論争史の30は「萩原朔太郎をめぐる歌壇沈滞論議」です。

萩原朔太郎が『短歌雑誌』にもちこんだ「現歌壇への公開状」の書き出しはこうである。「歌壇は詩の本分を忘れてゐる」。朔太郎は、当時の歌壇が「老人の隠居仕事にする風流三昧の如く、我等の時代の人心と没交渉である」ことを批判した。

また、歌壇が前時代の<徹底自然主義>にまだいることを指摘し、文壇から7、8年遅れて埋没しているとした。

さらに、「歌壇は万葉集を理解しない」として、万葉のエネルギッシュな情熱を受け止めず「古典趣味」にとらわれていると批判した。そしてこの古典趣味は、短歌を「専門家の楽屋落ちの趣味にすぎない。必然性のない普遍性のない、全くくだらない独りよがりの趣味」にしているとした。

結論として、朔太郎は、日本の和歌の運命は、行き詰まっていて「殆ど絶望に近い」もので、この疑義は天才が出て一掃してもらいたいと言い、歌壇に挑んだのだった。

これについて、歌壇からは、まず橋田東声が「部分的に見てくると欠点もあるやうぢゃが、歌壇に熱情が足りないといふのは事実だね」といい、吉植庄亮は、逆に詩のわからなさ、翻訳詩壇をなじる方へいき、尾山篤二郎は歌壇を代表するような態度で強く反対し、西洋の思想を取り入れるのが若々しいなら、みな西洋に移住しなければならないのか、と言葉尻を捉えた反撃をおこなった。

反響は続き、藻谷六郎は、詩の本分は忘れても歌の本分は忘れていない、とか、時世に遅れるなどという流行でなく、流行を超越している、というピントがずれた反論もあった。そしてまた、詩壇(詩人)に短歌のなにがわかる、というスタンスが根底にある意見もあった。

朔太郎はこれらに自信をもって丁寧に答え、主張がゆらぐことはなかった。比較的交友関係もあった尾山篤二郎とも、「1,詩と時代の関係」「2,西洋の文明と新日本との関係」「3,詩のわからなさ」について議論を深め、①現代の人間が作れば現代の詩になるとしても、それでも歌壇が古臭すぎる、②西洋から日本に目を向けるのは悪くないが、しかし古典趣味に埋没している、と言い切った。③については、詩の未熟なることを認めた。

他に大小さまざまな反響はあったが、この論議には、肝心のアララギはほとんど加わらなかった。斎藤茂吉がオーストリアに外遊していたのもあったろうが、詩人と取り組むのを苦手と思ったのか、ほとんど雑音あつかいのようだった。

この議論が、前回の橋田東声の歌壇改革案の提案にもつながるし、大正15年の「短歌は滅亡せざるか」という企画へと流れ、昭和初期の歌壇の盛況への遠因ともなる、大きな役割となったのだった。これが、近代短歌の短歌滅亡論の、大きな2の矢であった。

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短歌滅亡論。第一の矢は、近代化にともなって、日本の和歌の形式が近代に適用できるか、という絶望であった。そしてこの第二の矢。これは、要するに歌壇が閉じてゆくことへの絶望だったと言える。歌壇というのがあいまいなら、結社と言い換えてもいいだろう。

閉じてたっていいじゃないか、という問いも、もしかしたら現在では発生するかもしれない。そうだな、その選択肢はなくはない。でも、それはあれだ、田舎に来た若者に対して、うちの長男の嫁になるんじゃったら、いろいろの土地や役職を与えてくれるような状態になるんじゃないかな。

この時代は、まだ人口爆発が起こる前の時代なので、先細る民族の生存戦略の意識など、毛頭なかったに違いない。



本日はシェイクスピア風交叉脚韻ソネット(14行詩)で。(abab cdcd efef gg)

  七首連作「真夏日や」 

真夏日や絵画のようなかきごおり

 ひとさじごとの 暑い 冷たい

幽霊はいないと信じてるこっそり

 いつからボクはここにはいない


星の音がんがんと田舎の夜に

 恋をするしかないふたりきり

うれしいとまたそうやって噛みつくし

 調子っぱずれのうたもまたいい


遮断せよ! インターネット的何か

 血塗られているマウスカチカチ

黙示録、世紀末には会いたいな

 小さくなった月にバイバイ


たそがれになみだひとすじなるめざめ

 とおくにやまがあるてんきあめ


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