2021年7月31日土曜日

土曜牛の日第31回「わたしあるまで」

 こんにちは。土用の丑はうなぎです。じゃない土曜の牛の文学です。

うなぎ食べた? あんなのは無理して食べなくてイール。

今日の近代短歌論争史は32「『改造』における短歌滅亡論議」です。

明治の終わり、それから大正の終わりに短歌滅亡論がそれぞれ登場するが、大正の終わりの滅亡論は、歌壇の停滞、プロレタリア文学の成長の他に、島木赤彦の死もあったようだ。

プロレタリア文学系の雑誌『改造』の特集「短歌は滅亡せざるか」は、文壇からは佐藤春夫、芥川龍之介、歌壇からは斎藤茂吉、釈迢空、古泉千樫、北原白秋に、それぞれ回答を求めたものだった。

回答は、滅亡を否定したのは、茂吉、千樫、白秋の3人、肯定しているのは迢空、春夫の2人、芥川は明言していないが、否定的な意見だった。肯定否定が3対3だったのは、かなりの危機感のあらわれだったと思われる。

肯定)古泉千樫は「歌に対する信念」として肯定論を述べたが、「ただ歌は抒情詩である。さうして最も素朴な詩形である。大地に深く根ざした吾々の生命を表現するに最もふさはしいものである」という楽観的な肯定論であった。

否定)佐藤春夫「三十一文字といふ形式の生命」は万葉の直接な感情表現は評価しているものの、現在のアララギ風の作品を窮屈なものと否定的に見ていて、現代人の多くの感情を三十一文字に縮めるのは自然ではないと考えた。そして、詞書や連作、口語や自由律が起こっていることこそ「短歌なる形式の現代人にとつての不自由と不徹底とを意味してゐる」と、短歌の可能性を否定し、明治大正が短歌の最後の夕栄の光だと言いきった。

どちらかというと否定)芥川龍之介「又一説?」は、短い、気合の入った文章ではなく、短歌が短いから情感が盛れないというのなら、近代歌人の仕事を無視している、としながらも、その近代の仕事も、古い猪口にシロップを入れて嘗めていると言われればそうかもしれないし、それでいいのか悪いのかよくわからない、という文章だった。

大肯定)斎藤茂吉「気運と多力者と」は短歌は滅亡しないと豪語したものだった。明治の短歌滅亡論から現在まで、短歌が盛大であること、「けるかも」調の歌が普遍化されていることを挙げて、歌人の心に「魄力」が充満している限り歌は滅びない、しかも国が興る限り短歌は盛んになると述べた。これは茂吉個人の信念でもあろうが、赤彦亡き後のアララギを背負う責任の表れでもあったろう。そして短歌をさかんにするために①「多力者」の出現が必要である②他の芸術にも目を向ける必要がある③短歌は翻訳を許さない微妙で深遠な形式なため、他の文学ジャンルにも指導してゆく必要がある、と述べた。しかし、やや本音の部分で、「人間には「飽く」という心理があり、日本人はそれに敏であるから、万葉調を棄てて、何かほかの変わつたものに就くであろう。」と短歌の将来を想像したりもしていた。彼自身、口語歌に関心も持っていた。

肯定)北原白秋「これからである」は、前回に土田杏村と議論したように、実作者の個人的な決意のような文で、①自分はまだ短歌を極めたものではないので滅亡などは考えもしない②詩興におうじて形式は変えるものである③定型のなかにあってこそ鍛錬されるものがある、という考えであった。茂吉とは反アララギであったが、上の茂吉の文については敬意を払うことを表明した。

大否定)釈迢空「歌の円寂する時」は、実作者側からの、熱のこもった滅亡論であった。「歌は既に滅びかけて居る」と結論を先に示し、その理由を①歌の享けた命数に限りがあること②歌よみが人間ができていなすぎること③真の意味の批評がいっこうに出てこないこと、とした。理由については③から説きはじめ、分解的な宗匠添削は真の批評ではなく、作品と作者ににじみ出る主題を具現化することであり、批評家はそれをおこなう哲学者でなければならぬとした。また②は、歌人が人間として苦しみをして居なさすぎるため、小技工の即興性を突破する情熱を持てないことを警告した。そして①は、短歌の発生が宿命的に性欲恋愛の抒情詩であり、叙事詩のように概念や理論を取り込むことが出来ぬのに、さらにいくばくの生命をつなぐことができるのか、と疑問を呈して、滅亡の証明をおこなった。

そして、短歌の滅亡についてだけでなく、今後の展望として、和歌形式が最終的に民謡の二句並列の四行詩になった歴史をもとに、口語を取り込むことで、形式が変わることを予言し、自らは四行詩を提案した。

明日の短歌は「小曲」になる、と悲観的な見通しをした迢空は、この論の続編でも、「明日の短歌は、もう私等の短歌とは違うてゐる筈だ。短歌でさへもなくなつて、唯の小曲となつて居るだらう」としめくくった。

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この釈迢空の文を読むたびに、彼が現在の短歌を見たらなんというのだろう、と考えてしまうね。「私等の短歌」とは違っている、その意味では、彼の予言は当たって、いまは滅亡後の世界かもしれない。迢空の滅亡論は、短歌がうたう人がいなくなる、という滅亡論とは違って、違った短歌が隆盛する、そういう滅亡論のようだものね。また、茂吉の滅亡否定論もまた、逆の意味で、おそろしい予言でもあるよね。国が興るとき、また短歌は盛んになるわけだから。それは現在の意味の短歌ではないよね、きっと。

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  七首連作「わたしあるまで」

イエ電に自動電話がかかってきて留守電が返事する近未来、今

線香の煙は過去の比喩にして、もういない人はほんとにいない

手の中に鳥の感触ありましたこの感触はわたしあるまで

現代に天才義賊あらわれて盗みをはたらけば咎めらる

悪いことはうまく隠して生きたいし地球史的に多めにみたい

たかいたかい平和はとてもむずかしい辿りつく日までたかいたかい

生きるのがどうしてたたかい 夜も更けて額づくように、生きよ、って言う


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