2021年7月3日土曜日

土曜牛の日第27回「以前の訛り」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

7月、今年も折り返しのようなところです。疫病も3年と考えたら、去年からこれまた折返しのようなところかもしれません。

近代短歌論争史の28は、名前は有名な「北原白秋と島木赤彦の模倣論争」です。でもこれはあまり書くことがないなあ。大正12年(1923)くらいに、北原白秋の影響を受けている(模倣説)と言われた島木赤彦や斎藤茂吉らアララギが、それを否定するために白秋攻撃をしかけたという、結社政治の話でしかない。

その5、6年前にはアララギからも作品掲載を求められて提出してもいた白秋は、その攻撃に疑問を感じつつ、批評態度の失礼さに憤激して、しだいに現在のアララギの封鎖的な態度を批判するようにもなった。「以前の清朗と無邪が認められず、妙に傲風な荘重病と渋がり病とにかかった感がある」

白秋は斎藤茂吉選集の序文でも、同時代の詩人どうしが影響を受けるのは当然のことだ、というスタンスであったが、アララギでは、赤彦が白秋の歌を「歌になつて居らぬ」アララギに比べて白秋の歌を「杉とどんぐり」赤彦門の土田耕平が「濫作」「粗悪」と、その攻撃は口汚いものであった。

この半年くらいのやりとりは、歌壇ではおおむね白秋に好意的で、この模倣論争が、結果的に半アララギの雑誌『日光』の創刊をさらに加速させることにつながったのだった。

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短歌、(俳句や川柳の中にもあるらしいが)とりわけ結社の、上で白秋が書いた「傲風」とか排他性は、この頃から養われている。先日もある現代詩人が俳句を書いたことに対して、傲風のいいサンプルのような反応があった。この傲風、排他性を最初に無くすのは、どの短詩形だろうね。結社が少ない方が有利だろうね。(当時は一つの結社に反対するにも、結社を作ることが対抗だったけど、現代はその必要はないのはラッキーなところだ)



  七首連作「以前の訛り」

物質を切り刻んだら究極は「太初(はじめ)に業(わざ)ありき」とゲーテ書きよん

思想だろう、ウイルスも検査もワクチンもひょっとしたらこの生とか死とか

雨だからどしゃぶりだろう籠ってもどしゃぶるだろう愛は怒りは

近づけば絵の具だ、かつて好きだった人の顔もうもう印象派

新宿の百年前は牛がいて、風向きであのにおいもあるん

反対の考えもあるそりゃあるさ、住めば都だ都に住めど

正岡子規の句集読みつつ楽しみは標準語意識以前の訛り


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