2021年7月10日土曜日

土曜牛の日第28回「なのにね」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争は29、「橋田東声と尾山篤二郎の物語性論議」です。短歌にとって物語とはどうあるべきか、という議論の、初期にあたるものでしょう。

発端は、橋田東声の連作「朝霧」に、『短歌雑誌』主幹の尾山篤二郎が否定的な言辞をおこなったことだった。橋田東声は前回は(「島木赤彦と中山雅吉・橋田東声の写生論議」)で反アララギの『珊瑚礁』の創刊者として出て、尾山篤二郎は(「窪田空穂と尾山篤二郎の『濁れる川』論議」)で窪田空穂の作品を攻撃していた。

連作「朝霧」は、28首の、弟の看病と無情な養家との間で苦しみながら解決を図る作品で、長い詞書の合間に短歌を置いた作品だった。東声は前作にも兄の死を詠った60首の連作があり、東声はこの作品に自信はあったものの、前作ほど評判はよくなかった。

そして篤二郎は「橋田東声君の『朝霧』といふ物語風な歌を見ると、橋田君は何を今更血迷つてゐるのかと思ふ」「短編小説を書くつもりで歌をうたつてゐるが、かういふことのどうにもならぬ位は千年以前から分明である」とあたまから否定した。篤二郎はこの物語風な発想について「橋田君は或る事件があつて、その事件を正直に歌つて行けば自らそこに気分があり、そしてその事件を歌つて行く態度に深みがあれば、其処に人生の或は性の深みが必然的に出てくるとでも考へてゐるのか知れないが、さういふことは散文芸術のねらひ処だ」と述べた。

東声はそれに対して「複雑な人事や世相を短い歌によみこむことは困難である。それを補ふところに連作の価値があるともいへる」と短歌の物語性を信じる発言をし、「散文のねらひ処だつていいぢゃないか」と反駁する。

ただ、それ以上に尾山の、中央雑誌の『短歌雑誌』の主幹が上のような放言をすることへの批判が多く、尾山はあとで「朝霧」について批評態度をあらためて書いている。

東声はこの議論を進めて、吉植庄亮の「連作と短歌の散文化」という反連作論に対して、一首の緊密が緩むことの弊害も受け入れながら、一首の独立性とその有機的総合としての連作を目指すことを提唱した。

尾山篤二郎がこういう物語批判をおこなう背景に、次回のテーマだが、萩原朔太郎が、歌壇は沈滞している、という1年歌壇を巻き込む議論があった。尾山は萩原にまっこうから対立しながら、この批判をしているので、この物語批判は、短歌の独自性をきわだたせたい気持ちがあったのかもしれない。

なのでこの議論は、物語性の是非ではなく、東声からも、歌壇をもっと盛り上げるために、4つの提案をする方向に向かう。1歌壇の品位をもそつと高めること、2歌を他の文学と対等に取り扱ふこと、3遊戯としての作歌を排すること、4頭がよくて親切な批評家が要ること。

尾山篤二郎は、この提案を「大賛成であるが、先ずその前に、諸君は社友雑誌を出来るだけ早く廃刊することが、何よりも先に必要だと僕は考へるのである。そしてこの『短歌雑誌』だけになり、その歌人の大団結たる『短歌雑誌』をひつさげて、橋田君の第二説のやうなことを主張するならば、僅かに可能を信ずるものである」と主張した。尾山の問題意識は、それぞれが結社雑誌の中で歌壇的地位を知ろうとする歌壇人根性をきらうと同時に、朔太郎の歌壇批判に対抗したかったのであろう。

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短歌の近代的な物語性というと、まず『赤光』が浮かびそうなものだけど、『赤光』から10年後のこの議論は、どう受け止めていたんだろうね。反アララギだったから無視、ってわけでもないだろうに。

それから、歌壇。この言葉は、その時に話者が誰を想定しているかによって変わる言葉だから、案外取り扱い注意だよね。要するに、当事者の言葉じゃない。オレがマリオ、じゃなくて、オレが歌壇、という人が存在しない。

橋田東声の提案の1、品位をもそつと高める、の、もそっと。橋田東声はこれでわかった気になっちゃうね。いい人だ。


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  七首連作「なのにね」

年取ると時間がはやくなるらしい死んだらみんな光なのにね

鉢の水ようよう腐りこの写生を社会批判につなげてもいい

言い方のその雰囲気をトゲトゲとかふんわりと呼ぶふんわり時代

怒るべき時とはいつかインバーターはドレミファそんなことしちゃいかん!

欲しいのはちくちく言葉だったねんきみのザクザク言葉やのうて

ドラゴンレディすずしく前を生きてゆく言葉はどれもぴしゃりと強い

怪獣がこわした道を汗にぬれみんなでなおす、悲劇なのにね


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